細く小さな雪片が薄暗い空から舞い落ちる。外套についた雪を払って、青年は里家の戸を潜った。雪の降るの黄昏時、色味の乏しい外の世界と対照的に、火を焚いた家の中は暖かな色に満ちていた。
「寒かったでしょう。どうぞ火に当たって」
この里の里宰である中年の女が、彼を手招きする。
「すみません、突然に」
「いいのよ。この天気の中、次の里まで行って宿を探すのは大変でしょう」
たいしたもの出せないけどゆっくりしていって、と彼女はふくよかな顔に笑みを浮かべた。
里家の奥に続く扉から、ふたつ、三つと小さな頭が現れ、ひょこりと顔をのぞかせる。人の気配を察して里家の子供たちが集まってきたようだ。
「お客さん?」
「そうよ。旅の方ですって。今晩泊まるからお世話してあげてちょうだい」
はーい、とこどもたちは声を揃えて返事をする。
青年が雪除けに被っていた頭巾をとると、鋼色の長髪がさらりと溢れる。それを見ていた少年が、わぁ、とちいさな声をあげた。
「お兄さん、綺麗な髪色だねぇ」
微笑んで礼を言うと、少年もはにかむように笑って外套を受け取った。雪に濡れたそれを火のそばに掛けて乾かす。その間にもう一人の子供が湯を汲んで持ってきていた。その後ろによちよち歩きの幼子がついて歩いている。
「どうぞ!」
子供が湯を青年に手渡すと、幼子も真似をして手を差し出し、どーぞ!と高い声をあげる。
「ありがとう。みんなお手伝いができてえらいね」
「そりゃぁ、この時期だものね」
里宰が笑い含みに言う。
「子供たちみんな、よく働いてくれるし、喧嘩や騒ぎをおこすこともないし。朝は競い合うように早起きしてくるよ。冬至が近いからね」
一瞬首を傾げた青年に、子供たちは笑顔を浮かべて一斉に話し始めた。
「冬至の夜にはね、山馳さんたさんが来るんだ!」
「良い子にしていないと、山馳さん来ないんだよ!」
冬の一番長い夜に、遠い山の向こうから空を馳せてやってくる聖人──山馳さんた。彼は良い子で眠っている子供たちに贈り物を授けてくれるという。この国に伝わる口承の一つだ。
「さんたさんはね、しろいおぐしで、おめめはあかいの」
「空を飛ぶ黒い鹿に乗ってくるんだよ」
去年はみんな木彫り細工のお人形を貰ったのだ、と話していた子供が青年の顔を見上げる。
「お兄さんも、山馳さんから贈り物もらったことある?」
青年──泰麒は微笑んで頷いた。
「うん、あるよ。もうずいぶんと昔のことだけど──」
彼は遠い記憶のかなたに思いを馳せる。
蓬莱における生家ではクリスマスツリーを飾ることもケーキを食べることもなかったが、毎年クリスマスイブの夜にサンタクロースからの贈り物が届いていた。
クリスマスの朝、枕元に置かれたプレゼント。それがサンタクロースではなく両親が用意してくれたものだと彼は幼いうちから早々に気づいていたが、弟は無邪気にサンタが来てくれたのだと信じていた。ちょうど今目の前にいる子どもたちのように。
プレゼントの内容はさほど高価なものではない。文房具や、特撮ヒーローのカード、怪獣の人形、お菓子の詰め合わせ。しかしそれらは彼と弟にとって特別な日に貰える特別な宝物だった。
贈り物を握りしめて喜ぶ彼らを見て、子どもを甘やかして…と祖母は顔を顰めていた。またいつものように母は肩身の狭い思いをするだろうと思うと彼は心が傷んだが、それでも両親が自分たちのために贈り物を用意してくれたことが、純粋に嬉しくありがたかった。
十の頃に一年こちらの世界で過ごし再び蓬莱に戻ってからのクリスマスは、あまりよく憶えていない。戻って最初の冬はプレゼントがあったのかもしれない。しかし、その翌年には恐らくなかったはずだ。その頃にはもう、家族の関係が修復できないほど歪みはじめてしまったから。
元号が明幟となり暫く経った頃、年の暮れに行われた宴の席で蓬莱での思い出を親しい官に零したことがあった。蓬莱では冬至を少し過ぎたころにクリスマスという行事があって、良い子にしていた子供たちにサンタクロースという聖人が贈り物を届けてくれるのだ、と。
酒の席で口にした他愛もない話の一つだったが、それを聞いた官はいたく感銘をうけたらしい。翌日の晩、自分の子供の枕辺にこっそりと贈り物を置いたという。やがてその風習は白圭宮に広まり、いつしか城下にも伝わった。数十年と時が流れるうちに、戴の民の間で冬至の文化としてすっかり定着してしまったのだ。
しかも民に話が伝わる過程で、当時出回っていた王の姿絵と混同され、サンタクロースの赤い服と白い髭はは赤い目、白い髪に変わり、さらに空を飛ぶトナカイに至っては麒麟信仰と混ざって一角の黒い雄鹿になってしまった。
そもそもクリスマスはキリスト教の祝祭だ。サンタクロースの慣習にしても、何かきちんとした謂れがあったはず。それが自分の軽はずみな言動のせいで、かなり捻じ曲がった文化に形を変えて国中に広まってしまったことに泰麒は困惑と罪悪感を抱えていた。同じ胎果の女王にそれを話すと彼女は微笑んで言った。
──気にすることないよ、高里くん
「うちなんて、私が蓬莱には好きな人にチョコレートを贈る行事があるって話したら、いつの間にか月餅を贈る行事になって市井に広まったし。ついでにキューピットの話もしたら、天女が舞い降りて相手の心を射止めてくれるっていう話になって、それがいつの間にか女子が男子に矢文を射て想いを伝える謎の奇習になっちゃったんだよね」
だから慶の大学では女子の方が弓射の成績が良いんだ、と彼女は明るく笑っていた。
袖を引かれて泰麒は物思いから還る。一番小さな子が、彼の顔を見上げて袖をひいている。
泰麒が膝を折って目線を合わせると、幼子は懐からちいさな木彫りの玩具を取り出して見せてくれた。4本足の黒い生き物、額には一角。子供は拙い言葉で、これに乗って山馳が来るのだと一生懸命話してくれる。自分の存在がこうして玩具になって子供たちに親しまれていると思うと、なんだかこそばゆい思いがした。
既に国中に定着してしまった風習を、今更否定してまわるつもりはない。長く寒い冬を耐えねばならないこの国では、こうしたささやかな楽しみが民の心の拠り所になっているのだ。
子供たちは火に薪を焚べながら、山馳が里にやってくる、と歌い笑い合っている。笑う子供たちの頬は火に照らされて橙色に染まっている。その様子を里宰の女が柔らかく目を細めて見守っていた。その様を見て泰麒はふと思う。
ああ、そうか。
もう遠く朧げな記憶──蓬莱でのクリスマスの朝、両親はきっと同じ顔をしていた。
サンタクロースが本当に存在するならば、それはきっと、子供たちにただ喜んでもらいたいというささやかな願いの形に違いない。
この国ではかつて、里木が枯れ果て廃里となった里が多くあった。
飢餓で子を亡くした親、固く身を寄せ合いながら凍死した親子、子供の亡骸を埋葬するため、泣きながら凍った土を掘っていた母親がいた。
子供が無邪気笑って過ごせる日々を思い描くことさえ難しい、そんな時代を経て、多くの悲劇が遠い昔のことになってしまっても、人々は願わずにはいられないのだろう。この子が笑って健やかに生きることができますように、と。
里家の外は既に日が落ちていた。暗い空から雪が舞い音もなく降り積もっていく。対してこの里家の中は暖かい。それはきっと、焚いている火のせいばかりではないだろう。
子供たちの笑う顔を見ながら、泰麒はそっと願う。蓬莱でも、この世界でも多くの人々が同じ願いを抱いている。
長く厳しい冬を抱えるこの国にとって、その祈りは確かな灯となるのだから。