クリスマスの憂鬱
クリスマスの憂鬱
白い雪片が花びらのように、窓の外に舞い始める。そっと触れた窓硝子はひんやりと冷たく、冬の訪れを感じさせた。
「ねえねえねえ、パートナー、もう決まった?」
「ううん、まだなの。どうしよう、あと二週間よ!」
「クレアがさっき上級生に呼び出されてたわ。誘われたんじゃないかしら」
「うそー!いいなぁー!」
少女たちの声が背後から響く。図書室の中なので、彼女たちなりに声を潜めているつもりのようだが、それでも女子特有の黄色い声は甲高く耳につく。窓際の席で本を読んでいたハーマイオニーはわずかに顔を顰めて、彼女たちに気づかれないよう小さな嘆息をついた。
三校対抗魔法試合に際して行なわれるクリスマスダンスパーティー。最近、談話室でも廊下でも教室でも──どこに行っても生徒たちが話しているのはその話題ばかりだ。
(図書室でくらい、静かにしていてくれないかしら…。マダム・ピンスに怒られるかもしれないのに)
少し刺々しい気持ちになってしまうのは、この話題があまり好きではないからだ。嫌いな話ならば、無視していればいいだけのことなのに、それができない。他寮の生徒たちの世間話でさえも気になって、過敏に反応してしまう自分自身に辟易していた。
落ち着いて本を読んでいられるような気分になれず、ハーマイオニーは数冊の本を抱えて席を立つ。その席の斜め後ろから、世界的有名なクィディッチ選手である少年がじっと見つめていたことに、彼女はそのとき気がつかなかった。
本の貸し出しの手続きを済ませ図書室を出る。グリフィンドール寮へ戻ろうとしたが、その足取りは重たかった。おそらく寮の中でも、先ほどと同じような会話がそこかしこでされているだろう。
ハーマイオニーとて、最初からダンスパーティーが嫌だったわけではない。マクゴナガル教授からこの催しについて話をされたときは、他の生徒たちと同じような気持ちを抱えていたのだ。クリスマスの晩にドレスアップして異性とダンスをする──思春期まっさかりのティーンエイジである彼らにとって、それは心ときめく特別なイベントだった。
ハーマイオニーは当初、親友であるハリーかロン、どちらかと一緒に行くことになるだろうと、単純に考えていた。しかしハリーは今チョウ・チャンのことが気になっている。もしかしたら彼女を誘うかもしれない。そうでなくても代表選手として見事第一の課題をクリアしたハリーは引く手数多だろう。となると、ロンとパートナーを組むことになる──そう思っていたのだが。
(…ロンったら、本当にもう…)
ロンが全く誘ってくる気がない、そのことに怒っているわけではない。一方的に誘われるのをただ待つくらいなら自分から誘えばいいことだ。実際、ハーマイオニーはロンに、一緒に行こうと声をかけるつもりでいた。それなのに──
──ミジョンの鼻のニキビ見たか?あれじゃ隣に立つパートナーが可哀想だ。それに、グレースの足は象みたいで、とても一緒にダンスなんか──
今朝、談話室へ入ろうとしたときに聞こえてしまったロンの話し声。あのまま聞き耳をたてていたら、自分の容姿についても何か言われていたのではないか、そう考えると腹立たしいやら、悲しいやらで声も出ない。ハーマイオニーはきつく唇をひきむすぶ。
(自分から女の子を誘う意気地もないくせに、よくあんなことが言えるものだわ!ロンなんか絶対に誘ってやるもんですか。絶対に──)
怒りに任せて足をふみ鳴らしながら階段を降りていた彼女は、階下まで降りるとふとその足を止めた。
(……でも、もし本当にロンと行かないとしたら、私…)
ハーマイオニーにはハリーとロン以上に仲の良い男友達はいない。まして、思い切って声をかけたいと思えるような気になる男子もいなかった。だとしたら、パーティーに一人ぼっちで行くことになってしまう──
沈んだ表情で溜息をひとつ漏らし、回廊の窓へ目を向ける。窓の外には音もなく雪の花が舞い散っていた。
「レイブンクロー、十点減点。…授業中の私語は慎むように先ほども注意したはずだが、君たちの耳には届かなかったのかね?」
底冷えのするスネイプの声が地下教室に響く。注意を受けた女子生徒たちは身を小さくして、蚊の鳴くような声で謝罪している。暗い瞳がぎろりと教室中の生徒を見渡した。
「…この教室で再び授業に関係のない会話が聞こえた場合は、連帯責任として諸君全員に罰則を課す──わかったらさっさと作業に戻りたまえ」
子どもが泣き出しそうな形相でスネイプが最後通告を出すと、教室内は水を打ったように静かになった。
今日のスネイプは機嫌が悪い──最も機嫌のいいスネイプなど見たこともないが──生徒たちは恐々としながら作業に戻っていく。
ようやく調合に集中し始めた生徒たちを見回りながらスネイプは忌々しげに溜息をついた。
(全く、くだらぬ行事に浮かれおって…)
ダンスパーティーにどんな装いで行くかを話していた少女たち。その前に注意した男子二人は、誰をパートナーに誘うかを密談していた。この数日ほど、似たようなくだらない私語を何度耳にし、減点してきたか。ホグワーツ中が浮ついた空気に包まれていて、身を入れて授業に取り組んでいる生徒などほとんどいない。
苛々とした感情を隠す事無く、いつもよりも眉間の皺を深く刻み、いつもよりも多い量の課題を言い渡す。チャイムと同時に授業を終え、研究室へと戻った。
杖を振って授業道具を片付けていると、遠慮がちに扉を叩く小さな音が聞こえた。スネイプは視線を向けることなく、入りたまえ、と扉の向こうの人物に返事をする。だが、なかなかその人物は入室してこない。訝しく思った彼が扉を開けると、そこには案の定、いつもの少女が立っていた。どこか、悄然とした表情を浮かべて。
「…入らないのかね?」
入室を促され、ハーマイオニーは失礼します、と頭を下げて部屋に入った。定位置となっているソファーに腰を掛けるも、心ここにあらずといった様子で浮かない表情をしている。明らかにいつもと様子が違う。
「君が手に持った本を開かずにいるとは珍しいな」
何かあったのか──と視線で問われ、ハーマイオニーは戸惑いつつ口を開いた。
「あの、クリスマスのダンスパーティーなんですけど…」
またもあのくだらぬ催事の話か、とスネイプは短く嘆息をつく。
「先生もパーティーにいらっしゃるのですか?」
「不本意ながら。教師は全員出席するように、と校長からお達しがあったのでな」
当日はおそらく羽目を外して騒ぐ生徒たちを監視する役目に徹するだろう、とスネイプは考えている。
そうですよね、とハーマイオニーは肩を落として呟く。その様子を不審に思い、スネイプは肩眉をあげて彼女に言葉の先を促す。
「…いえ、あの…もし先生がパーティーには行かず、この研究室で過ごされるのなら、私も一緒に居させてもらえないかなって思っていたので…」
「つまり、ダンスパーティーには行きたくない、ということかね」
ハーマイオニーは視線を落として小さく頷いた。
パートナーを伴わず一人でダンスパーティーに行っても、寂しいだけだ。ならばいっそこの研究室で読書をしたり勉強をしていた方が有意義ではないだろうか、と考えていたのだが、そもそも部屋の主であるスネイプがパーティーに出席してしまうのならば、ここにいることはできない。頼みの綱を失って、ハーマイオニーは途方に暮れる。意気消沈して黙りこんだ彼女は、ずっと思い悩んでいたことをふいに口にしていた。
「私って、女の子としての魅力がないのでしょうか」
「…は?」
普段は学術的な質問ばかりをしてくる少女が、突然思い詰めたような表情で零した問いかけに、スネイプは思わず間の抜けた声をあげる。
ハーマイオニーは靴のつま先を見つめながらぽつり、と話し始めた。扉越しに聞いてしまった友人の会話に腹をたてていること、まだダンスパーティーのパートナーが決まっていないこと──。
「女の子を顔で選ぶような発言にものすごく苛々したんです。同時にすごく悲しくなってしまって。だって、いつも一緒にいるのに、全く誘う気がないってことは、つまり…」
「自分に魅力がないのではないか、と考えたわけか」
はい、と彼女は項垂れる。彼女の姿を見下ろし、何故自分は女子生徒の悩み相談など受けるはめになっているのかと内心頭を抱えながら、咳払いをひとつする。
「君に魅力があるかどうかについては我輩が論断するべき事項ではなく、君の友人とやらの発言に意見を述べる立場でもないが。──君自身はどうなのかね」
「え?」
「君は、人を見目で判ずるようなことはない、と?」
「もちろんです。顔の善し悪しで人を判断するなんて、ありえません」
きっぱりとハーマイオニーは答える。その生真面目な表情を一瞥して、スネイプは厭味な笑みを浮かべる。
「ほう。素晴らしい持論だな。一昨年、防衛術の教授に熱をあげていた女生徒たちに聞かせてやりたいほどだ」
一昨年の闇の魔術に対する防衛術教師──ギルデロイ・ロックハート。彼の言わんとしていることに気づいて、ハーマイオニーは黙り込む。
「その教授が職員室で吹聴していたのだが、彼自身にまつわる問いばかりのテストで満点をとった生徒がいたとかなんとか」
黙り込むハーマイオニーにスネイプは追い打ちをかける。視線を逸らせていた彼女は、じとっと彼を上目遣いで睨む。
「……先生、意地悪です」
「意地悪で結構」
スネイプは鼻を鳴らして素っ気なく言う。彼の指摘を、ハーマイオニーは認めない訳にはいかなかった。確かに自分も、人を容姿で判断していたことがある。ロンのことを一方的に咎める権利はないだろう。
授業道具を片付け終えたスネイプは、デスクに向かい生徒たちのレポートの束に視線を落とす。羽ペンを手に取りながら、彼女に声をかけた。
「伝統行事だかなんだか知らぬが、ダンスパーティーなど子どもたちが馬鹿騒ぎするくだらぬ行事でしかない。校長の指示がなければ我輩が引き蘢っていたいところだ。君が本当に行くのが嫌だと思うのならば、この研究室の鍵を貸してやってもいい」
思わぬ申し出に、ハーマイオニーは顔を上げる。すでにレポートの採点に取りかかっている彼は、視線を手元にむけながら言葉を続けた。
「だが──これは単なる我輩の独り言だが──その馬鹿騒ぎに身を投じる事のできる時間というものは限りがある」
「…?」
「時間というものは、特に子どもが大人になるまでの時間というものは、本人たちが気づかぬほどに速く流れていくものだ。くだらぬ悩みに頭を抱えることも、今の君等にしかできない特権といってもいい」
生徒たちはまだ知らない。世間も、ごく一部の者を除いてまだ気づいていない。闇の時代の復刻はすぐ側まで差し迫っている。彼らが心から笑って過ごせる子ども時代は、この先あまりないかもしれないのだ。
「くだらない、と言って冷めた目でその馬鹿騒ぎから離れるのは、我輩の歳になってからでも遅くはない、ということだ」
スネイプが羊皮紙にペンを走らせる音が響く。ハーマイオニーはその姿を見つめていた。彼にしては珍しく──と言うのは失礼かもしれないが、老成した大人らしい意見を述べたので、なんだか毒気を抜かれてしまった。
「先生もパーティーにいらっしゃるんですよね…」
「つい先ほどそう言ったはずだが?」
ハーマイオニーの方には目もくれず答えたスネイプの顔を、彼女はじっと見つめる。
一緒に行ってくれるパートナーがいないのならば、いっそ、彼を誘ってみたらいいのではないだろうか──それは一瞬、とてもつなくいい考えのように思えた。教師を誘ってはいけない、というルールはなかったはずだ、おそらく。
「スネイプ先生、あの…!」
ハーマイオニーは勢い込んで立ち上がる。採点をしていた手を止めて、スネイプが怪訝そうにこちらを見た。その顔を見て彼女ははたと我に返る。
(…先生が踊ってくれるわけ、ないか…)
ダンスをするスネイプ教授など想像がつかない。誘ったところで間違いなく断られるだろう。
「……なんでもないです、すみません」
彼女はすごすごと椅子に座り直す。図書館から借りてきていた本を膝の上に広げ、読み始めようとしたが、その前にもう一度だけ彼の姿をちらりと盗み見る。
(…先生にも、私と同じくらいの年頃のときが、あったのよね…)
もちろん、当たり前のことなのだけれど。でも、少年時代のスネイプ、というものを今の彼から想像するのは難しかった。
──どんな男の子だったのだろう。今の彼の言う、くだらない馬鹿騒ぎや、悩み事に頭を抱えることもあったのだろうか。ちょうど今の自分のように。
翌日、ハーマイオニーは図書室から出ようとしたところで意外な人物から声をかけられ、ダンスパーティーの誘いを受けることになった。
クリスマスの晩、大広間に優雅な音楽が流れると、それぞれパートナーを伴った代表選手たちがダンスホールで踊り始めた。世界的に有名なクィディッチ選手であるビクトール・クラムに手を引かれ、青いドレスで身を着飾った少女が楽しそうに微笑んでターンしている。広間の隅にいたスネイプは、〈くだらぬ馬鹿騒ぎ〉に夢中になって楽しんでいる彼女の笑顔に目を向けて、微かな笑みを零した。