最後の晩餐のサンタマリア・デル・グラッツエ教会から歩いて10分で到着。1時間ぐらい見学。
スフォルツァ家族の文書などが保管されていたサラ・デル・テソロがある。またルドヴィコ・マリア・スフォルティア(最後の晩餐の注文者)の依頼によりブラマンテが地獄の神話の守護者アルゴスを描いたフレスコ画もある
1358年から1370年ごろ、中世イタリアの名族ヴィスコンティ家の僭主ガレアッツォ2世・ヴィスコンティにより建造命令がなされ、居城として子孫たちによって拡張されていった。
ミラノで発足した短命政権「黄金のアンブロジアーナ共和国」により破壊された。
ミラノ公爵のフランチェスコ・スフォルツァが居城を改築し城塞とした。その後、16世紀から17世紀にかけて改装・増築され、ヨーロッパでも有数の規模の城塞となった
ボナの塔。フランチェスコ・スフォルツァとビアンカ・マリア・ヴィスコンティの息子、ミラノ・ガレアッツォ・マリア・スフォルツァが陰謀で刺されて死亡、妻のボナ・ディ・サヴォアはこの塔に移動して難を免れた。
総督の中庭。西にもIl Cortile della Rocchetta(ロケッタの中庭)がある。行った当時は修復中で翌2012年に公開している
高さ109m。彫刻家・建築家のフィラレーテがこの塔を設計
1452年に作られ、6つのアーチの屋根付きの部屋がある刑務所として利用され、現在は美術図書館になっている。手前に庭で練兵が行われた
作られた当初は星形で4倍の広さがあった
「ミラノのスタンダード」と呼ばれる16世紀に作られた聖アンブロージョのタペストリー
左はガレアッツォ・マリア・スフォルツァの紋章。写真には写っていないが下の方の白黒の壁画の痕跡があり、ダビンチによるもの。ロンダニーニのピエタとともにこの城の二大名物。
16世紀初頭に「イタリアの雷」(le foudre d'Italie)、ヌムール公と呼ばれた。国王ルイ12世の甥で1511年に21歳の若さでフランス軍の総司令官となり、カンブレー同盟戦争(広義のイタリア戦争)で活躍
古代美術館の奥に「板の間」というミラノに滞在していたレオナルド・ダ・ヴィンチがスフォルツァ家のルドヴィーコの依頼で設計したといわれている部屋があるが見れず
ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)の遺作、未完成。2015年5月から地図にある病院跡に(古代スペイン病院)ロンダニーニのピエタ美術館として展示。この時は古代美術館の一角にさりげなくあった。名前は1952年までローマのロンダニーニ邸の中庭に置かれたことによる。
「死せるイエスを抱く聖母マリア」という最初のピエタの構想に回帰。左側の棒状のものは、最初の構想にあったイエスの右腕がそのまま残されたもの。作業が中断された時点ではイエスはもっと前屈みでマリアを彫り出すための大理石の塊を背負うような形になっていた。作業の再開にあたりイエスの前半身を打ち砕き、後ろの塊から改めてイエスを彫り出していった
腰が曲って頭を上げることすらままならず、さらには視力を失いながらも手探りで鑿を振るい、病に倒れる前日まで制作を続けたと伝えられている
サンピエトロのピエタはマリアのたすきに名前があったが、こちらは台座に
ほとんど人がいなくて寒くて暗い中を歩く
作られた時期の違い
のフレスコ画。ミラノの南東100kmぐらいのところにある。1440年頃スフォルツァ家の宮廷で知り熱愛し始めたビアンカを、ピエール・マリーアがパルマの自分の領地に連れて帰り、トッレキアーラの城建設の後に造った城、ロッカビアンカ(Roccabianca)城に住まわせた。彼の一番の敵であるパッラヴィチーノ家に対する要所で、彼をお気に入りだったスフォルツァから1449年に改めて領地に拝領し築いた。
ブラマンティーノ、ベッリーニ、マンテーニャ、ティッツィアーノの作品がある
2階に階段で上がる。古代から1950年代までの陶磁器、宝飾品、タペストリー、時計、象牙細工などを展示
平面図の右上。Corte Ducale。1473年に1473年にツスカンの建築家ベネデット・フェリーニによって建てられたポーチが先行、壁面のフレスコ画により「dell'elefante」と呼ばれた。低い階段により馬に乗り2階に登れた
直訳すると
「海が共有する三葉の養魚池」
ありました
塔の中心にある石像は、ミラノの守護聖人である聖アンブロージョ。4世紀のミラノの司教
2駅先のDuomoへ