一
蝉の声が橙の空に染みわたるように響く夏の夕暮れ、少年が一人、バス停のベンチに座り込んでいた。彼は足下から伸びる長い影を見つめて、溜息をつく。
進路のことで母親と口論になって家を飛び出してきた。彼は冬に高校受験を控えている。親に相談せずに志望校を決めたことが、母は気に入らなかったらしい。
もう何もできない子供じゃない。どうか放っておいてほしい──彼がそう言うと、母はいつものように声を震わせた。
どうしてお前はそうなの。私がどれだけ心を砕いて育ててきたか、ちっともわかってくれない──お前は死にかけた子だから。
そう言って泣き出した母を見ていられず、家を出て街を歩き、適当なバスに乗った。終点のバス停で降りてから、もう小一時間ほどこうしてベンチに座り込んでいる。
母が彼に対して過干渉になるのは、彼が一度死にかけた経験があるからなのだろう。それは充分にわかっている。不自由なく育ててくれた恩も感じている。それでも、母を煩わしいと思わずにいられなかった。
こんなとき、決まって思い出すのは、いつか見た美しい風景だ──白い花が咲いている一面の湿原。淡い水色にいろんな色が溶け込んだような空。人懐こい魚や小鳥たち──
彼の、故国。
結局のところ、彼は人と交わることが苦手だった。学校にいても、家にいても。親に、クラスメイトに、教師に絶望する度に、彼の「故国」への望郷の念は強くなった。
──帰りたい──
心の底から、そう思った。
もう一度溜息をつきそうになったところで、彼はふと顔を上げた。バス停の前を通りかかった女の子が、きょとんと首を傾げて彼の顔を見ている。
心の中の思いが、声となって出ていたのだろうか。気まずい思いで視線を逸らし、後ろ髪を掻く。
少女の方もまた、視線が合ったことに驚いたのだろう。慌てたようにバス停のそばから歩き去っていく。
何とはなしに彼はその背を見送った。高学年くらいの小学生だろうか。夏休みの時期だから学校帰りではないだろう。大きな手提げ鞄を持っていたから、習い事の帰りだったのかもしれない。やや色素の抜けた髪色の三つ編みがその背に揺れていた。
二
暗い室内に青い光が揺れている。揺らめく光の中に、大きな銀色の魚が泳いでいた。彼女は思わず、自分の背丈の倍以上もあるその大きな水槽の前で足を止めた。
中学の校外学習で都内の水族館に来ているところだった。季節柄なのか、他の学校の生徒や児童達もいるようで、はしゃぐ子どもの声が館内のあちこちから響いていた。
子ども達の声にややかき消されながら、巨大水槽の展示室の天井から音声ガイドの穏やかな声が降ってくる。
──太古の昔、生命は海から誕生しました。我々人間にとっても、海は故郷と言えるでしょう──
銀色の魚達はまるで何百年も前からそこにいるかのように悠然と青い光の中を泳いでいる。その光景に圧倒されながら、ふと、頭の中にかすかな声が蘇った。
もう二年ほど前になるだろうか。
夏の夕暮れ、ピアノ教室からの帰り道に見かけた年上の少年。彼の前を通り過ぎようとした瞬間に、小さな声が聞こえたのだ。
何故こんな何でもないことを覚えていたのか、どうして今思い出したのかわからない。けれど、その声には確かに切実な願い思いを込めた響があった。
「帰り、たい…」
彼の呟きが思わず口から溢れた。声に出した途端、どっと胸の奥から大きな感情が押し寄せる。
何故、あの少年の言葉にこんなにも共鳴するのだろう。彼女は生まれてからずっと両親と共に都内に暮らしていて、引っ越しをしたこともない。帰りたいと願うほどの故郷などあるはずないのに。
止まることなく泳ぎ続ける魚の群れを見つめる瞳から、透明な雫が一粒零れ落ちる。
「中嶋さーん」
突然教師の声が聞こえて、彼女は驚いて振り返る。展示室の扉から担任教諭が顔を覗かせている。
「そろそろ時間だから、クラスのみんなをピロティに集めてくれる?」
「…はい、わかりました!」
彼女は慌てて室内を出ようとする。その背に、静かな声がかけられた。
「あの…」
振り返ると、そこには小柄な男の子が立っていた。白い顔が水槽の青白い光に照らされてぼうっと光っている。
見知らぬ顔の子だった。制服ではなく名札をつけた私服を着ていた。他校の小学生だろう。
「これ…」
差し出された彼の手には、桜色のハンカチが乗っていた。彼女のものだ。スカートのポケットからいつのまにか落ちたらしい。
「あ…ありがとう」
ハンカチを受け取りながら、か細い声で礼を言って顔を俯せる。気づかなかったけれど、彼はずっと同じ空間にいたのだろうか。泣いていた姿を見られていたかもしれない、と思うと恥ずかしかった。
男の子に背を向けると、彼女は逃げるように展示室を後にした。
三
去っていく女の子の後ろ姿を、彼はしばらく見つめていた。
そして、視線を水槽へと戻す。
小学校の臨海学習で訪れた水族館。クラスの他の子供達は皆それぞれグループになって館内を回っている。彼はその和からそっと外れ、一人でこの展示室にいた。その方が何も起きなくて済む──この一年で彼はそう学んでいた。
──我々人間にとっても、海は故郷と言えるでしょう──
一周した音声ガイドがまた同じ言葉を繰り返す。穏やかなその声を聞きながら、彼は小さく口を開いた。
「…かえりたい…」
魚の群れを見つめながら涙を一粒こぼしていたあの女の子。彼女が呟いていた言葉。
実際は声が聞こえるほど近くにいたわけではない。けれど、あの子はきっとそう言ったのだと、強い確信があった。
その言葉が、彼の中で何かを大きく揺さぶる。
失われた空白の一年間。どうしても思い出すことのできない景色。
帰りたい──
帰らなきゃ──
でも、何処へ…?