アメフラシ
たぶん、神様が空の上でバケツにつまづいたのだろう。
土砂降りの朝だった。
天気予報では快晴のはずだった。現代科学でもさすがに神様のドジまでは想定外。
夜勤明けの職場。傘など持ってきておらず、当たり前のように貸し傘も完売御礼。三十分のシャワーを覚悟する。
俺がびしょ濡れになってよぼよぼ歩いているところを、よほどお巡りさんは暇だったのか、大雨の中ご丁寧に長々と職質をしてくれた。
「ご協力ありがとうございました。こんな雨の日ですが元気に一日を!」
無事風邪をひきそうです、というような突っ込みをする元気もなく、その場を去る。三十分の覚悟は一時間に変更を余儀なくされた。
この雨が冷水でなかったことがせめてもの救いだ。地球の角度に感謝したい。
とはいっても。
「雨は嫌だなぁ」
ぼそっとひとり言をつぶやく。
まあ、この大雨だし、人通りもないし、仮に人がいたとしてもこの雨音では聞こえないだろう。
「えー? 雨きらいなの?」
だから、その問いはまるっきり予想外だった。
俺がふり向くと、そこには少女がいた。
水色ポンチョのレインコートに身を包み、さしている黄色い傘をくるくると回している。
やや不満げなのだろうか、ふくれっつらをしているように見える。
「なんだおまえ」
今日は休日ではない。
学校? それとも幼稚園? この背丈だとどちらか判断がつかないが、いずれにせよだ。
少女が一人で、なぜこの時間に、こんなところにいる?
「んーと? あたしはなんていうんだったっけ?」
名前がわからないのだろうか?
一人でうんうん唸り始めた。
「おまえ迷子か?」
「まいごじゃないよ?」
「なら親はどうした?」
「おや? いないよ?」
しまった。ちょっとまずい質問をしてしまっただろうか。
「おじさん、あたしいまここに一人!」
にっこり笑顔を向けられた。
ああ、そういう意味ね。
子供ってのはなんというか、よくわからない生物だ。
「あ、そっか、アメフラシだ!」
人が困惑しているというのに、このお子様はますます脈略のない台詞をお出しになる。
当の本人は嬉しそうに水溜りでぱしゃぱしゃとはしゃいでいるが、こっちはわけがわからない。
大体どこから出てきたんだアメフラシという単語は。
雨もなんか強くなったし、俺もうびしょびしょだし、あー帰りてぇ。
「ねえ、雨はきらい?」
ふと、俺の不機嫌な顔を覗き込んでくる知的生命体。
「嫌いかなぁ。びしょびしょだしさ。風邪ひくかもだし。この服も洗濯して干したいけど、雨だし」
夜勤明けと一連の流れで頭がまわらなくなっているのか、つい知的生命体の問いに答えてしまった。
「そっか」
知的生命体はちょっと寂しげな声と同時に、傘をたたむ。
と、ほぼ同時に、嘘のように、雨が止んだ。
「あれ、雨――?」
見上げると少し晴れ間も見えている。通り雨だったのだろうか?
「おじさん!」
「んあ?」
拍子抜けしているところに大声で呼ばれて、間抜けな声が出た。
「あたしまけないからっ」
「はい?」
重ねて間抜けな声が出てしまう。
そんな俺を置いて、少女は水溜りの残る道路をぱしゃぱしゃと、どこかへかけていった。
「なんだったんだ?」
よくわからない。わからないが、
「あ」
俺は一つ気付いてしまった。
「おじさんって呼ばれてナチュラルに反応しちまった!」
ミーンミンミンミン――
「――暑い」
木造独特の木目の天井。
蝉の声でふと目が覚めてみれば、俺は半そでシャツに短パン姿、畳の上で蒸し焼き料理の真っ最中。
強烈に射し込む遠赤外線(他、可視光線やら紫外線やら)に、送られてくる熱風。オーブンレンジも真っ青になりそうだ。
とりあえず一転がりして日射しから逃げる。
ついでに足の先で熱風を送りつける扇風機のスイッチを切っておいた。
家賃二万円のぼろアパートに、冷房などという文明の利器など存在しない。
地デジになってからというもの、テレビの映像すら映らなくなったなぁなどと思い出す。
無線もないので、スマホも九割がた文鎮としての機能となる。
そう、ここは未開の地。鬱蒼としたジャングルであり俺は原住民。
ちなみに冬になると氷点下になったりもする。一転してツンドラになるのだ。
毎朝流しの水が凍っているのはご愛嬌。
ふむ。
はて? ここは本当に室内なのだろうか?
まさかの野ざらし疑惑。
俺はこの部屋に唯一存在する、文明との接点にすがることにした。
冷蔵庫。
こいつだけは、こいつだけはこの過酷な環境においても俺の味方でいてくれる。
残る全ての力を使い、冷蔵庫まで這っていくと、俺は希望の扉を開けた。
ガチャ――
「レフレジレイターよ、お前もか」
バタン――
もう何も信じない。
こうなるとパンドラの箱のほうが何かが入っているだけマシなのではなかろうかという気分になる。たとえそれが災厄でも。
まあ、夜勤続きで買い物にいっていなかったのが原因であり、自業自得なのだが。
そうだ、買い物に行こう。
玄関のドアを開ける。
ガチャ――
ミーンミンミンミンミンミンミィィィィィ――
バタン――
閉じる。
この蝉の声と日射しは、人間が神より授かったモチベーションとやらを奪い取る悪魔に違いない。
さて、どうしたものか。
サァァァァァ――
「ん?」
もう一度玄関の扉を開けると、日射しと蝉の声は消え、雨が降っていた。
こりゃあいい。
鏡は見ていないが、ビニール傘を手に取る俺の顔は、きっと緩んでいたことだろう。
近所の商店街は、このご時世にも関わらず閑古鳥とやらが寄り付かない。
夕方ともなれば商品を見るのも一苦労で、完売も当たり前。
そんな、いつもなら人通りが絶えない場所も、先ほどからの急な雨のせいか、今日に限っては人がまばらだ。
絶望の冷蔵庫を埋めるべく、食料を仕入れないといけない身としては好都合なのかもしれない。
財布を取り出す。
「うげ――」
見なかったことにしたい、が、勤務職員の確認だけはしないといけない。
在籍職員は野口英世さんが一名。
以上。
福沢諭吉さんと樋口一葉さんは退職なさっているご様子。
金の切れ目が縁の切れ目、給料日前ともなれば皆離れていってしまうのか。
終わった。
「おーい、あんちゃん、買ってかねーか」
「すいません今俺は人の縁というものは無常であると哲学をしておりまして」
「お、おう。な、なんだかよくわかんねえけどよ」
誰かと思えば惣菜屋の親父から話しかけられている。
「たのむよ、買ってってくれねえかなこいつら」
「あーいや、実はあんまりお金がなくて」
「一つ十円でいいからよ。この急な雨で客がいなくなっちまってさ、このまま腐らせてゴミにするのももったいなくてな」
「じゅうえん!」
十円? 十円といったかこの親父は?
うまい棒だぞうまい棒。
いや待て、イートインスペースで食べればうまい棒ですら十一円になってしまうこの時代に、十円ぽっきり。
「ください」
「よっしゃ!」
一瞬にして商談成立。駄菓子を買うのに躊躇するものはいない、そうだろう?
すると親父は袋に何個も何個もコロッケやらメンチカツやらを詰め込み始めた。
「ちょっと待ってこんなに頼んでません」
「おまけだもっていけ」
「あざっす!」
即答せざるをえなかった。親父の笑顔が天使のそれに見える。ありがたや。
チョンチョン――
うきうき気分のところを、横から突つかれるので顔を向けると、
「お・に・い・さ・ん! んふふふふ」
弁当屋のおばちゃんだった。
かくして――
俺は両手にこれでもかと食料、食材をひっさげて帰宅をすることになったのだ。
傘をさすのがちょっと難しいが、この際多少の濡れなど気にしない。
まさに雨様様。
「おじさん!」
大きな声。
おじさん。おじさん?
辺りを見渡すが、人は俺ぐらいしかいなそうだ。
認めたくはないが、ぐぬぬ。
仕方なくふり向くと、ちょっと遠くに見覚えのある傘とレインコート。
少女は俺の顔を見てにこっと笑うやいなや、ぱしゃぱしゃと元気にどこかへ走って消えた。
腕時計が午前五時をお知らせしている。
ただいまをもって、夜勤終了。地獄の三十六時間勤務が終了した。
おめでとう俺。よくがんばった。よく生きた。ブラボー。
ちなみに、三十六時間勤務とは。謎に包まれたその内訳は、夜勤からの日勤からの夜勤である。
昨今、どこの業界でも労働基準法が見ないふりをされて久しい。
この業界も多分にもれずといったところか。
むしろ。この業界、特に酷いのでは?
見ないふりどころか、この法律、立法されていないのでは?
なんてな、そんなわけないよな。
はっはっは。
今はどうしようもない現状を嘆くよりも、俺自身の休息が必要だ。
さっさと退勤して寝よう。
ピロロロロ――
電話の着信音。上司だ。
「もしもし、お疲れさまです。はい、ちょうど終わったばかりですけど。え、今からですか? 俺、三十六時間明けなんですが。 はぁ、人員が急遽休み」
ピッ――
はい。午前八時から午後五時までの日勤が追加されました。
これで拘束時間は四十八時間となることが確定。自己最高記録更新。
やったぜ。
今からでも立法しません? 労働基準法。
遅くないよ?
よりにもよって、外の現場なんだよなぁ。
天気予報も晴れ。
このくそ暑い時期に、太陽の下。加えてこの疲労と寝不足。
ねえ。
立法、しよ? 今すぐ。
俺の命が救えるよ?
ザアァァァ――
「雨だ」
先ほどまでの職場を後にし、外に出ると強い雨が降っていた。
晴れを示していた予報も、一日中雨に変更されている。
ということは。
ピロロロロ――
「はい、もしもし。あ、はい、そうですよね。じゃあ俺はこのまま退勤ということで。はい、失礼します」
ピッ――
雨天により、追加された日勤がキャンセルとなった。
――――――
――――
――
イヨッシャアアアァァ――
雨に打たれながら思わず、身をのけぞってのガッツポーズ。
神様、仏様、雨様様。
俺の命を救ってくれて、ありがとうございます。
今日仕事予定だった作業員さんたちにはたいっへん申し訳ないけれど、俺は今この雨にとてつもなく感謝している。
「うれしそうだねっおじさんっ」
「ふぁーっ!?」
身をのけぞりながら、後ろに倒れかけたのを、ぎりぎりのところでこらえる。
こいつはあれだ、さぞ技術芸術点共に高いイナバウアーだろうな。
そんな俺の天地逆さまとなった視界に、大きく少女のにっこりスマイル。顔が近い。
「おじさん、雨はすき?」
「なんというか、命の恩人」
逆さまの世界の中で、少女は目を輝かせるたかと思うと、ぴょんぴょん跳ねてどこかへと走っていく。
身を起こしてふりかえると、少女の姿はもう大雨の中へと消えていた。
「また雨か」
朝、出勤着に着替えた後、カーテンを開けての第一声。
ここ数日、俺のその日の第一声は決まってこれ。トレンドになりつつある台詞である。
となると、今日もたぶん――
俺はガラっと窓を開けて下を覗き込むと、道路には見覚えのある傘とレインコート。
「またいるなぁ」
雨の日になるとあやつは決まって現れる。
言うまでもないがここ数日ずっと雨なので、奴は毎日アパートの前に現れている。
なんなんだいったい。
雨の日限定、少女のストーカーにまとわりつかれるとは俺がいったい何をした。
しかもこの場合、怪しまれるのはストーカーのほうではなく、俺のほうというのが納得いかねぇ。
ああ、ご近所の監視が厳しくない地域で本当によかったです。
都会最高。
でも、どうせならストーカーも出没しない地域がよかったなぁ。
都会最低。
ああ、玄関から出たくない。
とはいえ、さっきから時計に無言で睨み付けられているのだ。
もう出ないと遅刻する。
我慢比べは小さなストーカーに軍配があがった。
「ふんふふん、ふふん~♪」
案の定、今日もついてきますよね。
まずい、一日二日ならまだしも。いや、それもまずいんだけれども。
こうも連日得体の知れぬ少女につきまとわれては、いくら監視の厳しくない地域といっても限界があるのでは。
今日こそは言わなければならない。
「あのさ、お前」
「うん~?」
「ついてこないで欲しいんだが」
「え、なんで?」
「俺が怪しまれる」
「んー? あやしまれる?」
「いいからついてくるな」
「むー、わかった」
すると少女は、俺の前を楽しそうに歩き始めるのだった。
「ふんふんふ~ん♪」
ま、まあいい。
前を歩くというのであれば、遅かれ早かれ俺の視界から消えるだろう。
お、あそこを俺は曲がるからな、それまでの付き合いだ、さらばだ、少女よ。
「ふんふ~ん♪」
ぬな、こいつも曲がるのか。
落ち着け俺。俺は次の交差点も曲がるんだ、次こそさらばだ、少女よ。
「いっちに♪ いっちに♪」
う、うーん?
おかしい、どこまでいっても少女が俺の前にいる。
傘とレインコートがご機嫌に揺れている。
もしやとは思うが。
まさかこやつ、俺の普段の職場までの道順を全部覚えていやがるのでは。
おいおい、このちびっこでガチのストーカーかよ。将来有望過ぎぃ。
「あのさ」
「なーにー?」
「前を歩かないでほしいんだが」
「ええー? おじさんがついてきてるんだよ?」
オウフ、言われてみれば。なんてこった。
こいつはまずい、さっきよりも俺の怪しい人度が増している。
「頼む、今すぐやめてくれ」
俺がどこぞの誰かに通報される前に。
「むー、わかった」
俺の真剣味がついに伝わったのか、少女は歩みを止めた。
ようやくこいつから開放されるのか。
「あめあめ~♪」
どうやらお巡りさんの世話にはならずに済みそうだ。
「ふれふれ~♪」
――――――
――――
――
「なあ」
「んー?」
「俺の隣を歩かないで欲しいんだが」
隣にはにこにこ顔の少女。
とうとう俺は怪しい人から危険人物になっていた。
「えええー? さっきからおじさんわがままだ!」
わがままの権化たる君に言われたくないなあ、おじさん。
「なんでおじさんといちゃだめなの?」
「なんでも何も、誰かに見られたらどうする」
「なーんだ、そんなこと。じゃあ、こうするね」
こうする、とは?
すると少女は、両手を広げ――
「ふらすよー」
そう、言った。
――瞬間。
ドザァァァァァ――!!
辺りが騒音と白に染まった。
「きゃー♪」
少女は楽しそうに俺の腕に抱きついている。
「お、おい、お前」
「だいじょうぶ、おじさん♪ だれにも見られないし聞こえないよ」
確かにこの大雨の中なら、誰にも見られないし、話を聞かれもしないだろう。
いや、そうではなく。
これは、どういうことだ?
「お前は、いったい――」
「アメフラシーー♪」
そこぬけに明るい少女の返事とは正反対に、俺は小さな悪寒に襲われた。
アメフラシ?
――こいつが、この雨を降らせている?
まさか、そんな、非科学的なことあるわけが。
「な、なあ。この雨は、お前が降らせてるのか?」
「そうー♪」
落ち着け。子供の戯言だ。
「このまえもー、そのまえもー。おじさん雨がすきになるかなーって」
三十六時間勤務明け、それと商店街で買い物をしたときの雨。
確かに、こいつがいた。
「おじさん、もう雨はすきだよね?」
落ち着け、冷静になれ、そんな馬鹿なことが。
しかし、冷静になるよう自分に言い聞かせている間も、雨はどんどん強まっている。
「えへへへ~♪」
『ただ今――当地域に――大雨洪水警報が――発令されました』
腕にぶら下がる少女の楽しそうな声に、不気味な警告音声放送が重なり――
「やめてくれっ!」
俺は叫んでいた。
叫んだ声が恐怖に震えているのが自分でもわかった。
「え?」
「俺は――雨なんか嫌いだ」
ぴたりと。
雨が止んだ。
日射しが戻ってくるのを見て、先ほどまでの恐怖が少しずつ薄れていく。
腕の重みが消えているのに気付き、少女のほうにゆっくりと視線をやる。
少女は傘を畳んでいた。
そこに、先ほどまでの笑顔はどこにもなかった。
「ごめん――なさい――」
少女はそう残して、走り始める。その声は、今にも泣き出してしまいそうな。
かけていくその先は大通り。信号の色は――赤。
「お、おい、待て!」
クラクションの大きな音。少女に突っ込むトラック。
少女は透明な水しぶきとなって――宙に散った。
傘も、レインコートも、何一つ残らず。ただ、水溜りだけがそこにある。
駆け寄った俺も、トラックから慌てて降りてきたおっちゃんも、狐につままれていた。
アメフラシ、ねぇ。
先ほどから俺はベンチに腰掛けながら、目の前にある、磯を模した水槽を眺めている。
なんというか、でっかいナメクジか、あるいは、貝殻のないでっかいカタツムリみたいだな。
ここはアメフラシの展示コーナーである。
休日、なんとなく近場の水族館にきてみると、期間限定でアメフラシが偶然展示されていたのだ。
手に持っている新聞の折込チラシに期間限定アメフラシ展示と書かれているが、別に触発されたわけではない。
でかでかとアメフラシと書かれているがな。
あくまで偶然だ、偶然。
だいたい、この軟体生物と、あいつは似ても似つかないわけで。
――待て。
あいつってなんだよ、あいつは関係ないだろ。
俺は別にアメフラシを見ればあいつを探すヒントになるとか、別にそういうつもりでここに来たわけではないし。
まあ。
でもあれだ。一応な。せっかくきたわけだし。
「なあ、おまえ」
一応だ。
「この中にいたりするのか?」
そう、訊いてみた。
――――――
――――
――
アメフラシたちは俺の質問など意に介さず、それぞれ気ままに動いていた。
「ママー、このおじちゃんアメフラシに話しかけてるー、キャッキャ!」
「シッ! 見ちゃいけません!」
あ、なんか、すいません。
水族館を後にして、喫茶店に入る。
今日も外は日射しがきつい。
少女が目の前で消えたあの日を境にして、このところずっと快晴が続いている。
あの長雨がまるで嘘だったかのようだ。
そして雨の日限定のストーカーもまた、嘘のように現れていない。
なんだろう、この快晴にも関わらず、心がどんよりと曇っている気がするのは。
『おじさんっ』
連日、あいつの嬉しそうな声と笑顔に触れていたせいだろうか。
それが消えてしまって、もしかして、もしかしてだが、俺は少し、寂しいと思っている?
生涯独り身を貫く決意をした俺が、微粒子レベルとはいえ、人恋しいと思っている?
意外だ。
そしてこの人恋しさというのは、まさか、誰でも良いという類のものとは違うというのか?
意外、いやむしろ心外だ、心外。
情でも移ったというのか、くだらない。
ストーカーで、少女で、そしてたぶん、人ではないやつなんかに。
グラスの水をふと見つめる。
そう、あいつはきっと人ではない。
あの時の光景がそのまま蘇る。トラックにぶつかって水となった瞬間だ。
雨が降る、というだけならただの偶然と考えるのが普通だ。しかし、目の前で水になって消えたのだけは覆せない。
目撃したのは俺だけではない。現場は一時騒然となり唖然ともなったのだ。
トラックのおっちゃんも俺も、周囲の歩行者らも口々に少女がトラックにぶつかったと警察に証言している。
その肝心の少女がどこにもいなかったわけだが。
結局、全員気のせい、見間違いということでその場は収まった。
ただ、俺は直前まであいつと話していたし、俺が泣かせて、結果トラックにぶつかり、水になったわけで。
最後の水になった部分だけを切り取って、気のせいで済ませられるわけがないのだ。
あいつは確かにいて、そして水になった。
だから、たぶん、あいつは人ではない。
人ではないのだ。
そんなよくわからないものに、情が移るなんて、ばかばかしいよな。
むしろ怖いだろう。
夜勤明けの休日に、寝もしないで出かけて、探すとかあり得ないだろう。
あーあ、俺は何をやってたんだか。
あいつはきっと妖怪か何かで、俺は人間。よし。全部なかったことにしよう。
関わるのやめ。
コーヒー飲み終わったら帰ろう。そうしよう。
カップをすすりながら辺りを見渡す。
さっきまで頭がいっぱいで気付かなかったが、この喫茶店、どこもかしこもカップルだらけだった。
そういえば世間は夏休みやら盆休みやらの時期でしたっけ。
どいつもこいつも幸せそうだこと。
気にしたら負けではあるが、居心地が良いかと言われれば断じて否。
出るか。
「あれ、雨?」
「あ、ほんとだ」
そんな会話があちこちから聞こえた。
窓の外に視線をやると、外が薄暗くなり雨が降り出していた。さほど強くはないが夕立か。
出ようとした矢先に、まいったな。
「あ、私折りたたみ傘持ってるよー」
「お、気が利くー。涼しくなったし次のとこ行こうぜ」
おー、そちらは気が利く彼女さんだこと。
あら、あちらも立ち上がる。え、こちらも?
マジかよ。
俺以外全員傘持ち。うん、このところ天気予報あてにならなかったからなあ。
傘さえあれば、涼しくなった今のほうが外を歩きやすいのだろう。皆出て行った。
結果、店内俺だけ。
これならもうしばらくのんびりできそうだ。
ん? 待てよ。
この状況、いくらなんでも、俺にとって都合が良すぎる。
この感じ――この雨、まさか!
勢いよく立ち上がる。
「あ、あの、お客さま!?」
「ああ、すいません! ごちそうさまでした!」
会計カウンターにお札を置いて、釣りも貰わず大慌てで喫茶店を出る。
あいつのことだ。
きっとすぐ近くにいる。
雨の中を走り回る。人の波をかきわける。
いない。かくれんぼのつもりか?
黄色の傘と水色のレインコート。どこだ、どこにいる。
いるはずだ。
いるはずなんだ。
しかし、見つからないまま、雑踏の中で足が止まる。日ごろの運動不足がたたった。
びしょ濡れでかがみこみ息を切らしている俺の姿に、周囲は奇異の視線をぶつけてくる。
気にするものか。そんなものこの際どうでもいい。
心臓がばくばくしている。静まれ。
早く息を整えてあいつを探さないといけないのに――
「――おじさん」
後ろから――呼ぶ声がした。
遠慮しているのか。それとも困っているのか。あいつらしくもない、元気のない声だった。
「また、ぬれちゃうよ?」
すると、かがんでいる俺の周囲だけ、雨が止んだ。
頭の上には小さな黄色い空。ああ、これは――
「もう濡れてる。まったく、誰かさんがなかなか迎えにこないから」
雨の中、誰かの空に入れてもらうのは、いつぶりだろうなあ。
「おじさん――雨はやっぱり、きらい、だよね?」
こいつは――たぶん人ではない。
そうだな、あの時怖いと感じたのも事実だ。
おまけにこの容姿、背丈で既にストーカーという逸材でもある。
関わらないほうが、いいのだろうと思う。
まぁでも――
「そうでもない」
安堵のほうがこうも、勝っちまったらなぁ。
「雨も、悪くはないな」
直後、黄色い空が外れて、背中に重みと濡れる感触がのしかかる。
まったく、雨に濡れるわ、びしょ濡れの重しにとりつかれているというのに。
どうしてこうも俺の心は晴れやかかね、どうかしてる。
「一緒に帰るか」
「うんっ」
白いポンチョコートに耳あて、まるで大きい白兎かのようなもこもこが俺にまとわりついてくる。
「ねー、かさ、かえしてよー」
「だめだ」
もこもこ少女の上目遣いのお願いを、俺は秒で却下してやった。
ずいぶんと俗世のテクニックを身に着けたようだが、あいにくと俺も耐性がついた。出直してくるがいい。
「ええええ、あたしのおしごとぉー」
「だめ。それがそもそもの間違いだっての」
白いもこもこが傘を奪い取ろうとするのを、俺は右へかわし左へかわし、しまいには傘を持つ手を上にあげてやった。
背伸びをしても届かないことはわかっているぞ俺は。はっはっは。
――アメフラシ。
この白いもこもこの供述によると、人のために恵みの雨をもたらすお役目をもった神様、とのことだ。
人のため、というのがこれまた聞こえは良くとも、ざるルールも甚だしく、裁量と責任はアメフラシ、一柱に委ねられているという。
こいつは役目を与えられたはいいものの、右も左もわからず、人のためというのを最初に偶然出会ったおっさん個人に定めてしまったというわけだ。
これが今夏、異常気象の真相である。天気予報も匙を投げるだろうよ。
ざるルールで、研修すらせずに、子供をほっぽりだしたらこうなるに決まってるだろうに。はじめてのおつかいのほうが親切ってもんだ。
『でもね、むかしからみんなこうやってたって』
『だまらっしゃい!』(注:供述当事の俺と白もこもこのやりとりである)
この子供の権利、コンプライアンス時代にそんなの論外だ論外。
まったく神様どもはどうかしてやがる。
時代は変わったのだと、いつか説教してやらねばならん。
子供は、子供らしくのびのびとせねばな。
「こういうのは大人の仕事だ」
「ぶーぶー」
「ほれほれ、こっちこい」
ふくれっつらの白いもこもこが俺の腕の中におさまる。
頭をなでてやるとすぐにブーイングが消えた。おこちゃまだな、ちょろい。
「ふらすぞ」
傘をさし、二人で入る。
あれから半年、季節は冬になった。
今降らすのは雨ではなく、冷たくも温かい雪だけれども。
これは、少女がアメフラシをやめて、俺がアメフラシになった、そんな話。