夏の青が、白圭宮の黒い甍の上にどこまでも広く続いている。
よく晴れた空を見上げて、泰麒は目を細める。
「いいお天気ですね」
隣にいた李斎も、同じように顔を上げている。
「ええ、本当に。もうすっかり夏でございますね」
鴻基は先日まで雨が続いていた。雨音と共に春が過ぎ、晴れ上がった空を連れて夏が訪れる。北国の夏は短いが、それ故に輝かしく美しい。
朝議を終えた泰麒は李斎と共に、仁重殿へと向かう。少しだけ遠回りをして内宮の裏手にある園林を散歩がてらに歩いていた。
王宮の内部ではあるがあまり貴人が通ることのないこの裏庭は、奄・奚たちの仕事場であり憩いの場でもある。木陰に座った庭師の男が黙々と鋏の手入れをし、青空の下、洗濯をする奚たちの軽やかな笑い声が響く。泰麒も李斎も、その様子を微笑ましく思いながら遠目に見る。宰輔と瑞州師将軍が現れたとなれば彼らを驚かせてしまうだろうから、声をかけることはしなかった。
夏の空に映える真白く大きな布地が、風にゆれてはためいている。長雨の間外干しすることのできなかった衾褥(ふとん)を綺麗に洗って干しているのだろう。夏の訪れを感じさせる爽やかな白い色が目に眩しい。
「鴻基の夏の様子も見てみたいです」
泰麒の言葉に李斎は頷く。ええ、是非今度街に降りてみましょう、と返事をしたその時だった。一陣の強い風が吹き上げ思わず目を瞬いた瞬間に、女たちの短い悲鳴が響いた。
何事かと李斎はとっさに視線を向ける。その視線の先に、青い空をふわり、と舞う白いふとんが目に映った。奚たちが慌ててそれを追いかけていく姿も見える。
「…風に煽られて、ふとんが吹っ飛んだようですね」
変事が起きたわけではないとわかって安心しつつ、李斎は眉を下げる。空を飛んだ布団は土の上に落ちてしまったようだ。せっかく綺麗に洗い上げたのに、あの様子ではもう一度洗い直しだろう。奚たちの苦労を気の毒に思いながら、李斎は泰麒に目を向ける。が、隣を歩いていたはずの泰麒がいない。慌てて振り返ると、半歩後ろで泰麒が蹲っている。
「台輔!?どうされました!?」
李斎は駆け寄り膝をつく。よく見れば顔を伏せた泰麒は細かに肩を震わせている。身体の不調だろうか。泰麒は政変の際に深い穢瘁に罹り、生涯にわたって続く不調を抱えている。
「お寒うございますか?お熱があるのやも。すぐに宮にお運びいたします」
李斎が声をかけるが、泰麒は黙って首を横に振るばかり。というよりも、声を出そうにも出せないようだった。先ほどから息を吸っては咽せるということを繰り返している。その様子がひどく辛そうで李斎は焦る。
兎にも角にもまずは近場の宮に運び休ませなければ。それから黄医を呼んで──李斎は泰麒を抱えようと手を伸ばしたが、当の泰麒が手を挙げてそれを制する。
「ちが、違うんです…だって、李斎が──…」
そう言ってようやく顔を上げた泰麒の目にはうっすらと涙が溜まっている。李斎はさらに顔色を失くした。
(泣いておられる……私のせいで……?)
「李斎めが台輔のお心を苦しめるようなことをしてしまったのでしょうか。本当に、本当にもうしわけございません──…」
深く頭を下げる李斎に、泰麒は首を振る。
「…そうじゃ、なくて。さっき、李斎が…」
泰麒は目尻の涙を拭きながら、言葉を紡ぐ。ひどく心配そうに彼を見つめる李斎の瞳とかちあって、そこで彼ははたと気づいた。
(そうか。言葉が違うんだ…)
泰麒と李斎が会話できるのは神仙の持つ翻訳能力ゆえだ。泰麒には李斎が日本語を話しているように聞こえているが、実際には彼女は蓬莱の言葉を話しているわけではない。李斎は同じ音を繰り返す言葉──蓬莱において定番すぎる駄洒落を言ったつもりは全くないのだ。
「李斎は何も悪くないです。ごめんなさい、ただ、ちょっと可笑しくて──…」
そこまで言うとまた思い出して泰麒は吹き出してしまう。今度は堪えきれずに声を上げて笑い出してしまった。
李斎もようやく、泰麒が身体の不調ではなく単に笑っていただけだったのだと気づいた。だが、何故そんなにも笑っているのか理由はさっぱりわからない。わからないが、涙をこぼすほどに笑い転げている泰麒の姿は、市井の若者となんら変わりがないように見えた。思えば、彼がこんな風に明るく笑う姿を随分久しぶりに見たように感じる。政変が起こる前、幼かった泰麒は明るい笑顔をよく見せる子供だったけれども。
笑いすぎてまた溢れてきた涙を泰麒は手の甲で拭う。声を上げて笑うなんて、もう随分と久しぶりだ。こちらに戻ってきてからはもちろん、蓬莱にいた七年の間もこんな風に笑うことなんてなかった。
隣にいる李斎は何が可笑しかったのかやはりわからないようで、首を傾げて泰麒を見守っている。その様子を見てまたくすり、と笑みをこぼしてしまった。
(こればっかりはこちらの人には伝わらないだろうから。今度中嶋さんに手紙を書いて知らせてみよう)
緩んだ頬に笑みを残して、泰麒は夏の空を見上げた。