旧助川西上町舞屋台
~豪華に削られた彫刻~ ~江戸時代から伝わる舞屋台~
旧助川西上町舞屋台は、助川鹿嶋神社の祭礼に江戸時代後期から助川村(当時)の本東町、西上町、中下町、南町の4町より各1台ずつ計4台が奉納され、村内を曳き歩き芸能を披露した祭屋台の1台である。
また同じく宮田村(当時)の鎮守神峰神社の大祭にも、旧助川の舞屋台は4台揃って助川ささらと共に参加し、賑やかに祭りを盛り上げたものである。
これらの舞屋台は、昭和20年(1945)7月太平洋戦争の戦災を受けて西上町の屋台を除く3台が焼失し、西上町の屋台1台のみがかろうじて残った。
旧助川舞屋台が4台揃って曳き出されたのは、昭和11年(1936)が最後で、この年は春の5月10日の神峰神社大祭のときと、秋の10月15日鹿嶋神社の社殿竣工遷宮大祭のときで、各町から曳き出された4台の屋台は、各々助川旭町や常陸太田、那珂湊、あるいは水戸、笠間方面から芸妓を招き、手踊りなどの芸能を披露しつつ、賑やかな祭囃子とともに町中を練り歩いたものであった。
構造・寸法その1
この屋台の規模は、高さ4.65m、幅2.93m、奥行き4.45mと
かなり大型のもので、屋台構造は二重組み立ての下土台に木製の車輪が取り付けられ、さらにその上に下土台の2倍もの高さの上土台が組まれている。この上土台は、舞台、楽屋を乗せたまま中央に回転できるようになっている。
構造・寸法その2
地上から上土台の上端までの高さは約2mで、上土台の枠組みの
上部には床板を張り、床面の周囲には勾欄(こうらん:手摺)が取り付けられている。勾欄の正面には、唐獅子の彫物が、中央・左右と計3頭、また側面中央には唐子の彫物が左右に一体ずつ計2体、さらに左右の角の擬宝珠(ぎぼうしゅ)のついた小柱には、青龍の彫物2頭が配されている。
構造・寸法その3
舞台と楽屋とは御簾(みす)によって仕切られ、その仕切りの上部の欄間には、錦鶏と遊ぶ童子11人と松竹梅の彫刻が配されている。
特にその中央部には、籠の中に錦鶏が遊ぶ様子が見事に籠彫されている。さらに欄干の上部には、葡萄の房と葉の間に遊ぶ栗鼠の姿が彫刻されてはめ込まれており、また欄干の下の御簾の左右の袖には、虎と竹が彫刻されている。
構造・寸法その4
部隊の正面と左右の3方には幕が下りるようになっており、それぞれの幕は舞台の天井に張られた綱よって、楽屋の中から操作されて上下するような仕掛けになっている。
楽屋には左右2枚ずつ格子戸が引き違いにはめられており、また楽屋の後方には出窓があって、ここにも格子戸がはめ込みになっている。
屋台の屋根の正面には、黒漆塗り唐破風が取り付けられ、その中央上部に飾り付けられた鬼板には、龍に乗り羽衣をまとって琴を弾く天女の姿が浮彫されている。
また、破風の拝みの下に飾りとして付けられた懸魚には、波間に遊ぶ亀の姿が浮き彫りされている。
この鬼板と懸魚は、その大きさと彫刻の見事さで、見る人を圧倒し印象深いものとなっている。
これらの彫刻の作者と思われる名前が、欄間の彫刻(錦鶏と遊ぶ童子)の裏面に、『総州産千葉権之助常胤後胤後藤重胤』と墨書きされている。
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旧助川西上町舞屋台保存会