戴国 首都鴻基。
雲の上の遥か高みに聳え立つ宮城の奥深く、白い陽の光が満ちる外殿に官吏たちが居並び一様に額ずいている。諸官の前には御簾の上げられた玉座。悠然と座る王が、傍に控える金の髪の宰輔と共に彼らを見下ろしている。銅鑼の音が低く響いた。
夏官長大司馬の背後に控えていた阿選は、面を上げて視線を玉座へ向ける。すでにその治世は長く、北極のこの国に安寧をもたらしている彼らの王。しかし近年、後宮における遊興が過ぎるのではないか、と天官たちが嘆いているのをよく耳にしていた。朝議の間において、そのような淫蕩を感じさせる様子は微塵もなかったが、いずれは彼の奢侈がこの王朝の首を絞めることになるのではないか──そんな漠然とした不安を阿選、そして彼の隣にいる同輩、驍宗も感じ取っていた。
外殿には主だった高官たちの他、阿選、驍宗含む王師六将軍が座している。その中に、一人だけ新しい顔があった。
先日、前王の時代から長く軍に携わってきた一人の将軍が、怪我を機に職を辞した。それにより軍の再編成が行われ、欠けた将軍の座を埋めるために、他州から一人の武将が鴻基に呼ばれた。
「劉李斎」
はっ、と明朗な声が響く。
「瑞州師中軍将軍に任ずる。誠心を持って仕えよ」
上背のある一人の女が石床に額をつける。赤茶色の髪がさらりと肩から滑り落ちた。
周囲から遠慮がちに、しかし明らかに好奇の視線が彼女に向けられる。李斎はそれを気にした風もなく、凛と背を伸ばして前を向いている。
一通りの議題を終え、王が手を軽く上げると玉座に御簾が降ろされる。御簾の奥で王と宰輔が外殿から退出し、その足音が遠ざかっていた頃合いになってようやく周囲に音が満ちる。立ち上がる衣擦れの音、下官を呼び寄せる声、親しい者同士の他愛もない話し声。
「阿選殿、驍宗殿」
名を呼ばれて振り返ると、彼らの側に来ていた李斎が拱手して頭を下げている。
「お初お目にかかります。ご挨拶が遅くなってしまい、申し訳ない」
なんの、と驍宗が鷹揚に笑む。
「挨拶が遅れたのは我らも同じだ。急な赴任で忙しなかったであろう」
阿選は目線を少し下げて李斎を見つめる。余州八州の将軍全てを把握している訳ではないが、承州の劉という名は阿選も知っていた。
「貴殿の噂は鴻基にも届いていた。情理を知る優れた将だと」
阿選が言うと、ご冗談を、と李斎は慌てたように否定した。その様子に微笑んで一礼を返した。
「よろしく頼む、李斎殿」
その時、周囲のざわめきの中で阿選は微かな声を耳に拾った
──官吏ならともかく、将軍に女を据えるとは
──どうぜ主上のお手付きだろう…後宮の真似事を朝においてもなさるおつもりでは──…
あからさまな溜息、押し殺した野卑な笑い。
驍宗が即座に険しい視線を声の方へ向ける。阿選も眉を顰め、咄嗟に李斎の表情を窺った。
李斎は、その顔にも態度にも特にこれといった変化を見せなかった。声がした時に僅かに視線を向けたから、聞こえていなかったわけではないだろう。だが怒りも不快な感情も何一つ滲ませる様子がない。
李斎は朗らかに笑んで、阿選たちに真っ直ぐ視線を向ける。
「こちらこそ。改めて、よろしくお願い申し上げます」
──おい、聞いたか。驍宗殿があの延王と打ち合って一本とったらしい
──さすがは驍宗。戴の誉れだな。主上もさぞお喜びだろう
──確かに剣の腕は素晴らしいが。しかし、軍功は丈将軍の方が上だろう。常勝の将軍は阿選殿のみだ。
──なに、それもじきに追いつくだろうよ──…
阿選は一人、外殿から続く長い回廊を歩いていた。薄く射す西陽が彼の後ろに長い影を朧に作っている。
双璧。左右の龍虎。よく似た二人のどちら優か劣か──そこかしこで囁かれる声。声。声。
その全てを阿選が直接耳にしている訳ではない。麾下や城内の親しい者から伝え聞くこともあれば、あるいは何処そこの誰某がこんなことを言っていたと、わざわざ注進にくる者もいる。いつの間にかそういった声の全てが阿選の中で耳鳴りのように木霊している。灌木の葉擦れの音さえも、人の声に聞こえるほどに。
「阿選殿」
耳鳴りが渦巻いていた中に、突如明瞭な声が響いた。阿選ははた、と顔をあげる。目線を上げた先に李斎が立っていた。彼女は阿選と目が合うと、笑みを見せて近づいてくる。官服ではなく平時の簡素な鎧を身につけているので治朝から戻ってきたところなのかもしれない。
「李斎殿。夏官府へ降りていたのか」
「ええ。練兵場で兵卒たちと体を動かしてきたところで」
最近机上の仕事ばかりで体が鈍くなっていましたから、と彼女は軽口を叩く。自然と二人で並んで回廊を歩くかたちとなり、李斎は阿選の顔を軽く見上げて視線を合わせた。
「阿選殿は何か考え事をなさっていたのですか」
問われて、阿選は咄嗟に言葉に詰まる。何かを考えていた訳ではない。ただ、頭の中に声が響いていた、それだけだ。
「…いや。気を抜いて歩いていただけだ。私も少し体を動かした方が良いようだ」
微苦笑を浮かべて軽くはぐらかすと、そうですか、と李斎は答えたきりそれ以上深くは聞いてこなかった。阿選は何とはなしに李斎の横顔に視線を向ける。
瑞州師中将軍、劉李斎。王師に召し上げられてからまだ間もなく、戦において大きな功をあげてはいないが、将軍としての立ち振る舞いを見る限り、評判通りの優秀な将だった。阿選から見ると情に厚すぎる面があるようにも思えるが、それこそが彼女の美点なのだろう。麾下たちとの絆も深く、新しく彼女の配下となった多くの兵卒たちをも瞬く間に一つの軍としてまとめ上げている。
「李斎殿は…」
阿選は不意に立ち止まり、彼女に声をかける。同じく立ち止まった李斎は首を傾げて阿選を見上げた。
「…先日の御前試合、どう、思われた」
ああ、と李斎は頷いて言葉を探す。王の御前で行われた延王と驍宗との勝負、李斎もその場で実際に見ていたのだ。
「お二人の只ならぬ気迫にただ圧倒されていました。延王君は勿論のこと、驍宗殿の覇気も尋常ではないと思って。味方であったから良かったものの、敵に回したら恐ろしい方ですね」
李斎は微笑み、ふと表情を変えた。
「ただ…少し意外な気がしました。こういう戦い方をする方だったのか、と」
阿選が首を傾げると、上手く言えないのですが、と李斎は続ける。
「以前から耳にしていたのです。驍宗殿と阿選殿は経歴や功績だけでなく戦い方もよく似ている、と。でも驍宗殿の動きを拝見する限り、そのように見えなかった。以前阿選殿から受けた剣の印象と異なっていたので」
阿選と李斎は機会があって手合わせしたことがある。その時のことを言っているのだとわかった。
「私には驍宗殿と阿選殿が似ているようには思えませんでした」
李斎が言っているのは剣の腕前という話ではなく、もっと別のものだということはわかる。だが、それをどう受け止めるべきなのかわからず、阿選はただ、黙したまま頷いた。
「驍宗殿が辞任する?本当に?」
李斎は驚いて、声を上げた。
夏官府で王師の将が集まり話し合いを持っていた、その最中のことだった。
「ええ、仙籍を返上し下野する、と…」
知らせを運んできた軍吏も困惑の表情を浮かべている。同席していた他の将軍たちも、そんなまさか、と驚愕の声を上げている。
垂州で起きた乱。その鎮圧に驍宗が抜擢され命が下ったが、彼は反民の方にこそ理があると言って首を縦に振らず、勅命を拒否した。再三の宣旨にも応じず、ついに軍を辞すと申し出たという。
禁軍左将軍である驍宗は王からの信任も厚く、この王朝の重鎮といっても過言ではない。その彼が突然職を辞して野に下るなど、考えもしなかった。
李斎は咄嗟に阿選へ視線を向けた。双璧、と謳われ驍宗と並び称される人物。
騒めく周囲と一線を画して、阿選はただの一言も声を発していなかった。卓上の一点を見つめ微動だにしない。一見泰然としているようにも思えたが、李斎にはこの場にいる誰よりも彼が驚いているように見えた。
そして春の盛りを過ぎた頃、引き止めようとする周囲の声を一顧だにせず、驍宗は本当に白圭宮を去った。
驍宗が去って一月あまり。季節は夏へと移ろいゆく。戴で最も美しく、短い季節だ。
阿選が李斎の自邸を訪ねてきたのは、そんな初夏の晩のことだった。
突然の来訪に驚く李斎に、阿選は少し眉を下げて遠慮がちに笑む。
「不躾ですまない。良い酒が手に入ったので、よかったら李斎殿も一緒にどうか、と」
「まあ。ありがとうございます」
下官に酒席の用意をするよう伝え、阿選を邸内に招き入れる。
窓から入る夏の夜風が阿選の黒髪を僅かに揺らす。酒盃を手に取る彼に、別段変わった様子はなかった。強いて言うなら少し痩せただろうか。驍宗がいなくなった穴を埋めるべく彼は粉骨砕身動いている。疲れはあるだろうが、少なくとも周囲にらそれを見せるようなことは一度もなかった。
酒を交わしながら二人は取り留めもなく話をした。最近の世情、軍内部の動き、麾下から聞いた他愛もない噂話。
どこでも服を脱ぎ散らかすという麾下の話を聞いてひとしきり笑った後、ぽかりと空いた沈黙の間を埋めるように、李斎は言葉を溢した。
「驍宗殿、今頃どうしておられるのでしょうね」
意識していたとしか思えないほど、会話の中に一度も出てこなかった人物の名を、これ以上避け続けることはできなかった。恐らく、阿選は彼の話をするために来たのだろう、と李斎は感じとっていた。
阿選は黙したまま、盃の中の揺れる酒を見つめている。沈黙の静けさの中、開け放した窓から微かに雲海の潮騒が聞こえてきた。
「…私が驍宗と初めて会ったのは、禁軍の師帥になった翌年のことだった」
盃の縁に指を添えて、阿選はぽつり、と話し始めた。
瑞州の外れで広がった暴動の鎮圧のため、阿選は一師を率いて駆けつけた。そこですでに対応に当たっていた州師の中に驍宗がいた。
「顔を合わせたのは僅かな時間だったが、すぐにあの男が驍宗だとわかった。彼の噂は耳にしていたからな。──面白い男が現れた、と思ったものだ」
暴動の混乱の只中にあって、驍宗の動く姿は際立っていた。剣の腕の凄まじさばかりではなく、兵卒を動かす采配に一分の隙もなかった。
当時驍宗は大学を出て旅帥に抜擢されていた。阿選が辿ってきた道と同じように。
「お二人ともお若い頃から優秀だったのですね」
李斎は感嘆の息を吐く。その言葉は何の含みもない心からの称賛が込められていた。だが、それが今の阿選にはどこか痛みを持って響く。自嘲めいた笑みを浮かべて押し黙る。
李斎の言うとおり、驍宗も、阿選も他の存在より明らかに秀でていた。自分と比肩する者が現れた、そのことに当時は喜びを覚えていたのだ。誰一人着いてくることができない場所を阿選は一人孤独に歩んでいた。そこに同じ速度で歩む存在を見つけた、その喜び。なのに、何故──。
その日から、阿選は度々李斎の邸を訪うようになった。
邸内で酒を酌み交わしながら、阿選は訥々と己の内を語る。
視線を落としたままどこか遠くを見つめて話す阿選の顔は、表情に乏しい。だが、時折その瞳に僅かな色が浮かぶように見えた。失った恋人を惜しむような哀切とした色。親に置いていかれた子供のような途方に暮れた色。
あるいは──月明かりも届かない昏い地の底のような色。
夜道が妙に明るい晩だった。
その日も、阿選は李斎の邸に足を向けていた。
何故李斎だったのかはわからない。ただ、自分の心を打ち明けようと考えた時に、咄嗟に浮かんだのが彼女の顔だった。長くを共に過ごしてきた麾下たちは信頼しているが、この淀んだ感情を吐露することはできない。それは阿選の矜持が許さない。他の将軍や知己にも話すことはできなかった。話したところで理解してもらえるとは思えず、阿選を軽蔑し陰口を言うか、反対に媚を売って驍宗を貶すか、どちらかしかしないだろう。
李斎ならば──何も言わずに聞いてくれるのではないか。そんな風に思ったのは、彼女がまだ白圭宮に来てから日が浅く、この朝の中に漠然と存在する派閥──驍宗派か、阿選派か──のどちらにも属していないように見えたから。そして、もう一つ、阿選には李斎に問うてみたいことがあった。
阿選が邸を訪ねると、下官が心得たように案内する。いつものように起居いまに向かおうとしたところで、李斎が回廊からやって来た。ちょうど良かった、と阿選に微笑む。
「阿選殿、良かったら今日は外に出ませんか?」
李斎は院子なかにわを指し示す。
「こんなに月が綺麗な晩ですから。今宵は月見酒としましょう」
言われて阿選は空を見上げた。満月だったのか、とその時初めて気づいた。どうりで夜道がいつもより明るいわけだ。
よく手入れされた院子に卓と椅子が並べられていた。阿選が腰をかけると、なじみの下官が盃に酒を注ぐ。盃の中で水面にまるい月が浮かんでいる。
阿選は盃に手を添えたままじっと水面の月を見つめている。李斎は彼に言葉を促すようなこともなく、自分の酒盃に口を付けた。
阿選は李斎の姿に視線を向け、ようやく口を開いた。──聞いても良いか。
李斎は盃を手に持ったまま、首を傾げて阿選を見る。
「李斎殿が瑞州師将軍に任命された朝議の直後、心ない言葉を声にしていた者たちがいた。貴女はその声を聞いていたはずだ」
ああ、と彼女は思い出したように一つ頷いた。
「何故あの時動じなかったのか」
意外なことを聞かれたと思ったのか彼女は目を瞬き、少し考え込むように盃を卓に置いた。
「…あのような謗りや侮りは軍に入ったばかりの頃から、幾度も聞いてきました」
軍の世界はどうしても男が多く、女の武人は少ないですから、と李斎は続ける。
「私も若い頃はかっとなって相手に殴りかかり、危うく流血沙汰になりかけたこともありました」
「血の気が多かったのだな」
昔の話ですよ、と彼女は小さく笑ってみせる。
「謗りを受けるたびに悔しさを抱いて、いつか見返してやる、とその怒りを原動力にしていた時期もあります。戦場で功を挙げ、昇進して──でも上へ上へと進めば進むほど、むしろ中傷の言葉は増えていく」
阿選は頷く。自身にも覚えのある経験だ。妬み嫉みから心ない言葉で貶めようとする連中。
「でもいつからか、あまり気にならなくなった。慣れてしまった、というにもありますが、それよりも──」
李斎は言葉を探すように、杯の中を見つめる。こう思うようになったのです──
「私が私であることに、他人がとやかく言おうとも、それは私自身にはあまり関係ないことなのではないか、と」
李斎は顔を上げる。
「私は女です。私の行いや言に不満や批判があるのであれば、それを直しようもありますが、私が女であることはどうあっても覆すことはできません」
性別だけでなく、今の私があるのは私自身がこの身体で歩いてきた長い路があったから。それを他人の言葉でそう簡単に崩せやしない。李斎は静かにそう語った。
凛と顔をあげた李斎の瞳には、確かな強さがあった。人の言葉に惑わされることのない、しなやか強さが。
李斎は決して傷ついていない訳ではない。何度も傷つきそこから何度も顔を上げ立ち上がってきた──彼女が得た強さだ。
李斎の姿が眩しく、阿選は僅かに顔を歪めて俯いた。盃の縁を指でなぞる。
「……驍宗が下野し、私は安心したのだ。これであの男と比べられることもない。だが実際は皆いなくなった驍宗の姿を私に重ねて見る」
驍宗の影──
阿選の周囲に常に纏わりついていた暗黒。驍宗がいなくなっても尚、それは阿選にしがみつき、やがてその暗黒に塗りつぶされた己は輪郭を失い、本当の影に成り果てようとしている。
これは嫉妬なのだろうか。嫉妬であれば良かったのに、とも思う。驍宗を貶し、あの男は尻尾を巻いて逃げ出した腑抜けだ、と口汚く罵り、それで溜飲を下すことができるような単純な感情ならばどれほど良かったか。
驍宗の影であり続けること。その暗黒に眼前は塗りつぶされ、喉が凝ったように息ができない。
「私、は──」
阿選は低く声を吐き出す。
彼の手が添えられている盃の中で、月が揺れている。李斎は咄嗟にその手を握った。李斎のそれより少し大きな骨ばった手。
──阿選の手は震えていた。
「私は今、──苦しい」
奥底からようやく絞り出した言葉は、掠れてほとんど音にすらなっていなかった。だが、李斎は確かに彼の叫びを聞いたのだ。暗黒に塗りつぶされた彼の叫びを。
「阿選殿、私は貴方の苦しみを本当の意味で理解することはできません。でも、これだけは言える」
李斎の両の手で彼の手を強く握る。少しでもその震えが止まるように。
「貴方は阿選殿です。他の誰でもない。人が何を言おうと、貴方は誰かの代わりなどではない」
静かな、けれど強い声だった。
阿選は瞑目し唇を噛み締めた。震えは止まらない。眼前を塗りつぶす暗黒も消えない。だがその昏く凝った闇の中に僅かな明かりが浮かんだように見えた。
盃の中で、朧に揺れる月明かりのように。
了