丸山城とは
所在地:島根県邑智郡川本町大字三原
標高:482m
面積:836,646㎡
丸山城跡は中世末期の山城であり、現在の川本町を拠点とし、石見銀山の支配に深く関わった石見小笠原氏の第15代小笠原長旌によって築かれた。
丸山城 小笠原氏の概要
小笠原氏が本拠を構えていた川本地区は、もとは藤原氏(後の益田氏)の手で開発され、平安末期【文治元年(1185年)】から鎌倉初期に「川辺久富」と呼ばれたのが、後の「河本郷」と呼ばれるようになった。
※1鎌倉後期に石見、長門両国の守護であった北条氏の守護代理として、信濃小笠原一族が、益田氏などの在地に領主に代わって川本郷を知行するようになったと思われる。そして、※2南北朝初期の小笠原氏の時代に本家から独立する形で石見小笠原氏が誕生した。
※1鎌倉時代【文治元年₋建武元年(1185年頃-1333年)】
※2南北朝時代【建武3年₋明徳3年(1336年-1392年)】
一方、三原地域は平安末期から鎌倉初期には「佐木郷」と呼ばれ、現在の三原地域から君谷地域に及ぶ江の川北岸一帯に組み込まれていた。その後鎌倉後期には邇摩郡大家庄(大家氏)に組み込まれ、新たに「三原郷」と呼ばれるようになった。
南・北佐木・三原・田窪の「四ケ村」を称して三原郷として邇摩郡に属することになったと考えられる。
初代長親は、細川家の家臣(家来で)四国阿波の国の守護(今で言う県知事)で、先祖は信濃(長野県出身)から邑智郡にやってきた。南北朝時代【建武3年₋明徳3年(1336年-1392年)】~室町時代【暦応元年₋天正元年(1338年-1573年)】にかけて領地拡大をしながら勢力を蓄えるとともに、幕府・守護(県知事)などの上級権力と結び、ほうびとして新たに領地を獲得していった。
3代「長胤」は川本町の会下谷に「温湯城」築城し(長雄)、ここを拠点に、大内氏や尼子氏が銀山の領有を争っていた石見銀山の銀発掘に関わっていた。
また、領地拡大で、しばしば紛争を繰り返してきた「大家氏」が「尼子氏」について没落したのを契機に「大家氏」の領地が小笠原氏のものとなり、一躍邇摩郡内における有力領主となった。
弘治2年(1556年)石見に進出した毛利氏が石見制圧のため、重要課題の解決として温湯城の強大な小笠原氏の打倒と配下に治めることであった。100日間続いた。
本来戦に敗れた側の城主は永禄2年(1559年)、切腹と全領地没収が当たり前であるが、石見銀山の安定的な確保運営や尼子との戦いに利用する方が得策と考え、しばらく甘南寺で謹慎させた。
しかし、小笠原氏と敵対関係にあった福屋氏が、毛利氏の寛大な対応に不満を持ち、毛利氏に反旗をひるがえし、謹慎中の長雄がこの合戦に参加して名誉挽回をする絶好の機会となった。 この戦いによって「福屋氏」の領地が小笠原氏に与えられた。 こうして、福屋氏の反乱と滅亡を機に、毛利の家臣として勢力回復に向けての足がかりをつかんだ小笠原氏は、石見銀山からの尼子氏を完全に追い払うことや富田月山の戦での活躍を通じていっそうその立場を確かなものとした。(復活)まもなく許されて湯谷弥山に移り住んだが、城は築かなかった。
※福屋兼広は益田兼高の3男とあり、天福元年(1233年)に福屋氏を名乗った。戦国時代後期には、江津市の有福温泉にある本明城を本城としていたと言われている。(尼子派)
※第一次月山富田城の戦いで、敗走した時、小笠原氏に助けられているためその恩に報いた。
長雄氏は病弱ということもあって、跡継ぎがいなかったため、最初吉川元春(元就の次男)の子「松寿丸」【天正7年(1579年)没】広家 (元春3男)との養子縁組を頼み、一旦は了解するものの、小笠原氏が本領である温湯城の回復のための戦略であると、毛利輝元がこの縁組の危険性を察知し、足かけ4年に及ぶ養子縁組を邪魔し、養子縁組は白紙となったが、この時期小笠原氏は既に、吉川氏と縁組みができるまでの勢力や名誉を挽回しており、そのため輝元は小笠原氏に大きな警戒心をもっていた。
城は15代小笠原長旌が「円山の山頂に」築城したと言われ ている。
丸山伝記によると、城は天正11年(1583年)春から天正13年(1585年)7月に完成したとある。
この時期国内では、織田信長が本能寺において、明智光秀に攻められ自害、豊臣秀吉は、明智光秀と柴田勝家を討伐、毛利輝元を家臣として豊臣秀吉は天下人となり、天正11年大阪城の築城に着手し、天正13年(1585年)に完成(関白)。文禄元年(1592年)には、毛利と秀吉の講和条約が結ばれ、毛利の領地の確定と戦国の終わりをもたらした。これを期に山城から平地城に移る時期において大規模な山城を築城して住んでいた。天正15年(1587年頃)。
山城は本来戦が始まったときに立てこもる所であり、日常生活はしないのが一般的。したがって、山城は簡易な建物が主流であり基礎石を使った建物は少ない。
天正19年(1591年)と推定される毛利輝元の手紙が「みはらのお局」宛に出されていた。お局は長旌の妻で「みはらのお局」と呼ばれてい た。
住所としては、「石見の小笠原、三原の西の丸にいるときの住所である」記録が残っている。また、発掘調査により西の丸からカマドの遺構を検出した。
西の丸とは、城の主郭(メイン)に対する西側の通称(二の丸)のことで、ここに住んでいたことを示している。
丸山伝記では、「その後毛利家と小笠原家は深いつながりがあるので、互いに思いやるべきであるが、信長や秀吉にかわいがられている。また、小笠原の家臣の中には毛利家に対して恨みを持つ者がおっておもしろくない。輝元は腹を立てるが、しかし、この丸山城は山口の高嶺又は富田月山よりも大きな城であるから手が出せない。文禄元年(1592年)に毛利と秀吉の講和条約が結ばれ、山城禁止令の監視役に輝元が任命されたので数万の兵を引き連れて攻めてきた。中略、小笠原の家来が川際に陣取る敵の状況を殿様に報告すると。殿様は山城はだめだとの命令であれば、これも運命である。山を下りて城を築く時間もないので、城を明け渡し、お供 50人を連れて雲州神宮にある自分の領地に落ち延びた。」
初代長親から15代長旌までの300年間にわたり川本町を拠点に大田、邇摩、邑智郡、那賀郡の一部と鹿足郡、美濃郡(美都、匹見)を含む8村に及ぶ領地を統治した小笠原氏にとって、当地における最後の山城である。
丸山城の特長
山城が築かれている円山は、周囲で一番高く、尾根を持たない独立した急峻な山である。※1室町後半から戦国期になると主郭を取り巻くように帯曲輪がめぐらされ、※2堀切、※3 堅堀や※4切り岸等が発達するが、円山にはこのような施設が見られない。
※1 建武元年(1333年)の鎌倉幕府滅亡から天正元年(1573年)
※2 尾根を仕切るように造られた堀
※3 斜面に縦に造られた堀
※4 山腹を垂直に削り人工の崖としたもの
山城は明らかに東側の三原盆地を意識して造られており、南北方向に延びる緩やかな山頂部を削平し、自然地形を活用することにより南側を本丸、谷間の鞍部(三の曲輪)を挟むように西の丸を築いている。削平した加工段に石垣を巡らしているが、石積みは2mと低いことから、勾配は垂直に近い。
城郭は本丸、西の丸の曲輪を東南北面に小規模ながら10の曲輪によって構成されている。
したがって、この城郭は防御的機能を持たない山城であり、居館的な性格の強い城である。(文献資料とカマド遺構の検出、日常生活陶器類、建物遺構等からも明白)
戦国末期の城郭でありながら、堀切や竪堀・土塁等は見られず、石塁は存在するが高さは低い。城への出入り口である虎口は、天正期以前の平入り造りであることや、曲輪をめぐる石垣も低く、本格的な防御施設をともなうプランが観られない。
調査によって確認された建物は、全て礎石建物であった。本丸の建物群は、殿舎風建物とその付属屋や馬屋などの政庁施設が予想される。
西の丸は、櫓建物、小型殿舎、大型殿舎であった。カマド遺構を検出したことや資料などから、住居的意味合いの強い大型殿舎と付属建物で構成されている。
三の曲輪においては、番所建物を検出した。
城は構造的に見ても石垣が多用され、建物は非瓦葺き礎石建物が中心で、庇のつくものが多いことから、戦国末期から近世初頭の城郭建築の特長が見られる。
県史跡に指定されるまで
平成2‐7年(1990₋1995年)度、川本町教育委員会により発掘調査され、総石垣造りで防御施設がほとんどないことや、文献に残る築城から落城までの時期【天正11‐19年(1583‐1591年)】と発掘調査の成果が一致することが明らかになり、平成6年度町史跡に指定された。そして、平成27年(2015年)度の石垣、出土品、関連山城等の再調査にて遺跡の時期や範囲が確認され、県史跡に指定された。
史跡‥現代に至るまでの人類の活動を示す痕跡(遺構、遺物)を認めうる場所
丸山城跡の縄張り図
山城が築かれている円山は、尾根を持たない独立した急崚な山である。城は明らかに東側の三原盆地を意識して造られており、南北方向に延びる緩やかな二つの山頂部を削平し、自然地形を活用することにより南側を本丸とし、谷間の鞍部(三の曲輪)を挟むように北側に西の丸を築いている。なお、この城郭は本丸・西の丸の郭を中心に東・南・北面にに小規模ながら十二の曲輪によって構成されている。
尾根‥山頂と山頂をつなぐみねすじ 急峻‥山や坂などの傾斜が急で険しいこと 削平‥削って平らにすること
鞍部‥山の尾根のくぼんだこと 曲輪‥城での、周囲を土や石などでできた築き巡らしてある囲い
石見小笠原氏
石見小笠原氏は、甲斐国小笠原村(現在の岐阜県南アルプス市)を名字とする甲斐源氏を祖先とする信濃小笠原氏の一族が、南北朝時代に川本郷を得て成立したと考えられる。