恐いくらいに星が綺麗な夜だった。
人々の間から口々に上る彼の名。信じられない知らせ。
ざわめきはさざ波のように広がり、いつしかスタンドは混乱の渦に呑まれた。
周りにいた女の子たちが高い声をあげて泣きじゃくっている。
セドリックが…!セドリックが……
人の声も音も全てが、遠い場所から響く耳鳴りのように聞こえた。
胸の中は驚きと悲しみでいっぱいだったのに
私はどうしても泣くことができなかった
学年末の試験も、大きな行事も終わり生徒たちはそれぞれの思いを抱え休日を過ごす。チョウもその一人だった。
あの最後の課題の日以来、校内は様々な噂が飛び交っている。おそらく寮の談話室も今頃その話題がまた持ち上がっているのだろう。彼女はどの話も聞きたくなかった。
仲のよい友人と一緒に図書室で読書をし、日常の他愛もない話に花を咲かせて廊下を歩く。
いつもと同じ一日。
窓の方をふと見やる。外はまぶしいくらいよく晴れていた。
穏やかな風が吹き、日の光に祝福された緑たちを優しく揺らす。
空はいつまでも青いまま、ゆっくりと時間だけが流れていく。
そう、 あの時から何一つ変わらないまま、時間だけは流れているのに──
「チョウ?」
友達がかけた声に彼女は振り返る。その表情は決していつもと違うようには見えなかった。
「ごめんね。ちょっと先に行っててくれる?」
「いいけど…」
「大丈夫。後からすぐに行くわ」
じゃあ、後でね と友人は手を振った。彼女も微笑みながら手を振り返す。
チョウはきびすを返すと、一人、その廊下を歩き始めた。
廊下の突き当たりまで歩くと、その先にある小さな教室にたどり着く。
きしむドアを開け中に一歩入ったが、誰も人はいなかった。
彼女はドアを開けたまましばらく立ちつくし、その教室の中を見渡す。
天井、壁、机、椅子、教壇、黒板、窓────
チョウは静かにドアを閉めて、その教室を後にした。
真っ白な雪が窓の外を埋め尽くす12月。
冬の空は常に曇っていて、地上と空との境目さえあやふやになる。
教室の中と違い冷たい空気と風が通る廊下は、吐く息も白くなるくらい寒かった。
チョウは教科書の入っている鞄を抱えながらその廊下を歩いていた。
突き当たりの小さな教室の前にたどり着くと、ゆっくりとドアを開ける。
中には一人、背の高い少年の姿があった。
「セドリック」
チョウのかけた声に彼が振り返る。彼女は机の間を縫って、セドリックの側まで近づいた。
「ごめん、急に呼び出したりして」
「いいのよ。どうしたの?」
彼は何か言おうとして一瞬口を開きかけたが、言葉にならなかったようだった。
決心をつけるように一呼吸おいてから話し出す。
「実は、今度のダンスパーティーのことなんだけど」
いったん言葉を切ってからセドリックはチョウの瞳を見つめた。
「君さえよかったら、一緒に来てもらえないかと思って」
「えっ…」
チョウは驚いて声をなくす。
セドリックとは去年クィディッチの試合で対戦して以来、仲がよかった。
でも、ハッフルパフ生だけでなくホグワーツの中でも人気があり、今年代表選手にまで選ばれた彼にこんな風にパートナーに誘ってもらえるなんて思ってもみなかったのだ。
チョウが言葉に詰まったのを見て、彼の表情が不安そうに陰る。
「だめ、かな」
彼女はあわてて首を振った。
「そんなこと」
心臓の鼓動が早鐘のように鳴っている。どうにかそれを落ち着けてチョウは素直に気持ちを伝えた。
「誘ってもらえてすごくうれしい」
その言葉を聞いたとたん、緊張ぎみだったセドリックの表情が和らぐ。
チョウが始めて見た彼の心からの笑顔だった。
さっき歩いた廊下をまた歩いて、今度は階段を二つ下った。
そうすると、ちょうど大広間の前にあるエントランスホールにでる。
大広間から、スリザリン生が二人ほど出てきたところだった。
一年生だろうか、楽しそうな笑い声をあげながら自分たちの寮へと戻っていく。
彼女は何かを探すようにゆっくりとあたりを見まわす。
「素敵なクリスマスをありがとう セド」
クリスマスのダンスパティーは大成功に終わった。
エントランスホールは大広間から出てきた生徒たちがあふれ、色とりどりのドレスローブでいっぱいになっていた。
「こちらこそ すごく楽しかったよ」
セドリックは清潔に微笑む。
チョウは女の子の中でも小柄な方だったが、今日はすこしヒールの高い靴を履いている。
その分いつもより少しだけ、彼を近くに感じられるような気がした。
それでもセドリックの方が頭一つ分背が高く、ダンスをするときは彼女の華奢な肩を抱いてやすやすとリードしていた。
彼女の動きに合わせ白いドレスローブの裾が揺れ、ターンをするたびに胸元につけた銀色のブローチがきらりと光った。
踊っている間中、セドリックは優しい眼差しでずっと彼女を見つめていたし、チョウも彼の深い灰色の瞳から目を離すことなどできなかった。
「それじゃ」
「うん おやすみなさい」
「おやすみ」
セドリックは少しかがんで、彼女の額にちいさくキスを落とした。
チョウはホールを後にすると、西の塔へと向かった。
最上階へと続く階段を一歩一歩上っていく。ふと数段先を見やると、開けられたままの窓から迷い込んだ木の葉が、ゆらりゆらりと舞いながら落ちていた。
彼女はその段まで上ると、窓の桟に手をかけて外を覗く。
綺麗に刈られた鮮やかな緑色の芝。大きな菩提樹がつくる木陰。
菩提樹の枝や葉と葉の間からこぼれる春の日差しが、木陰に模様を作っている。
セドリックもチョウもその木陰に腰を降ろして木の幹に寄りかかっていた。
「このあいだの課題のときは本当にびっくりしたよ。まさか君が囚われているなんて思わなかった」
「少しは心配した?」
チョウが笑みを含んだ声で尋ねる。
「少しどころじゃなかったよ」
つぶやくように彼は言った。
風に舞った木の葉が二人の前をゆっくりと通り過ぎていく。
「今度の課題は迷路なんでしょう?」
「そうだよ」
「ハリー、すごくがんばってるみたい。友達と一緒に呪文の練習しているのを最近よく見かけるの」
「僕もおちおちしていられないな。ハリーとは今、同点だしね。フラーや、ビクトールも強敵だから」
彼の手の甲に軽く手を重ねて「自信は?」と聞いた。
「…わからないな。でも、できるだけのことはやる」
青空を見つめる彼の瞳には強い意志がこもっていた。
塔の最上階まで階段を上ると、半円の形をしたバルコニーがある。
チョウは少し切れた息を整えながらそのバルコニーに出た。
心地よい風が彼女のローブをはためかす。
頬に張り付いた髪を払いながら、目の前に広がる曇りのない青空を見つめた。
数日前、最後にここへ来たときはたしか夜だった。
その次の日の夜と同じ、恐いくらいに星の綺麗な夜だった。
「好きだよ」
「君のことが好きだよ チョウ」
突然のセドリックの言葉にチョウは声を失う。
自分の瞳を見つめる彼の表情はいつになく真剣だった。
彼女は何を言うべきなのか、言葉を探した。けどそれが上手く見つからない。
「ごめん 急にこんなこと言い出して」
セドリックは照れたように笑いながら額を掻いた。
「でもどうしても言いたかったんだ」
バルコニーから見える満天の星空は恐いくらいに綺麗だった。
ひんやりした夜風が吹いてローブが少し揺れた。
「そろそろ中に入ろうか」
寒くなってきたしね と沈黙の隙間を埋めるように彼が言った。
階段を下りている間、二人はずっと黙ったままだった。
ついさっきセドリックに言われた言葉が頭の中を回っていて、それどころではなかった。
たぶんそれはセドリックも同じだったのだろう。
レイブンクローの寮へ続く廊下に出ると彼らは足を止めた。
「じゃあ おやすみ」
「おやすみ」
セドリックは彼女に背を向けて反対側の廊下を歩いていく。
彼女はその背中を思わず呼び止めた。
「セド」
彼が振り返る。
チョウは口を開いた。
言おうとしていた言葉が、一瞬の空白にまぎれて消えてしまう。
「明日の課題、がんばってね」
セドリックはいつもと同じ優しい笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
いつもと同じ優しい笑顔を残して
いつもと同じ優しい声を残して
彼は去っていった。完璧な後姿で。
私もあなたのことが好き、と
どうしてあの時言えなかったのだろう
あの人のいない廊下
あの人のいない教室
あの人のいない大広間
あの人のいない中庭
あの人のいないグラウンド
あの人のいない、世界
「…セド」
「…セド……セド…」
彼の名を呼ぶ。何度も何度も呼ぶ。
もう二度と返事の返ってくることのない名
ついこの間まですぐ側にいたはずの人の名
世界中の誰よりも大好きだった人の名
私はその時、やっと涙を流すことができた。
流れて止まぬ無情なこの時のなかで
いつまでもここにいることはできないけれど
それでも、せめて今だけは
あなたのためだけに泣いていてもいいですか
fin