マインド・コントロールの崩壊
マインド・コントロールの崩壊
マインド・コントロールと断定し貶める事は正当か?
マインド・コントロールの崩壊 バーチューライト著 マインド・コントロールと断定し貶める事は正当か 5
まえがき 5
マインド・コントロールのイメージは様々 色々検索してみると 5
マインド・コントロール経緯を順に解説 6
洗脳とはマインド・コントロールと違う 6
中華人民共和国における洗脳 7
2019年11月25日にBBCからの報道 8
アメリカ合衆国における洗脳 9
カルトの定義の違い国家で認識が違う 10
概要 10
マインド・コントロール論を調査 11
●論文パターン1マインド・コントロール論が正しいとする側 11
1.岡田尊司(精神科医、作家)氏 11
2.西田公昭(社会心理学者)氏 12
西田公昭氏立正大学,公私立大学の部局等,教授研究成果報告書「マインド・コントロール防衛スキルの構造とその心理特性の測定法の開発」 14
3.スティーヴン・ハッサン(統一教会元信者、心理学者)氏 17
4.郷路征記氏 19
5.宗教学者のダグラス・E・コーワン(英語版)、宗教社会学者のデイヴィッド・G・ブロムリー(英語版) 31
6.紀藤正樹氏 弁護士 31
マインド・コントロールで人格が一変 31
上下関係、力関係が存在と「共依存」の関係 32
マインド・コントロール下にあったという経験が、人間的に成長 32
学校でも宗教のリスクについて教えよう 36
●マインド・コントロール論文パターン2 38
【マインド・コントロール論にどちらかと言えば懐疑的な側と呼ばれている論者】 38
1.櫻井義秀(北海道大学教授、宗教学者) 39
櫻井義秀氏 論文1 39
櫻井義秀氏 論文2 41
2.大田俊寛氏(宗教学者) 42
マインド・コントロールの実験1 44
ソロモン・アッシュの同調実験 44
マインド・コントロールの実験2 45
フェスティンガーの認知不協和理論 45
マインド・コントロールの実験3 46
アイヒマン・ミルグラムの実験電気ショックによる実験 46
マインド・コントロールの実験4 49
感覚遮断 49
定義 50
歴史 50
幻覚の出現 51
生理学的影響 52
心理療法としての利用 52
マインド・コントロールを受けたであろう歴史的代表例 殉教 52
ユダヤ教徒 53
キリスト教徒 53
ローマ時代 53
殉教者への崇敬 54
中世から近世における殉教 54
近世以降における殉教 54
近代から現代における殉教 55
キリスト教における主な殉教者(致命者) 55
仏教の殉教 56
革命 57
日本の革命革命の議論のある歴史的事例 58
大化の改新 59
承久の乱 59
明治維新 59
昭和維新 60
第二次世界大戦の敗戦 60
総括 60
マインド・コントロールと聞いてどう思われるだろう。よく分からないけど洗脳に近い事をされて何か買わされたりする。カタカナ造語だろうと思ってる人もいる。まさしくこのマインド・コントロールとはタイトルのマインド・コントロールだけ一人歩きしてまるで絶対正しいと思ってる人が多いような気がする。間違った認識はあらゆる誤解を生じ一旦広まると修正が容易に出来ない。
そして、このマインド・コントロールに関してはあらゆる誤解や作為が潜んでいるように思えてならない。このマインド・コントロール論を訴える論者は自らの偏向した思考で特定の個人及び団体をマインド・コントロール指定団体とし断罪する。そのような権限が彼らにあるだろうか。また、一部の会員の罪状を元に他の多数の信者を罪人として特定しようとする。また、マインド・コントロールの技術がそうさせていると問いながらその、宗教の根幹である真理、教義に触れようともしない。要は教義に触れるとその真意善悪判断を試され、それが容易ではないからであろうがほとんどの論者はその、根本論にたどり着くこともしないのである。このマインド・コントロール論の発祥の経緯はまだしも特段問題視されなかったマインド・コントロール論がいつの間にかある特定の熱狂的な信仰に対する批判の技として使用されるようになったのである。宗教学者 櫻井義秀氏は次のように述べている。「マインド・コントロールという理論は、態度変容を遂げた人物と利害関係を持つアンチ・カルト集団が、信者の奪回・脱会を促進するという自らの行動を正当化するために用いている議論であり、立論の当初から価値中立的なものではなかった。」「現代の資本主義システム社会は自身の再生産のために、消費者の欲望を喚起して需要を掘り起こすコマーシャリズムの戦略を採らざるを得ない。このような消費社会においては、情報・シンボル・記号による他者の操作が日常化しているために、個人のアイデンティティ、近代的個人という概念自体が揺さぶられている。自分がいつの聞にか誰かに操られているのではないかという感覚はそれほど特殊なものではないのかもしれない。これがマインド・コントロール論を受容する主要な要因であろう。」
シンボル化するのに好都合だったマインド・コントロールは現社会においてはシステム上不可欠なものとならざる負えず誰もが少なからずその影響を受ける可能性があると言う訳だ。その最たるきっかけはアンチカルトである反信者つまり強制的に脱会を迫る集団である。この文言は教団が側が都合よく利用したという経緯があり桜井氏にとってはカルト側を擁護する研究者という誤解をもたれたのは心外であったという印象を持たれている点だけ付け加えておこう。尚、出典の情報は巻末にて。
1.マインド・コントロールとは、本人が気づかないうちに他人が誘導して心理操作することです。身体拘束や暴力的な脅迫をともなう「洗脳」と違い、コミュニケーションの中で行われるのが特徴です。Googleでの検索
2.マインド・コントロールとは、本人が気づかないうちに、他者の精神過程や行動を操作して、操作者の都合に合わせた意思決定へと誘導することである。なおこの概念はいまだ定義が広いために扱いにくいこともあるが、現実的には消費者の意思決定過程における承諾誘導のルール(Cialdini,2007)として心理学的な6つの原理が用いられていることを明らかにした。また西田(1993)は、ある宗教集団が用いる新メンバの勧誘において、被勧誘者が長期間にわたって宗教的関心を持たないまま勧誘に好意的な対応をしているうちに、入信の意思決定を固めていく過程を明らかにしている。西田公昭講演『マインド・コントロールとは何か』1995年、カルト被害を考える会
3.マインド・コントロールとは、他人を思いのままに操ること英語の「mindcontrol」に由来している言葉で、直訳すれば「心の制御」となります。一般的には「洗脳」と認識されていることも少なくありません。すなわち、言葉や態度、行動によって他人から心を操られている状態です。
https://www.c-c-j.com/course/psychology/mental/column/column12/
4.マインド・コントロールは、人を動かす方法の中でもとても悪質で巧妙な方法そのワナにはまれば、本当の自分らしさや自分自身の意志を失い、マインド・コントロールを使う組織(破壊的カルト)に思いのままに操られてしまうのです。ここでは特に、破壊的な宗教カルトを中心に考えたいと思います。
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/mc/1MCnaani.html
マインド・コントロール研究所
5.マインド・コントロール論は技術その技術には二つある。心理操作により犯罪的搾取等を行う方と、もう片方は洗脳、マスコミや媒体でのマーケティングもこれに加担しているらしい。使われ方しだいで毒にも薬にもなるという。
6.マインド・コントロールの本質は騙すことマインド・コントロール(心理的操作)とは、人の思考や感情に影響を及ぼすことにより、思い通りに行動を支配することとしそこには、コントロールする側とされる側が必ずおり、両者の間には、対等とは言えない関係が存在するのが重要な特徴である。操作される側は、操作する側を絶対的に信頼しており、操作する側は、その信頼感を利用して、経済的、身体的、心理的、性的搾取を行うのである。逆に言えば、操作する側は、操作される側の払った犠牲によって利益を得ている。岡田尊司(精神科医、作家)氏
煩雑なこの理論を一度整理する必要があるので、この理論に秀でた論者の方々の腕をお借りしながら見ていこうと思う。念のため著作権に縛られないウィキペディアをベースに展開し論理の考察をしていこうと思う。ウエーブサイト上公開されたものは詳細な確認が出来るのでそちらで確認頂きたい。ここのスペースでは概略、要点、結論をできるだけ簡潔に導こうと思う。ここで正式な学者の皆様にご登場願おう。何故ならば素人がとやかく言ったり反論をしても世間には納得いただけないだろうし信憑性がなければこの企画自体が成立しにくいからである。
本格的な論文の論点を考察する前に読者に理解してほしいいくつかの情報がある
洗脳(せんのう)またはブレインウォッシング(英:brainwashing)は、強制力を用いて人の思想や主義を根本的に変えさせる事。日本語の「洗脳」は英語の「brainwashing」の直訳であり、英語の「brainwashing」は中国語の「洗脑/洗腦」の直訳である。アメリカCIAが朝鮮戦争の捕虜収容所で行われた思想改造について報告書を提出したことをきっかけとして、またその後ジャーナリストのエドワード・ハンターが中国共産党の洗脳技法についての著書を著したことで広く知られるようになった。
朝鮮戦争で中国人民志願軍の捕虜となったアメリカ兵士が収容所で共産主義を信奉するようになったという報告がなされ、1951年には中国共産党による「洗脳」がエドワード・ハンターによってBrain-washinginRedChina:thecalculateddestructionofmen’sminds(直訳:中国共産党における洗脳:人間の精神の計画的な破壊。福田実による邦題は『洗脳中共の心理戦争を解剖する』)が刊行された。
エドワード・ハンターは、日本人捕虜や朝鮮戦争でのアメリカ人捕虜に対する中国共産党の「思想改造」における洗脳手法について、「勉強会」での「学習」、集団学習会での自己批判、巧妙な賞罰(犯罪を告白したものを賞賛し、告白しないものには同調圧力を加える)、罪の意識(罪悪感)を植え付けるなどの特徴を指摘している。ハンターによれば、(中国共産党による洗脳)は戦争である。心理戦ともいわれるが、「脳の戦争」と呼ぶ方が適切である。武器は身体に対して行われ、対象者を無能力にし、破壊する。一方で、精神に対する工作では、(それまでに持っていた)信念を転覆させてコントロールする。脳の戦争においては、対象者の考え方や、感情、気持ちを征服することが、最終的な勝利となる。— Hunter,Edward,BRAINWASHING:TheStoryoftheMenWhoDefiedit,p.47
共産党は、教育、パブリック・リレーションズ、説得、または、誤解されている用語であるが、精神改革、再教育などの手法によって洗脳を行う。— Hunter,Edward,BRAINWASHING:TheStoryoftheMenWhoDefiedit,p.5
毎日常に行われる勉強会では、「生徒」たちは、告白(認罪)作業を行う。広い部屋に収容されたグループは常に議論や、自己批判、告白を行うために集まることができるようにしている。議論や討論は「民主的討論」と呼ばれ、満場一致が繰り返し求められるため、まだ告白を済ませていないものは疲弊し、次第に自分自身が行ったかのように思い込む。集団作業では、各人のそれまでの考え方をあらゆる点において点検させ、疲弊した心に、それらが明白に間違っていることを認めさせる。「生徒」たちは、ただ一つの善と、それ以外の全ての悪とを分離し、理論的に説明され、転倒した段階において各人は「解放」される。洗脳の長期的目標は、改造を受けた「転向者」が、いつでもどこにいても、自立して反応するように仕向けることである。個人の自由意思を野蛮であるとして非難する。そして、反対意見や事実を聞くことができなくなる。洗脳は二段階で行われる。第一段階はコントロールを目的とした条件づけであり、抵抗力を弱めさせる。第二段階は、改心(転向)を目的として強化し、説得する。学習と告白を引き出すための方法は、福音伝道や精神医学、科学から借用されたものである。学習と告白によって作られた服従は、洗脳の短期的目標であり、この段階ではまだ真の「生徒」ではない。真実のもので、透明なものとされる「学習」とは、中国共産党側の政治的教育のことである。「告白」(認罪)は、儀礼的統合である。中国共産党による改造では、学習会の出席者は、個人の自我を保持することは、統制された全体の合意によって危険なものとされた。朝鮮戦争は、アメリカが「かわいそうな朝鮮や中国」に対する戦争であると宣伝され、中国にいる人々は、その蛮行の目撃者であると思いこむようになった。
ハンターは1958年3月13日の下院非米活動委員会で中国共産党の心理戦について報告した。新疆ウイグル再教育キャンプにおける「人格改造」「新疆ウイグル再教育キャンプ」を参照
2010年代から中華人民共和国は新疆ウイグル自治区の強制収容所(新疆ウイグル再教育キャンプ)で何十万人もの人間に対して組織的な「洗脳」「人格改造」を行っていると報じられている。
2019年11月に国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が公開した中国政府の文書とされるチャイナ・ケーブル(英語版)によれば、監視カメラや携帯電話などから個人情報を収集してアルゴリズム解析する「一体化統合作戦プラットフォーム」(IJOP)による人工知能(AI)と機械学習を利用したプレディクティブ・ポリシング(英語版)でウイグル人を選別して予防拘禁し、徹底的な生活行動の管理と脱走の防止悔悛と自白の強要言語の矯正点数による賞罰 などが収容所では指示されている。
中国政府、ウイグル人を収容所で「洗脳」公文書が流出中国政府はこれまで一貫して、収容施設では希望者に、過激思想に対抗するための教育と訓練を提供していると説明している。だが、BBCパノラマが確認した公文書は収容者の監禁や教化、懲罰の状況を記録しており、中国政府の説明を覆す内容になっている。これに対し、中国の駐英大使は、文書は偽物だとしている。収容施設は過去3年間に、新疆ウイグル自治区内で建設されてきた。イスラム教徒のウイグル人を主体に、100万人近くが裁判を経ずに施設内で拘束されているとみられている。中国西部の新疆ウイグル自治区にある、高度の警備体制が敷かれた収容施設で、中国政府がイスラム教徒のウイグル人を何十万人も組織的に洗脳していることが、流出した文書によって初めて明らかになった。中国のウイグル人収容所で後頭部に電気ショックを挿入されている者もいるらしい。 「悔い改めと自白を促せ」文書は、国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が入手した。
ICIJにはBBCパノラマや英紙ガーディアンなど17の報道機関が参加。今回流出した中国政府の公文書を「中国電報(TheChinaCables)」と呼んでいる。文書には、2017年に新疆ウイグル自治区の共産党副書記で治安当局のトップだった朱海侖氏が、収容施設の責任者らに宛てた9ページの連絡文書も含まれている。その連絡文書では、収容施設を高度に警備された刑務所として運営するよう指示。以下の点を命じている。「絶対に脱走を許すな」「違反行動には厳しい規律と懲罰で対応せよ」「悔い改めと自白を促せ」「中国標準語への矯正学習を最優先せよ」「生徒が本当に変わるよう励ませ」「宿舎と教室に監視カメラを張り巡らせて死角がないことを(確実にしろ)」「絶対に脱走を許すな」「厳しい規律と懲罰で対応せよ」「厳格な秘密保持」流出した文書はまた、収容者の生活が細かく監視、管理されている状況も示している。「生徒のベッド、整列場所、教室の座席、技術的作業における持ち場は決められているべきで、変更は厳しく禁じる」「起床、点呼、洗顔、用便、整理整頓、食事、学習、睡眠、ドアの閉め方などに関して、行動基準と規律要件を徹底せよ」
1週間で1.5万人が入所
別の文書からは、ウイグル人の拘束と収容の規模がわかる。ある文書は、2017年のわずか1週間の間に、新疆ウイグル自治区の南部から1万5000人が収容施設に入れられたとしている。国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチの中国担当責任者ソフィー・リチャードソン氏は、流出文書は検察当局に活用されるべきだと話す。「これは訴追に使える証拠で、甚だしい人権侵害が記録されている。収容者は全員、少なくとも精神的拷問を受けていると言っていいと思う。自分がいつまでそこにいるのか、まったく分からないからだ」人格改造が目的か流出文書はさらに、収容者は自分の行動や信条や言葉を変えたと示すことができて初めて、解放されるのだと詳細に書いている。「生徒には悔い改めと自白を促し、彼らの過去の活動が違法で犯罪的で危険な性質のものであることを深く理解させよ」「浅い理解や悪い態度、反抗心すらうかがえる人には(中略)教育改革を実行し、確実に結果を達成しろ」こうした指示を受けた収容施設について、人権問題に詳しく、ウイグル人組織「世界ウイグル会議」の顧問をつとめる英勅選弁護士のベン・エマーソン氏は、収容者の人格改造が狙いだと話す。「ひとつの民族コミュニティー全体を対象に作られ実行されている、巨大な集団洗脳計画以外の何かだとみなすのは、非常に難しい。新疆ウイグル自治区にいるイスラム教徒のウイグル人を、個別の文化集団として、地球上から消滅させようとしている。そのために彼らを完全に作り変えることを意図した取り組みだ」中国の「思想改革」収容所「犯罪予備軍」を教化
点数システムで管理
文書によると、収容者は「思想変革、学習と訓練、規律の遵守」について点数が与えられる。収容者の家族との接触の可否や解放時期は、罰と報酬のシステムにより判定される。解放は、共産党委員会が変革の証拠を得たときだけ検討される。流出文書は、中国政府が集団監視と、個人情報の分析に基づいた予測による取り締まりを実行している様子を明らかにしている。ある文書には、携帯電話にZapyaというデータシェアリングのアプリを入れていることだけを理由に、180万人が要注意人物とされたことが記されている。当局は、そのうちの4万557人を「一人ひとり」調べるよう命令。「疑いを晴らすことができなければ」彼らに「強制訓練」を受けさせるべきだと述べたという。中国・新疆の消えた子どもたち親から離され……「中国に対する中傷だ」流出した文書からは、外国の市民権をもつウイグル人の逮捕や、外国で暮らすウイグル人の追跡に関する明確な指示も読み取れる。世界規模で捕獲網を張り巡らせるため、中国の大使館や領事館が役割を果たしていることも暗示している。中国の劉暁明・駐英大使は、中国の施策は新疆ウイグル自治区の人々を守るためであり、同自治区では過去3年間、テロ攻撃は1件も起きていないと述べた。「当該地域は現在、社会的に安定し、民族集団もまとまっている。人々は満足と安全を以前よりずっと強く感じ、生活を楽しんでいる」「西側には、そうした事実を完全に無視して新疆について中国を熱心に中傷している人々がいる。彼らは、中国の国内問題に介入し、新疆における中国のテロ対策を妨げ、中国の順調な発展を妨害する口実を作ろうとしている」「いっそ妻と母を撃ち殺してくれ」亡命ウィグル男性(英語記事DataleakdetailsChina's'brainwashingsystem')
関連記事中国のウイグル人収容所でビデオでの記録映像(後頭部に電気ショックを埋められている)所要時間3,512019年11月25日中国・ウイグルの「再教育」収容所で真実を追う2019年6月24日ビデオ,中国の「思想改革」収容所「犯罪予備軍」を教化,所要時間4,142019年6月19日中国、ウイグル人「再教育」を法制化2018年10月15日ビデオ,国連、中国政府がウイグル人100万人拘束と批判3:592018年9月11日ビデオ,「いっそ妻と母を撃ち殺してくれ」亡命ウイグル男性,所要時間3,592018年2月2日 “中国政府、ウイグル人を収容所で「洗脳」公文書が流出”.BBC.(2019年11月25日)2019年11月25日閲覧。また、薬物を投与して囚人をコントロールする試みも行っているという証言もある。世界ウイグル会議の顧問弁護士ベン・エマーソンは「ひとつの民族全体を対象とする巨大な集団洗脳計画以外の何かだとみなすのは、非常に難しい」と述べている。
MKウルトラ計画
朝鮮戦争での中国共産党による米兵捕虜の洗脳が報告されてからアメリカ中央情報局(CIA)も洗脳についての人体実験であるMKウルトラ計画を開始した。モデルのキャンディ・ジョーンズ(英語版)はCIAに洗脳されていたといわれる。グアンタナモ湾収容キャンプ、アブグレイブ刑務所での拷問
アメリカ同時多発テロ事件後、対テロ戦争を掲げたジョージ・W・ブッシュ政権下で行われたキューバのグアンタナモ湾収容キャンプやイラクのアブグレイブ刑務所などでのCIAと米軍による非人道的な強化尋問(英語版)が拷問であるとして人権問題となり、その尋問技法は中国共産党が米兵捕虜に自白を強要した洗脳がモデルだったことがアメリカ合衆国上院軍事委員会で報告された。
グアンタナモの被収容者には中国から逃れたウイグル族も含まれ、アメリカ合衆国司法省監察官のグレン・A・ファイン(英語版)などによればグアンタナモを訪問した中国当局者と米軍の尋問官は協力して15分ごとに睡眠を中断させる「フリークエントフライヤープログラム」も行ったとされる
関連作品『影なき狙撃者』、ジョン・フランケンハイマー監督、(1962年・米)-朝鮮戦争にて共産主義者に洗脳された米兵が殺人を犯す。manchuriancandidate(傀儡の政治家)の語源。「陰謀のセオリー」1997年、映画。MKウルトラ計画については「MKウルトラ計画#関連作品」を参照Toshl『洗脳地獄の12年からの生還』(2014年7月23日、講談社)ISBN978-4062186575
概要
「カルト」(英:cult)とは、米国で伝統的に異端的なキリスト教や新宗教に対して使われた言葉である。特に1978年に発生した人民寺院事件以降、反社会的な宗教団体に対して「カルト」という言葉がマスメディアで使われ、警戒が呼び掛けられた。日本では1990年頃にこの概念が導入されたが、メディアはこの用語に関して慎重な使い方をしている。
精神科医のロバート・J・リフトンは、カルトの特徴として、崇拝の対象となるカリスマ的リーダーの存在、強制的説得と思考改革、リーダーによる一般会員の経済的・性的・心理的搾取の3つを挙げているほか、科学史家のマイケル・シャーマーは宗教団体に限定されない以下のカルトの定義を紹介した。
集団の指導者に対する崇拝-聖人あるいは神格に向けられるものとさして変わらない賛美
指導者の無謬性-絶対に間違いを犯さないという確信
指導者の知識の広さ-哲学的な事柄から日常の些細なことまで指導者の信条や口にすることはなんでも無条件に受けいれる
説得のテクニック-新たな信徒を獲得し、現状の信仰心を補強するために、寛大なものから威圧的なものまで手段はさまざま
秘密の計画-集団は絶対的な真理と道徳観を持ち、信仰の真の目的と計画が曖昧であり、新規入信者や一般大衆には明確に提示されていない
欺瞞-入信者や信徒は、指導者や集団の中枢部に関してすべてを知らされるわけではなく、また大きな混乱を招くような不備や厄介事に発展しそうな事件、あるいは状況は隠蔽されている
金銭及び性的な利用-金銭およびそのほかの資産を差し出すよう説得される。指導者には一人かそれ以上の信徒との性的関係が許されている
絶対的な真理-さまざまなテーマにおいて、指導者、あるいは集団が見出した究極の知識に対する自信
絶対的な道徳観-指導者、あるいは集団が確立した、組織の内外を問わず等しく当てはまる、思考および行動に関する善悪の基準への盲信。その道徳の基準にきちんと従えば、組織の一員としていられるが、そうでない者は破門されるか罰せられる
日本でカルトとみなされている宗教団体の数は多くない。1995年(平成7年)の地下鉄サリン事件や反対派へのVXガス襲撃事件などのテロを繰り返したオウム真理教は破壊的カルトとみなされている。旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)も祟りや因縁を騙り、壺や印鑑、多宝塔を霊感商法で販売した信者が有罪判決を受けたり、教団の使用者責任・監督責任が裁判所で認定されたこと、性差別的な教義などからカルトとみなされている。
この意見は一部の代表的な意見であり、誇張された内容も含むと同時にその規定、定義が曖昧でそもそも誰がそれをカルトと決めるのか個人の主観で決定される。であるので参考程度に傾聴願いたい。
論文概要本来、全文載せたいところだが著作権の事情と読者の退屈になるであろう事情とを考慮し抜粋させて頂く。そして、この論文たちは正統派(マインド・コントロール認める)と反正統派(認めない)に分かれるらしいのでそちらも併せて判断いただきたい。
「マインド・コントロール(心理的操作)とは、人の思考や感情に影響を及ぼすことにより、思い通りに行動を支配することだ。そこにはコントロールする側とされる側が必ずおり、両者の間には、対等とは言えない関係が存在するのが重要な特徴である。操作される側は、その信頼感を利用して、経済的、身体的、心理的、性的搾取を行うのである。逆に言えば、操作する側は、操作される側の払った犠牲によって利益を得ている。」
ミシガン大学のスコット・アトランが九・一一にかかわったテロリストの生き残りやアルカイダのメンバーに面接した調査によると、彼らの育った世界では、自爆テロによって「殉教者」となることは、サッカーのスター選手になるのと同じくらい憧れであり、小さい頃からの環境の中で、すでにその芽は育まれているのだという。仮にスカウトが声をかけてきたとしても、それは、一つのきっかけに過ぎない。神が自分を選んで、チャンスを与えてくれたのだ。その瞬間が訪れるまでに、準備は整えられていたのだ。暴力団が、もっと幅を利かしていた時代、似たようなことが起きていた。その仲間に加えられることを、ある種の「名誉」のように思い、その手先となって手柄を上げようとした若者も
少なくなかった。その若者が属する狭い社会では、ヤクザとして生きていくことは、「かっこいい」ことであり、憧れであった。かつてヤクザ映画が大入り満員だった時代があった。今日の宮崎アニメやディズニー映画がそうであるように、国民的な娯楽であった。活きのいい若者たちが、そこに自分のヒーロー像を見出すことも、自然なことだった。暴力団の鉄砲玉になることに、自分の存在価値を見出した若者もいた。それに比べれば、政治的、宗教的にも高尚な意味づけをされ、国際的にも大注目を浴び、世界を揺り動かしている「聖戦」に加わり、「殉教」することは、はるかに大きな精神的満足を約束するだろう。だからこそ彼らは、自らの覚悟と決心のもとで、そうした行動をとったとも言える。ただ、それは彼らがマインド・コントロールを受けていたことを、何ら否定する根拠にはならない。マインド・コントロールを受けたものは、自らが主体的に決意して自己責任で行動したと思うことが、むしろ普通だからだ。マインド・コントロールが上質なものであればあるほど、コントロールを受けた者は、自分が望んでそうすることにしたのだと感じる。安っぽいマインド・コントロールの場合には、コントロールする側の作為が正体を現し、欺瞞の痕跡を残してしまう。そうした場合、いつか不信が芽生えた時、それが破れ目にもつながり、マインド・コントロールが解けてしまうことにもなる。だが、完璧な形でマインド・コントロールが行われた場合には、すべては必然性をもったことであり、それに出会う幸運をもったのだと感じ、喜び勇んでその行動を「主体的に」選択する。
マインド・コントロールの問題が突きつけている問いは、われわれ現代人に、自らの運命を選ぶ主体性はあるのかということに思える。情報の洪水と希薄化するリアルというアンバランスな状況に暮すわれわれが、果して自ら選択したと言える生き方をすることができるのか。外からもたらされる情報や空気を鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考え、体験のみならず過去の歴史に照らし合わせて判断し、冷静さを忘れずに行動することはできるのか。こうした状況だからこそ、その問いは、いっそう重要性を帯びているように思える。
情報負荷に左右される脳機能サブリミナル効果/新しい可能性の登場/究極の兵器としてのマインド・コントロールの原理と応用第一の原理:情報入力を制限する、または過剰にする第二の原理:脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う第三の原理:確信をもって救済や不朽の意味を約束する第四の原理:人は愛されることを望み、裏切られることを恐れる第五の原理:自己判断を許さず、依存状態に置き続ける 『マインド・コントロール』岡田尊司著 文芸春秋抜粋
まとめと反論
マインド・コントロールとは人の思考や感情に影響を及ぼし思い通りに行動を支配する対等とは言えない関係が存在するのが重要な特徴と論者はいうが教団には様々な人が活動しておりそれなりに社会活動を行っているのであって四六時中マインドのコントロールなどできるはずがない。なぜ教会に来るのかそれは教理にある真理で心が回心され喜びが発生したからに他ならない。岡田尊司氏は精神科医、作家であるらしいから統一原理を読んでほしいものだ。
操作される側は、その信頼感を利用して経済的、身体的、心理的、性的搾取を行うと断言しているがこれらは犯罪なので見つけたら通報する義務があると思うのだが通報されたのだろうか。一部の信者は行き過ぎた経済活動などで裁判沙汰になっているが明らかに過失に部分が多い。身体的、性的な犯罪は聞いたことがないし。人間だから外れる者も多少出てくるはず。逆に言えば医者でも犯罪は犯すし昨年令和五年それこそ精神科医の家族が男性の首を切断の報道があった。それくらい人間は不安定なのが巷にあふれているのになぜ、統一教会だけマインド・コントロールでとやかく言われるのだろう。そのような、可能性は身の回りに無数にある。
また、操作する側は、操作される側の払った犠牲によって利益を得ているというが操作する側は教団の地位ある人なのだろうと思うがそのような人が言葉巧みに大の大人を操作できるものだろうか人がその人のいうことを聞くときは言葉と態度そして、共有できる教義があるからこそでどれか一つでも減衰すれば活動はできない。操作することは監視してコントロールするのだろうから現実的には不可能といえる。
「心理操作(PsychologicalManipulation)という言葉の方が適格であり、国際学会ではこちらを使われることが多い。あこぎなまでにこの手法を駆使して極端に強い心理的な拘束を与え、依存、搾取、虐待、殺人といった重大な結果を引き起こす現象をひとことで言い表したいためにつくられた。「洗脳」と呼ばれる拷問的手法とは異なり、物理的な強制を用いない代わりに、欺瞞的なコミュニケーションを用いる。新たな意思決定装置(ビリーフ・システム)に誘導して、元には戻らせないように駆動させ続ける。」
「これまでの研究や報告からまとめると、破壊的カルトのマインド・コントロールを受けたメンバーは、一般に以下のような特徴を持って生活することが多いといえる。彼らは共同生活をすることも多く、一人になって何かについて自分で熟慮する時間は少ない。また彼らは切迫感と無力感とをセットにしながら恐怖感を煽られ、常に焦燥感や不安の入り混じった緊張状態におかれる。メンバーはこのような緊張状態の中で、睡眠時間も極端に少なく、ほとんど休みの日もなく、彼らは起床から就寝までスケジュールが詰まっており、過激な重労働(新メンバーの獲得、資金調達、自己修練)に従事している。また経済的に管理され、さらには服装、異性感情、対人関係ならびに家族形態や結婚生活をも含む私生活のほとんど全てが制限・管理されているケースもある。またさらには、家族を含む反対する者を蔑視し、警戒するよう指示され、集団メンバー以外との関係を一切絶つことを強く望まれる。そしてこのような行動の全てに対して、地位や褒賞などの賞と、侮蔑、体罰、降格、追放などの罰の強化子が与えられる。以上のような生活によって、破壊的カルトのメンバーは、自己決定権を放棄して、集団のリーダーに対して全面的に依存・服従するように求められるのである。
このような依存・服従と引き換えに彼らは新たなアイデンティティ、人生の目標や理想、歴史や世界観、準拠枠となる集団を獲得し、心理的な安定や幸福感を獲得する。しかし、メンバーの中には、所属集団の破壊性や矛盾した思想を知り、心理的苦痛を伴いつつも集団からの脱会を決意する事態が生じている。一般に、集団に対して全面的に依存・服従的な状態にある者が離脱するということは、極めて重大な心理的危機を意味する。西田(1995)によると、脱会する事情は、①欺瞞や教義矛盾の自力発見、②組織やリーダーに対する幻減、③追放、④逃亡、⑤外部介入、⑥強制離散の6パターンであり、いかなる事情で脱会したにしても心理的なケアが必要であると指摘している。」
まとめと反論
心理操作適格あこぎなまでにこの手法を駆使して極端に強い心理的な拘束を与え、依存、搾取、虐待、殺人といった重大な結果を引き起こす現象をひとことで言い表したいためにつくられた物理的な強制を用いない代わりに、欺瞞的なコミュニケーションを用いる。新たな意誘導思決定装置であると断言するが真理操作だけで教団は元より関連団体である会社運営、政治団体等をある特定の人物群だけで運営できるだろうか組織は有機的にあらゆる結束で動いており心理操作だけでこれだけの大規模組織が運営できるはずがない。自主的に判断し決定しなければうまくいくわけがないだろう。この論者は教団の何を知っているのだろう調査は成されたのだろうか疑いの余地あり。
共同生活をするのはなにも教団だけではない普通の会社組織でも寮生活したりオリンピック選手でもそうする。それは組織の結束と教団の場合はアダムとエバが姦淫の罪を犯したのでその償いの為エバである女性と共同生活しても罪を犯さないと言う信仰教義上の重大な意味があるわけでそれは共同生活前段階で教理を受入れた者だけの特権なのである。つまり、修行の一角である。論者は統一原理の基礎を学ばなければならない。
自分で熟慮する時間は少ない事は無い祈りや会話やその他葉の信者と行動しているときにも考えられる。
共同生活イコール束縛と考えること自体が論拠に乏しく論文とはみなされない。
恐怖感を煽られ、常に焦燥感や不安の入り混じった緊張状態におかれると有るがそのような事でこの共同体に存在できるのだろうか会社だったらさっさと止めてしまうだろう。つらい時には信仰者なのだからこの苦しいときこそ摂理を感じ神を感じるのであって。西田公昭氏は信仰というものをまるで分っていない。当教団とは言わないので信仰の基礎を学ぶべきである。
睡眠休みの日もなく時間も極端に少なくとあるが何を根拠に持ち出すだすのだろう誰かに強要されて少ないのではなく当人がそれをしたいからやっているのであってむりに、それをやらなくてもいいのであり、事実、疲れた信者は遅く起きたり自由行動なのである。
まとめと反論
重労働(新メンバーの獲得、資金調達、自己修練)に従事、教団関連組織はこれだけではない新聞社やマスコミ関連、政治関連、経済団体など多岐にわたるのである。また、重労働と言うが学者から見ると重労働かもしれないが世間一般同じような重労働をしているではないか。重労働の基準が定かではない。
自己決定権を放棄して、集団のリーダーに対して全面的に依存・服従するように求められる
まとめと反論
経済的に管理され、さらには服装、異性感情、対人関係ならびに家族形態や結婚生活をも含む私生活のほとんど全てが制限・管理。古い、これは相当古代の教団の姿だ現在はあらゆるコンテンツや場面を利用しての活動となっているので西田氏が思っている以上に革新されている。いつの時代の教会を見られているのだろう。
脱会する事情は、①欺瞞や教義矛盾の自力発見、②組織やリーダーに対する幻減、③追放、④逃亡、⑤外部介入、⑥強制離散。これも辞める理由は様々であろう西田氏が学者をもし辞めたらこの6個の打ちの一つに該当するわけであり、世間一般の意見である。総括するならば西田理論はかなり偏向している世間一般でもあるような事情を物々しく論文のように仕立て、世間に風潮することで教団や信者をいかにも蔑まれるに相応しいように誘導しようとする作為ある論文である。
科研費による研究平成27年6月19日科学研究費助成事業
1.研究開始当初の背景現代社会においては、2004年以来「振り込め詐欺」が発生しており、これまでに極めて甚大な被害を出している。この問題に対して、警察や行政機関を中心にいろいろな情報提供によって注意喚起を促してきたが、抜本的な解決にはつながらず、いまだに全国的規模で被害が続いている。西田・秋山(2009)は、振り込め詐欺の被害者の心理過程を質問紙調査によって明らかにした。それによると、被害者のほとんどは手口の基本は知っていたにもかかわらず、加害者からの偽の情報にリアリティ感覚をもち、不安ないし恐怖や焦燥感が煽られ、依存的な意思が惹起させられていることを明らかにした。また彼らによると、カルト集団の勧誘に用いられる"マインド・コントロール”影響力と同質の手法とみなしている。また西田(2009)によると、振り込め詐欺以外の悪質商法の手口を分析した結果、そこでも類似の心理を巧みに誘導されて被害にあっていることを指摘した。マインド・コントロールとは、本人が気づかないうちに、他者の精神過程や行動を操作して、操作者の都合に合わせた意思決定へと誘導することである。なおこの概念はいまだ定義が広いために扱いにくいこともあるが、現実的には消費者の意思決定過程における承諾誘導のルール(Cialdini,2007)として心理学的な6つの原理が用いられていることを明らかにした。また西田(1993)は、ある宗教集団が用いる新メンバーの勧誘において、被勧誘者が長期間にわたって宗教的関心を持たないまま勧誘に好意的な対応をしているうちに、入信の意思決定を固めていく過程を明らかにしている。しかしながら、これまでの研究ではこのようなマインド・コントロール影響に抵抗する意志を持つ消費者や被勧誘者の視点にたって研究されてこなかった。それは昨今の振り込め詐欺問題に限るものではない。投資詐欺、結婚詐欺、点検商法、次々商法、催眠商法など、大きな被害を出し続けていながら、いずれに対しても被害者の心理過程や対処方法についての実証的研究はきわめて少ないと言わざるをえない。社会心理学において膨大な研究が積み重ねられてきた説得的コミュニケーション研究でも、説得への抵抗という視点からの研究は若干みられるが、基本的に抵抗を超える強い説得的手法を検討することに主眼がそそがれてきたのである。また近年の行動経済学や消費者心理の研究動向も同様であり、基本的に売る側の利益に貢献するかたちで研究が進められてきたのである。こうした研究の流れに対して、今後は本研究のように、欺瞞を行う売り手に対する消費者の保護(Bush,Friestat&Write,2009)やカルト団体の被勧誘者の人権保護(西田,2009)の視点からの心理学的研究の必要を述べている。本研究者は、これまでにもカルト信者や詐欺を行う者とその被害者との間のコミュニケーションプロセスを被害者や準被害者との面接などによって多く検討してきており、その仮説モデルを提示できるだけの準備はある。しかし、このモデルに基づいて、マインド・コントロール的影響に対抗する有効な手段を提案し、その妥当性についての実証的な検討はいまだ十分ではないため、このような脆弱な社会状況を変革していくことが非常に強く望まれているところなのである。
2.研究の目的
本研究は、詐欺・悪質商法またはカルト集団の勧誘に対して、どのように防衛するかの対処方法を心理学的に検討することが目的である。そこで、いわゆる“マインド・コントロール”影響力への実際的な対抗手段を講じるための予備段階として、この影響力に対する脆弱性またはどのような対処が防衛スキルとなるのかの構造を明らかにし、そのスキル度を心理学的に測定することが求められる。そのために、まずは、詐欺、悪質商法あるいは欺瞞的な集団勧誘におけるマインド・コントロール的影響の実態を網羅したうえで構造的に把握する。また言語または非言語によるそれらの具体的なコミュニケーション手法を組み合わせた統合的な影響力がいかに用いられ、どれくらいに影響力が強力なものになるのかを検討し、個人がマインド・コントロール的影響力に、どの程度対抗しえるかのスキル度を測定するための信頼性および妥当性の高い尺度を作る基礎をかためる。
3.研究の方法
研究は個別面接法によって被害者の経験実態を探りながら、そこから共通する心理的な脆弱性または防衛スキルの特性を抽出して、それらの個人差を測定する信頼性の高い質問紙尺度の項目を作成し、それらの実際的な妥当性を検討するための質問紙調査を実施するといった2段階の方法を用いた。
【個別面接調査】対象者は、元オウム真理教信者3名、ある疑似家族的カルトの元信者3名、スポーツ集団におけるハラスメント被害者1名、ある人物や神社の非科学的パワーを信じた詐欺被害者など3名であった。彼らは、2013年5月から2015年2月までの間に、弁護士や検察官から紹介を受けて研究者単独
あるいは補助者の協力を受けて面談し、①被害実態、②最初の接近、3相手との対応と心理過程、④現時点での反省を各対象者につき、各回1時間30分程度で1回~3回程度に分けて面接した。なおそのうちの1人は手紙による間接的な面接にとどまった。
(2)【質問紙調査】
本研究における調査対象者は、18都府県の実際の詐欺・悪質商法の被害者から回答を収集して分析を行い、また未被害者についても調査を行い、被害者との比較検討を行った。本研究における詐欺・悪質商法の被害者の実態は、近年において被害者数が増加傾向にある特殊詐欺の被害者が最も多かった。また、本調査対象者は、詐欺・悪質商法の被害にあい、弁護士に相談している人であった。そのため平均契約金額と平均被害金額については、どちらも1千万円を超えており、また、被害金額の取り返せた金額について、被害金額の90~100%を取り返せなかったと回答した回答者が最も多かった。ゆえに詐欺・悪質商法による金銭的損失は大きいものだといえる。詐欺・悪質商法の被害者の被害後の心理は、金銭的の他にも、心理的被害を受けていることが明らかとなった。その的被害を受けたことによる経済的な心配や気分の落ち込みといった「魚力」の心理被害にあった自分が情けなく恥ずかしいと思う「白恥」の心理がみられた。また被害者は詐欺にあった原因は自分にあると非を認めつつも、まさか自分が被害にあうとは思っていなかった。という心理から「現実を抱いていた。さらに今後は被害にあわないために、詐欺・悪質商法の手口を強したり、契約や高い買い物をするときには他人に相談したり、詐欺・悪質商法への積極的なアプローチを取りたいという「積極的対の心理」があることが示された。なお被害後の心理で特に多くの人が感じていた心理は、経済面の心配被害にあったことへの恥心、対人不信感、早く忘れたいという心理であった。また、被害金額が大きいほど、自恥心と現実逃避感が高くなることが明らかになった。次に、欺瞞的説の方には「コミットメント」「返報性」「専門性」「執拗性」「不性」の5因子が見つかった。各因子には、ローボールテクニック、お人よし傾向、ドア・イン・ザ・フェイス、フット・イン・ザ・ドア、ディストラクション、感情の揺さぶり、好意集団の影響力、希少性の原理社会的リアリティ、非科学的思考、詐欺・悪質商法に対する備えの姿勢といった影響力が作用していることが明らかになった。上記のように、欺瞞的説得の方略には、Caldini(2007)の示した承誘導の6原理や効果的な説得的コミュニケーション研究成果に複合的に関与し、作用していることが明らかとなった。欺瞞的説得の方略において特に多くの人が受けた要請方法は、承誘導の中でも特に、希少性の原理、好意の原理、社会的証明の原理コミットメントと一貫性の原理が用いられていさらに、脆弱的な個人特徴に関する因子分析の結果、「自己呈示」「慎重傾向」「同慎向」「非科学的思考」「自己信頼」の5因子が確認された。これらの因子には、日常生活の行動傾向における批判的見方、感情のゆゆさぶり、集団からの影響力、権威や肩書の影響力に対する抵抗力、悪質商法に対する構えの低さが各因子に複合的に作用、影響を及ぼしていることが明らかになった。特に脆弱的な個人特徴は、悪質商法に対する構えの低さと
批判的見方の欠如であった。また同向の高い人ほど、被害後の現実逃避が高くなることや、自己信頼の低い人ほど被害後の現実逃避感が高くなることが明らかになった。また、本研究で得られた詐欺被害者と未被害者を被害経験別に「未経験」「拒否」「受容」の3群に分類して、3群の間に芽的な個人特徴に関して差があるのかを検討した(表1)その結果、慎重傾向が低く、理屈よりも直観や経験を重視し、自己信頼が高い人がだまし被害にあいやすいという個人特徴が明らかになった。また、何らかの詐欺・悪質商法を「受容」した人は、「未経験」および「拒否」した人よりも、非科学的思考が高い非論理者が原理を聞いて理解できるか?マインド・コントロールと統一教会教義に入信することと詐欺悪商法を混同していることが明らかになった。また、何らかの詐悪質商法を「受容」した人は、「拒否」した人よりも自己信頼が低いことが明らかになった。さらに、弱的な個人特徴を探るために、被害経験別に配偶者の有無をみたところ、配偶者を持つ人は、何らかの詐欺・悪質商法に対して「未経験」の人が多かった。つまり配偶者を持たない人、または配偶者と離死別した人は詐欺・悪質商法に遭遇しやすくなることが示唆された。PREANABOUどちらかといたた1被害者の個人的特徴するとしてするまったRINDLEEXCELE2003200420なんておっていな24022050022CONCEMOLTOPAR["0上記のように本研究は、詐欺・悪質商法の被害者を対象とした実証的な研究は初めてであろう。また一般に犯罪心理学では犯罪捜査や防犯犯罪者の特徴や心理について目が向けられてばかりで、被害者の心理に関する研究はほとんど行われてこなかったことから、本研究で被害者の被害にあうことで生じる苦悩などの心理が明らかにされた成果は大さいと言えるだろう。詐欺や悪質商法被害の問題は、単に金銭的な損害にとどまらず、個人の命や生活を大きく影響するほどの深刻な問題を引き起こしているし、また社会的な基盤である相互信頼までも破壊してしまう行為であることが示唆できる。また、だまし被害にあうまでの心理過程は一時的マインド・コントロール(西田,1995)とCaldini(2007)の承諾誘導の原理が組み合わせて強く作用していることが明らかにされた。さらに被害経験別に比較することで、どのような人がだまし被害にあいやすいのかといった弱的な個人特徴が示唆された。これらから個人の防衛力を高めることに献するスキルアップやリスキーな日常的行動傾向を科学的に計測して戒する意識を高揚するといった体側手法を検討していくべきだと考える。しかしながら、本研究の被害者を対象とし第1における調査票の回収率は15%にとどまり、回収率が低かったといえよう。被害者を対象とした調査では、本研究で明らかとなったように、詐欺にあったということが未だ恥ずかしいことであるという心理や、また回答することによって自分自身に非が
あったことを認めるという心理があると推される。それが今回のような比較的に低い回収率になったと推測される。今後はさらに規模を拡大した被害者を対象にした研究を積み重ねることが望まれよう。
また本研究は、このように比較的サンプル数が少なかったことに加え、弁護士会を介して調査を行ったため、各被害者の被害金額は相当に高額であったと思われる。そのため、被害金額が小さかった詐欺・悪質商法については十分な成果が得られなかった。詐欺・悪質商法においては、被害金額が高額であるほ
ど、社会的な注目を集めやすく被害者の救済や今後の被害対策も進みやすくなると考えられる。しかし反対に被害金額の小さかった被害においては人目を集めることなく、被害者の救済や、今後の被害対策が遅れるだろう。これらの比較をとおしてより一般的な詐欺や悪質商法の被害心理を科学的な見地から検討していくことが課題である。
まとめと反論
ここでの最大の問題は中立性が成されていない点である。マインド・コントロール的影響の実態を網羅したうえで構造的に把握するというならマインド・コントロールの被害を被ったと言われる側と被害を被っていない側とを対比するべきである。なぜならば現役信仰継続者の方が圧倒的に数的には多いからだ。そうでなければ公平な調査とは言えないし信頼性が損なわれる。そもそも、マインド・コントロール論の論理事態が何らかの欠陥があり不安定であること、そして、そのマインド・コントロールという一言で世間の理解不足から来る教団非難の応酬はすさまじいものがあるわけで、そこに、反教団側の弁護団が介入したとなると余計に大衆に火に油を注ぐ事は明らかであるからして、この企画自体が教団を陥れ火に油をくべる企てのように感じる。もし、再度の調査の時には弁護士抜きの中立な立場の人間が介入するべきだしそれが不可能ならやらない方が良いだろう。
教団と対立する弁護士が共助者(紹介とか面談)として行われていることから、教団と対峙した協力者がアンケートに応える対象者に不当に関与したと見られてもおかしくないので公正なアンケート調査でない事は確かである。
このような不公平な調査がもし、公費でなされているのであれば問題ではないだろうか。下記は調査に関する詳細情報となっている。
配分区分基金応募区分 一般研究分野 社会心理学研究機関 立正大学研究代表者
西田公昭立正大学,公私立大学の部局等,教授(10237703)
「個人の人格(信念、行動、思考、感情)を破壊してそれを新しい人格と置き換えてしまうような影響力の体系のことである。多くの場合、その新しい人格とは、もしどんなものか事前に分かっていたら、本人自身が強く反発しただろうと思われるような人格である。」
「この技法は、ある特定の目的に向かうよう、そのように思い、考え、行動するべく誘導するものである。」
心理学者のスティーブン・ハッサンは、現在は当時より遥かに洗練されたマインド・コントロールの技術が、たくさん存在していると述べている。
マインド・コントロールの基本モデル──解凍・変革・再凍結・ハッサンによれば、「マインド・コントロールは、露骨な物理的虐待は、ほとんど、あるいはまったくともなわない。そのかわり催眠作用が、グループ・ダイナミックス(集団力学)と結合して、強力な教え込み効果をつくりだす。本人は、直接おどされるのではないが、だまされ、操作されて、決められたとおりの選択をしてしまう。だいたいは、自分に対し行われたことへ積極的に応答してしまう」。その基本プロセスは、以下の通り。
(1)解凍unfreezing
対象となる個人に急激な変革を起こさせるためには、その人の現実を揺さぶり、人格を崩壊させなければならない。その際には、睡眠や食事の制限、瞑想への誘導、秘密の告白、人格攻撃といった諸手段が用いられる。
(2)変革changing
古い人格が崩壊したことによって生じた空白に、新しい人格を植えつける。典型的な手法は、形式ばった教えを幾度も反復させ、催眠状態へ導くことである。また、新入会員を25小グループへと振り分けることにより、自らの役割を自覚するように仕向ける。
(3)再凍結refreezing
新しい人格の定着を図る。新規のメンバーは、常に古参のメンバーを見習うように仕向けられる。メンバー同士の交わりによってこそ「真の家族」が作られると説かれ、人格の再凍結を促進するために、新しい名前を与えられることもある。マインド・コントロールは、上記のプロセスを基本としつつ、フェスティンガーの認知不協和理論、
ミルグラムの服従実験、チャルディーニの影響力論などに示された、さまざまな社会心理学的テクニックを用いて施される。
したがって現在は当時より遥かに洗練されたマインド・コントロールの技術が、たくさん存在していると述べている。
同氏は認知不協和理論を元にマインド・コントロールの4つの構成要素を定義した。
行動コントロール
思想コントロール
感情コントロール
情報コントロール
行動コントロールとは、
個々人の身体的世界のコントロールであり、仕事、儀礼、その他個人が行う行為のコントロールとともに、住居や着用する衣服、食事、睡眠などの環境コントロールを含む。
まとめと反論
個人の人格(信念、行動、思考、感情)を破壊してそれを新しい人格と置き換えてしまう。と言うが教団関係者はマインド・コントロールされているのだから全員人格が破壊されていて病歴記録なる者があるのだろうか、いや逆に聞きたいそのような病歴調査はなされてこの結果報告なのだろうか裏を取ることもない論文らしきものを世に出して恥ずかしくないのだろうかぜひ、教会関係者全員の診断書を提示名がいたいたい。そのような精神に異常、人格欠落者が企業を運営したりを全世界でできるはずがない。
新しい人格とは、もしどんなものか事前に分かっていたら、本人自身が強く反発しただろうと思われるような人格とも述べているが新人格になった事はそれぞれ個人の主観であり他人には形が無いからわからない。それを確認したのだろうか
。医者ならそのような精神医学なるもので計測できるだろうがそのデータもないのに簡単にそのような提示が成されていいのか。
この技法は、ある特定の目的に向かうよう、そのように思い、考え、行動するべく誘導される、とも言っている元信者だから経験はあるだろう講義を聞いて教会の真理に出会い感動し少しばかりは教会に滞留し継続しある程度経験も積んだのだろう。それが、ある時期いやになってやめた。いわば、信仰の脱落者なのだ。しかし、一度は真理に感動してついていったつまり少しの感動があったはずである。それはマインド・コントロールの技術なのだろうか技術で人の人生は決して変えられない。
催眠作用が、グループ・ダイナミックス(集団力学)と結合して、強力な教え込み効果をつくりだす。
催眠の技法でこのような大規模な集団が一致して活動できるだろうかイスラム教にしろキリスト教にしろモルモン教創価学会にしろ人数的には巨大だそのような巨大教団は催眠にかかっていないのだろうか、統一教会のみがマインド・コントロールされて行動していると本当に信じているのだろうかあなたこそ、マインド・コントロールを唱えることに傾倒し自身マインド・コントロールされているのではないか。
だまされ、操作されて、決められたとおりの選択とあるがそんなに人間は単純なのか。
解凍、睡眠や食事の制限、瞑想への誘導、秘密の告白、人格攻撃といった諸手段、変革、古い人格が崩壊、新しい人格を植えつける
形式ばった教えを幾度も反復再凍結新しい人格の定着、古参のメンバーを見習うように仕向けられる。新しい名前を与えられることもある。
実験2で後述するがフェスティンガーの認知不協和理論、(認知的不協和(酒やたばこがやめられない)が起きると不協和を低減する(別の)行動が起きる)
このような事は普通の人間でもありうることではないだろうか。没頭して止められない中毒的になって止められないから逃避する神経を他に向けるなど。それとも、この論者にはそのようなことが無いのだろうか。この病的なマインド・コントロール理論を考察し過ぎでそうなったのではないだろうか。
実験3で後述するがミルグラムの服従実験、(アイヒマン・ミルグラムの実験電気ショックによる実験)
教団は教会員に電気ショックのような物理的ショックを与えて権威をひけらかすような低俗な者は存在しない、まして、そのような権威はすぐにほころびが出て降格なり退いたりするだろう尊敬があるから権威は維持されるのであり権威者は誰よりも苦労が無いと尊敬されないし、ついていかないし、教団自体が崩壊する。
住居や着用する衣服、食事、睡眠などの環境コントロールでは人はコントロールされないように文鮮明師自身の生涯の苦行を体験するためにあえて、そのような環境を求めるのであって、それが嫌で止めたいのであれば、教団は即やめさせてくれるだろう。少しは止められるだろうが。要するにこの論理は宗教の外面しかし測定しておらず内面から来るであろう心情の改革を見逃している。人は感動する事で爆発的エネルギーを発揮するだからキリスト教でも仏教で死を厭わず殉教したりするのである。
霊感商法問題を専門とする郷路弁護士は、「マインド・コントロール」を「人の思想、感情と行動を操作して変化させ、その人が形成してきた人格の上に、操作者の意図する人格を植え付けることや、そのために用いられる技術」と定義している。「マインド・コントロール」を受けた信者は善悪の基準が転換し、客観的には悪とされる行為も、神のためであれば善であると信じるようになる、とし、信者が霊感商法や無言電話、違法な選挙運動などの反社会的な行為を平気で行うのは、マインド・コントロールの結果、その行為が善であると信じているからであると主張する
批判に対し、統一教会は、「マインド・コントロール」という理論は、もともとアメリカで宗教運動から信者を強制的にやめさせるための理論として出現したものであり、非科学的理論であり、反宗教的なイデオロギーに基づいた空論だと反論している。
いまだこれらの本を読んでいない読者に本書を理解していただくために統一教会のマインド
・コントロールに利用されている諸技術についての簡単な解説を、これらの本を引用しながら行なう。
希少性
手にはいりにくくなると、その機会がより貴重なものに思えてくるという人間の心理。これを商売に利用する技術としては、「数量限定」や「最終期限」といった承諾誘導の技術(働きかける側の要請を承諾するように相手方を誘導する技術)があげられる。希少性の原理が効果をあげる理由は、手にすることが難しいものはそれだけ貴重なものであることが多いので、ある品や経験を入手できる可能性がその質を判定するてっとりばやい手掛かりとなるからである。希少性の圧力に対して、心を鬼にして理性で対抗するのは困難である。それが思考を困難にしてしまうような情動を引き起こす性質をもっているからである。
まとめと反論
商売に利用する技術としては、「数量限定」や「最終期限」と有るように郷路氏はこの原理が特定の宗教だけではなく一般の商売や生活の中で活用されていると認めている。故に教団にもあてはまるがそれ以外にも該当する取り立ててこの論理を持ち出す作為を感じる。
好意
自分が好意をもっている知人からなにか頼まれると、ほとんどの場合その依頼を承諾する。人は好意をもっている人の指示に従うのである。そしてより重要なことは、人を操作して好意をもたせることができるということである。人は自分に似ている人を好む。この事実は、意見やパーソナリティー、経歴、ライフスタイルなど、どのような領域の類似性においてもあてはまる。したがって、私たちから好意を獲得し自分に従わせようとする人は、似ていることをさまざまな方法で示すことによって、その目的を達成しようとする。人はお世辞を好む。私たちを操作しようとする意図が明白な場合にはだまされないという多少の制限はつくが、一般的に言って、私たちには他者からの称賛を信じ、それを与えてくれる人を好む傾向がある。協同行動によって好意が生まれる。であるから、好意をもたせるには協同行動を行なえばいいのである。人には不快な情報をもたらす人を嫌う傾向がある。たとえ、その人が悪い知らせの原因ではないとしてもである。その知らせと結びついているというだけで、私たちの嫌悪感を刺激する。逆に魅力的なモデルの特性、美しさと好ましさが商品に結びつくからこそ、美人モデルがコマーシャルには登場するのである。連合という。ランチョン・テクニック。これは、食事中にかかわりのあった人や物をより好きになることを利用したテクニックである。
まとめと反論
好意をもっている知人からなにか頼まれるそして、依頼を承諾する可能性が高くなる。私たちから好意を獲得し自分に従わせようとする人は似ていることをさまざまな方法で示し目的を達成しようとするし協同行動を行なえば好意が増幅され、魅力的なモデルのコマーシャルを見るとその商品も購買力が増える。
と主張するがこれも、一般的生活で普通にある行為であり取り立てて述べることでもない。言わせてもらうと、宗教は自分が好意を持てない人にあえて挑戦し努力することで自らの心の向上を図るものだから結果的にはお互いを認め合い好意を抱くようになるのであってそこには策略があるわけではなく神から発した愛でもってお互いが愛情を内包するようになったのである。
返報性
他人がこちらになんらかの恩恵を施したら、似たようなかたちでそのお返しをしなくてはならないというルールである。こうした恩義の感覚を伴う返報性のルールは、人間社会の文化に広く浸透している。承諾誘導の技術のなかでもっとも強力な威力がある。困ったことに、頼みもしないのに勝手に親切を施されても、私たちの心のなかには恩義の感情が生まれてくる。人には好意を受けとる義務がある。であるから、そのような場合、私たちは恩義を感ずる相手を自分で選ぶことができない。その結果、返報性のルールの力を他者の手に委ねることになるのである。
まとめと反論
恩恵を施したら、似たようなかたちでお返しをしなくてはならないというルールがあるから教団はこの手法を利用していると言っているのだろうか。このようなことを常に考えながら生活する方が苦痛であり、この論理をわざわざ持ち出して教団の活動を論破仕様とする。かなりひねくれた誇張された論理である。論者はそれに気付いていない。
社会的証明
私たちは、他人がなにを正しいと考えているかによって、ものごとが正しいかどうかを判断するという傾向が強い。このルールがとくに適用されるのは正しい行動がなんであるかを私たちが決めるときである。特定の状況のもとである行動を遂行する人が多ければ多いほど、それが正しい行動だと見なすのである。たいていの場合、多くの人が行なっているのであればそれは正しい行動だというのが、このルールが成立した根拠である。一般に、自分自身に確信がもてないとき、状況の意味が不明確あるいは曖昧なとき、そして不確かさが蔓延しているときに、私たちは他者の行動を正しいものと期待しそれを受容するようである。社会的証明のルールは、自分と似ている人の行動を見ているときにもっとも強く作用する。どうふるまうのが適切なのかを考えるときいちばん参考になるのは、自分に類似した他者の行動なのである。
まとめと反論
この社会に矛盾を感じたからこそ宗教や信仰で打開しようとするのであって何も教団に入ることで全員一致となり自らも無理やりそこに染まるわけではない。むしろ、この現世に矛盾を感じて生きにくさを感じ似た者同士が集まったから自然と類似してみえるのであって教団加入で自分の求めていたことを共有できる喜びが派生したのである。特定の状況のもとである行動を遂行する人が多ければ多いほど、それが正しい行動だと見なすのではなく教団の教えである真理により自らの善なる行いが明確になったのでそれに向かうようになっただけでありそこに同じ志向の人が集まるから類似してみえるだけなのである。
一貫性
競馬場にいる人々について次のような事実が発見されている。馬券を買った直後では買う直前より、自分が賭けた馬の勝つ可能性を高く見積もるようになっていたのである。もちろん、その馬が勝つ可能性は現実にはまったく変わっていない。それは、自分がすでにしたことと一貫しいたい(そして一貫していると見てもらいたい)という、ほとんど強迫的ともいえる欲求によるもなのである。ひとたび決定を下したりある立場をとると、そのコミットメントと一貫した行動をとるように、個人的にも対人的にも圧力がかかる。そのような圧力によって、私たちは前の決定を正当化するように行動するのである。強力な一貫性のルールを働かすものはコミットメントである。もし私があなたをコミットさせること(すなわち、立場を明確にさせる、公言させること)ができたとしたら、あなたを自動的にそのコミットメントと一貫性を保たせるためのお膳立てができたといってよい。立場を明確にしてしまうと、その立場と強固に一貫して行動しようとする傾向がしぜんに生じるのである。些細な要請に同意する場合にも十分注意しなければならない。それに同意することによって、類似したもっと大きな要請を承諾するようになるばかりでなく、最初に同意した小さな要請とはほとんど関連のない、さまざまな種類の大きな頼みごとを受けいれやすくなってしまう。自己イメージを操作するために小さなコミットメントが使える。市民を「公僕」に、購買見込者を「顧客」に、捕虜を「協力者」に変えるためにも小さなコミットメントを使える。望むようなかたちに人の自己イメージを変えることができたならば、その人は新しい自己イメージに関連したあらゆる範囲の要請をしぜんと受けいれるようになるのである。自分自身の行動が自分がどんな人間であるかを教えてくれる。自分の行動が、自分の信念や価値や態度についての第一の情報源なのである。中国人が捕虜に促した確認行動の一つに、意見を文字にして書かせるということがあった。意見を書くということはコミットメントの方法として大きな利点がある。証拠が残ることと、他人に見せることができるということである。行動を含むコミットメントをしてしまうと、自己イメージには二つの面からの一貫性圧力がかかる。内からは、自己イメージを行動に合わせようとする圧力がかかる。そして外からは、もっと密かな圧力―他者が自分に対して抱いているイメージに、自己イメージを合わせようとする傾向がかかるのである。人は書いてしまったことに見合うように行動するのである。コミットメントに労力が投入されればそれだけ、コミットした人の態度に与える影響が強くなる。自己イメージや将来の行動を変化させるためには、なんらかの行動を含み、人前で行なわれ、努力を要するコミットメントがもっとも効果的なようである。しかし、いまあげた三つを合わせたよりもっと重要で、コミットメントを効果的にするものがある。自分の意志で行なった行為であると信じさせることである。そして、人は外部から強い圧力を受けずにある行為をすることを選択すると、その行為の責任は自分にあることを認めるようになるのである。心のなかの変化を導くコミットメントには「自ら自分を支える脚をつくる」というもう一つの魅力がある。だから、そうした行動をとることになったもともとの理由がなくなっても、新しく発見された理由だけで、正しい行動をとったというふうに考えつづけることが十分にできる。一度相手に決定を下させてしまえば、その決定が新しく作りだされる支柱の上に立つようになるのであるから、最初に相手を誘った条件を取り除いてしまってもいいのである。(以上、「希少性」から「一貫性」まで影響力の武器』から要約)
まとめと反論
競馬場にいる人々について次のような事実が発見されている。馬券を買った直後では買う直前より、自分が賭けた馬の勝つ可能性を高く見積もるようになっていたひとたび決定を下したりある立場をとると、そのコミットメントと一貫した行動をとるように、個人的にも対人的にも圧力がかかる強迫的ともいえる欲求これが統一教会の活動にも利用されていると言いたいのだろうが馬券でもそうなのだから一般的な生活でも活用されている心理であり特別教会だからという理由には当たらない。
権威
権威のもつ影響力の強さについて衝撃的な実験がある。大学のなかで、研究者らしい風体の人から「罰を与えることが学習と記憶にどのような影響をおよぼすかを明らかにするため」との説明を受ければ、被験者の三分の二の人たちが四五〇ボルトと表示されたレバーを引いて、回答を誤った生徒役に「致死的な」電気ショックを与える。生徒役もスタッフの一人であって、電気ショックは実際には与えられておらず、その人は苦悶の演技をするのであるが、被験者である教師役の一般公募の人たちは驚くべき誠実さで、「権威」たる大学の研究者らしい風体の人の指示に従う。電気ショックを与える装置には一九五ボルトのところに「非常に強いショック」、二二五ボルトのところに「はげしいショック」、三一五ボルトのところに「きわめてはげしいショック」、三七五ボルトのところには「危険すごいショック」と表示され、四三五ボルトからは「×××」とい表示がされているのにもかかわらず、なんと三分の二の人たちが四五〇ボルトのレバーまで引くのである。人は権威の命令にはとにかく従おうとするのである。『服従の心理』より要約)見かけの権威も同じように人の服従を引きだすことができる。
まとめと反論
後述するが、アイヒマン・ミルグラムの実験電気ショックによる実験の事だろうが、統一教会とこの物理的に恐怖を与えての実験と何のかかわりがあるのだろう。教団はこのような物理的恐怖でもって圧力もかけていないし、信仰行動は個人の自主性であるのでこの実験を持ってくるのは的外れだろう。そして、ここでの権威とはどのような者の状態なのだろう。恐怖を前提に被験者が何らかの権威を用いられて実験を継続させられているが、その継続の原因である権威に対して何らの解説も無い。これではこの実験の目的である権威の正体や証明がなされていないこととなる。また、倫理性の観点からは、痛みを与える要素の社会的イメージについての批判の声もある。
集団への同調
ソロモン・アッシュ博士の実験が有名である。八人の集団に二枚のカードを見せる。一枚のカードには直線が一本だけ書かれており、もう一枚のカードにはそれぞれ長さの異なる三本の直線が書かれている。被験者は三本の直線のうちどれが、一本だけ書かれた直線と同じ長さなのかの判断を求められる。八人のうち七人はサクラであり、真実の被験者は一人である。順に答えを言うのであるが、真実の被験者は七番めに答える。サクラが全員一致で故意に誤った判断を答えた場合に、その影響はどのように被験者に及ぶのかという実験なのである。なお、このような全員一致の誤りに直面しない実験では、被験者は誤りの答えをほとんどしなかった。それくらい簡車で、普通まちがうことなど考えられない問題なのである。アメリカの男子大学生が被験者になったこの実験で、なんと三分の一の被験者が多数者であるサクラの誤った回答と同じ誤りか、長さにおいて同一方向の誤りをした。ことほどさように、人間には集団への同調の傾向が強いのである。
まとめと反論
実験の項目で詳細に後述するが、追試実験でも同調が起こらなかったことを報告した論文もある。ただし、出版バイアスのために、同調が見られなかったという否定的結果は論文として公刊されにくいため、同調が見られたとする追試論文に比べ、その数は少ない。日本の心理学者たちによるサクラを使わないアッシュ実験の再現研究でも、斉一性の原理が必ずしも正しくない可能性が指摘されている。とあり、未完成の実験結果である。
社会的比較の制限
統一協会の「教育過程」においては、最初のビデオ・センターから「口外禁止」が要請され。「教育過程」が進んでいくにつれて、受講生は他の情報に接する機会が少なくなり、統一協会員以外の人たちと接する機会が少なくなるように誘導される。そして献身した場合には統一協会員以外の人たちと接することがなくなる。そのことがもっている意味は次のとおりである。人は成長していくなかで、親、兄弟、教師、書物、友人、そしてマス・メディアなどからの情報を受けてビリーフを形成・変化させる。「ビリーフとは、ある対象と他の対象概念、あるいは属性との関係によって形成された認知内容のことをさす。たとえば、「神が宇宙を支配している』『A型の人はきちょうめんだ』『政治家は腹黒い』『霊界がある』などである。日常的な表現では『信念』だけでなく『知識』「偏見』『妄想』『ステレオタイプ』『信条』『信仰』などがそれにあたる。つまり、人はこうしたビリーフを数多く所有し、個人的に整理し構造化して、あるシステムを形成していると考えられる。新しい情報に対してはそれまでに獲得したビリーフと一致するか、呼不一致なのかの吟味を行ない、受け入れるかどうかの判断がなされている。そのときの不一致情ルのために使っている技術[序章]統一協会がマイン報は、自分の体験や他の関連するビリーフにあてはめて解釈するか、周囲の人の意見と比較して判断する(リアリティー依存)。また、なにか重大な悩みや問題を抱えていてそれを一気に解決してくれる情報であったとしたら、人はその情報を受け入れてビリーフとする(価値依存性)」(以上『対人心理学の最前線』第一二章より引用・要約)
1.個人的リアリティー
統一協会の「教育過程」で行なわれるサタンが存在するという講義は、まず、普通の人の心のなかに存在する嫉妬心、猜疑心、劣等感、見栄、虚栄心、責任転嫁等の心の動きを邪心と規定する。そして、神と同じような人格となるべく神によって造られた人間にそのような邪心が存在するのは、人間がサタンの子孫であることを示しているという論理で展開される。これは、サタンという知覚できない存在を、自分でも嫌だと感じている心の働きと関係づけることによって、個人的リアリティを与え、納得させ、受けいれさせようとしているのである。
2.社会的リアリティー
聖書、科学、キリスト、著名人などの権威性を利用し、「霊の親」(最初に秋一協会に勧誘した者をこう呼ぶ)などのメンバーの支持といった合意性を提示する。「教育過程」で受けさせるビデオ講習の講師や状況を学校や予備校の「熱血教師」というイメージに似せて提供して、信憑性を高める。逆に、ビデオを見せられる側は、疑念を確認する他者を発見できない設定で見せられるため、をはらすための社会的リアリティーを利用できない。以上、1は路の解釈であるが、静岡立大学西田公昭先生の教示による)
催眠の技術
統一協会はツーデイズ(2day's)修練会、フォーデイズ(4day's)修練会などで、意図的に受講生に「まどろみ」の状態を作りだす。知的な活動の中枢である大脳の働きを低下させる。そのことによって、新しい価値観に対してそれまで獲得したビリーフと一致するか一致しないのかを吟味する力を低下させているのである。人の脳が適切な対応をすることができる刺激の範囲は限られているといわれる。刺激が少なすぎても人間の脳は健全な働きをしない。感覚遮断の実験(無音で無刺激な部屋に被験者を隔離する)などでは被験者に幻覚などが現われる。過剰な刺激に出合うと頭は急にまっ白になったような感じで働かなくなり、言われることをそのまま受けいれてしまう。統一協会はこの過剰刺激による催眠の技術を用いている。イエス・キリストに対する拷問や、文鮮明に対する拷問の講義がそのあらわれなのである。統一協会がその構成員を支配する方法の一つとして、祈稿による自己催眠と思考停止が重要である。同じ一つの考えや文句を根気よく際限なくくり返すことは次のような効果をもつ。「そら、今こうして歩いておっても、イエスの祈りをたえず唱えておりますのじゃ。わたしにとってこの世での一番の宝であり、甘美なお祈りを。たまには日に七十露里、いやそれ以上も歩いたが、歩いているとは感じない。ただお祈りを唱えていることしか思っておらぬ。きつい寒気がわしの全身にしみこんでくると、一段と気を張って唱え始める。するとすぐ体中がほてってくるのじゃ。ひもじさがわしをうち負かしはじめると、一段とはげしくイエス・キリストの名を唱えるとな、食いたいことを忘れてしまう。調子が悪くなって背中と足がリューマチにかかりだすと、お祈りを唱えだす。すると痛みは消えてしまう」(『催眠――心の平安への医学』一八ページ)統一協会は、その構成員がつねに祈祷するように指導し教育しつづける。祈祷は統一協会員のパワーを高めて活動に邁進させるための方法であり、他のさまざまなことに興味や関心を移させないで、統一協会が指し示す当面の課題にのみ統一協会員を集中させるための方法である。祈祷によって神との対話の世界に陶酔するようになれば、統一協会の教えに疑問をもつことなどなくなる。祈稿による思考停止も重要である。統一原理に反する考えが頭に浮かんだら、祈臓によってその考えを頭から追いだし、心の平静さを回復するのである。
まとめと反論
統一協会はツーデイズ(2day's)修練会、フォーデイズ(4day's)修練会などで、意図的に受講生に「まどろみ」の状態を作りだす大脳の働きを低下で働かなくなる
とはどういうことだろうここでの修練会は統一原理の講義のことを言っているのであろうがまどろみをもたらすことが目的ではなく自らの人生で見たことも聞いたことのない開眼する真理に出会うことで回心されるのである。それが目的だ。なので、まどろみで、大脳を低下させるといううような低俗な理論に対応される修練会ではない。祈祷は確かに信仰のパワーの一部になるだろうが祈祷でもってほかに興味や関心を移させないための目的でそれを用いていると主張する。それは間違いである、祈祷は真理体恤と共に重要な信仰上の行為である。祈祷の目的が思考停止や他に無関心になることではないわけである。目的の指向がまるで見当違いでこの論文を称賛する学者や評論家の見識を疑う。
言われることをそのまま受けいれてしまう。統一協会はこの過剰刺激による催眠の技術を用いている。イエス・キリストに対する拷問や、文鮮明に対する拷問の講義がそのあらわれ祈稿による自己催眠と思考停止祈祷するように指導統一協会が指し示す当面の課題にのみ統一協会員を集中させるための方法神との対話の世界に陶酔するようになれば、統一協会の教えに疑問をもつことなどなくなる。祈稿による思考停止も重要である。統一原理に反する考えが頭に浮かんだら、祈臓によってその考えを頭から追いだし、心の平静さを回復する
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統一協会員の特徴
<統一原理を真理だと信ずる〉
統一協会が統一原理を真理と信じさせるためにさまざまなテクニックを用いることはすでに述べたとおりであるが、信じこませる方法として、同じ趣旨の講義をくり返しくり返し聞かせるということがある。たとえば堕落論はビデオ・センターから実践トレーニングまですべての「教育過程」で講義されている。統一協会員は、統一原理が宇宙や世界の森羅万象を解決できる万能の思想であると信じさせら一原理は統一協会員が世界を解釈し理解するための基準となるだけでなく、彼の行動を律する規範でもある。統一協会員は、それまでの人生でしぜんに形成してきた価値判断の基準を放棄させられ、それに代わって統一原理を植えこまれたのである。
<統一原理で世界を解釈するようになるとどうなるか?〉
統一原理では統一協会のみが神の側であり、その他の社会はすべてサタンの支配する世界である。神の側である統一協会は、広大なサタンの世界に包囲されている情勢である。統一協会員にとって統一協会以外の「良い」人は「救い」の対象であって、協同する対象ではない。「悪い」人は「反対派」=「共産主義者」=「サタン」であり、命がけで闘う対象である。この考え方では、社会で生きていくのにもっとも大切な、多様な価値観を容認しあいつつ、協同して生きていくという考え方が生まれる余地がない。社会で真理を知っているのは統一協会員のみなのであるから、彼らは強烈なエリート意識をもっている。したがって、一般社会の人々を心のなかでは見下すようになる。この点も、彼らが社会に溶けこめない理由となっている。統一原理によれば、堕落人間である人類が生きていくべき道は自己犠牲の減の道でなければならない。この考え方が生き方の基本となっているのであるから、自己実現を生き方の基本にしている現代人と一致することができない。秋一原理によれば、自己中心の愛と性が人間の堕落の原因である。自分の選択による恋愛や結娘はサタンを繁殖する行為である。もちろん、友だちの結婚も祝えない。逆に、統一協会員にとって死ぬことは天国へいくことなのであり、祝うべきことである。実際に統一協会の「葬式」は結婚式のような装いで行なわれる。このような思想で頭のなかが支配されており、その思想が社会やものごとの判断の基準となっているのであるから、一般社会に溶けこむことは困難である。統一原理によれば、ソ連邦の崩壊までは、統一協会の力が大きくならなければ第三次世界大戦が武力戦としてかならず発生しなければならないとされている。自己犠牲の道を歩んで、統一協会の力を強めることによって第三次世界大戦の惨禍を防ぐことができるということになっている。そのことを信じていた統一協会員は、この道を行く以外ないと思いつめている。この道は、まことのお父様がいままでボロボロになりながら一人でがんばり続けて切り開いてきた道なのである。全世界の兄弟姉妹も自分を捨ててがんばっている。この道を知ってしまった以上、私だけがこの道から脱落するわけにいかないと考えている。
<恐怖が統一協会員を支配している〉
統一協会の思想を知ったうえで統一協会をやめることは、地獄に堕ちることであると教えられている。先祖の霊の期待を裏切ることになるので、知らない人よりもかえって悪いことをしたことになるのだという。反対派というのは、理不尽にも統一協会員の思想を変えることを目的にして活動している集団である。強固に信じているこの正しい思想を変えるために精神病院に入れた。
統一協会員が統一協会を離れるためには、統一原理が誤りであることを自覚することがその前提となる。統一原理が正しいのであれば、いまの道を歩むのが正しいのである。ところで、人の思想も変わるのであって、変わるきっかけとしていちばん想定しやすいのは、自分の思想が現実を分析する手段として適切でないことを自覚することであろう。ところが、統一協会員にとっては、統一協会にいるかぎり統一原理がまちがいであるということを自覚する道がない。その
第一の理由は、統一協会員が統一協会員以外の人たちとの交流を遮断されているからである。統一協会の内部にいれば、統一協会の虚偽を暴く事実が報道されても、それが正しいかどうかの判断をしてくれるのは統一協会員である。どのような事実であれ、統一協会が正しいという説明は可能である。問題はその説明が正しいかどうかである。社会的比較の対象が統一協会員に限定されている社会に生きているので、統一協会員はその説明を正しいと認識する。統一原理の誤りを認識するようにならないのである。
第二の理由は、統一協会の内部には情報がなかなか入ってこないからである。忙しくて新聞を読む機会が少ない。忙しくてテレビをみる機会も少ない。そのような状況で毎日毎日切迫した課題に取り組んでいると、世界でなにが起きているのかわからなくなってしまう。
第三の理由は、統一協会員が自主的判断を禁止され、つねにアベルにホーレンソウしてものごとに対処するように教育され、アベルに伴って生きることが人間解放への道であると信じて生活した結果、自分の頭で考え、決定することができない人間になっているからである。
第四の理由は、不信すると摂理が失敗すると脅されていることである。その恐怖と思考停止の技術が統一協会員の思考力を奪っている。
〈善悪の判断基準が転換されている〉
統一協会員は「善と悪は、ある行為や結果それ自体において直ちに決定されるのではなく、その動機と方向と目的が神のためのものであったか、サタンの目的を指向したものであったかによって決定されるのである」と教えこまれ、信じさせられている。彼らが行なう詐欺行為も、彼らにとっては正しい行為と認識されている。したがって、犯罪行為を行なうことも彼らの倫理規箱に反さなくなっているので、彼らの行為は統一協会をやめる動機とはならないのである。以上のようなしだいで、統一協会員が自力で組織を離れる道はきわめて少ない。もちろん、活動についていけなくて組織から離脱する人はたくさんいる。しかし、その人たちは統一原理が正しいと考えつつ、自分を「裏切り者」と責めながら生活することになるので、自分の可能性を生きていくような社会復帰は困難なのである。
まとめと反論
人の思想も変わるのは論者郷路氏と身の回りの者ではないだろうか。少なくとも信仰者は変わらない。信者は統一教会の普遍真理に出合い感動し行動し生活しているのであって教団の施設内にいようが外にいようが自主的に信仰を保っている。摂理感はあるが恐怖で人間をどこまでコントロールできるだろうか、独身の教会員であればその様な事もあるだろうが家庭を持ち子供もいる信者にもこのような状態で郷路氏が唱える恐怖信仰を継続できるだろうか。それこそ郷路氏自身が反マインド・コントロールの呪縛にはまってマインド・コントロールされているのではなかろうかと心配になる。
論者は善と悪はその動機と方向と目的が神のためのものであったか、サタンの目的を指向したものであったか教えこまれ、信じさせられている。といううが各宗教によって信条とするものが相違するだけであって統一教会だからいってそれのどこが悪いのだろう。
また、大半の信者は教え込まれたのではなく教えを自ら求めたのである。また、信じさせられたのではなく理論的立証されたものを自らの心が感動したがゆえに信じたのである。詐欺行為や犯罪行為を全信者が行うようになると言うが信者の過失や個人的な認識の違いで犯罪者とされる場合があると思うが決してそいうことはないのである。なぜなら、論者は弁護士、弁護士であろうとも毎年多数の犯罪者が出ている。時間が足らないので調べはしないが統一教会、信者の刑事、民事事件より多いかと思うので教理が犯罪を導くというのには当たらない。離脱して裏切り者と思い社会復帰もできない、とはいかなる根拠なのだろう自らを裏切り者とは思うことはないむしろ、信仰共同行動出来なかったことを申し訳なく思う。それは信仰者としての当然の思いであるし、それを教団は特別視したり、犯罪者扱いはしない。来るもの拒まず去る者追わずである。
〈統一協会は宗教とはいえない〉
統一協会で会員がさせられることは、詐欺的な物売りと組織の拡大である。統一協会の「教育過程」の目的は、この二つのことにすべてを捧げる人間を作りだすことである。この二つは、統一協会のすべての活動を支える基礎である。だから、統一協会での生活は肉体的に苦しみの連続であるばかりか、精神的にも苦痛がやむことがない。気分の落ち込みと高揚のくり返しなのだ、しだいに落ち込みが深くなる。それは日々過重されていく。罪は自分の行為に関して生まれるだけではない。連帯罪という罪があるから、自分の所属している集団の失敗は自分の罪なのである。その集団は論理的には全人類という規模にまで広がりうる。そのような精神的苦悩と肉体的苦痛が増幅して、ついに活動の限界をこえるときがくる。もう体が動かなくなるのである。摂理のために活動しなければならない、いまという時に体が動かないことは、それ自体が神にたいする罪なのだ。そのような状態に陥った統一協会員は自分を責める。死んでしまいたいと思う。教義上自殺は禁止されている。死ぬこともできずに、祈室で自分の肉体が消滅することをひたすら願望するのである。そのような危機が通常三年めに訪れるので、「三年めの危機」と言われている。その危機ののち、統一協会員は自己の弱さや統一協会の規範に反する行為をすることをさまざまに合理化するようになる。そうでなければ生きていけないことを体が学ぶからである。神もサタンも見ているのに、「えい、いいや」とあえてその禁を犯すのである。まじめに考えると恐ろしいことであるからまじめに考えるのを放棄する。そのような行為を積み重ねていくので、幹部になればなるほど堕落していく。統一協会の組織は建前が支配するところである。本音で話しあうことはない。表向きはつねに教義にしたがい、なんの矛盾もないように生きている。したがって、自分の悩みを隠し外面をとりつくろうことになる。さらなる堕落が追加されることになるのである。合理化する方法で規範を乗り越える"ことができないまじめな人たちはノイローゼに陥るか、心身症になるであろう。だから、統一協会は人間の魂を救済する組織ではとうていなく、一部の幹部の経済的利益や政治的野望のために人間を破壊するところなのである。
まとめと反論
〈統一協会は宗教とはいえない〉の断定根拠は何だろう?
ここでは、教団は詐欺的な物売りと組織の拡大この二つのことにすべてを捧げると言っている。しかし、何も、これを専門で経済活動しているわけではなくある面、修行の一環で行われた経緯があって、信仰を深め教祖の苦労の疑似体験で心情的に近づく儀式的意味合いもあったと思われる。(現在は行われていないと思うが)であるからして、経済活動がオンリーでれば会社にすればいいわけであり、そうしない理由があるのである。それを外面だけとらえて悪く言いきりのは論者としては不向きでないかと思う。
下記に件に関しても独断的で本当に取材されたのだろうか
連帯罪集団の失敗は自分の罪ついに活動の限界をこえるときがくる
体が動かなくなる
摂理のために活動自分を責める。
死んでしまいたいと思う。
「三年めの危機合理化するまじめに考えるのを放棄統一協会の組織は建前が支配外面をとりつくろうことになるさらなる堕落が追加される
ノイローゼに陥るか、心身症になるであろう
気分の落ち込みと高揚のくり返し
一部の幹部の経済的利益や政治的野望のために人間を破壊するところなのである。
ある面修行的なので肉体的に苦しみのや、精神的苦痛もあるだろうがそれは、個人差があるだろうし全員がそういうことになるはずがない。
それ以前にこの一般社会にも存在する苦痛や病であるのに教団に来ることでその状況が派生するなどと断言する論者の見識の方が疑われる。
信仰は現世に限界を感じて来たわけで教えを聞いて自分やその周りの幸せを願って行うわけで何も苦痛を自分やこの世に与えるために実行するものではない。心理に目覚めて感動したから進行するのであろう。〈統一協会は宗教とはいえない〉は郷路氏意見は見当違いで宗教を未経験で外面だけで判断している。
両親の救出活動
〈両親の心〉
いかに親であっても、その思想が気に入らないからといって、子どもの思想を強制的に変えることは許されない。憲法が思想、信条の自由を認めている以上当然のことである。そして、また、統一協会がその構成員に霊感商法や詐欺募金などの犯罪行為を反復累行させている集団でないのなら、その組織からわが子を救出しようとする両親もほとんどいないだろう。知らずして犯罪行為に加担し、社会に迷惑をかけているわが子を救うのは親の責任だと考えている。両親が、統一協会に捕らわれたわが子を救出したいと考える最大の理由はここにある。そのように考えたとしても、わが子を統一協会から救出することは容易ならざる道である。両親自身が子どもの気持ちや考え方を理解するために、統一協会について長期にわたり勉強することが必要になるし、子どもへの愛において文鮮明の「愛」をこえなければいけないであろうし、子どもの自己犠牲に劣らない自己犠牲の覚悟も必要とされる。そうでなければ、統一協会員の心を開き、話を聞いてもらうこともできないのである。
〈話し合いの場を奪う統一協会〉
そのような準備が親の側ではできたとしても、統一協会員であるわが子と話しあう場が設定できなければどうにもならない。親子が話しあうのになんの障害もないのが世の中のはずだが、統一協会がそれを妨害するのである。そもそも、統一協会員が自宅に帰る機会は年に数度にすぎない。もちろん、親のところに帰るについても統一協会の許可がいる。しかも、そのあいだは疲労困憊して寝ているのが普通である。そのようなときに親が統一協会の問題について話しはじめれば、冷たい対話拒否にあう。子どもはアベルにホーレンソウしてすぐ家を出ていくのである。統一原理が頭のなかに宿っている以上、子どもにとっては当然の反応である。統一協会は親が反対派につながっていることがわかったら、なにがあっても逃げてこいと指示している。そんな状態であるから、親は子どもとの対話の機会を統一協会によって奪われているのである。
〈話し合いの場を作るために〉
したがって、親は対話のために、子どもが逃げることができないような環境を設定せざるをえなくなる。この話し合いにいったん失敗したら、子どもは統一協会の組織のなかにかくされてしもう親の側からは連絡することもできない状態、終生の断絶になりかねない。親としては万全の体制で臨まなければならなくなる。これらの親の行為をとらえて、統一協会は拉致監禁と批判している。
〈親の行為は正当行為>
しかし、そのような親の行為は刑法上監禁罪にあたるものではない。親が知らずして犯罪行為を犯している子どもについて、その犯罪行為をやめさせるために話しあい、説得の場をもつことが犯罪行為を行な
わせている統一協会によって妨害されている状態なのである。親として子どもとの話し合いの場を確保するために最低限の行為を行なうことは、知らずして犯罪行為を行なう子どもの看護という視点からも、社会に対する責任という視点からも、刑法三五条の正当行為法正当業務因為シタル行為ヲセズ)として、その行為の違法性を阻却されるのである。
まとめと反論
親であっても思想を強制的に変えることは憲法があるため許されない。しかし、教団は犯罪を犯しているのでそれができると、更には文鮮明の愛情を超えて救わなければそれはかなわないと言っている。社会に迷惑をかけているわが子を救うのは親の責任がわが子を救出したいと考える最大の理由であるという。子どもの自己犠牲に劣らない自己犠牲の覚悟も必要であるからして。親としては万全の体制で臨み、親の行為は刑法上監禁罪にあたるものではないと言ったが実際は拉致監禁に合った後藤氏は最高裁で勝訴している。
〈親の行為は正当行為>ではない。
後藤裁判の原告勝訴が確定
12年5ヵ月にわたって都内のマンションなどに拉致監禁され、世界平和統一家庭連合(旧:世界基督教統一神霊協会)からの脱会を強要された当会の後藤徹代表(51)が、事件に関与した親族と職業的改宗活動家らに損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第3小法廷(大橋正春裁判長)は9月29日、親族と改宗活動家らの上告を棄却する判決を下しました。親族と改宗活動家らに総額2200万円の損害賠償の支払いを命じた控訴審判決が確定し、後藤代表が勝訴しました。
https://kidnapping.jp/news/151001.html
[終章]統一協会の危機六年前の総括
また、『洗脳』によって、若者をその組織に取り込み、霊感商法や詐欺募金、伝道と称する組織拡大活動、勝共活動に日夜没頭させている統一協会にとっては、人間性の再生・回復を目的とする親の説得、その結果としての本人の『組織からの脱落』が決定的弱点である。その構成員を『地上天国』実現のための献身者に仕立てあげ、外部に対して無敵を誇るかに見える統一協会の最大の弱点がここにある。この点はまさに統一協会の『アキレス腱』なのである。いまはまだ少数であるが、右のような過程で脱会者が増大していった場合、必ず量から質への転換がおこり、統一協会の反社会性は内部告発者によって白日のもとに曝されることになる。そうなっては組織の存亡にかかわることになる」
まとめと反論
ここでいきなり、勝共活動の単語が出た。勝共とは国際勝共連合、つまり共産主義に反対している教団の関連組織だ。そして、人間性の再生・回復を目的とする親の説得、その結果としての本人の『組織からの脱落』が決定的弱点必ず量から質への転換、内部告発者によって白日のもとに曝される存亡にかかわることになると結ばれている量から質への転換とはエンゲルスの弁証法の一部である。この量から質を持ち出すこと自体が通常考えられず共産主義に傾倒した人物だと言える。ここの解答はこうだ。量的変化の質的変化への転化の法則。この理論について、エンゲルスは水を「水は標準気圧のもとで、(温度を下げていけば)七氏〇度で液体状態から固体状態に移行し、(温度を上げていけば)七氏一〇〇度で液体状態から気体状態に移行する。したがって、これら二つの転換点では、温度の単なる量的変化が、水の質的に変化した状態を引き起こすのである」(『反デューリング論』)これは間違いで実際は、液体の水が氷になったり水蒸気になったりしても、HOという水分子の構造は一切変化していない。水から熱を取り去ったり加えたりすることで、水分子の持つ運動エネルギーが増減し、水分子同士を結び付ける分子間力のバランスが変化しただけである。これを科学では「状態変化」と言い質的変化ではない。仮に百歩譲って、これを質的変化だと認めたとしても、この変化は一瞬では起こらない。また教団の内部意見の不一致があったとしても存亡に関わることも発生していない。
統一協会の本当の危機とは
従来、統一協会を離れた人は「乞食になるか精神異常」になると言われていた。統一原理の呪縛が強く、統一協会のために活動できない自分を「裏切り者」「ダメ人間」と責めつづけるからであろう。本当に悲惨なことである。そして残念なことであるが、そのような状態では人は統一協会を告発することはできない。そうであるから、統一協会は平然と悪事を積み重ねていくことができた。ところが、この点で根本的な変化が起きていたのである。元「信者」の人々が統一協会できるようになったのは、適切な救出活動によって、統一原理の誤りを認識しその呪縛から解き放たれるようになったからである。普通の人に戻れるようになったのだ。そのような元「信者」が日本全国に多数存在することが、統一協会の本当の危機である。統一協会のどのような活動についても、自分がそれを内部で行なっていたという告発者が外部にいる状態である。統一協会のように、かくれみのの組織を使って悪事を働く組織にとっては、本当に対応に窮することである。元「信者」たちは、まことの愛や為に生きるという美しい言葉でその醜悪な本質を隠しつつ、自分たちの心を操作して犯罪行為を行なわせていた統一協会にたいして当然の怒りを抱いている。許しがたい組織なのである。全国の元「信者」の怒りの炎によって、統一協会は壊滅への道を歩まざるをえないだろう。それは、人の心を操作した悪魔のようなこの組織に、与えなければならない当然の帰結なのである。
郷路征記(ごうろ・まさき)統一協会マインド・コントロールのすべてISBN4-87652-250-2C0036P1854E
まとめと反論
離教者は「裏切り者」「ダメ人間」と責めつづけるから悲惨なこと、まことの愛や為に生きるという美しい言葉でその醜悪な本質を隠しつつ、自分たちの心を操作して犯罪行為を行なわせていた統一協会にたいして当然の怒りを抱いている。と論者である卿路氏は離教者の心を代弁して言われているのだろうが、それでは現信者はどうなのだろう信仰継続者である。全員がコントロールされ不安感に襲われ病的な状態で教団の奴隷になっているのだろうか。統一教会系団体は日本国内は元より全世界に展開されもちろん米国内でも支持され国際的報道機関ワシントンタイムズ等複数のメディアがありそれに勤務されている信者も奴隷のようにマインドをコントロールされながら強制されているのだろうか。特に新聞社やマスコミ関係だとクリエイティブな仕事となり監禁されていれば仕事もおぼつかないだろう。このような事から、郷路氏の論文は詭弁であり元信者の憎しみを代弁し偏向された内容であることは確かである。
洗脳理論そのものには数々の問題点があると述べている。
第一に洗脳の技術が反カルト活動家が言うほどの効果があり、無差別なものであるのなら、対象や時代に関わりなくその技術は機能するはずであるが、実際北アメリカでは新宗教が若い人の勧誘にかなり成功していたのは、1960~70年代の対抗文化運動の間だけであり、以降は劇的に減少している。
第二に洗脳を効果的に行うには、おそらくある程度の専門技術が必要なはずであるが、洗脳を行っていると非難されている新宗教では、加入間もない新人メンバーたちが勧誘活動を行っている。時間の経過で技術は向上するはずであるが、そういった成果の向上は見られない。また実際のところ、新宗教は全体として信者を引き付け維持することに失敗しており、1970年代にE・バーカーが統一教会に対して行った最も徹底的で信頼できる調査(期間は6年)で、バーカーは入門者が会員として残る確率は、極めて低いと結論付けている。統一教会に勧誘された人々のうち、実際に会員として加わったのはごくわずかで、新会員もほとんどは短期間で活気を失っていた。
まとめと反論
洗脳の技術が反カルト活動家が言うほどの効果と無差別なものならば時間経過と共に技術進歩で高機能になるはずがそうはなっていない。効果的に行うには専門技術が必要なはずだがそれを実行しているのは新人ばかりである。といわれているように実際、この論理には無理があり破綻している。
6.紀藤正樹氏 弁護士
マインド・コントロールされた人の周囲からは、「人がまったく変わってしまった」「人格が一変してしまった」という声が聞かれます。たとえば、芯が強く非常にしっかりしていると見えた人が、霊能者と称する人の強い影響下にコロッと入ってしまう。 あるいは、親や友人をとても大切にしていた優しい人が突親や友人と口をきかなくなったり罵倒したりするようになってしまう。
まとめと反論
信仰は今迄の自分から脱皮する、要はバージョンアップするので今まで付き合っていた仲間との会話や行いがくだらなく感じるので相手にしたくなくなるだから、多から見れば人格変貌とみられるのであり。意識しているのではなく価値観の相異が生じたと言うに尽きる。
数年前の芸能人の洗脳騒動で、コメンテーターとしてテレビ番組に登場したある知識人の方は「普通の男女でも好きになれば貢ぐとか一緒に居たいために仕事をキャンセルするとかある。 恋愛も互いのマインド・コントロール。 別に出ようと思えば自由に出られる。だからむしろ悪いのはご本人では」といった趣旨の発言をしていました。
有名なスピリチュアル・カウンセラーの方は「マインド・コントロールをされているとは言えません。正しい言い方をすると“共依存”でしょう。 依存する心とそれを利用する者との関係です」というのです。しかし、このような見方は、被害者と占い師など、相談する側と相談される側には上下関係、力関係が存在しているという大前提が、ことさらに無視されています。 上下関係性の中で、依存する心とそれを利用する者との関係、つまり「共依存」の関係が生じること自体が問題なのです。 後でも述べますが、「依存心」はマインド・コントロール状態に置かれた人の心理状態においては、もっとも重要な要素の一つです。
まとめと反論
上下関係がなんで悪いのだろう神が上なのだろうから従うのは当たり前で世の中上下関係はどこでもあるでしょう。力関係もあるでしょう弁護士もクライアントがどちらかとすると上でしょう。上下が無い世の中があるとしたらご教示願いたいところだ。
共依存を調べると
厚生労働省 生活習慣病予防のための健康情報サイトに次のような記載がある。
共依存(きょういぞん)
依存症者に必要とされることに存在価値を見いだし、ともに依存を維持している周囲の人間の在り様。
例えばアルコール依存症の妻は、依存症に巻き込まれた被害者と言えます。一方で家族研究から、妻はアルコール依存症者のそばで病気の維持に手を貸している面があり、間接的にアルコールに依存しているという「共依存」ではないかという考えがでてきました。共依存者は被害者であるとともに共犯者でもあり、相手(依存症者)に必要とされることで自分の存在価値を見いだすためにそのような相手が必要であるという、自己喪失の病気であるといえます。つまり、筆者は宗教、ここでいうカルト宗教である統一教会はアルコール依存症と同じように病気だと断定している。
マインド・コントロールがどのようなものかは、ある人が普通に暮らしていたときの(元)人格
②マインド・コントロールを受けてすっかり変容してしまった(としか見えない) 人格
③カルトからの脱会カウンセリングなどを通じてマインド・コントロールが解け、元の
人格に戻った状態(ただし、①の人格とは少しだけ違う点は、
①の人格に②の時代、
つまり自分がマインド・コントロール下にあったという経験が追加され、人間的に成長していることです
まとめと反論
人間的に成長しているのであれば何も問題はないのではないだろうか?この成長とは何を指すのだろう成長している人間を否定し脱会までさせる意味は何か。それは教団や信者に対する確固とした魂胆がありその対策を成すことでメリットがあるからなのだろうそのメリットとは脱会させることで弁護士やその関連者が報酬を得れるビジネスなのだろうだから、人間が成長するかどうかに関係なく身内に拉致監禁させ法的には身内だから罰せられないことをいいことに脱会ビジネスを履行しようとする。
加害者側が一見、好人物に見えたり加害者を指導加害者側が一見、好人物に見えたり寡黙に見えたり、あるいは第三者に対してそう見えるように装っている場合には、世間から見れば、被害者のほうが加害者を指導しているよ
うに見える場合すらあります。 恋愛関係のように見える場合もあるでしょう。
まとめと反論
これは信仰を体験したことがないとわからないことである。真理で心が啓発されその体験を他人にも伝えたくなる。まして、多くの宗教がそうであるように流布することで相手が幸せになることで自分も幸せになる。
創価学会の公式サイトでは、折伏はどうやってやればいいの?
仏法は、自身の幸福だけでなく、悩める友を救い「自他共の幸福」を実現し、崩れぬ平和な世界を築いていく大法なのです。この大法を弘めていくのが「広宣流布」の実践であると言っているし(https://www.sokanet.jp/recommend/new-member/activity/page301.html
キリスト教、伝道をググると
[名](スル)宗教的真理、または教義を伝達し広めること。 特にキリスト教で、その教義を未信仰者に伝えて信仰に入ることをすすめること。 ミッション。
とある。であるから、マインド・コントロールだけではなく宗教は一般に流布する行為を幸福になる手段だとしているのである。
加害者側が一見、好人物に見えたり、加害者を指導しているよ、恋愛関係のように見えるとはどこからそれを引いてきたかは不明だが真理傾聴で心が喜べば教祖を崇拝するのは当たり前ではないのだろうか、筆者はそのような経験はないのだろうか?例えば読んだ本や映画で感動しその登場人物や著者を敬拝する。それとどこが違うのだろう。マインド・コントロールを持ち出さなくても当たり前の普通の人のことなのであり。それができないのが普通ではないと思われる。
被害者の「過去」と「現在」の動かない事実を見ることが大切、ある人が、占い師からマインド・コントロール被害を受けているのではと疑われるときは、被害者の「過去」と「現在」の動かない事実を見る必要があります。
数年前に騒がれた芸能人の洗脳事例でいえば、こんな事実に目を向けるのです。たとえば、数千万円という多額の年収があったのに、いまは個人事務所と自宅の家賃滞納額数百万円を払えない。社交的な人物だったが、いまは自宅に閉じこもった状態だ。 家族と交流があったが、いまは家族と断絶している。常識的な人物だったが、いまは家賃を払わない理由として「警視総監に相談」「窃盗被害にあった」など非常識で荒唐無稽な言
い訳をしている。
まとめと反論
過去と現在の状態は、明らかに大きく食い違ってよくなることもあれば悪くなることもあるし個々の事情で変化するものである一概に大きい変化が悪いと断定することが悪い。被害者以外の大多数は信仰をもって幸せだとしているからだ。不幸せな者だけに目を向けた片手落ちの発送か又は作為のある論である。
統一教会やオウム真理教などカルトの信者は文鮮明や麻原彰晃こと松本智津夫という教祖の「金太郎アメ」なのです。ですから「文鮮明の野望とは?」「統一教会はなぜ組織的なマインド・コントロール手法を採用するのか?」と検討する余地はあっても、個々の信者たちの活動の目的や手法を「なぜ、そうするのか?」と問うことは、ほとんど意味がありません。彼らは教祖がやるように場当たり的なことばかりやっている、と説明するしかないからです。
まとめと反論
信じる信仰の教祖に似ることにどこに問題があるのだろうか?似ようと思わない方がおかしいであろう。尊敬した人に似たいと思うのは宗教だけではなく学問や修行の世界では当たり前だろう。「なぜ、そうするのか?」と問うことは、ほとんど意味がないと言って。マインド・コントロール理論を提唱する論者は後述するが不完全な理論や実験を持ち出して無理やり問うている。なぜそうするのか自らの理論が未熟なのを必死で隠そうとする現れであると言える。
マインド・コントロールされた本人を、医者が精神疾患として精神病院に入院させた場合も、比較的説得が容易です。ただし、これはときに逆効果を生じかねません。 本人からすれば病気の自覚がない場合もあり、病気でもないのに精神病院に入れられるので、家族に対する憎悪心を募らせ、入院体験がトラウマのようになって、事態を悪化させてしまう場合があります。教団側から「許しがたい拉致監禁だ」と攻撃され、本人の主観の中ではますます「その通りだ」と思うかもしれません。 客観的には医師の診断もあって問題がないとしてもです。引き離しが難しいケースの典型は、本人がまだ若く体力も気力も知力も満ちあふれ、理想に燃えている場合です。男女を問わず、親を罵倒してとりつく島もないようなケースがしばしばあり、難しいのです。
まとめと反論
本人からすれば病気の自覚がない場合で入院させる強制入院が法的に許されるのだろうか?日本弁護士連合会ホームページ内 強制入院には請う記載がある日弁連は、精神障害のある人に対する人権侵害の根絶を達成するために、現行法制度の抜本的な改革を行い、精神障害のある人だけを対象とした強制入院制度を廃止して、これまでの人権侵害による被害回復を図り、精神障害のある全ての人の尊厳を保障すべく、国及び地方自治体に対して多様な施策を実施するよう求めます。
chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.nichibenren.or.jp/library/pdf/jfba_info/publication/pamphlet/kyosei_nyuin_haishi.pdf
これを見る限り弁護士会でも強制入院は人権侵害だと言っているのに紀藤氏はそれを推奨している。
脱会カウンセラーの多くは、統一教会問題に取り組む自助グループの人たちです。
統一教会はキリスト教の系統から出ましたから、キリスト教についてよく知る人のほう
カウンセリングしやすく、これは牧師が中心になります。
まとめと反論
違法な脱会は民事訴訟で、東京地裁で判決を受けている。
●世界基督教統一神霊協会(以下、統一教会)の信者で全国拉致監禁・強制改宗被害者の会代表の後藤徹氏(50)が12年5か月間にわたって監禁され、棄教を強要されたとして総額2億161万8527円の損害賠償を求めた民事訴訟で、東京地裁(相澤哲裁判長)は28日、後藤氏の親族ら被告に対し、483万9110円の支払いを命じる判決を下した。統一教会側の勝訴となった。https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/29947#google_vignette東スポWEBより
●この疑似科学的な理論は後に「カルト」に適用された。
4000人以上の統一教会のメンバーが「ディプログラミング」と呼ばれる犯罪行為に遭った。日本の最高裁は2015年に、この行為は多数であると宣言し(2014年の高裁判決を支持)、12年以上に亘って和解されていた統一教会メンバーである後藤徹に対する莫大な賠償の支払いを認めた。
マッシモ・イントロヴィーニェ(Massimo Introvigne 、1955年6月14日、ローマ生まれ)は、イタリアの宗教社会学者である。彼は、新しい宗教運動を研究する学者の国際ネットワークである新宗教研究センター ( CESNUR ) の創設者より
https://bitterwinter.org/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AF%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E4%B8%BB%E5%B0%8E%E3%81%AE%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%92%E5%B0%8E%E5%85%A5%E3%81%97%E3%82%88/
「あなたは、教祖がこうしろといったから、自分はその通りにしたと話してくれたね。でも、教祖が書いた本には、ちょっと違うことが書いてあるよ。 どう思う?」こういうと、初めて本人の頭が回転しはじめます。 カルトの思考の枠組みの中で「あなたの話は、教祖がいったことのごく一部じゃないかな」と問いかけたほうが効果的です。その結果、教祖の主張に矛盾が生じたり、自分の誤解が浮き彫りになったりして、確かにおかしなところがあるようだと思いはじめます。マインド・コントロールされた人は、日頃から教祖や教団に不都合な話をしないように訓練されていますから、そんな話題に差しかかると会話が途切れます。 「今日は何を食べたい?」とたわいない日常会話はいくらでもできますが、「占い師と何を食べた?」と聞くと、もうしゃべれなくなってしまう。これはまだ解けていない証拠です。
まとめと反論
何を根拠にこのような文面が出来上がるのだろう教祖の不都合な話があって疑問に思うのならもともと、この教団における存在意義がないのだからマインド・コントロールに侵させる前に気づくだろう。訓練されて教祖や教団の不都合を話さないのではなく真理傾聴により、喜んで教会に通っているわけだから通常そのような訓練などせずして慎み深くなるだろう。それは、宗教だけでなくどこの組織でもそうだろう。弁護士連合会でもそのような不都合な会話をわざわざ持ち出す非社会人はいないと思う。教団はあくまで、ノーマルな集団である。
それを、取り立てて悪者扱いをする論者の精神性が非社会的である。
■「脱マインド・コントロール」もマインド・コントロールなのか?この章の最後では、「脱マインド・コントロールも、マインド・コントロールではない「だろうか」という疑問に答えておきましょう。「マインド・コントロール」と、マインド・コントロール状態から解放する「脱マインド・コントロール」は、一見、どちらも他者が強い影響力を行使してその信念や考え方を左右しているかのように見えますから、この点では似ています。しかし、決定的に違うことは、マインド・コントロールが元の人格とまったく異なる人格に変わったと見えるような信念や考え方の変化をもたらすのに対して、
脱マインド・コントロールは元の人格に戻すという変化をもたらすだけだ、ということ
中略
ちなみに脱会カウンセリングを施しても元のその人に戻るだけですから、たとえば優柔不断な性格の人は元の優柔不断な性格に戻るだけです。 あれこれ手を尽くしてその人のマインド・コントロールを解いても、やっぱり優柔不断な性格のままです。
まとめと反論
「脱マインド・コントロール」もマインド・コントロールなのかの判断基準は見かけでも分からず被験者の心の中なのだから調べようがない。だから、マインド・コントロール虚構の論理である限りマインド・コントロールを奪回させる側もマインド・コントロールの加害者になりその境目なんて測定の仕方がない限り断定はできない。
第3に、社会には宗教の衣をまとう危険なカルトがいろいろとあるのだということを、学校できちんと教えるべきだ、と私は考えています。若者たちがオウム真理教や統一教会に取り込まれていくのを見るにつけ、そう思います。
そのような教育は「宗教リスク教育」ですから、広い意味では「宗教教育」に含まれるでしょう。ところが、国公立の学校では、憲法第20条3項に「国及びその機関は、宗教教その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定める「政教分離の原則」があります。ですから、私立学校では宗教教育ができても、公立学校では学問として宗教を教える以外に宗教教育ができず、したがって公立学校では宗教リスク教育ができないという話になっています。
中略
私は、「宗教リスクについて解説する教育は、宗教を客観的に教える教育であり、学問ないし人権教育であり、それは宗教教育とは異なるものだ」という考え方を採用して、高校ぐらいからカルトの危険性についてきちんと教えるべきだ、と考えています。
まとめと反論
憲法第20条3項の前に憲法第20条第1項が信教の自由にこうあるE.思想、良心及び宗教の自由(第14条)また、宗教の自由については、憲法第20条第1項が信教の自由は何人に対してもこれを保障する旨規定しているほか、同条第3項においては、国及びその機関が宗教教育その他いかなる宗教的活動を行うことも禁止している。であり補足的にほか同条第3項においては、国及びその機関が宗教教育その他いかなる宗教的活動を行うことも禁止している。であるから、国家や機関に該当しなければ問題ない。しかし、大学等では思想信条を独自で学生らが学び活動する場が設けられておりそれは、各思想、哲学、宗教(表向きは哲学としているが)研究会等として成立しているわけで。統一教会に限った事ではなく活動は許されるであろう。そのことを規制するならば全学連の凶暴な組織をなぜ残しているのだろう。さらに半年後の1969年4月12日にも岡山大学で機動隊員の巡査が学生による投石を頭部に受け同日夜に死亡する事件が起こった。これは岡山大学の学生による学生課長及び教養部教官に対する集団暴行傷害事件について大学長が学生十数名を告発したことに伴う岡山県警の強制捜査の際に起きた事件で、学生約150人は警察官に激しい投石を行い執行を妨害。殺害された巡査以外にも警察官多数が負傷した。日本の学生運動より抜粋
2000年以降の学生運動でも今現在様々な凶悪な活動を学内で行っている。
先にこちらを取り締まるべきだろう。
2000年代
法政大学文化連盟(2009年)
2001年
松本哉が、私大幹部や財界人に消火剤を噴霧する事件を起こす。
2006年
3月14日 - 法政大学学生運動の一斉検挙
2009年
高騰する学費や奨学金の利子等に抗議した「ブラックリストの会」が抗議活動を行う[1]。
2010年代
京都大学の立て看板
立て看板騒動が起きた東洋大学
2011年
11月 - 就活ぶっこわせデモ(東京)[108][109][110][111]
参加者約120人。
2014年
いわゆるブラック企業に抗議するBABLによるデモが新宿で起きる[112]。
2015年
5月3日 - SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)結成。
2018年
5月13日 - 京都大学の立て看板撤去開始
2019年
1月18日 - 東洋大学の一学生が同大学のキャンパス内で政治的主張の立て看板を掲げ、ビラをまいた。それに対して大学はただちに抗議活動を中止させた。実行者の学生は大学から退学勧告を受けたと主張している[44]。
2020年春 - コロナ禍において、大学の対面授業の中止、キャンパスへの立ち入りの制限、学生のバイト先の減少による経済的な困窮等を理由に学費返還運動が早稲田大学、慶應義塾大学などで起こる[58]。
4月 - 入学金納入時期延長を求める学生有志の会が「入学金の支払期限を3月末にする」こと、国に対しては「入学しない大学には、入学金を払わなくてもいいようにしてほしい」と訴えて、ネットで署名活動を行った。4月27日には文科省で記者会見を行う[113]。
2020年11月 - 学生運動を含む様々な社会運動の内部で起こる性暴力への告発「すべての馬鹿げた革命に抗して」が注目された[43]。
2021年 - 入管法の改正案に反対し、日本へ難民を受け入れようと学生有志が国会前で座り込みを行う。
2022年11月 - 中国本土の白紙革命に呼応し、日本の中国人留学生らが各地で街頭行動を行う。
2022年11月〜2023年 - 中央大学の学生が「中央大学だめライフ愛好会」を立ち上げる。その後全国の大学にて「だめライフ愛好会」の名を冠したサークルが乱立する。
2022年~2023年 - 2023年3月に廃止予定の金沢大学の学寮の「泉学寮」の存続運動を学生らが行う。
wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%AD%A6%E7%94%9F%E9%81%8B%E5%8B%95
マインド・コントロールを行うカルト側の情報提供が進まず、脱会者と支援者の証言がもとであるとして、マインド・コントロール論はデータ的に偏りがあるという主張がある。筆者の意見通しては櫻井義秀氏の意見はかなり中立性が高くマインド・コントロールの問題点をよくまとめられているように思う。
前置きとして櫻井義秀氏が論じた論文を取り上げ統一教会側が利するであろうとする論文が掲載されたと主張した上で次のように述べている。
筆者の意に反して,筆者の1996年の論文は統一教会測が「マインド・コントロール論」否定する際に,日本の研究者による証拠資料として提出された。
筆者は統一教会の入教・勧誘活動を是認するものではなかった「マインド・コントロール論」を批判することで「青春を返せ訴訟」の原告の論理をうち砕こうという気など毛頭なかった。論文執筆の当時は,オウム真理教事件報道が全盛の持期であり「マインド・コントロール」という言説によってオウム信者の行為を簡単に説明することはかえって問題の根の深さを見ないことにつながりはしないかという趣冒の論文を書いた。「マインド・コントロール論」批判の部分だけを有効活用されカルト側を擁護する研究者という誤解をもたれたのは心外であった。「オウム真理教のような反社会的な宗教集団が存在し、多くの信者を動員して未曾有の犯罪をなしてしまったことを一般の人々に説明する格好の認識枠組みとして、ジャーナリズムがカルト、マインド・コントロール論にとびついたため、説得力のある議論として世論においても市民権を得るに至ったのである。」。「マインド・コントロールという理論は、態度変容を遂げた人物と利害関係を持つアンチ・カルト集団が、信者の奪回・脱会を促進するという自らの行動を正当化するために用いている議論であり、立論の当初から価値中立的なものではなかった。」「現代の資本主義システム社会は自身の再生産のために、消費者の欲望を喚起して需要を掘り起こすコマーシャリズムの戦略を採らざるを得ない。このような消費社会においては、情報・シンボル・記号による他者の操作が日常化しているために、個人のアイデンティティ、近代的個人という概念自体が揺さぶられている。自分がいつの聞にか誰かに操られているのではないかという感覚はそれほど特殊なものではないのかもしれない。これがマインド・コントロール論を受容する主要な要因であろう。」「1995年3月20日の地下鉄サリン事件以来、オウム真浬教信者の行動原理を説明する論理として「マインド・コントロール」という言葉がマスメディアに流行したが、言説レベルの「マインド・コントロール論」と、不法行為責任を追及するために相当因果関係を説明する議論として主張された「マインド・コントロール論」は次元を異にする。」「(櫻井は)「マインド・コントロール論」による入信の説明は、宗教社会学の議論からは認めることができないと年来主張してきたが、「マインド・コントロール」という社会的告発に相当する宗教集団がひきおこした社会問題が存在していることは認めてきた」
櫻井義秀「オウム真理教現象の記述をめぐる一考察:マインド・コントロール言説の批判的検討」『現代社会学研究』第9巻、北海道社会学会、1996年、74-101頁、
第一に、現代の情報化社会で言説がいかに生成されるか、その過程をオウム真理教事件に関わる言説に則して見ていぎ、現在流通している様々な言説を共通の概念枠組みで記述した。
第二に、オウム真理教がなぜかくも急速に信者を獲得・動員して犯罪を行い得たのかという疑問への説明として最も流布し、しかも社会的影響力を持ったマインド・コントロール論を取り上げ、オウム真理教現象の構成のされ方、論者の視点の問題点を社会学的に吟味した。
マインド・コントロールの一般的定義は、(一)破壊的カルト教団による信者の利用、(二)社会心理学的技術の応用、
要約
マインド・コントロールの定義は、「破壊的カルト教団が、情報・コミュニケーション状況を操作する等の社会心理学的技術によって、他律的に信者の活動を支配し、教祖・教団の目的のために利用する行為」と一般化できる。この定義は、(一)破壊的カルト教団による信者の利用、(二)社会心理学的技術の応用、(三)他律的行動支配、の部分から構成されていた。(二)は宗教上の入信行為の説明として不十分であること、(三)は論理的な命題を構成できないこと、(一)こそマインド・コントロールの核心であったが、これは価値中立的な認識ではないこと、信教の自由という問題に抵触すること、結局の所、人間の宗教的行為、宗教集団の多面性を理解する上で力がないことを明らかにしてきた。最後に、マインド・コントロール論の騙されたという言い方に筆者が徹底して拘りたい理由を述べておきたい。マインド・コントロールとは、自己の経験を自分と第三の社会的勢力が二重に解釈した語り口でしかない。騙されたと自ら語ることで、マインド・コントロール論は意図せずに自ら自律性、自己責任の倫理の破壊に手を貸す恐れがある。信仰者は、教団へ入信する、活動を始める、継続する、それらのいずれの段階においても、認知的不協和を生じた諸段階で、自己の信念で行動するか、教団に従うかの決断をしている。閉鎖的な、或いは権威主義的な教団の場合、自己の解釈は全てエゴイズムとみなされ、自我をとるか、教団(救済)をとるかの二者択一が迫られることがある。自我を守るか、自我を越えたものを取るかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない。その決断の時点で、当人に責任能力があったか、なかったかという証明をその時点に遡って行うことは不可能である。むしろ、決断の自由、自己責任を認識、倫理上考慮することで、人間の自律性という主張ができると考える。そのような覚悟を、信じるという行為の重みとして信仰者には自覚されるべきであろう。この問題は宗教集団の反社会的行為に留まらず、権威主義的構造を持つ国家体制の反人道的行為の責任論にも繋がる。騙されて侵略行為に荷担させられた人々も、被害者にとっては侵略の主体である。
まとめと反論
櫻井義秀氏のマインド・コントロール論の全体的認識は中立であり公正である。
破壊的カルト教団による信者の利用がマインド・コントロール論の核心であるが価値中立的な認識ではないことと信教の自由という問題に抵触すること、結局の所、人間の宗教的行為、宗教集団の多面性を理解する上で力がないことが判明した。
マインド・コントロールとは、自己の経験を自分と第三の社会的勢力が二重に解釈した事で。騙されたと思われる者はそれを、マインド・コントロールと主張することで意図せず自律性、自己責任の倫理の破壊に手を貸す恐れがある。つまり、自分の信仰の脱落の原因が自分にあるにもかかわらず他力の責任にする可能性があるという事だろうか
信仰者は、教団へ入信する、活動を始める、継続する、それらのいずれの段階においても、認知的不協和(自分に合わないと)生じた諸段階で、自己の信念で行動するか、教団に従うかの決断をしている。
反論はない
新宗教の形成と社会変動:近・現代日本における新宗教研究の再検討
Author(s)櫻井,義秀Citation北海道大學文學部紀要,46(1),111-194
破壊的宗教集団としてのカルト批判,カルトによる信者のリクルート,コントロール戦術としてのマインド・コントロール批判は1970年代後半から80年代にかけて一通りの議論を尽くされている。そこで得られた
結論は,
カルトは宗教社会学的な教団類型というよりも,信者の奪回・脱会を支援する弁護士,ケースワーカー,元信者,信者の親族からなるアンチ・カルト集団によってターゲットとされた集団への高繍的蔑称であり,ラベリングと見なされた。また,マインド・コントロールという社会心理学的操作の理論は,特殊カルト的行動支配に限定されないコミュニケーション過程に一般的な心理操作技術であり,この操作自体を問題にするのであれば,消費社会におげるコマーシャリズム批判に行き着かざるを得ない。全く別人のようになってしまったとされる態度変容を説明する理論は,伝統的な回心論から,社会化論等まで複数可能である。個人の心理的変化を新宗教の形成と社会変動近・現代日本における新宗教研究の再検討重視するか,社会環境的要因を重視するか,或いは,自律性と他律性の対抗軸を設定する等の認識の枠組みに合わせて,同ーの現象に対して複数の異なる解釈を下しているのであるマインド・コントロールという理論は,態度変容を遂げた人物と利害関係を持つアンチ・カルト集団が,信者の奪回・脱会を促進するという自らの行動を正当化するために用いている議論であり,立論の当初から価値中立的なものではなかった。日本にカルト,マインド・コントロール論を紹介し,メディアの用語として定着させたのも日本におけるアンチ・カルト集団であり,元来は統一教会信者の奪回・脱会を目的としたものであった。ところが,オウム真理教事件を契機に,教団による犯罪の担い手となった信者の心理状態を説明する格好の言葉としてマスコミ,及びアンチ・カルト運動の担い手たちが用いたのである。しかも,信者の裁判において,信者の心理鑑定の証人として,一部の心理学者がマインド・コントロール論を述べることで,オウム真理教団こそマインド・コントロールの主体であったことが社会的に公定化された。オウム真理教団は,1994年までは現代社会こそがマインド・コントロールの場に他ならないことを機関誌を通じて盛んに宣伝していたのであるが,数々の同教団による犯罪が裁かれている現在,信者をマインド・コントロールしていたという批判に受げ身にならざるを得ない。しかも,被告の信者の中には,法廷戦術の一環としてマインド・コントロールされていたことを主張し,尋常な精神状態ではなかったために責任能力を欠いていることを弁護するものも出てきている。他方,オウム真理教のような反社会的な宗教集団が存在し,多くの信者を動員して未曾有の犯罪をなしてしまったことを一般の人々に説明する格好の認識枠組みとして,ジャーナリズムがカルト,マインド・コントロール論にとび、ついたため,説得力のある議論として世論においても市民権を得るに至ったのである(2)。このようなカルト,マインド・コントロール論受容の経緯にはさしたる関心も払われぬまま,この議論はマスメディアに消費された。カルト,マインド・コントロール論は,アンチ・カノレト集団による対抗的ドグマ以外の何ものでもないことが明白であるにもかかわらず,これをあたかも最新の心理学ないし宗教研究の知見として紹介し,実践理論としての使い勝手の良さを巧みに利用したマスメディアの論調に一石を投じる必要性を感じたからであった。筆者のカルト,マインド・コントロール論批判は宗教社会学の理論のレベノレでアンチ・カノレト集団の言説を相対化することに力点を置き,オウム真理教事件をどのように見るのか,このような宗教団体に対してどのような対策をこうじるのか,被害者とされる元信者,現信者にどのような対応をなすかに関しては,殆ど何も語らなかった。むしろ,語るに足る資料・情報もないままに,オウム真理教を鏡として自身の宗教観を披涯するだけのオウム真理教論を言説として批判する方法を採ってきた。このような態度は,現実の切迫した問題を直視せずに,専門領域だけで語りたがる習癖と誤解されるのはいい方で,オウム真理教批判者を批判するとは何事だと反発をかった。筆者はオウム真理教教団による犯罪行為が,教団の教義,組織構造と密接な関係があったことを否定するものではないが,教義や儀礼,組織から必然的に反社会的行為に至ったと因果関係を推測することはできないと考える。まして,オウム真理教教団から新宗教教団の特徴を演鐸的に一般化したり,或いは,その逆に新宗教集団の性格からオウム真理教教団を帰納的に規定できるとも考えていない。事件当初のみならず現時点でも,このような作業をするのに十分な資料が,研究者レベルでは入手不可能であるからである。しかしながら,事件後2年を経過して,反社会的宗教というものがその宗教自体の性格としてあるものではない。宗教集団が発生し,教勢を拡大する時期には社会との摩擦,がむしろ常態であろう。宗教批判は新宗教教団にはつきものである。問題は,どの時点で,どのような点が,誰によって社会問題とされたかである。この点を明らかにすることなしに,宗教と社会の関係を一般化して論じ新宗教の形成と社会変動近・現代日本における新宗教研究の再検討は,カルト批判と同様の誤謬を犯すことになる。宗教集団の社会問題化として指摘される事柄は,詐欺,人権侵害などの事件に比定できるケースが少なくない。宗教集団の信者が信仰によって,或いは編されて多額の献金をしたことを詐欺とは言えないが,宗教活動に関わらない一般の人から同様の経緯で高額の宗教的付加価値を押し売りするのは明快な詐欺である。このような宗教集団に対して,どこまで踏み込んだ調査を行うべきか,という問題がある。
まとめと反論
マインド・コントロールという理論は,態度変容を遂げた人物と利害関係を持つアンチ・カルト集団が,信者の奪回・脱会を促進するという自らの行動を正当化するために用いている議論であり,立論の当初から価値中立的なものではなかった。日本にカルト,マインド・コントロール論を紹介し,メディアの用語として定着させたのも日本におけるアンチ・カルト集団であり,元来は統一教会信者の奪回・脱会を目的としたものであった。
マインド・コントロール論受容の経緯にはさしたる関心も払われぬまま,この議論はマスメディアに消費された。
反社会的宗教というものがその宗教自体の性格としてあるものではない。宗教集団が発生し,教勢を拡大する時期には社会との摩擦,がむしろ常態であろう。宗教批判は新宗教教団にはつきものである。問題は,どの時点で,どのような点が,誰によって社会問題とされたかである。
全くその通り、反論無し
「オウム問題とは、「教団が無垢な一般人をマインド・コントロールして入信させた」「教祖である麻原彰晃が信者たちをマインド・コントロールしてテロを遂行させた」という単純な構図で分析され得るようなものではまったくなく、管見の限りでは、マインド・コントロール論を用いてオウムという現象を一貫して説明し得たような著作や論文も存在しない。」
「マインド・コントロール自体は良くも悪くもない、カルトがその技術を「悪用」していることが問題だ、と主張されるが、もしそうなら、カルト問題にあえてマインド・コントロール論を持ち出す意義自体が消滅する。」
「社会心理学が指摘したように、近代の社会システムにおいて人間は、受動的・依存的になりやすい。とはいえ、「人間が集団の力や場の力に支配され、あたかもロボットのように精神を完全にコントロールされてしまう」というのは、明らかに現実離れした極論。本来われわれが目標とすべきは、近代の人間が受動的・依存的になりやすいという事実を認めた上で、そこから脱却する方途を見出すことであったはず。そのためには、周囲からいかなる影響を受けようとも、最終的には自ら考え、自ら決断し、自ら責任を取らなければならないという、主体性の原理の重要性を強調し続けなければならないし、同時に、健全な主体性を発揮するために必要とされる幅広い知識を身に付ける努力を怠ってはならないだろう。」
(1) 破壊的カルト教団による信者の利用、(2)社会心理学的技術の応用、(3)他律的行動支配の3つが一般定義である。人格の「解凍・変革・再凍結」の理論をベースに、認知不協和理論や影響力論、ジャック・ヴァーノンの感覚遮断実験、フィリップ・ジンバルドーの監獄実験、プライミング効果論などの社会心理学的テクニックを活用して行われるとされる。宗教的自我変容を最も世俗的理解に立って説明したモデルであり、世間に広く知られている。
多くのカルト宗教は信者に対して非常に厳格なスケジュールを定めるが、これは行動コントロールの一種である。特定のグループは特色ある儀礼的行動のセットがあり、形にはまった話し方、身振り、表情などが求められる。もし誰かがその形から外れた行動を行うと、その人はグループのリーダーから非難される。内面の思想は支配できなくても、行動を支配すれば、感情と精神はそれについてくるのである。
思想コントロールは、メンバーに徹底的にそのグループの教えと新しい言語体系を教え込み、自分の心を「集中した」状態に保つための思考停止の技術を使えるようにすることである。典型的なカルト宗教では、そのカルトの思想・教義が入ってくる情報をフィルターにかけて、その情報をどのように考えるべきかを規制する。また、多くのカルト宗教では独特な言葉と表現である「詰め込み言語」をもっている。この特殊な用語は、信者と外部の人間に見えない壁を作り、メンバーに選民思想を植え付け、一般大衆から隔絶する役割がある。思想コントロールのもう1つの役割として、グループに批判的な情報をすべて遮断するようにメンバーをコントロールすることが挙げられる。もし、カルトのメンバーに伝わった情報がリーダーや教義やグループに対する攻撃だとみなされると、敵対勢力による陰謀であると認識され、適切には受け止められない。
感情コントロールは、人の感情の幅を巧みな操作で狭くしようとするものである。罪責感と恐怖感が、集団への順応と追従を作り出すための感情的手段として使われる。恐怖感を演出するためには、2つの手法が使われる。1つは外部の敵を作り出すことである。外部の敵の例として、地獄へさらっていく悪魔のような存在、諜報機関や敵対勢力の銃撃や拷問、強制的説得者などが想定される。もう1つは、リーダーに対する恐怖である。自分の仕事をしっかりやらなければ恐ろしいことが起こるという恐怖感は効果的である。あるカルトでは、メンバーの献身がゆるむと、核戦争などの大災害が起こると断言する。過去の罪や過去の誤った態度を告白させることも、感情コントロールの典型例である。もし、メンバーが離脱しようとすれば、その罪が引き合いに出されて、そのメンバーをふたたび従順にするために利用される。感情コントロールの一番強力な技術は、恐怖の教え込みである。もしグループを離脱すれば、発狂する、殺される、麻薬中毒になる、自殺するなどと教え込むことである。
情報コントロールは、ある人が受け取る情報をコントロールすることであり、これによってその人が自分で考える自由な能力を抑えることができる。多くのカルトでは、メンバーはカルトが作ったメディア以外には最小限しか接しない。メンバーの相互監視や密告も推奨され、不適切な言動はリーダーに報告するように指示される。
催眠作用が、グループ・ダイナミックス(集団力学)と結合して、強力な教え込み効果をつくりだす。本人は、直接おどされるのではないが、だまされ、操作されて、決められたとおりの選択をしてしまう。だいたいは、自分に対し行われたことへ積極的に応答してしまう」。
その基本プロセスは、以下の通り。
(1)解凍unfreezing対象となる個人に急激な変革を起こさせるためには、その人の現実を揺さぶり、人格を崩壊させなければならない。その際には、睡眠や食事の制限、瞑想への誘導、秘密の告白、人格攻撃といった諸手段が用いられる。
(2)変革changing古い人格が崩壊したことによって生じた空白に、新しい人格を植えつける。典型的な手法は、形式ばった教えを幾度も反復させ、催眠状態へ導くことである。また、新入会員を小グループへと振り分けることにより、自らの役割を自覚するように仕向ける。
(3)再凍結refreezing新しい人格の定着を図る。新規のメンバーは、常に古参のメンバーを見習うように仕向けられる。メンバー同士の交わりによってこそ「真の家族」が作られると説かれ、人格の再凍結を促進するために、新しい名前を与えられることもある。
マインド・コントロールは、上記のプロセスを基本としつつ、リフトンは「彼らを説得して、共産主義の世界観へ彼らを変えさせるという観点からすると、そのプログラムはたしかに、失敗だと判断せねばならない」と述べている。しかし、心理学者のスティーブン・ハッサンは、現在は当時より遥かに洗練されたマインド・コントロールの技術が、たくさん存在していると述べている。
まとめと反論
マインド・コントロールしてテロを遂行させた」という単純な構図で分析され得るようなものではまったくないと言いながら」詳細に裏付けとなるデータもないのに、論者個人の主観により断定している。恐怖や脅しだけで人格が変わったり自らその教団の方向性を指示したり活動するだろうか。もっと、素直に教団の真理や先輩の態度に感服したから従っていると見れないのだろうか。無理に洗脳に近いマインド・コントロール論なる荒唐無稽な論理を指示する。それを訴える当人たちのほうがよっぽどマインド・コントロールされているとしか思えてならない。技術で人生を変えることは出来ない。真理に込められた神の愛(統一教会の場合は)を感じるから傾倒するのである。
(英:Aschconformityexperiments)とは、1956年にアメリカの社会心理学者ソロモン・アッシュが発表した集団行動についての古典的な実験。
実験過程
アッシュ実験で使用された2枚のカード。左は判断の基準となる直線で、右は被験者に判断させる選択肢となる3本の直線である。
実験者は、スワースモア大学の男子大学生を被験者として使用し、8人の各グループが半円形に並んで座り、そのうち7人が実験者が仕込んだ偽の被験者(サクラ)で、1人だけが実際の被験者だった。この被験者は他の7人とは面識がなかった。実験開始後、実験者は全員に左側の基準となる直線を示し、右側の3つの直線のうちのどれが基準線と同じ長さであるか、1人ずつ口頭で回答することを求めた。回答は、サクラ役の6人が先で、真の被験者はいつも最後から2番目に回答するようにされていた。サクラ役の回答者は、最初の数回は正しく回答したが、途中からはあらかじめ決められた間違った回答をするようになっていた。実験では、こうしたサクラ役の間違った回答(多数派の回答)が真の被験者の回答にどんな影響を与えるかが調べられた。
実験は18回繰り返され、その結果、全回答の37%で真の被験者がサクラ役の間違った回答に同調することがわかった。被験者ごとの分析では、被験者の約3/4が少なくとも1回の同調行動をし、全く同調しない被験者は約1/4だった。一方、すべての回答で同調する被験者はいなかった。
結論
このアッシュの実験では、正しい回答に報酬が与えられたわけでも、間違った回答しても罰が与えられたわけでもなかった。したがって、真の被験者がサクラの間違った回答に同調してしまった理由として以下の2つが提唱された。1つは、サクラ役の満場一致の回答に直面して、真の被験者は自分の意見が間違っていると考えた可能性である。アッシュは実験後、真の被験者になぜ間違った回答をしたのかを尋ねたが、数人は実際にそうした返答をしていた。もう1つのケースは、真の被験者が多数派の判断に同調することで、多数派に受け入れられようとした可能性である。これは、この線分判断課題をサクラがいない状況で実施した場合には正しく判断できていたことからわかる。またこのことは、サクラ役の回答者が全員一致で間違った回答をしない場合には同調行動が大幅に低下したことからも確認された。つまり、集団からの同調圧力は全員一致である場合に強く働き、それと異なる意見を述べることを難しくするのである。このことは斉一性の原理として知られている。
まとめと反論
このアッシュの実験は、世界中で文化や人種を超えて同様の実験結果が再現されることがレビューされ、社会心理学の教科書には必ず記載されているよく知られた研究である。しかし、論文が発表された当初から実験結果への疑義が出されていた。例えば、アッシュの論文の後半に書かれている被験者とのインタビューでも、被験者が実験状況に疑問を感じていたことを示す例が見られる。追試実験でも同調が起こらなかったことを報告した論文もある。ただし、出版バイアスのために、同調が見られなかったという否定的結果は論文として公刊されにくいため、同調が見られたとする追試論文に比べ、その数は少ない。日本の心理学者たちによるサクラを使わないアッシュ実験の再現研究でも、斉一性の原理が必ずしも正しくない可能性が指摘されている。
フェスティンガーの法則とは?
米心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された考え方。認知的不協和が起きると不協和を低減する行動が起きるということ。矛盾した2つの認知がある場合、その不協和を解消するために、比較的変えやすいほうの認知を変えて、協和している状態にしようとすること。
認知的不協和理論の身近な例は?
認知的不協和の例
喫煙者がタバコを止めない心理
ダイエットをしたいけれど甘いものを食べることをやめられない
お酒を控えられない
テスト勉強に集中しない
ギャンブルなど賭け事を辞められない
アイヒマン実験・アイヒマンテストとも言う。50年近くに渡って何度も再現できた社会心理学を代表する模範となる実験でもある。アメリカ、イェール大学の心理学者、スタンレー・ミルグラム(StanleyMilgram)が1963年にアメリカの社会心理学会誌『JournalofAbnormalandSocialPsychology』に投稿した、権威者の指示に従う人間の心理状況を実験したものである。
東欧地域の数百万人のユダヤ人を絶滅収容所に輸送する責任者であったアドルフ・アイヒマンは、ドイツ敗戦後、南米アルゼンチンに逃亡して「リカルド・クレメント」の偽名を名乗り、自動車工場の主任としてひっそり暮らしていた。彼を追跡するイスラエル諜報機関が、クレメントは大物戦犯のアイヒマンであると判断した直接の証拠は、クレメントが妻との結婚記念日に、彼女に贈る花束を花屋で購入したことであった。その日付は、アイヒマンの結婚記念日と一致した。またイスラエルにおけるアイヒマン裁判の過程で描き出されたアイヒマンの人間像は人格異常者などではなく、真摯に「職務」に励む、一介の平凡で小心な公務員の姿だった。
このことから「アイヒマンはじめ多くの戦争犯罪を実行したナチス戦犯たちは、そもそも特殊な人物であったのか。それとも妻との結婚記念日に花束を贈るような平凡な愛情を持つ普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか」という疑問が提起された。この実験は、アイヒマン裁判(1961年)の翌年に、上記の疑問を検証しようと実施されたため、「アイヒマン実験」とも言う。
実験の結果は、普通の平凡な市民でも、一定の条件下では冷酷で非人道的な行為を行うことを証明するものであった。そのような現象をミルグラム効果とも言う。
実験から約50年後の2015年、オーストラリアの制作会社が、シドニーで役者を用いてこの実験を再現した番組を発表した。
概要
ミルグラム実験の協力者を募る新聞広告実験の略図。被験者である「教師」Tは、解答を間違える度に別室の「生徒」Lに与える電気ショックを次第に強くしていくよう、実験者Eから指示される。だが「生徒」Lは実験者Eと結託しており、電気ショックで苦しむさまを演じているにすぎない。
前提条件
この実験における実験協力者は新聞広告を通じて、「記憶に関する実験」に関する参加者として20歳から50歳の男性を対象として募集され、1時間の実験に対し報酬を約束された上でイェール大学に集められた。実験協力者の教育背景は小学校中退者から博士号保持者までと変化に富んでいた。
実験協力者には、この実験が参加者を「生徒」役と「教師」役に分けて行う、学習における罰の効果を測定するものだと説明された。各実験協力者はくじ引きで「教師」、ペアを組む別の実験協力者が「生徒」となった。実際には教師が真の被験者で、生徒役は役者が演じるサクラであり、くじには2つとも「教師」と書かれており、サクラの実験協力者はくじを開けないまま本来の被験者に引かせ、被験者が確実に「教師」役をさせるようにしていた。
実験の内容
被験者たちはあらかじめ「体験」として45ボルトの電気ショックを受け、「生徒」が受ける痛みを体験させられる。次に「教師」と「生徒」は別の部屋に分けられ、インターフォンを通じてお互いの声のみが聞こえる状況下に置かれた。被験者には武器で脅されるといった物理的なプレッシャーや、家族が人質に取られているといった精神的なプレッシャーは全くない。
「教師」はまず2つの対になる単語リストを読み上げる。その後、単語の一方のみを読み上げ、対応する単語を4択で質問する。「生徒」は4つのボタンのうち、答えの番号のボタンを押す。「生徒」が正解すると、「教師」は次の単語リストに移る。「生徒」が間違えると、「教師」は「生徒」に電気ショックを流すよう指示を受けた。また電圧は最初は45ボルトで、「生徒」が1問間違えるごとに15ボルトずつ電圧の強さを上げていくよう指示された。
電気ショックを与えるスイッチには、電圧とともに、そのショックの程度を示す言葉が表記されている。記録映像の残るある実験では以下の表記がなされた。
1. 15ボルト“SLIGHTSHOCK”(軽い衝撃)
2. 75ボルト“MODERATESHOCK”(中度の衝撃)
3. 135ボルト“STRONGSHOCK”(強い衝撃)
4. 195ボルト“VERYSTRONGSHOCK”(かなり強い衝撃)
5. 255ボルト“INTENSESHOCK”(激しい衝撃)
6. 315ボルト“EXTREMEINTENSITYSHOCK”(はなはだしく激しい衝撃)
7. 375ボルト“DANGER:SEVERESHOCK”(危険:苛烈な衝撃)
8. 435ボルト“XXX”
9. 450ボルト“XXX”
450ボルトが最大で、435ボルトと共に但し書きはなく、“危険”をさらに超えた強さとして扱われる。被験者は「生徒」に電圧が付加されていると信じ込まされるが、実際には電圧は付加されていない。しかし各電圧の強さに応じ、あらかじめ録音された「『生徒』が苦痛を訴える声」がインターフォンから流された。電圧をあげるにつれて段々苦痛のリアクションが大きくなっていった。記録映像で確認できる生徒のリアクションは、まるで拷問を受けているかの如くの大絶叫で、ショックを受けた途端大きくのけ反るなど、一見してとても演技とは思えない迫力であった。
1. 75ボルトになると、不快感をつぶやく。
2. 120ボルトになると、大声で苦痛を訴える
3. 135ボルトになると、うめき声をあげる
4. 150ボルトになると、絶叫する。
5. 180ボルトになると、「痛くてたまらない」と叫ぶ。
6. 270ボルトになると、苦悶の金切声を上げる。
7. 300ボルトになると、壁を叩いて実験中止を求める。
8. 315ボルトになると、壁を叩いて実験を降りると叫ぶ。
9. 330ボルトになると、無反応になる。
被験者が実験の続行を拒否しようとする意思を示した場合、白衣を着た権威のある博士らしき男が感情を全く乱さない超然とした態度で次のように通告した。
1. 続行してください。PleasecontinueorPleasegoon.
2. この実験は、あなたに続行していただかなくてはいけません。Theexperimentrequiresthatyoucontinue.
3. あなたに続行していただく事が絶対に必要なのです。Itisabsolutelyessentialthatyoucontinue.
4. 他の選択肢はありません、あなたは続けるべきです。Youhavenootherchoice;youmustgoon.
5. 1から4の通告の間に、被験者が拒否をみせると「体に後遺症を残すことはありません。」「責任は我々がとります。」
4度目の通告がなされた後も、依然として被験者が実験の中止を希望した場合、その時点で実験は中止された。そうでなければ、設定されていた最大電圧の450ボルトが3度続けて流されるまで実験は続けられた。
実験の結果
実験を行うにあたって、ミルグラムによりイェール大学で心理学専攻の4年生14人を対象に、実験結果を予想する事前アンケートが実施された。回答者は全員、実際に最大の電圧を付加する者はごくわずか(平均1.2%)だろうと回答した。同様のアンケートを同僚たちにも内密で行ったところ、やはり一定以上の強い電圧を付加する被験者は非常に少ないだろうとの回答が得られた。
実際の実験結果は、被験者40人中26人(統計上65%)が用意されていた最大電圧である450ボルトまでスイッチを入れた、というものだった。中には電圧を付加した後「生徒」の絶叫が響き渡ると、緊張の余り引きつった笑い声を出す者もいた。全ての被験者は途中で実験に疑問を抱き、中には135ボルトで実験の意図自体を疑いだした者もいた。何人かの被験者は実験の中止を希望して管理者に申し出て、「この実験のために自分たちに支払われている金額を全額返金してもいい」という意思を表明した者もいた。しかし、権威のある博士らしき男の強い進言によって一切責任を負わないということを確認した上で実験を継続しており、300ボルトに達する前に実験を中止した者は一人もいなかった。
「教師」と「生徒」を同じ部屋にさせた場合や、「教師」を「生徒」の体に直接触れさせることで電圧の罰を与えて従わせる場合など、「教師」の目の前で「生徒」が苦しむ姿を見せた実験も行われたが、それでも前者は40人中16人(統計上40%)・後者は40人中12人(統計上30%)が用意されていた最大電圧である450ボルトまでスイッチを入れたという結果になった。
実験の成果は国内外において賞賛を与えられたが、同時に倫理性の観点からは、痛みを与える要素の社会的イメージについての批判の声もあった。
死に至る感電で重要な要素は電圧ではなく電流である。電圧だけではかなり高くとも死亡する危険性は低く、冬場に脱衣などの際静電気で音がする電圧で1~2万ボルト、護身・防犯用として日本でも一般に市販されているスタンガンでも電圧は数万ボルトから数十万ボルトある。電流が1アンペア以上になると危険であり、通常の家庭用電源コンセントの100ボルトでも感電死する危険性が高い。ただ、電気抵抗が一定であれば、オームの法則により電圧と電流は比例するため、電流を上げる手段として電圧を上昇させるのは当然の手法である。
まとめと反論
ここでの権威とはどのような者の状態なのだろう。恐怖を前提に被験者が何らかの権威を用いられて実験を継続させられているが、その継続の原因である権威に対して何らの解説も無い。コレではこの実験の目的である権威の正体や証明がなされていないこととなる。
感覚遮断(かんかくしゃだん、英語:sensorydeprivation)は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの人間の感覚に対する刺激を、極力減少させることである。狭義には感覚刺激が遮断された状態であり、広義には刺激が減少した状態ないし、刺激が単調など刺激が意味をもたない状態である。否定的な印象のある感覚遮断の語の替わりに、環境刺激制限技法(かんきょうしげきせいげんぎほう、RestrictedEnvironmentalStimulationTechnique/Therapy:REST)の語も作られている。
朝鮮戦争(1950年-1953)の後、中国軍によるアメリカ兵への洗脳(brainwashing)による思想改革教育を発端として研究が開始された。カナダ・マギル大学のヘッブらが1953年に最初の論文を出し、1960年代にかけて研究が盛んに行われた。多くの研究を平均して、約40%が幻覚を体験し、人々に強い印象を与えた。
後に完全な感覚遮断を行うためにジョン・C・リリーが実験装置(アイソレーション・タンク)を考案した。しかしそうした幻覚は、病理的な幻覚とは全く異なり、健康な反応であるとされていった。日本では次第にその幻覚が、神秘主義や、座禅や神秘家の砂漠や洞窟での修行]、修験道の修行中の変性意識状態の観点からも考察された。1980年には、ピーター・スードフェルド(英語版)が治療的な応用に関する研究成果を展望した著作を出し、その後は心理療法としても研究されている。
定義
感覚遮断(sensorydeprivation)は、狭義には感覚刺激が遮断された状態であり、広義には刺激が減少した状態ないし、刺激が単調など刺激が意味をもたない状態である。感覚(sensory)とは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの人間の感覚能力であり、遮断(deprivation)とは取り去るという意味であるが、完全に取り除くことは不可能であり、実験としては外界からの刺激を極力減少させる。
1962年に大熊輝雄は以下のように分類している。
感覚遮断(sensoryisolation)
狭義の感覚遮断であり、刺激の物理的絶対量を減少した状態で、水槽に漬け視覚、聴覚、触覚、深部感覚をできるだけ減少させるといった方法であり、ジョン・C・リリーやCamberariの実験がそうである。
知覚遮断(perceptualisolation)
意味のある刺激が減少した状態であって、たとえば半透明のメガネで形や色など正常な知覚が遮断された状態。初の研究を行ったマギル大学のヘッブにおけるものである。
強制的構造化あるいは単調化
刺激の変化が乏しく単調であり、たとえば天井だけをみつめ、単調なモーター音だけがするというような。飛行機のパイロットが変化に乏しい飛行状態で精神に異常をきたしたりするのがその例である。
ピーター・スードフェルド(英語版)は1980年の著書で、感覚遮断の語の替わりに、環境刺激制限技法(RestrictedEnvironmentalStimulationTechnique)の語を提唱した。技法(Technique)を療法(Therapy)としてもよくその頭文字のRESTは、休息・安息の意味があり適切な名称だと論じた。アーネスト・ヒルガードは、1993年にこうした遮断(isolation)について2種類の方法に分類している。
チャンバー(Chamber)方式/ChamberREST。
1953~54年のマギル大学のヘッブの方法であり、防音の部屋に2~3日入れ、ゴーグルをかけベッドに入る。1980年代の現行の方法では最大24時間であり、不安を生じさせるための小道具などは除去されている。
フローテーション(Floatation)方式/FloatationREST。
アメリカ国立精神衛生研究所(NIMH)のジョン・C・リリーの方法であり、体温に近い塩水に浮かぶための装置であるアイソレーション・タンクに、数時間入る。そこは真っ暗で防音である。彼の報告の出版はヘッブより少し遅い1956年である。
歴史
感覚遮断の研究は1950~60年代に盛んに行われ、1969年の『感覚遮断-十五年間の研究』(SensoryDeprivation-FifteenYearsofResearch)には、1300の参考文献が挙げられていたが、その後は比較的関心が弱まる。
研究の開始は、朝鮮戦争(1950年-1953)の後、朝鮮にて中国軍の捕虜となったアメリカ兵が共産主義者へと思想改革教育を受けた際の、その洗脳(brainwashing)が研究対象となった。1週間ほど独房に監禁され食事だけが運ばれる状態において、多くはいろいろな幻覚を経験し、その後、独房から出され思想教育を受けた。
これに加え感覚遮断は、多岐の領域から関心を経ていた。探検家あるいは飛行機のパイロットへの関心、宇宙飛行士や軍事的な要請、また発達の分野や、神経生理学、行動主義の動機づけ理論など。
カナダのマギル大学のヘッブ(H.O.Hebb)らは、感覚遮断の実験を行い、1953年に最初の論文を出した。覚醒の状態、感情の反応、態度、思考など多くには阻害的な反応が見られ、予期しなかった現象として、単純な幻覚を含めると全員に幻覚が生じ、幾何学図形から複雑にはリスの一群が見えるといったものまでであった。こうした結果が人々に強い印象を与えた。
ユタ大学でのブリス(E.L.Bliss)による研究では20人の被験者に対して、35度程度の湯に寝かせカバーをかけて隔離したが、うち9人はあざやかな幻覚を体験し、たとえば宗教画がマリア像に変わっていくというものであった。オクラホマ大学でのシュアリー(J.T.Shurley)による研究では、11人の被験者を水の入ったタンクに潜水マスクをつけ潜らせたが、タンクの実験室を覗いている幽体離脱体験など様々な幻覚が体験されたが、すべての被験者がもう一度タンクに入ってもよいと述べ、数人はぜひ入りたいと希望していた。
1960年代には上述したズベクによる『感覚遮断-十五年間の研究』のほか、いくつかのレビュー論文も日本あるいは国外に見られるが、1970年代は研究の停滞期となった。1972年には東京にて第20回国際心理学会議の「感覚遮断に関するシンポジウム」が開催されたが、研究の活性化が話題ともなった。
日本では次第に神秘主義の観点からも考察された。1965年にはインド哲学書ウパニシャッドや新プラトン主義のプロティノスにおける神秘体験と現象的にはまったく一致していると述べている研究も存在する。1976年には、原始宗教における深い闇と静寂、禅師やキリスト教の聖者におけるような、神秘家の砂漠や洞窟での修行とから類似性を指摘している。また1970年代の、東北大学における感覚遮断研究では、感覚遮断の体験と、修験道の修行中の変性意識状態との関連を指摘している。
カナダのブリティッシュコロンビア大学のピーター・スードフェルド(英語版)は肥満や、喫煙習慣、恐怖症の治療など治療的に応用し、その研究成果をまとめ1980年に著作を出版する。彼は自身が怯えてしまったチャンバー方式の研究ではなく、リリーによるタンクの方式に着目するようになり、客観的な実験が行われるよう対照群を用意して研究してきた。スードフェルドが述べるには、初期の研究は、刺激を制限するそのものではなくて、他の手順によって被験者を不安にさせて否定的な影響を与えてしまっていた、ということである。
その後、心理療法としての研究が行われている。
1990年代には、ジョン・リリーの考案したアイソレーション・タンクを用いた、日本での心理療法の研究では、他の瞑想療法などでも見られるような自己イメージの統合、親しい人と嫌いな人の主観的距離が縮まる、全体的な印象として自己・他者の関係におけるポジティブな変化が見られたとしている。
幻覚の出現
多くの研究を平均して、およそ40%が、広い意味で何かを見たことを報告するが、実験手法にもよりジョン・リリーのような水槽方式では頻度が上がるとされる。
その原因としてソロモンとロッシは1965年に2つの仮説を説明した。
覚醒水準が低下し、夢などと、覚醒時の体験を混同している。
遮断の際の原始的な恐怖感が投影され、幻覚として体験される。
しかし、後に病理的な幻覚とは全く異なり、健康な反応であるとされた。歴史節に示したように、神秘主義や宗教的修行時の体験との関連も指摘されてきた。
また1990年代には脳機能イメージングが登場し、特にfMRIの登場によって研究が進展している。ババク・ボルージュルディによる研究は、視覚が遮断されると数分のうちに視覚野が興奮することを報告し、またヴォルフ・ジンガーらの研究は、視覚芸術家に対して行い、幻覚の出現と同時に、後頭葉と下部側頭葉の視覚系が活性化し、前頭前皮質の反応をfMRIが示したことによって、心象と幻覚は根本的に異なることが結論された。
生理学的影響
マギル大学での実験では、脳波が遅いアルファ波に傾いてくることが報告され、別の実験ではさらに遅いシータ波やデルタ波が出現すると報告された。座禅やヨガの際に生じる脳波と類似していることから注目された。
心理療法としての利用
「アイソレーション・タンク」も参照
感覚遮断はリラクゼーションや瞑想の手助けとなり、心理療法としても用いられている。
ここまで、マインド・コントロール理論についてみてきたがここからはマインド・コントロールを受けたであろう歴史的事象を見て行こう。
マインド・コントロールを受けることでこのような事が起きるのである。そもそも、人の心が見えないように人が何を施行している心象が何を言わんとしているのかはそれぞれで相異するのであり。簡単に実験や想像では明確には解明できないのだろう。それを、無理やり規定していこうとする何らかの策があればともかくも、
この事象はマインド・コントロールではないのか?どこが違うのだろう?
論者が論ずるマインド・コントロール論的 展開されたと思われる歴史的事象
殉教(じゅんきょう)は、自らの信仰のために命を失ったとみなされる死のこと。キリスト教の歴史でよく用いられる言葉であるが、キリスト教以外の宗教でも見られ、宗教的迫害において命を奪われた場合や、棄教を強制され、それに応じないで死を選ぶ場合など、様々な形の殉教がある。なおキリスト教の一教派である正教会(日本ハリストス正教会)では殉教との語を使わず、致命(ちめい)・致命者の語を用いる。
信仰のために死を選んだ最初期の例は古代のユダヤ教にみることができる。もともとユダヤ教は一神教であり、多神教全盛期の古代にあって特異な性質を持つ宗教であったうえに信徒に独特の生活スタイルを要求することから、ギリシャ化されてゆく世界の中で異質な存在として蔑視される傾向があった。
紀元前2世紀、セレウコス朝の王アンティオコス4世がユダヤを統治していた時代、「時代遅れ」のユダヤ教を廃止しようと、ユダヤ人に対してユダヤ教を捨てることが要求された。マカバイ記Ⅱでは、その中で棄教を拒んだ律法学者エレアザル、ある母親と七人の兄弟が拷問のすえに殉教したことが克明に記録され、信仰の模範として賞賛されている。
歴史的に、キリスト教で使われてきた「殉教」(ギリシャ語:Martyria)の語は「証人」という言葉に由来している。すなわち、殉教とみなされるためには、その死がその人の信仰を証していると同時に、人々の信仰を呼び起こすものであるかどうかということが基準とされている。処刑される殉教とともに、迫害と追放を耐えて死ぬこと、信仰のための追放も殉教であるとされている。
キリスト教の最初期の殉教者として新約聖書(使徒行伝・使徒言行録)に登場するのはステファノと使徒ヤコブである。洗礼者ヨハネの死も殉教とみなされるが、伝統的にはイエス・キリストより以前に死んだヨハネではなく、ステファノが「最初の殉教者」といわれる。伝承によると、イエスの十二使徒は(イスカリオテのユダはもちろん例外として)、ヨハネを除くすべてのものが殉教したとされるが、史実の裏づけのあるものは少ない。他の新約聖書の登場人物も、多く殉教の伝説をもつが、これも伝説の域を出ていない。
キリスト教は、自分たちの崇める神以外の神を認めない一神教である。これは古来の神々への崇拝を重視するローマ帝国の政策に反していたため、皇帝ネロ以来たびたびキリスト教は禁止された。五賢帝と呼ばれるハドリアヌスやトラヤヌスは、帝国の精神的一体性を強めるため古来の信仰の称揚を図り、ためにキリスト教は抑圧され、流刑に処されるものが多く出た。さらに後期ローマ帝国において皇帝崇拝が強化されると、キリスト教徒への迫害が強まった。使徒ヨハネの弟子ポリュカルポスは皇帝を拝む偶像崇拝を拒み、火あぶりにされた後に刺し殺されたと伝えられる。古代末期のディオクレティアヌス帝やデキウス帝は皇帝崇拝を強化し、キリスト教徒を積極的に弾圧した。この時期を大迫害期と呼ぶ。
また、初期の教皇とされるこの時期の多くの高位聖職者たちも、その多くが殉教していたとカトリック教会では伝承される。
ローマ人は皇帝が神だと信じていたわけではなく、皇帝への服従を形式によって示すことを期待していた。ローマの知識人はキリスト教の教義そのものを敵視していたわけではなく、むしろ迷信に惑わされたものとして同情していたが、国の政策に公然と反対するキリスト教徒の強情さは罪に値すると考えていた。
しかし、自分の口から皇帝を神と認める言葉を出すことは、キリスト教徒にとっては重大問題であった。皇帝崇拝を拒んだキリスト教徒は、捕らえられて死刑に処された。こうして殺された人を、キリスト教徒は殉教者として信仰の証人とみなした。なお洗礼を受ける前にキリスト教への支持を表明して殉教することは「血の洗礼」と呼ばれた。
ローマにおいて皇帝崇拝の強制は時折り発動されることにすぎず、その際もキリスト教徒を根こそぎに処刑するような措置はとられなかったが、初期キリスト教徒にとって迫害は生涯のうちに何度か必ず直面せざるをえないことだった。信仰告白による死の危険を自分がどこまで冒すのか、またそれをどこまで他の信者に要求できるのかは、当時のキリスト教徒にとって深刻な問題であった。キリスト教が公認されるとローマ帝国内での迫害・殉教は終息した。
キリスト教教会は、殉教者を、神と人間を仲介できる存在、聖人と位置づけて祈りの対象とした。また聖人の遺体(聖遺物・不朽体)も崇敬の対象となり、病気治しなどの奇跡を起こす力があると考えられ、高額で取引されることもあった。アウグスティヌスは聖人の遺体を商取引にすることを非難する文書を残しているが、聖人崇敬自体は奨励している。そこで、ヨーロッパの民衆にキリスト教が根をおろすと、聖人と聖遺物に対する各地域の「需要」が増えた。その風潮の中で、聖人と聖遺物を増やすために過去の殉教の伝説が誇大に伝えられることがあった。
その後、ヨーロッパ北方への宣教者や改宗者が現地の宗教と衝突して殉教する事件がおきた。ただし殉教は必ずしも非キリスト教地域に固有な現象ではない。中世以降、キリスト教化された地域においても、対立する教派に属する者に殺害され殉教する者(例:ペトルス・マルティヌス)、あるいは時の政権に反対を述べて殉教する者(例:トマス・ベケット・ネポモクのヨハネ・モスクワのフィリップ)が出た。
宣教者の活動は破壊を伴う異文化との正面衝突を意味し、そうした点から殉教の機会が増えた。イエズス会等が非キリスト教地域に宣教に乗り出し、その後多くの宗派が世界中に宣教者を送り出すようになると、各地で殉教が生じるようになった。たとえば16世紀に北米地域でネイティブ・アメリカンに殺害されたイエズス会員がいる。
しかし殉教を作るのは殺す側であって殺される側ではない。大規模な殉教は、死刑をもってキリスト教を排除する権力者の政策によるものであった。そういった国々には日本、韓国、ベトナムなどがあった。
日本では、個々の教義や態度が問題にされるのではなく、キリスト教徒であること自体が罪とされた。逮捕された者は、キリスト教を棄教すれば許された。しかし棄教を拒んだキリシタンは国外追放あるいは死刑に処され、しばしば拷問の末に残酷な方法で殺された。こうして、16世紀末から17世紀初めの日本では、イエズス会士など多くの外国人宣教師と日本人信者が殉教した。信仰が極刑にされた背景には、一向一揆との戦いを経験した武将たちが強い信仰に警戒心を抱いていたこと、一部の外国人が日本人を奴隷として売買していたこと、さらに当時の支配者たちがキリスト教宣教師らを植民地化の尖兵ではないかと危険視したことがある。こうした殉教者の中でも、豊臣政権における日本二十六聖人、徳川政権下での聖トマス西と15殉教者はカトリック教会で列聖され、ペトロ岐部と187殉教者は2008年に長崎市で行われた列福式においてカトリック教会の福者に列せられた。この中には、かつて天正遣欧少年使節の一人であった中浦ジュリアンも含まれている。この時代のキリシタン達は、殉教することによってパライソ(天国)へ行き永遠の命を得られるという教えを固く信じていたため、彼らの多くは拷問や処刑を恐れず嬉々として死の運命を受け入れたと伝えられる。2017年には、信仰のために追放されたユスト高山右近が大阪市で行われた列福式においてカトリック教会の福者に列せられた。
宣教師の到来が途絶え、キリスト教徒の活動が表面から消えることで、日本での殉教は少なくなった。しかし完全に絶えたわけではなく、江戸時代を通じて隠れキリシタンの発覚と殉教が散発した。キリスト教徒に対する迫害は、欧米諸国の圧力で明治時代初期に法的には廃止された。
16世紀のヨーロッパにおいても、イギリス国王のヘンリー8世が離婚問題のこじれを発端にしてカトリック教会から離脱し、自分に都合の良い独自の教会を作ることを決意した時、ヘンリー8世の方針に強硬に反対したため処刑されたジョン・フィッシャーとトマス・モアが殉教者と見なされている。
近代から現代にかけても決して殉教とは無縁の時代でなく、その中には殉教者とみなされているものもいる。
李氏朝鮮では18世紀から19世紀にかけて、多くのキリスト教徒が殺害された。また日本でも近世から引き続きキリスト教の弾圧が行われ、時には浦上四番崩れなどの大規模な検挙により多くのキリシタンが犠牲となった。
19世紀末期、アフリカのウガンダでは反キリスト教的な政策によって多くの信徒が命を落とした。
1917年のロシア革命以降、無神論の立場を取るソビエト連邦政府の下でロシア正教会を中心としたキリスト教は弾圧され、多数の信者や聖職者が犠牲となった。聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、また多数の者が処刑された。1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、其の他信徒多数が処刑されたとする文献もある。救世主ハリストス大聖堂をはじめとする多くの大聖堂もダイナマイト爆破されていった。こうした共産主義による教会弾圧は旧ソ連に限らず共産主義諸国各地でみられ、特にアルバニア正教会における弾圧は熾烈を極めた。信仰の自由が回復された1990年代で、生き残った司祭はアルバニア全土で22人しか居なかったとされる。
メキシコにおいても20世紀初頭、政府の迫害によってキリスト教徒や聖職者が殺害された。
1930年代にはスペイン内戦でもカトリック教会が迫害され、多くの聖職者や信徒が殺害された。彼らのうち233人が殉教者として2001年に列福されている。
1940年代のナチス・ドイツの強制収容所で命を落としたポーランド人、ユダヤ人(キリスト教徒)などのある人々も殉教者とみなされ、列福されている。その中でもっとも有名なのがマキシミリアノ・コルベ神父である。
日本においてのキリスト教殉教者には、神社参拝拒否事件の朱基徹牧師、ホーリネス弾圧事件の小山宗祐牧師補、菅野鋭牧師、小出朋治牧師、斉藤保太郎牧師、辻啓蔵牧師、竹入高牧師、池田長十郎牧師、佐野明治牧師らがいる。
また、1989年には内戦中のエルサルバドルで司祭というだけの理由で六人のイエズス会員が殺害され、世界に衝撃を与えた。
「en:ListofChristianmartyrs」および「Category:キリスト教の殉教者」も参照
ステファノ(1世紀前半、エルサレム)
使徒ペトロ(1世紀、伝承によればローマ)
使徒パウロ(1世紀、伝承によればローマ)
アグネス(3世紀?、ローマ)
ヴァレンタイン(3世紀、実在性には疑問も、ローマ)
ブラジオ(3世紀、アルメニア)
カヌート4世(11世紀、デンマーク)
日本二十六聖人(16世紀、日本)
カロロ・ルワンガ(19世紀、ウガンダ)
アンデレ・ドゥン・ラク(19世紀、ベトナム)
津和野における殉教者(19世紀、日本)
アンドロニク・ニコリスキイ(20世紀、ロシア、神品致命者)
マキシミリアノ・コルベ(20世紀、ポーランド)
エーディト・シュタイン(20世紀、ドイツ)
ディートリヒ・ボンヘッファー(20世紀、ドイツ)
オスカル・ロメロ(20世紀、エルサルバドル)
イスラム教徒
コーランではジハード(聖戦)で死んだものは殉教者であり天国への道が約束されるとされる。穏健派もあり必ずしも一様ではないが2001年、アルカーイダによるアメリカ同時多発テロ事件をきっかけにイスラム過激派、あるいはイスラム原理主義の内在するそのような見方が問題にされるようになった。
しかしながら、内乱や紛争を抱える地域を中心に、殉教がムスリムの義務であり年齢は関係ないとして、成人ばかりか少年少女までもが自爆攻撃を選ぶ事例が後を絶たない。
竹杖外道に襲われる目連
仏教では釈迦の到達したとされる涅槃の原語ニルヴァーナ(nirvana)が「吹き消された状態」を意味するため、「煩悩が吹き消された状態」→「(煩悩が宿るところの)生命の火が吹き消された状態」すなわち「身体の死」(無余涅槃)こそ悟り・解脱であるとする立場が現れた。その立場に立って苦行を行い、自ら死に臨んだ僧達も一種の殉教者と言えるであろう。日本では即身仏、補陀洛渡海の例が知られる。
現代でも、抗議して焼身自殺する仏教僧侶は散発的に現れる。ベトナム戦争の際蓮華座を保ったまま堂々と焼身自殺したティック・クアン・ドックなどはその一例である。
脚注
古巣馨『ユスト高山右近いま、降りていく人へ』ドン・ボスコ社、3刷、2014年7月4日。7-8頁。ISBN978-4-88626-568-5。
『ポリュカルポス殉教伝』TheMartyrdomofPolycarp:ThecontemporaryaccountofhisdeathinthelettertotheSmyrnaeans.
尾山令仁『ヨハネが受けたキリストの啓示(黙示録)』羊群社
3.秀吉のキリシタン禁教令と26聖人殉教Laudate女子パウロ会
9月28日聖トマス西と15殉教者Laudate女子パウロ会
7月1日ペトロ岐部と187殉教者Laudate女子パウロ会
高山右近、福者にカトリック新聞オンライン
参考図書:高橋保行『迫害下のロシア正教会無神論国家における正教の70年』教文館、1996年
閔庚培『神の栄光のみ―殉教者朱基徹牧師伝』すぐ書房
尾形守『日韓教会成長比較』いのちのことば社
渡辺信夫『アジア伝道史』いのちのことば社
中村敏『日本における福音派の歴史』いのちのことば社
“幼い少女が自爆テロ、カメラの前で「殉教します」”.huffingtonpos(2016年12月22日).2018年4月2日閲覧。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1イギリス革命(1642―1689年)サイモン・ジェンキンス
2アメリカ独立革命(1776―1788年)レイ・ラファエル
3フランス革命(1789―1799年)ソフィー・ヴァニシュ
4ハイチ革命(1791―1804年)ベイエナ・ベロ
51848年革命アクセル・ケルナー
6明治維新(1868年)川島真
7青年トルコ人革命(1908年)メフメト・シュクリュ・ハーニオール
8メキシコ革命(1910―1917年)ハビエル・ガルシアディエゴ
9アイルランド革命(1913―1923年)ディアメイド・フェリター
10ロシア革命(1917年)ディナ・カパエワ
11インド革命(1947年)ミヒル・ボーズ
12ヴェトナム八月革命(1945年)スタイン・トネソン
13中国共産主義革命(1949―1976年)高默波
14キューバ革命(1959―2006年)ルイス・マルティネス-フェルナンデス
15学生運動(1968年)スティーヴン・バーンズ
16ポルトガルカーネーション革命(1974年)フィリペ・リベイロ・デ・メネセス
17カンボジアクメール・ルージュ革命(1975―1979年)ソルポン・ペオウ
18イラン革命(1979年)ホマ・カトウジアン
19ニカラグアサンディニスタ革命(1979年)マテオ・カエターノ・ハルキン
20ポーランド「連帯」(1980年)アニータ・プラズモフスカ
21東欧革命(1989年)ウラジーミル・ティスマネアヌ、アンドレス・ガルシア
22南アフリカアパルトヘイトの終焉(1990―1994年)スーラ・シンプソン
23ウクライナオレンジ革命(2004―2014年)ヤロスラフ・フリツァーク
24エジプトアラブの春(2011年)ヤセル・ターベット
編者
ピーター・ファタードー(PeterFurtado)
歴史雑誌『ヒストリー・トゥデイ』の元編集者。オックスフォード大学で歴史と美術史の学位を取得。ロンドン大学バークベック校でイングランドのナショナリズムの起源に関する研究を行う。『HistoriesofNations:HowTheirIdentitiesWereForged』(邦訳版『ヴィジュアル版国家と国民の歴史』原書房)や『GreatCitiesThroughTravellers'Eyes』などの歴史書の編集に携わる。
日本の革命(にほんのかくめい)は、日本における革命、またはその議論。「革命」の定義や観点などにもより、多数の議論がある。
概要
一般に、日本は有史以来革命が一度も起きたことがない国であるとみなされている。これは日本の皇室が古代から現代まで断絶なく存続し続けていること(万世一系)、それによって各時代の「日本」に強い連続性が認められることを根拠としている。
この見方に対して山本七平は著書「日本的革命の哲学」で、よく「日本には革命はなかった」と言われるが、呼称ではなく行った内容が問題、と記した。
安岡正篤は著書「活学としての東洋思想」で、「維新」は順命、「革命」は非常の命で、日本では革命という言葉を良くないとし、「明治革命」や「大化革命」と言わずに「明治維新」や「大化の改新」と言う、と記した。
革命の議論のある歴史的事例
以下は、日本において「革命」に相当するとされる議論のある歴史的事例の一覧である。
これらの事例全てに共通するが、皇室が廃絶されてはおらず、また明治維新に見られるように旧既得権益勢力が一定以上温存されている。
上山春平は著作「天皇制の深層」で、大化の改新は氏姓制から律令制への変革が行われた「神祇革命」、と記した。朝河貫一は大化改新は日本封建制の起源で、大化改新と明治維新を「日本史における二つの革命」と呼び、優れた異文化を受け入れた、と記した。
山本七平は著書「日本的革命の哲学」で北条泰時を日本唯一の革命家とした。孟子らの易姓革命は「王道的人民民主主義」だが、人民に政治体制選択の自由は無く「保守的革命論」といえる。他方、西欧の革命(リボリューション)は、旧約聖書の申命記以来、人民には「新しい契約」として体制選択の自由がある。西洋型革命の思想は日本に到達しなかったが、北条泰時は承久の乱で朝廷と正面衝突して勝利した最初の戦争で、式目発布は中国の革命思想を超え、「限定的西洋型革命」とも言える、と記した。
大澤真幸も著作で、北条泰時を「日本史上唯一、成功した革命家」とした。「革命」を「社会の根本的な変革が、当の社会のメンバーによって意図的に引き起こされること」と規定し、大化の改新や明治維新は外部衝撃による変動で、後醍醐天皇や織田信長は志半ばに終わり、豊臣秀吉や徳川家康は朝廷の権威に依存したが、泰時ら幕府による皇室関係者断罪は例が無く、式目は「日本史上初めての体系的な固有法」とした。
1920年代以降、社会主義者や共産主義者の間で、日本資本主義論争や日本民主革命論争が発生し、明治維新がブルジョワ革命か否かが議論された。
講座派の山田盛太郎は著書「日本資本主義分析」で、明治維新後の日本は半封建制の「絶対主義天皇制」で、まずは天皇制を打倒するブルジョワ民主主義革命が必要、とした(二段階革命論)。また遠山茂樹は著書「明治維新」で、維新変革は「下からの農業革命」を圧殺した「上からのブルジョア的改革」で、絶対主義が成立した、とした。これに対し労農派は、明治維新は不徹底なブルジョワ革命で、天皇制はブルジョワ君主制であり帝国主義として、目指すべき革命は社会主義革命、とした(一段階革命論)。
これらの議論は第二次世界大戦終結後の日本共産党や、日本社会党および新左翼各派などにも影響を与えた。
明治維新において、旧江戸幕府勢力のうち大名家は「華族」という形で一定の特権を認められた上で残され、また最後の将軍である徳川慶喜も最終的には華族の最高位である公爵に、また徳川宗家16代当主の徳川家達に至っては30年間も貴族院議長を務めており、一時は内閣総理大臣候補になったほどである。
明治維新は当初は「王政維新」「御一新」と呼称され、「明治維新」との言葉に一大変革との意味が込められ、後に「大正維新」「昭和維新」、更に「維新革命」と呼ばれるようになった。北一輝の思想は国家社会主義とも呼ばれ、皇道派による昭和維新の動きに影響を与えた。石原莞爾は、フランス革命以来の革新が進行中で、それが昭和維新と記した。
その後、二・二六事件は昭和天皇の支持を得られず、最終的に実行者は投降しており、失敗に終わっている。
詳細は「八月革命説」を参照
丸山眞男や宮澤俊義らが提唱した。1945年の太平洋戦争敗戦後、形式的には従来の大日本帝国憲法を改正する形で1947年に日本国憲法が施行されたが、天皇主権から国民主権への変更など国家の根本に関わる部分が変更され、憲法改正の限界を超えるため、1945年のポツダム宣言受諾により法的な意味で一種の革命(国民主権への変更)が発生したと考える。この結果、日本国憲法は主権者たる国民が制定した憲法で、天皇は君主ではなく象徴である、とした。
ただし「八月革命説」には学術的批判が多く存在する(詳細は当該項目を参照)他、「昭和維新」の際と同様に、国家の象徴が昭和天皇のまま代わっていない。
思慮ある賢者はマインド・コントロールの不自然さに気づくだろう。良きも悪きも太古から繰り返されてきた国家の内外の変革いわゆる革命などの発端となるのはその個人や集団が内包する信念や心情である。そして、それを支え指揮する者は理念であり哲学であり、宗教では教義や真理であるわけである。その情熱は死をもいとわない確信の中から派生し活動の源になっているのである。マインドコント論を指示したり唱えたり、それを持ち出して一方的に一部の宗教者や団体を非難することは信仰者全部を非難することに等しい。なぜならば、今まで見てきたように論文自体に信憑性が無く手実験に関しても失敗に終わっているものを堂々と引き合いに出し、いかにもこれがマインド・コントロールの証明であるかの如く正当化する。中には不平等な中でのテストを行い恣意的に利用強行する。それをマスコミ等に流布し大衆にマインド・コントロールの対象者はこれだと指摘し大衆の力で打倒しようとする。かなり、論理者としてはひどい輩ばかりである。そして、この怪しい論文の一部を持ち回りで自らの論文に利用している実体さえある。そもそも、このマインド・コントロール論かぶれの論者たちの目的は打倒したい、相手がいて作為的にマインド・コントロール論を持ち出しているのが理解できる。そのような中、櫻井義秀(北海道大学教授、宗教学者)氏だけは極めて別格である。統一教会に与され迷惑と言われていたが誰が見ても現段階では中立公平であると言える。そして、前述のマインド・コントロールされたであろう世界の歴史や日本の歴史を見ていただこう。
マインド・コントロールは心理操作であると言ったが結局誰からも操作されないのである。最終的には自ら決めて実践している。なぜか、誰かが技術や操作で行ったとしても大勢がそれに従うはずが無いしましてや、催眠などのまやかしで活動はしていない。恐怖にさらされても活動していないむしろ、信仰のために恐怖を求めている。要は真理に出会って自己革命され、その熱情があって信仰したり革命を起こしたり戦争をしたりするのである。国家間の戦いは誇りと言う信念かもしれないし信仰は神からくる心情かもしれないが、はっきり言えることはマインド・コントロールなる陳腐な理論では人は動かないし死にもしない。いわば、マインド・コントロールを提唱する者自身がマインド・コントロールの幻想にはまりこんでいる。マインド・コントロールが理解ができないマインド・コントロール初心者がこのマインド・コントロール論に騙されないよう願うばかりだ。
<マインド・コントロールの崩壊 引用文献>
マインド・コントロールのイメージは様々 色々検索してみると
https://www.c-c-j.com/course/psychology/mental/column/column12/
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/mc/1MCnaani.html
マインド・コントロール研究所
マインド・コントロールと洗脳は違う洗脳とは
洗脳https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E8%84%B3出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
出典
^ 明鏡国語辞典、大修館書店
^ 世界大百科事典 第2版によれば、「中華人民共和国成立後,数年にわたり全国的な範囲と規模でおこなわれた知識人の自己改造・自己変革を思想改造という。」「旧社会から持ちこんできた習慣や思想を改造し,勤労者さらにはプロレタリアへ立場を移すよう,組織的な学習運動がおこなわれた。」
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洗脳
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NEWS JAPANより
カルトの定義の違い国家で認識が違う
カルト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
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岡田尊司(精神科医、作家)氏
岡田尊司「マインド・コントロール 増補改訂版」文藝春秋、2016年。ISBN 4166610740 p46
西田公昭(社会心理学者)氏
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB
西田公昭氏立正大学,公私立大学の部局等,教授研究成果報告書「マインド・コントロール防衛スキルの構造とその心理特性の測定法の開発」
科研費による研究平成27年6月19日科学研究費助成事業
kakenより
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-24530797/
スティーヴン・ハッサン (統一教会元信者、心理学者)
wikipediaより
スティーヴン・ハッサン著 浅見定雄 (訳) 『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版 1993年6月) ISBN 978-4-7652-3071-1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB#cite_note-FOOTNOTE%E6%AB%BB%E4%BA%95%E7%BE%A9%E7%A7%8020128-25
郷路征記氏
wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E8%B7%AF%E5%BE%81%E8%A8%98
『マインド・コントロール』決定版
紀藤正樹
『統一協会マインド・コントロールのすべてー人はどのようにして文鮮明の奴隷になるのか』(教育史料出版会 1993年)
宗教学者のダグラス・E・コーワン(英語版)、宗教社会学者のデイヴィッド・G・ブロムリー(英語版)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB
櫻井義秀(北海道大学教授、宗教学者)櫻井義秀氏 論文1
https://www.jstage.jst.go.jp/article/hokkaidoshakai1988/9/0/9_0_74/_article/-char/ja/
編集・発行 北海道社会学会より
櫻井義秀氏 論文2
Title新宗教の形成と社会変動 : 近・現代日本における新宗教研究の再検討Author(s)櫻井, 義秀Citation北海道大學文學部紀要, 46(1), 111-194 Issue Date 1997-09-30 Doc URL http://hdl.handle.net/2115/33694 Type bulletin (article) File Information 46(1)_PL111-194.pdfより
chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/33694/1/46(1)_PL111-194.pdf
大田俊寛氏(宗教学者)
wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB#cite_note-FOOTNOTE%E6%AB%BB%E4%BA%95%E7%BE%A9%E7%A7%8020128-25
マインド・コントロールの実験1ソロモン・アッシュの同調実験
wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%81%AE%E5%90%8C%E8%AA%BF%E5%AE%9F%E9%A8%93
マインド・コントロールの実験2 フェスティンガーの認知不協和理論
認知的不協和 wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E7%9A%84%E4%B8%8D%E5%8D%94%E5%92%8C
マインド・コントロールの実験3 アイヒマン・ミルグラムの実験電気ショックによる実験
ミルグラム実験 wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%AE%9F%E9%A8%93
マインド・コントロールの実験4 感覚遮断
wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9F%E8%A6%9A%E9%81%AE%E6%96%AD
殉教・ユダヤ教徒・キリスト教徒・ローマ時代・殉教者への崇敬・中世から近世における殉教・近代から現代における殉教・キリスト教における主な殉教者(致命者)・仏教の殉教・
wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%89%E6%95%99
革命
wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%A9%E5%91%BD
日本の革命・大化の改新・承久の乱・明治維新・昭和維新・第二次世界大戦の敗戦
wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%9D%A9%E5%91%BD
認知的不協和の例
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感覚遮断
脚注
• ab小田晋1976,pp.196–197.
• abcdefg大熊輝雄1962,pp.687–688.
• 環境刺激制限の心理学―研究小史1986,p.21.
• abcde木村絹子1965,pp.132–133.
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• abcd小田晋1976,p.199.
• abc環境刺激制限の心理学―研究小史1986,pp.5–6.
• 小田晋1976,p.197.
• ab環境刺激制限の心理学―研究小史1986,p.18.
• ab木村絹子1965,pp.152–153.
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• ab『刺激のない世界』1986.
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• 小田晋1976,pp.199,204.
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wikipediaより