平成28年熊本地震では,震度7の地震に二度見舞われた益城町の被害状況が酷く,近隣の市町村の被害は見えにくくなっていると言っても過言ではない.熊本市を中心とした観点から被害状況を見た場合,明治熊本地震(明治22年7月28日)の被害と重複するところが多いとの指摘がなされている.明治熊本地震については,祖母の地震体験の伝承を受けて,熊本明治震災日記(水島貫之著 明治22年十月発行)をもとに4回(20112−2015)にわたり紹介した.今回,改めて明治熊本地震の被害状況を,当時の「官報」をもとに精査してみたので紹介したい.
次図は,熊本県が中央政府宛に打った電報である.翌日官報の号外に掲載されている.電報の発震は午前4時10分発となっていて,熊本市街地は地が裂け,家は潰れ,4時間経っても鳴動が鳴りやまないと報告している.
官報 号外 明治二十二年七月二十九日 内閣官報局
○熊本市街大地震電報
昨二十八日午後十一時四十九分大地震市街處々地裂ケ潰家死傷等アリ鳴動尚ホ輟(ヤ)マス 本日午前四 時十分発 熊本懸
国立国会図書館デジタルコレクションにアクセスすると,官報の検索が可能.PDFファイルとしてダウンロードすることができる.第1824号 明治二十二年七月二十九日 月曜日
当初,金峰山(現 熊本市西区)が破裂したとの噂が広がり,中央から派遣された地震学者(前年に地震学会設立)は金峰山麓を中心に踏査している.同年12月,5か月後に官報に掲載された県の報告(資料)では,金峰山南東側に被害が多いことを指摘してはいるが,震源地に関しては書かれていない.当時,熊本には測候所は設置されていなかったため,地震計による振幅等のデータは存在せず,各地からの震度報告も五感に頼るものであり,観測時刻も統一的なものではなかった.下図は強烈震部(赤)を中心に烈震部,強震部,弱震部,微震部に分けて作図された「地震区域図」である.参考までに平成熊本地震の前震,本震の震度分布図を示した.
次図(左)は強烈震域を示した図である.同年4月に誕生したばかりの熊本市は青塗部分で,人口は 43000 人程度であった.現在の熊本市(右図)と比べると,非常に狭く,中央区の一部,東西はJR鹿児島本線と白川の間,南北は京町から熊本駅の間程度の面積であった.平成24年の政令指定都市移行後は北区,西区,東区,南区が誕生したが,これらには飽田,託麻,山本の旧郡部が含まれていることを考慮してデータを見る必要がある.少々見にくいが倒家,震烈地,崩壊,橋梁破損がそれぞれ記号で示されている.地震の程度を決定する際の目安は以下のように記している・
(以下 原文)更に強烈震部中に就き特に熊本地方の震度を概記すれは左の如し
(備考)前報にも報告せし如く熊本は測候所の設なきを以て詳細の震度等を測知すること能はすと雖も今回の如き大震に至りては転倒せし家屋の状況転落せし物品の重量及び其性質,地裂の大小,其方位其他地震学上緊要の調査あるに於ては政は概略の震動等を算出し得へからさるへきも未た此の如き計算を起すへき材料を得さるを以て?に報告に附きての実況を示すのみ
現在の熊本市域(山本郡,飽田郡,託麻郡と熊本市各区との対応は以下を参照)
旧郡域と現熊本市域の関係
山本郡 熊本市北区の一部,山鹿市の一部
飽田郡 熊本市中央区の一部,西区の全域,南区の大部分,北区の大部分(植木町各町を除く),宇土市の一部
託麻郡 熊本市中央区の一部(概ね白川以南),東区の大部分,南区の一部
参考資料 明治22年頃の熊本市(拡大図)
西側に井芹川,中程に坪井川,東側に白川に囲まれた部分と白川対岸の新屋敷が旧市街地.周囲は村に囲まれている.
官報に記載されている「潰家」,「半潰家」の数を比較すると.圧倒的に多いのは飽田郡(現熊本市の南北および西側)であることがわかる.平成地震で被害が大きかった託麻郡および上益城郡は意外に被害が少ない.
平成地震と明治地震を比較した結果,熊本市域では被害場所の重複が認められ,熊本城に至っては80%重複しているとの報道がある.明治22年地震の写真が公開されているので,熊本城西出丸石垣,坪井町見性寺墓地の写真について今回(Googleストリートビュー)と比較してみると,崩壊場所の酷似性に驚かされる.結論として,
と考えることができるようである.
平成熊本地震から1年が経ち,「明治熊本地震に学ばなかったのではないか」という論調が目に付く.例えば,
熊本地震:127年前の記憶、継承に失敗 当時の記録詳細 - 毎日新聞
しかし,それは正解であろうか.熊本大学の研究者グループは1980年台後半に以下に示すような研究を実施し公表している.
熊本地震(1889年)をモデルにした近代都市直下地震災害の予測と軽減対策 KAKEN 研究課題・成果情報 科学研究費補助金データベース 1986年度~1989年度 熊本大学・工学部・教授 秋吉 卓(研究代表者)
熊本地震 (1889年) について - J-Stage(秋吉 卓等)PDF(土木史研究 第18号 1998年5月)ダウンロード可能
問題は,社会の指導的立場にいる人達が身近な歴史に学ぶことを常日頃心掛けていたかではないだろうか.
明治22年7月28日午後11時40分に発したる肥後地方の地震は同月31日の本欄に熊本近県の概況を報し次て九州地方に於ける年々の地震をも報告せしか今や各地の報告漸く到達せしを以て左に実況を詳述せんとす(内務省)
明治22年7月28日午後11時40分熊本県下肥後国に発震し九州全土を震ひ延て四国西部及中国極西部に波及し其面積海面を合せて6520方里に瓦れり今先つ測候所及郡市役所より到達せし地震報告を掲挙すれは左の如し(記事は本文之を記するを以て省略す)
ーーーー 各地の震度表 ーーーー
各地から報告された発震時刻がバラバラである.標準時の考え方は前年に導入されていたが,徹底していなかった.明治28年に本格的に導入,無線時報は明治44年に開始された.
前表に據れは肥後西部は強烈の震動にして肥後北東南部,筑後南部は烈震,肥後極東極南部,肥前,東部,肥前北部,肥前南東部,豊前東部,豊後全国,日向北部,大隅北部,薩摩北部は強震を感し其他の諸国は弱震微震を感せり(発震時の欄を閲するに各所の時刻に甚しき差異あり右は地震傅搬に斯遅速をせしにあらす主として諸所の時計の一定せさるに由るならん)而して又前表に掲欄する各所の報告に據り震動の面積を細別すれは左の如し
ーーーー 強烈震の部,弱震微震の部 各表 ーーーー
ーーーー 地震区域図 ----
以上の如く弱震微震の部は面積最も広く4870方里を占め総面積の殆ど4分の3に達し之に次くものは強震部にして1360方里即ち総面積の五分の一に近く烈震部は僅に190方里,強烈震部は漸く百方里に過きす故に強烈震を感せし区域は甚た狭隘なるものなりとす
強烈震部内なる熊本に於ては7月28日午後11時40分の初発烈震後強弱の地震数十回にして初診より8月5日午後零時に至る7日と12時間に地震すること114回鳴動すること86回なり之を詳載すれは左の如し
ーーーー 地震回数表----
前表の如く激震は2回にして一は7月28日午後11時40分に於てし其次は8月3日午前2時18分(即ち初発の激震を去ること5日2時38分)に於てせり稍々強力の震動は7月28日即ち初発激震の日を終るは已に僅に20分許の時間なるを以て1回も之なかりしか翌29日より発言し此日は震数 最多にして23回を感し30日に至りては著しく減少して漸く5回と為り其他は一同乃至23回に止り8月5日に至れは1回の感なきに至れり軽震は7月28日即ち激震の当日は一回も之なかりしも翌19日より続々之あり其最も多きは8月3日にして18回次は7月29日にして14回其他は12回以下5回以上とす而して其1回の感なかりしは8月2日なり鳴動は7月28日即ち激震の日には1回の感もなかりしか翌29日に至りて最も多く33回に及ひ次は8月3日にして13回其次は7月30日にいして12回其他は9回以下2回以上なり(但し28日は余る所の時間僅少なれとも混雑の際なるを以て激震の外は漏脱せしやも得て知るへからさるなり
更に強烈震部中に就き特に熊本地方の震度を概記すれは左の如し
(備考)前報にも報告せし如く熊本は測候所の設なきを以て詳細の震度等を測知すること能はすと雖も今回の如き大震に至りては転倒せし家屋の状況転落せし物品の重量及び其性質,地裂の大小,其方位其他地震学上緊要の調査あるに於ては政は概略の震動等を算出し得へからさるへきも未た此の如き計算を起すへき材料を得さるを以て単に報告に附きての実況を示すのみ
ーーーー 強烈震域内概況図 ----
熊本市外5郡に於ては物品の顚落等は更なり家屋の潰れたるもの合計200戸,半潰同200戸にして其他大地は諸処に割裂し或は堤防崩壊し翌年無比の称ある熊本城の石垣も多少損害を免れす死亡合計20人,負傷同74人に及へり其内震度の最も強烈なりしは熊本市と飽田郡西南部,玉名郡其首今熊本市外5郡に於ける震災を調査するに即ち左表の如し
ーーーー 被害状況表 ----
(未完)