管理栄養士
栄養サポートチーム専門療法士
栄養経営士
関西安陵会(大島高校21回卒・26代会長)顧問
関西龍郷会・会長代行・事務局長
関西鹿児島県人会総連合会広報委員
厚生労働大臣表彰
大阪府知事表彰
本栄養士会会長表彰 等
かたろうシマの宝・自然・文化
帰郷の海と空
飛行機の小窓から見下ろす奄美の海は、珊瑚礁のリーフに縁どられ、エメラルドグリーンからコバルトブルーに色を変えながら広がっている。空港に降り立つと、まず空気の違いに気づき、山や空を見上げては何度も深呼吸した。身体が「奄美に帰ってきた」と反応する。奄美は関西からは約1時間半のフライト。還暦を過ぎてからは冠婚葬祭で帰郷の機会も多く、便利になったと実感している。自然と利便性のはざま奄美群島が世界自然遺産の候補地となってからは、映像で紹介される機会が増え、奄美
大島は以前より身近の存在となった。しかし一方で、生活の利便性のために自然が姿を変えていく様子を目にして、複雑な思
いを抱いてきた。
方言と島唄の記憶
私の両親、長女の私も安木屋場生まれ。父は阿世知家の長男だが、二十五才のとき名瀬に転居。私はシマ口を話せないが、両親は常にシマ口で会話していたので、聞けば理解することはできる。ただし島唄の意味ははっきりとは分からない。それでも年齢を重ねるにつれ、不思議と懐かしく胸に響くようになった。進学のために奄美を離れて半世紀。幼い日の記憶や体験は、今でも鮮やかによみがえる。
安木屋場から名瀬への船旅
当時の主な交通手段は、安木屋場と名瀬を結ぶモーター付き板付け舟(漁船)だった。叔父が舟を白浜に乗り上げると、私達は裸足になり、スカートをまくり上げ、半分濡れながら舟に跨った。護岸のない時代、舟は安木屋場の立ち神を大きく左に回り込みように進む。そこは海流が渦巻く難所であり、叔父は「どうや」と得意顔をみせたのだ。東シナ海は、浅瀬では海底の珊瑚礁が透けて見えるが、沖に出ほど色は深まり、やがて海底は見えなくなる。舟が少しでも揺れる呑み込まれてしまうと不安であった。途中にトビウオが舟と競争するように飛び込んでくる場面もあったが、身動き出来なかった。名瀬の漁港に着く頃には、やっとついた安堵感と疲労感で睡魔に襲われた毎回の航路だった。
峠越えの道
もう一つの交通手段はバスである。本茶峠のくねくねしたデコボコの山道を登り、車酔いをこらえてようやく頂上にたどりつく。その後もカーブは続くが、峠と比較にまだ楽な道であった。ようやく終点の龍郷に着いたときは心からほっとした。そこからは、安木屋場には歩く過酷な道が待っていた。険しい山道を登り、尾根を進むと、やがて安木屋場の海岸を見下ろす山頂に出る。休憩し、再び下るとようやくシマにたどり着いた。先輩方から、「大島高校まで歩き、何度も往復した」と聴いていたが、私には想像さえできない、健脚でないと生活できなかったシマの時代である。
安木屋場への峠越え
山頂から見下す安木屋場の景色は、今も忘れがたい。水平線と珊瑚礁のリーフ、白い浜、立ち神、山側のソテツ。大人達はその景色を背景に背に、重い荷物をテルや大風呂敷に包み背負っていた。休憩した権現山から、神道を一直線状に下る。坂は滑りやすく、大嫌いな毛虫、蜘蛛やトカゲとも出会う、私には恐ろしい道であった。やがて龍郷から安木屋場まで道路が開通し、名瀬までの交通はバスが主流となった。現在は湾岸に安木屋場トンネルが開通、龍郷と安木屋場はさらに近くなった。かつて親戚一同が見送ってくれた安木屋場のバス停留場は、今も懐かしい場所として残っている。
海辺の学びと遊び
夏の干潮時には雄大な珊瑚礁のリーフが現れる。潮だまりには小魚や貝類が多く採れたが、祖母は「欲するな、他のチュウにも残せよ」と教えてくれた。夢中で採っていると「すぐに戻れ!」と声をかけてくれるイショの人や浜からの呼ぶ声もあった。潮は満ちるのが速い。珊瑚礁を歩くと崩れやすく、私はバランスを崩し、足はすりむいた。そこに海水がしみ痛んだ。先に歩く親戚の足下を見ながら、手は必死でスカートの裾を引っ張って歩いたことを覚えている。海や山に詳しい親戚や知人は、私にとっては大切なシマの先生であった。海辺には自然の遊具があふれていた。アダンの根っこを歩くとアマンが驚きガサガサと動きだす、それを一列に並べて競争させた。砂の上の乾いていないカ二穴を見つけ、糸を結びつけて競い合わせた、波と裸足で競争した。砂を掘ってかまどを作り、空き缶で炊いたご飯は格別な味だった。浅瀬のウニはおやつにして食べた。泳ぐのは、太陽の陽射しが強い昼間はさけ、朝か夕暮れに服のまま。大きな石にはキビナゴをつまみ食いし、怒られた。鬼ごっこでは、アダンやカジュマルの木にも登って隠れた。遊び疲れると木陰や手作りの小屋で休憩。どれも自然の中で育まれた子供達の遊びであったと考える。ウミガメの産卵時期には、電灯を持って浜に出かけ、ピンポン玉のような柔らかい卵を産み落とすのを幾度も観た。砂山から孵化した子ガメが海をめざし、波に押し戻され、這いずるのを「頑張れ、頑張れ」と心の声で叫びながら黙って見守っていた。今の安木屋場漁港の白浜は、かつてはウミガメの産卵場所でもあった。海辺で遊ぶ子供達を見守っていたのは、次の漁の準備する男たちや、海を眺めている年配の人達。海辺は談話室でもある。雲の流れや波の高さで、月の満ち欠けを読み取り、漁や行事を決めていた。まさにどの人もシマの気象予報士であった。女性の姿は少なく、夜遅くまでバタンバタンと機織りの音は響いていた。夕暮れに真っ赤に染まる空や海は、今でも表現できない美しさ、目にやきついている。夜に祖母と浜辺にゴザを敷き、寝転び満天の星を眺めた。これらは内地では絶対に見れない、経験できない贅沢な光景である。シマの住居は解放的、サンシンの音色は遠くまで響き、声かけなくとも自然に始まる宴と六調。小学6年までこのようにして遊んだ夏休みは、二学期が始まる数日前に名瀬に戻り、泣きながら宿題をするのが恒例の行事で、今でも想いだす苦い思い出です。
祈りと祭り
海は身を清める場所であり、神祭する神聖な場所でもある。浜下りや安木屋場では旧歴九月九日の今井大権現祭が行われ、航海安全や縁結びなどを祈る自然界の神々に祈りをささげる祭り。 ススキの穂で波の泡を救い、身を清め、159段の石段を登り神社に参拝する。参道は森林浴、社殿から眺める龍郷湾は古代から息吹を感じるさせる。今もシマが大切に守っている行事である。
自然がくれた贈り物
数年間、十月に蝉の鳴き声、安木屋場ではモンシロチョウの群れ、龍郷で色鮮やかなアゲハチョウ等の乱舞を目にした。初めての蝶々の舞に驚いた私に伯母は「毎年じゃが」と笑った。時々、近づき離れ、さらに舞う蝶々。自然を大事にしている、シマの方々に「ありがとう」のメッセージのように思えた。
いま思うこと
奄美には、まだまだ知らない自然や古代の文化が息づいている。波の音や風のざわめき、小鳥のさえずり、季節を告げる植物や生き物。 太陽、月、星,水、山の緑、海の色。自然とともにゆったりと暮らすシマの人々の生活は、見えそうで見えない、不思議な空間を感じさせてくれる。内地での私は、時間に追われ感謝の心も忘れていた。しかし退職後は、シマの空を見上げ、山、雲や星を仰ぎ、「ここは私が生まれたシマ」と確かめる事ができるようになった。自然にはどのような力もかなわないと教えてくれた亡き両親と先祖のまなざしを感じながら、私の身体の源である水、山、海などの大自然に感謝を覚える。渡り鳥や蝶そして鯨なども休む、繁殖するシマ。古代から人々が心豊かに暮らしたシマは、訪れる人々の心を癒す場所であって ほしい。 私はそのことを願う一人である。