私たちが住まいするのは、島根県浜田市三隅地域の三保地区です。
針藻山展望台から北東方向を見ると大麻山・水来山・高城山と連なる三隅三山、そして太古から畝傍山塊より清い一滴一滴をあつめ蛇行しつつ北流、日本海へと迫りくる三隅川と右岸に纏まる人々の住まいという辺りの情景は「四時の景致又宜しく」正に「春、山笑い 夏、山滴(したた)る 秋、山粧(よそお)い 冬、山眠る」という表現そのものです。
この機会に古きを訪ね共に語り合い伝え合うことで、時間(とき)を紡(つむ)ぐことに大いなる意義があるとも考えます。
児島俊平氏は、その著書「近世・石見の廻船と鈩製鉄(石見郷土研究懇話会刊)」に「・・・ここまで書いて気付くことは、三隅湊の風土には中世・三隅氏の歴史が深くしみ透って、地下水となって脈々と今日まで流れつづけているように思える。その地下水は二つの核より成っている。一つは先祖の志に裏打ちされたプライドであり、二つには海賊大賀党の海人魂と云うか、強靭な精神力と進取の行動力であると想う。」と評しています。
このホームページを話題に人から人へ何事かが伝えられ、さらにまた人から人へ何事かが伝えられる。そうした「歴史」という積み重ねに繋がればと願っています。
◆歴史ある商業地三保地区
「和名類聚抄」(平安時代中期、承平年間931~938源順(みなもとのしたごう)が編纂)は私たちの町三隅を「美須三」と記しています。
中でも三保地区は、三隅町で最も古い歴史のある商業地です。
古市場は奈良朝(710~794)の元正天皇(在位715~724)の時代に開かれたと伝えられます。
当時、石見国の国府は今の浜田市国府の「伊甘(いかん)」にあって京の都と結ぶ陸路は「山陰道」で伊甘駅から西へは周布郷の「周布駅」、三隅郷の「古市場駅」となっていました。
従ってこの地は交通の要衝であり市場が立って当然でした。
◆今もこの土地で変わらず継がれる「石州和紙」
三保地区の宝である石州半紙(和紙)については、この時代で触れなければなりません。
中国の蔡倫により改良・確立された手すき紙は、曇徴により推古18年(610年)に伝来したと言われています。
また、寛政10年(1798年)に発刊された国東治兵衛著書の「紙漉重宝記」によると「慶雲・和銅(704年~715年)のころ柿本人麻呂が石見の国の守護で民に紙漉きを教えた」と記されており、約1300年もの間、石見(石州)地方では、手すき和紙が漉き続けられ守られてきました。
先人たちから引き継がれた技術・技法を守る石州半紙技術者会(指定時、正会員10名、現在4名)による「石州半紙」は昭和44年(1969年)国の重要無形文化財に指定を受けています。
また、後に総合的振興を図る目的で設立された石州和紙協同組合の「石州和紙」は、平成元年(1989年)に経済産業大臣指定の「伝統的工芸品」の指定を受けました。
「石州半紙」は、平成21年(2009年)、ユネスコ無形文化遺産の保護に関する条約に基づく「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載され、平成26年(2014年)には、同条約に基づく同一覧表に、「和紙:日本の手漉和紙技術」として『本美濃紙』『細川紙』とともに記載されました。
「石州半紙は薄くて、丈夫であるとともに野性味たっぷりの男性的な美しさを発揮している」との評価もあります。
◆三隅氏、益田氏の祖
平安末(~1185)は、武家社会形成の混迷期です。
その時期に、石見国司として京から下向した藤原定道は、のちの豪族益田氏や三隅氏などの祖です。
源義経のもとで平家追討に功のあった4代兼高は、上府より益田に移ると共に、二男兼信を三隅庄地頭職に任じています。
しかし、それ以後の本・分家の間は和することの少ないものでした。
◆石見地方最強の雄城といわれた「三隅城」
三隅城は寛喜元年(1229)、益田氏4代兼高二男で三隅氏祖兼信の築城と伝えられ、後に三隅氏4代兼連(正平10~1355)により完成の域に達したとされています。
一族郎党を配した多くの外城(支城)を外郭一線、防御二線で構築され、石見地方最強の雄城と言われました。
これは、高 師泰(こうの もろやす)による観応元年(正平5年、1350)8月から翌年正月にかけての100日を優に超える包囲に耐えたことでも証明されています。
三保地区の「針藻島鐘之尾城」と「風呂の木砦」は、この二線の一角を担っていました。
◆海事と大賀党
もともと元寇に備えて築城された「針藻島鐘之尾城」には、正長元年(1428)土佐の国から三隅氏を頼り来た大賀政豊が7櫓の客将となり海事を委ねられました。
「交易」と「海賊」これが大賀党たる所以です。
天文22年(1553)5代城主大賀道世は16代三隅城主兼忠と共に益田藤兼と戦いましたが、鐘之尾城は陥ち道世は討死、兼忠は捕らわれ益田氏に従い、後益田兼久の養子となります。
しかし、大賀党の末裔は江戸期に黄金期を迎える三隅湊廻船業の礎となり、明治39年3艘の船に30人の漁夫を乗せ、カラフトへのサケ・マス漁に向かった「千本組」へとつながるのです。
◆三隅城落城
戦国期(1467~1590)の三隅氏は15代兼忠です。
元亀元年(1570)三隅城落城。
毛利氏と家中の益田藤兼の攻撃によります。
三隅氏の末裔は関ヶ原合戦以後、益田氏と共にこの地を去って防・長領に移ります。
不和の幕も閉じられました。
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公、吉田松陰の妹「文(美和子)」の姉「寿(久子)」が嫁いだ楫取素彦と明治維新(幕末)(1853~1868)後の短い期間隠棲していた「三隅二条窪」の地名が微かに彼の地とのゆかりを思い起こさせます。
◆石見地方屈指の港として賑わった三隅湊
海運の要衝としての貿易・廻船業においては、三隅湊は、石見地方屈指の港です。
いわゆる小廻り船が主体で、元和元年(1619)には75石積から140石積までの船が7艘あったものが、享保のころ(1716~1736)には20余艘となり、廻船業は明治までの全盛期を迎えました。
その証左として、三隅氏滅亡後訪れる人もなかった吉野山大日寺宝蔵院に、享保九年(1724)廻船業に成功した三隅湊の船持ち衆26人が369年ぶりに先祖の戦跡を訪ね、慰霊のために奉納した永代常夜灯が現存しています。
また、文化面ではこの享保の終わりころ、頂点を極める時期の到来した人形浄瑠璃芸を、西河内出身の兄弟が上方での修業を重ね、鑠(しゃく) 三太夫・六太夫の太夫名を受けて後三隅へ伝えたとされています。
福浦の座元の経済的援助が得られ、その活動は江戸後期から明治初期に及んだと推測されています。
ただ、時代の流れに逆らえなかったのか、後継者を得ないまま姿を消し、詳細を伝える資料も僅少であることは残念ですが、地域の人たちに歓迎されていた事の証として、地区民による兄弟の頌徳碑が建立されています。
◆近代からの発展・合併
三保の近代の幕開け、それは、「改革と革新」と言ってもよいでしょう。
明治34年5月、郡内初の西河内耕地整理事業が完成。
その証として地主42名による「耕地整理記念碑」が県道傍に建てられました。
この事業により反収が三俵半から六俵半の二倍になったと伝えられています。
行政区は、湊浦と西河内が明治22年(1889)に合併して誕生した西湊村と古市場村とが、明治24年(1891)に合併して古市場西湊組合村として発足し、同43年(1910)に三保村となっています。
大正11年には国鉄山陰線三保三隅駅も開設され、現在に至るまで町の玄関口としての役目を果たしています。
昭和30年の大合併と度重なる災害を乗り越え、平成17年10月1日、旧浜田市・金城町・旭町・弥栄村・三隅町が合併し、今の浜田市となっています。
「当面10年間」とされた「浜田那賀自治区方式」は一部見直しを加え2度の延長を経て令和3年3月31日に条例(「自治区設置条例」)上の期限を迎えることとなりました。
令和3年4月1日からは「浜田市協働のまちづくり推進条例」が適用され「自治区の枠を超えた一体的なまちづくり」を目指し、 身近な公民館エリアでのまちづくりに力を入れることとし、その活動サポート機能充実に努めるため、「公民館」は「まちづくりセンター」と改称されることとなりました。
私たちの住まいする三保地区は、これまで通り「三保まちづくりセンター」を拠点とし、母体となる「三保まちづくり推進委員会」で地区住民の協力を得つつ、 行政(支所)との意思疎通に必要な「職員の地域担当制度」と協調し「生涯学習によるまちづくり」を変わらず進めていきます。 歴史と風土に培われた三保地区の気質は、これからも確実に引き継がれて行くのです。
*参考文献
・‘91町勢要覧 島根県三隅町
・広報みすみ第457号(平成6年2月10日発行)
・柳橋 眞「石州半紙の歴史と特徴」
・みすみの彩〈三隅歳時記〉 島根県三隅町役場発行
・平川眞吾「奈良吉野山金峯山神社常夜燈と拓本の由緒」
・湊浦寿会「湊浦の記憶-浮島に生きる-」
・児島俊平著「近世・石見の廻船と鈩製鉄」(石見郷土研究懇話会刊)
・田村紘一著「石見国 三隅高城」(日本古城友の会)
・増野義雄著 「上市物語」(三隅自治振興会編)