麒麟
麒麟
「まあ、なんて可愛らしい」
その声は柔らかなそよ風のように、彼の耳に優しく届いた。
白い小さな花がけぶるように咲く丘で、彼は彼の女怪にもたれ掛かってうたた寝をしていたところだった。そのすぐそばに控えていた女仙が、さっと立ち上がる。
「まあ、これは──塙麟、いえ、塙台輔」
「禎衛も、久しぶりですこと」
彼はぴくりと耳を動かす。近づいてきたその声は彼の知る声ではなかったが、不思議と胸の内になじむ暖かな声音をしていた。
「こちらが景麒ですね」
「はい。生まれて一年と半年になります」
衣擦れの音がして、彼の傍らに人が膝をついた気配がした。
「初めまして、景麒」
彼は細い首を持ち上げて声のする方へ目を向ける。紫の瞳に映ったのは、彼の鬣とよく似た色の長い髪を持つ人間の姿──いや、人ではない。彼の本能が告げる。その者が纏う気は自分と同じ、淡い金の光。人の姿をしているけれども、彼女は同胞だ。
彼がそっと鼻先を寄せると、彼女は微笑んでまだ短い彼の鬣に手を触れた。
「塙台輔は、何故蓬山に?」
「どうしても折伏したい妖魔がいたので──。この子です」
彼女が小さく名を呼ぶと、虚空から音もなく色鮮やかな鳥が姿を現した。一度大きく羽を広げ、ふわりと彼女の肩に止まる。
「まあ、鸚鵡ですか。これは珍しい」
「見つけるのも、折伏するのも苦労しました。戦う力は持たないけれど、妖力の強い妖魔なので…」
「塙麟は昔から使令を下すのがお上手でございましたね。黄海に行く度に、たくさんの妖魔を連れて戻っていらっしゃって…」
暖かく笑う女仙につられて、彼女も小さく笑みを溢した。肩に止まる鳥に目を向けて、嘴をそっと撫でる。
「主上は今、地方の再興に力を入れていらっしゃって。自ら余州に足をお運びになり現地を視察なさっているのです。主上が王宮を離れている間、この子がいれば主上のお言葉を直に冢宰、六官へ伝えることができます。その方が、政を迅速に行えると思ったので──」
鸞や青鳥を使えば言葉を伝えることはできる。けれど、翼を介する分、どうしても時間がかかってしまう。王が不在の間も滞りなく朝議を行うために、鸚鵡がいれば役に立つだろう、と彼女は静かに語った。
「民が速やかに救われる道を常に考えておられるのですね。塙台輔は民思いでいらっしゃる」
女仙の言葉に、彼女はわずかに目を伏せて俯いた。
「いえ……これは、建前で──本当は私の我儘だったのかもしれません」
自分の手元を見つめながら、彼女はちいさく呟いた。
「主上と離れてしまうことが寂しくて……遠く離れている間も、少しでもお話ができたら、と……」
彼女の白い頬にわずかに朱が差す。その様子を見ていた女仙は顔をほころばせた。
「麒麟にこんなにも慕われるなんて。塙王は本当に良き王でいらっしゃるのでしょう」
「はい──主上は大変素晴らしいお方です」
顔を上げて、そう言った彼女のかんばせは、輝くばかりに美しい笑顔だった。
景麒、と彼女は穏やかな声で彼に呼びかける。
「景麒。貴方もあと数年経てば王をお選びになれます。生国に下られたら、慶と巧はお隣です。どうぞ仲良くしてくださいね」
彼の鬣をそっと優しく撫でながら、彼女は言葉を紡ぐ。彼に語りかけながら、己自身の思いを噛み締めるように。
「貴方が、貴方の素晴らしい王に巡り会えるよう、祈っています。王のお側に在ることが、私たち麒麟の望外の喜びなのですから──」
彼はまだ幼く、人の言葉を上手く理解できない。けれど、彼女のその声は彼の心の中に確かな重みを持って降り積もった。
言葉は理解できなくとも、わかる。今、彼女は──自分と同じ獣である彼女は、とても幸福に満ち足りているのだ、と。
* * *
薄暗い堂室に、一頭の獣が四肢を折って横たわっている。
鎖に繋がれた足、真珠色の一角には赤く呪が施され、言葉も力も封じられた獣。
彼のそばに、一人の女が静かに近づく。彼──景麒は、首を持ち上げて彼女を見上げた。
彼の鬣とよく似た色合いの金の髪。やつれはてた白いかんばせ。その肌には幾つもの黒い痣が浮かんでいる。
まるで水鏡を見ているようだ、と彼は思う。
──失道の病。
ほんの少し前まで、彼もまた同じ病に身体を蝕まれていた。その時の苦しみが胸に蘇る。
身体の痛みなど、どうということはない。ただ、道を失った主を止められぬ己の不甲斐なさが、胸が裂かれるほどに苦しかった。
彼女が彼のそばに膝をついた。そのしぐさに、ふと、遠い記憶が朧げに浮かぶ。まだ言葉も知らなかった、幼い雛だった頃の記憶。同じように彼の傍らに膝をついた彼女は、彼の鬣をそっと撫でていた。幸福と誇らしさに満ちて輝く笑顔で。
その時彼女から掛けてもらった言葉を、彼は覚えていない。けれど、たしかに彼は彼女から希望と祈りを受け取ったのだ。麒麟という生き物が得る、幸福への祈りを。
景麒、と彼女は憂いを帯びた声で彼に呼びかける。
「景麒、私はまもなく死にます。私は、私の主上を止めることができませんでした──」
彼女は覚悟している。己の命運が尽きたことを、王と共に堕ちていく最期を──
それ以上の言葉はなかった。けれど、涙に濡れるその瞳が彼に伝えている。
──貴方は、どうか、貴方の王に再び会えますように──
彼女の肩に止まっていた鸚鵡がけたたましい鳴き声を上げて飛び立つ。俯いた彼女の顔が長い金の髪で隠れ、その合間から透明な雫が一つ滑り落ちていった。
人と獣の姿をもちて
天命を受け 王を見出す
誓約を交わし 王座に据える
選ばれし者を 命を賭して──…
王以外には膝を折らぬ
王にのみ従い
王と共に
────我らは、麒麟
ミュージカルを見て、あまりに塙麟が美しく、可哀想すぎて…思わず書いてしまいました。
治世50年。塙王は短いと言っていたけど、50年は長いよ。よく頑張ったよ、塙王も塙麟も。きっとその50年の間には、幸せな時間もあったと思うのです。
塙麟が王のために鸚鵡を使令に下してきた、というのは、にりんそうさんのXのポスト内容からお借りしました。どうもありがとうございました!