夏の翼
夏の翼
翼を広げる音が響く。力強く大地を蹴り、高く跳躍した彼が初夏の風に乗って舞い上がる。
地上は見る見るうちに遠ざかり、人里は既にもう小さい。晴れ渡った蒼穹を彼は彼女を乗せて天翔る。
白い毛並みの下から伝わる体温、ぴん、と立った黒い耳。全身が、嬉しい、楽しいと叫んでいる。
「飛燕」
名を呼ぶと、彼は得意げに鼻を鳴らした。その様子を見て李斎は笑みをこぼす。
彼の後ろ頭に額を寄せ目を閉じる。陽光を受けた豊かな黒い毛は、ひどく暖かい。
──私も、おまえと一緒に飛べて嬉しい──
小鳥の鳴く声が響く、よく晴れた空が広がっていた。
新緑の芽吹く木々の間を李斎はゆっくりと歩く。
長年の荒廃と戦の中にあったこの国を立ち直らせるべく身を粉にして働いてきたが、先日王から休暇を賜った。根を詰めすぎだ、という言葉と共に。
「少しは身体を厭え」
主君から直々にそう言われてしまえば、それを固辞するわけにもいかない。
鴻基山の中腹、軍の敷地内を李斎は歩く。練兵場を横目に通り過ぎ、若木の茂る木立を抜けると突如視界がひらける。緑の広がるなだらかな丘──主に騎獣の調練のために使われる場だった。今も、一組の騎獣と人の姿が遠くに見えた。まだ騎獣が人に慣れていないのか、あるいは人の方が騎獣に慣れていないのか。おそらくその両方なのだろう。背に乗ることはできるものの、そこから上手く飛び立つことができない様子だった。李斎はそれをぼんやりと眺める。
せっかくもらった休暇だ。友を訪ねたり鴻基に下りるなど、何かしようと思っていたのに、どうにも気が進まない。邸宅に引きこもっているのも何か違う気がして外に出て歩いてきたが、結局なじみのある軍の練兵場に来てしまった。
李斎は小さくため息を落とす。晴れた青空も小鳥の囀りもどこか遠くに感じた。気落ちの理由ならわかっている。夢を見たからだ──飛燕と一緒に空を飛ぶ夢。
空中で風に乗る感覚、暖かな毛並みの感触、飛燕と一心同体になって空をかけていた当時の記憶そのままに全てが生き生きと感じられた。目覚めた瞬間、どちらが夢か現実か、一瞬混乱するほどに。
目覚めた李斎は窓の向こうに広がる空を見つめ、やがて目を伏せた。
飛燕は、いない。飛燕はもう、いなくなってしまった。
あの戦いから、既に一年近く経つ。飛燕の死はとうに受け入れている。それでも、ふとした瞬間に胸が苦しくなるほどの痛みを感じた。寂しい、会いたい、と心の奥で声がする。どれだけの月日が流れようとも、決して忘れることなどできない。己の身体と心を預けられる唯一の相棒であり半身。
黒い瞳は光を受けて玉のようにきらめき、いつも小首をかしげるように李斎をじっと見つめていた。藁で体を拭いてやると嬉しそうに目を細めた。名を呼ぶと尾をふって、甘えるときにはよく鼻を鳴らした。匂いも暖かさもしぐさも、全て。思い出にするにはあまりにも生々しく、体に刻まれている。
飛燕は李斎が承州師の将軍になった折に得た、初めての自分の騎獣だった。出会った瞬間に、この子だ、と思った。
とはいえ、最初から全て上手くいったわけではない。飛燕は賢かったから流石に乗り手を振り落とすようなことはしなかったけれど、それでも思ったとおりに動けないということは多々あった。息が合っていない、己の意図が飛燕に伝わらない──いや、そもそも私が飛燕の心に寄り添えていないのだ、と気づき、李斎は将軍の業務の傍ら、できるかぎり飛燕のそばにいる時間を作った。朝、昼、晩と必ず厩舎に赴き、飛燕の世話をする。外に連れ出してよく山中を共に歩き、ときには厩舎の中でともに眠った。
幾つもの日々を共に過ごしてきた、その積み重ねが命を預けられるほどの絆を作ったのだ。
ふと、目の淵に浮かんできたものがあって、李斎は慌てて顔を伏せる。周囲に人がいないから、気が緩んでいたのかもしれない。
李斎は踵をかえす。やはり自邸にもどって休んでいた方がいい、そう思って歩き出そうとしたが、ふと顔を上げた。すぐそばに、佇む人の姿があった。
背の高い青年が、小首をかしげるようにして李斎を見つめている。
李斎は目を瞬いた。人が近づいてきた足音も気配も全くしなかった。気が緩んでいたとはいえ李斎は軍人だ。その李斎に気付かれることなく近づけるなど相当な手練れではないかと思ったのだが、目の前の青年は武人のようには見えない。背は李斎よりも頭ひとつ高く長身だが、少年のようなあどけない顔立ちと相まって、威圧感は感じられない。むしろ親しみやすい穏やかな空気を纏っている。きらめく黒い瞳と、白と黒の二色に分かれた髪色が何故か目についた。
唖然としていた李斎の前に、青年は手を差し出す。掌の上に佩玉がひとつ。李斎が身につけていたものだった。
「落としていたのか…ありがとう」
礼を言って受け取ろうとしたが、その前に青年は自然な動作で跪き、李斎の帯に佩玉の飾り紐を括り付けていく。李斎が呆気に取られているうちに青年は紐を結び終えて、これでよし、とばかりに李斎に向かって笑んで見せた。つられて李斎も笑ってしまう。
ありがとう、ともう一度彼に礼を伝えて李斎はその場を立ち去ろうとする。
「家に帰るの?」
声をかけられて李斎は振り返った。きらきらとした黒い瞳がじっと李斎を見つめている。
「ああ。今日は休暇だから。自邸でゆっくり過ごそうと思っている」
青年はしばし空を見上げて、もう一度李斎に視線を向けた。
「こんなにいい天気なんだ。家にいるなんて、もったいないよ」
休暇なんでしょう、と彼は眩しいばかりの笑顔を向けて大きな手を差し伸べた。またしても唖然とする李斎の手をとって、さあ、行こう、と駆け出す。繋いだ手に伝わるどこか懐かしい暖かさに惹かれて、李斎はおもわず共に走り出していた。
李斎の手をとって走り出した青年は、丘陵を抜けて木々の生い茂る奥地へと向かう。凌雲山は宮城や府第、官邸を有する巨大な山だが、人の手が入っていない山林も多く存在する。青年が向かったのはそういった林の中だった。背の高い木々と苔むした巨大な岩が転がる道なき道を、彼は羽が生えたかのように身軽に越えていく。体力に自信のある李斎でも、簡単には追いつけない。青年は先に進みすぎることはなく必ず李斎を振り返って、足場の悪い岩があれば当然のように手を差し出し李斎の身体を支えた。
そうして辿り着いたのは、沢の流れる浅い谷間だった。
木々の揺れる葉の合間からこぼれ落ちる日差しが、流れる水を輝かせている。雑音のない森林の中に響くせせらぎが耳に心地よい。李斎はほっと息を吐く。
青年は放り投げるように靴を脱いで、水の中に足を入れる。跳ねる水飛沫に歓声をあげて喜んでいた。子供のようなはしゃぎように、李斎は呆れながらも笑ってしまう。彼は飛沫にを髪に滴らせて李斎を振り返る。
「おいでよ。気持ちいいよ!」
「服が濡れるだろう」
「大丈夫。すぐに乾くよ」
李斎は青い空を見上げる。確かにこの天気ならば服の裾が多少濡れてもすぐに乾くだろう。
李斎は靴を脱いで、つまさきを水につける。ひんやりとした水の感触に目を細めた。
ああ、そういえば、と李斎はふと思い出す。飛燕は夏に川辺で水浴びをするのが好きだった。ざぶざぶと水の中に入り、川を泳ぐ魚を見つけて遊んでいた。
沢の中で遊んでいた青年は、今度は岸辺に繁る灌木を覗き込んでいる。彼は嬉しそうに李斎を振り返り駆け寄ってくる。李斎の目の前に大きな手を開いてみせた。
赤々としたまるい実がひとつ、ふたつ、みっつ。ユスラウメの実だ。
つるりと光るその小さな実を、彼はひとつ摘んで口に入れる。口を動かしながらにっこりと笑み、今度は赤い実をひとつ李斎の口元に差し出す。一瞬面食らった李斎だったが、見上げた青年の表情はいたって無邪気に、食べてみて、と伝えている。促されるままに李斎は赤い実を口に含んだ。噛んだとたんに甘酸っぱさが口の中に広がっていく。
「美味しいな」
李斎が言うと、青年は嬉しそうに頷いた。
残ったひとつを口に放り込み、青年は再び周囲に目を向ける。探索するかのようにあちこちの草木を覗き込んでいた彼が、ねえ、見て!と李斎を呼んだ。また何か木の実を見つけたのだろうか。李斎が近づくと彼は両手を広げてみせた。その上でうねるように動く茶褐色の…
「大きいミミズ!」
「……元の場所に戻してきなさい」
沢に流れる水のように、時はゆっくりと流れていく。二人は並んで岩の上に腰をかけ、素足を水につけたまま何も語らずに時を過ごした。こんなふうに穏やかな時間を過ごしたのはずいぶん久しぶりのような気がする。いつのまにか日は中天に差し掛かっていた。
李斎は青年に顔を向ける。
「よかったら、一緒に昼餉を食べないか?鴻基にいい店を知っているんだ」
夏の訪れを感じさせる季節、鴻基の街は賑わいを見せていた。
広途からひとつ路を入ったところに、その店はあった。目立つ店構えではないが、手入れの行き届いている小さな食事処だ。李斎が店内に入ると、店の奥から女将が顔を出した。
「あら、いらっしゃい」
丸顔に柔和な笑みを浮かべて李斎を奥の席へ案内する。
内乱の後、李斎の名は民の間に広く知れ渡った。隻腕の女武人というだけでどうしても目立ってしまうので、店に入るだけで過大な歓待をうけたり人が押し寄せてきたり、と食事をするにも苦労することが多かったのだが、この店は李斎の身の上を知りながらそれを表にだすことなく接してくれる。今のように、あまり人目につかない奥の座席に通してくれるなど、さりげない気遣いがありがたかった。その上、料理の味も確かなので、鴻基に降りた際はよく通っている。
李斎は青年を連れて奥の座席につく。青年は物珍しそうに店内のあちこちを見ていた。
茶を運んできた女将がちらりと青年に目を向け、李斎に小声で話しかける。
「李斎さま。もしかして──」
いい人なのかい?と声は出さずに口だけを動かして尋ねる。李斎は苦笑を浮かべて首を振った。いつもは麾下や瑞州師の仲間と共に訪れることが多いため、武人のようには見えない連れの姿が珍しかったのだろう。
食事が卓に運ばれてくると、青年は匂いを嗅ぐようにしばし皿を見つめていた。一匙口に入れると、とたんに目を輝かせる。
「美味しいか」
李斎が問えば、彼は口を動かしながら大きく頷く。そして勢いよく食べ始めた。その食べっぷりに李斎も思わず笑ってしまう。
口いっぱいに頬張る青年を見ながら、彼は一体何者なのだろう、と李斎は考える。早朝に軍の敷地内を訪れることができる者は限られている。だが、兵卒ではないことは確かだ。王師に所属する者ならば李斎の顔も身分も知っているから、こうも気安い態度はとれないだろう。官吏だろうか、とも思ったが、それも違う気がする。鴻基山に官邸を持つ官の家族なのかもしれない。
闊達で人懐こい性格の若者だ。そして、おそろしく身軽で足が速い。さきほど麓の雉門まで降りてくる際に彼は階段を駆け降りて行ったのだが、李斎は追いつくことができなかった。
突然現れた不思議な青年。彼は名乗らなかったし、李斎もまた名乗っていない。けれど何故だろう。ずっと前から彼のことを知っているような、ひどく懐かしい感じがした。
「お兄さん、美味しそうに食べるねぇ!」
青年の食べっぷりを見て女将が嬉しそうに笑い、おまけだよ、ともう一皿卓に置いた。青年は始終笑顔であっという間に二皿をきれいに平らげた。
店を出ると、二人はゆっくりと鴻基の街を歩きながら来た道を戻っていく。
歩きながら青年は李斎の手をとった。それがあまりに自然な触れ方だったので、李斎は驚くことなく彼の手を握り返した。二人でまるで子供のように手を繋いで寄り添い、広途を歩いていく。
空は高く澄んでいた。山の中腹から顔を上げても雲海の水は目に見えず、ただ、晴れ渡った蒼穹がどこまでも続いているようだった。
李斎はその蒼をぼんやりと見つめる。思いがけない一日だった。けれど、良い気分転換になったな、と思う。
今朝、李斎が青年と出会った丘陵地だった。青年は李斎の隣に片膝を立てて腰を下ろし、どこか遠くを見つめている。時折吹く初夏の風が青い草を揺らし、彼の白と黒の髪も揺らす。風を受けて彼は穏やかに目を細めた。その様子がかつての記憶に重なる。
飛燕もよくこうして夏の風を楽しんでいた。ふさふさとした長い尻尾を風に揺らし、気持ちよさそうに目を閉じて。厳しい冬を乗り越えてようやく訪れた夏の香りを、全身で感じているかのようだった。
青年が、あ、と小さな声をあげて、空を指さす。李斎も目を向けると、青空の中に一つの影が浮かんでいる。鳥ではない。もっと大きな獣とそれに乗騎する人の影。今朝、この丘で飛翔の訓練をしていた一組だ、と気づいた。
「やっと、飛べたんだね」
青年の言葉に李斎も頷く。おそらく朝からずっと何度も練習を繰り返し、ようやく飛翔に成功したのだろう。飛び方はまだどこかぎこちない。けれど、空に浮かんだ一頭と一人の誇らしげな表情が目に浮かぶかのようだった。
空を舞う影を見つめていると、昨夜に見た夢を思い出す。晴れた空を、飛燕と共に飛ぶ夢──
飛燕は空を飛ぶのが本当に大好きだった。白と黒の毛並みと大きな翼は、青い空がとてもよく似合った。
その事実を改めて感じる時、李斎は言いようのない苦しさを覚える。
軍人である以上、自分の命も相棒や仲間の命も戦で失う日がくるかもしれないと、重々覚悟はしていた。それでも──嬉しそうに空を駈けていた飛燕。もしかしたら、彼にはもっと他の生き方があったのではないか。
荒れた北国の軍人のもとで戦に身を投じるのではなく、もっと平和な国の中で騎獣として生きていたら。あるいは人の手に捕らわれることなく、黄海の空を自由に駆け回っていたら。
彼はもっと幸せに生きられたのではないか。
戦いの中で飛燕は何度も李斎をかばい、そして死んだ。李斎には飛燕の最期の顔を思い出すことができない。唯一思い出せるのは、動かなくなった翼。白い翼も黒い風切り羽も血で染まり、泥で汚れていた。あんなにも、青い空が似合う子だったのに。
胸の奥から迫り上がってきたものが、瞳から溢れそうになる。李斎は慌てて顔を伏せた。
「楽しかった」
隣に座る青年がおだやかに言う。そうか、それはよかった、と李斎は顔をそらしたまま言葉を返した。今日会ったばかりの名も知らぬ若者に、涙を見せるわけにはいかない。
だが次の瞬間、暖かなぬくもりが優しく顔に触れた。大きな手が李斎の両の頬をそっと支えている。悲しみに沈んでいた心を、やさしく掬い上げるように。
「今まで、ずっと、ずっと」
彼は小首をかしげるようにして、黒い瞳をじっと李斎に向ける。きらきらと煌めく玉のような優しい瞳。
「楽しくて、幸せだった」
こつん、と彼は額を寄せた。
「李斎がずっといっしょだったから」
触れ合う額から伝わるぬくもり。忘れることなどできない、懐かしいにおい、しぐさ、暖かさ。
「それを伝えたかったんだ」
彼はそう言って立ち上がる。呆然と動けずにいる李斎に優しい笑みを残して、彼は背を向ける。
待って、と声をかけようとしたが、上手く声が出てこない。丘を駆け上っていく青年の背を追って慌てて李斎も走り出したが、足の速い彼に追いつくことができなかった。
丘の上まで登った彼がそのまま下方へと降ってその姿が見えなくなる。李斎も同じように登ったが、そこから見渡せる草原のどこにも青年の姿はなかった。
突如、力強く羽ばたく音が聞こえ、李斎ははっと空を見上げる。だが、その目に映るのは吸い込まれそうな空の青ばかり。影一つ見えなかった。
ふいに──その青色に何か白いものがふわりと小さく滲む。それは夏の風に煽られて、空の青を泳ぐように──ゆっくりとゆっくりと、李斎の手元に舞い降りた。
一枚の、白い羽だった。
擬人化飛燕。忠犬というよりも、ちょっとやんちゃなパピーになってしまいましたが…
飛燕と李斎の話はいつか書きたいと思っていたので、形にできてよかったです。
驍李脳ですみません…