園林の草叢の中、大の男が地べたに這いつくばってじっと野草を見続けている。蓮花はそれを見てひとつため息をつき、彼に声をかける。が、本人は全く気づく様子がない。
「支僑さま!」
蓮花が声を張り上げると、彼はようやく顔を上げた。その鼻の頭にちょんと泥がついている。蓮花はそれを見て、しかめ面作っていたのも忘れてくすくすと笑い出した。
「もう、支僑さまったら。ほら、顔拭いてください」
笑いながら蓮花は手拭いを彼に手渡した。
「いったい何時間ここにいるんですか?昼餉も召し上がらないで」
「すみません…観察をしていたら、つい、時間を忘れてしまって」
「少し休憩なさってください。お茶を用意しましたから」
あまり根を詰めすぎると良くないですよ、と子供に諭すように蓮花が言うと、支僑は申し訳なさそうに笑って頭を下げた。
「そうですね、じゃあ…」
彼は蓮花を見て穏やかに微笑む。
「よかったら、蓮花さんも一緒に一休みしませんか」
園林にある池のほとりに、簡素な四阿が立っている。春の風が吹き込んで、卓の上の籐籠に小さな花弁がふわりと着地した。蓮花は用意していた茶器に湯を注ぎ、籠の中にある包みを開く。それを覗き込んだ支僑は顔をほころばせた。
「月餅ですか」
「ええ、…市場で売っていて美味しそうだったので」
頂きます、と支僑はにこにこしながら月餅を口にする。大人の男がこどものように菓子を頬張る姿を見て、蓮花は笑みを押し隠した。
「支僑さまって、甘いものがお好きですよね」
夕餉の後に茶菓子を出すと、必ず支僑が一番に手を出すのだ。
「ええ。甘味は頭の働きを良くしますからね。疲れているときは格別に美味しく感じるでしょう」
穏やかな風が吹いて、四阿の中に再び花弁が迷い込む。白い小さな花弁は、おそらく梨の花だ。
新王が登極してから半年ほど、民の生活が楽になったと言えるほどの変化はまだないが、天の気は確実に整い始めている。支僑たちの手伝いをしている蓮花にも実感できるほどに。鼠の冬の蓄えは昨年よりも少なく、春もたいぶ早く訪れた。妖魔が出た、という話も最近はほとんど聞かない。きっと今年も燕の雛がたくさん孵るだろう。
世の中が良い時も悪い時も、民の生活は続いていく。それを支えるための支僑たちの仕事を、蓮花は誇りに思う。
「お仕事に熱心なのはわかりますけど…少しは休んでくださいね。昨日もあまり寝ていらっしゃらないでしょう」
目の下に隈をつくっている支僑に、蓮花はつい小言を口にする。
「蓮花さんにはお見通しでしたか。雁から取り寄せた書物が興味深くて…つい読み耽ってしまいました」
蓮花が注いだお茶を手にして支僑は笑む。
「蓮花さんも、無理しないで下さいね」
蓮花はきょとんと支僑を見返す。
「この月餅、私や清白の手伝いの合間に蓮花さんが作ってくれたのでしょう?ありがとうございます」
買ったものではなく、手作りだと支僑には気づかれていたのだ。蓮花はやや顔を赤くして俯く。
「とっても美味しかったです。ごちそうさま」
春の午後、池の水面は日差しに輝き、晴れた空からひばりの鳴き声が聞こえていた。長い波乱のときを乗り越え、ようやく訪れた慶の春は今、穏やかに人々の心を包み込んでいく。