2018/12/07

2019/05/02

次代について追記

成人し会社員になった今、雅子妃の経歴を知ると「20年以上前にこのキャリアをお持ちだった女性が???結婚したら懐妊の話ばっかりされたの???ご公務で発揮される能力を十二分にお持ちなのに???」と驚愕せざるをえないし痛ましくもなるのであった。平成という時代の女性の理想として語られ得る方に、あまりに残酷な過去の価値観に基づく期待が寄せられたことを、令和という時代では反省したい。

2019/05/02

タイトル:次代について。

平成が終わり、令和が始まった。

平成生まれなので生きているうちに改元はあるだろうと思っていたが、まさか生前退位といった方法で、こんなにおめでたく次の元号を迎えることになるとは予想だにしていなかった。

様々なご配慮のうえ、平成を締めくくってくださった上皇陛下には厚く御礼申し上げると共に、今後少しでも安らかな日々を送られることを僭越ながら願わせていただきたい。上皇后陛下とご一緒に、30年ぶりの「象徴」ではない生活を穏やかに過ごせますように。

5/1、平成生まれにとってのプリンス・プリンセスだった徳仁さまと雅子さまが天皇と皇后に即位された。

物心ついた頃にはご成婚されていたのでその前後のことは存じ上げないが、というか物心ついた頃には酷い報道被害にあわれている印象しかなかった、両陛下の今後がおこがましくも気掛かりでならない。

報道関係者もそうでない民衆も等しく国民である、「皇族だから」と追いかけ回して勝手な噂をした我々を、どうお考えになっていても仕方ないだろう。なので、せめてこれからは誹謗中傷にさらされることなく歩んでいけたらと、願わざるをえないのだ。

この国の象徴としてこれから務めてくださる天皇皇后両陛下にとって、令和という時代が穏やかで幸福なものになるように、国民として努めることが出来ればと思う。

天皇制というものについて少しの学もない身なので、皇族の方々というのは、国賓に応対されるご公務など、この国の代表という責務をはたしてくださっているくらいの認識しか持てていない。結局国を作るのは国民であり、時代が良くなるかは自分たち次第なのだ。そして、そうは思っても変革に二の足を踏むのが国民性なのだろうとも思う。散らないように尽力するのではなく、散る覚悟を決めてしまうか、散りたくないと喚きながら何もしないか。

退廃のムードが漂うなかで、梅の美しさでも愛でながら、しにゆくことになるのかもしれない。

さて、しばらく仕事でうっかり「平成」と表記しないよう気を付けなくては。

2019/01/01

先月の自分が未来に生きていたことを今更知りました。何やねん2019年12月て。

今度こそ2019年です、あけましておめでとうございます。新年早々作品の蔵出しに来ました。以前「うぐいすの恩返し」という始春企画に参加させていただいたとき、ああでもないこうでもないと試行錯誤していた話の、没原稿を載せます。ちなみに結局納得のいく完成はせず、予定していた物語の転をすべて削るという暴挙に出て作品を提出しました。そして未だに完成していません。いつ出来上がるのか。

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春鶯囀(仮)

まこと、梅のつぼみも綻ぼうかという緩くのどかな風の日ごと吹きしなるさまはあはれ、人々さいわいに満ちて今かいまかと花の季節の訪れるを待ちたる月のこと。

明治を十といくつか過ぎたこの年に爵位を賜り給ふた睦月の嫡男はなりかたちうつくしく、才ありて品性欠けるところなし全く非の打ち所などありようのない妙齢の男児であらせられるも潔癖、堅物、又は義を重んじるとでも言えようか兎角女人に対してひどく奥手の御方に候、引く手あまたの全てを兼ね備えておきながら未だ、ただひとりの鼻緒すら見つめたことのない息子に母であるかつての睦月の姫君は煙草盆に雁首を打ち付けてみせる。

「腑抜け」

灰捨てるだけの所作に言外、全てを読み取った息子はそのうるわしい唇を噛締めてぐうの音も出ず一礼、腹立たしげに室を後にするを母親呼び止めて息子思わず畳の縁を踏んで留まり振り返れば一転、母はたおやかな微笑みを面に浮かべつる。己がよく似たくちびるの主はこれが手本と言わんばかりに花弁を重ねた如くの唇の端を麗らかにつりあげてふたたび深緋の舌をのぞかせる。

「父のことは諦めよ、あの人は既に母のものゆえ」

息子たちまち頬に朱を滾らせ言い返さんとするも開いたくちから言の葉ひとつとして落ちることなく二度三度と息をつまらせ、なす術なしに母をねめつけ踵返せば襖戸荒々しく閉め行き、御髪の先からまで漏れいづる殺気に怯える下人へ目もくれず自室に飛び込めば外套等引き千切るように鷲掴みて一目散に表戸口を目指す。

「どうしたの」

洋靴に足を押しこむ背後で聞いた父の声に初めて背く罪悪に胸が焼けるより強く御影石を踏みしめ千駄木の家屋敷を飛び出したるこの嫡男、名は始というその人、あてどなく町を歩き通して目には寒の戻りに震える市井の人々の姿も映らずあと幾ばくすれば蕾の綻ぼう梅枝にふりかかる小雪の雅すら気に留まらぬ有様、轟と煮える腸とは裏腹こころのちぐはぐに弄ばれ衝き動かされ寒空にそぐわぬ汗を薄ら掻きはじめながら差し掛かった其処で、ちいさき歌を聞きとがめし。

幽かながらも特徴的な地声は直ぐに鶯と知れ、始その蛾眉を潜めて逡巡、僅かな声が示すを覚って目ぼしい家の先を流し眼に覗く。先刻行き過ぎた池が不忍であるならここは無縁坂の辺り、目立った店もよく出来た邸もないのに、始は耳の敏いのを大いに揮い難なく鶯の在り処を突き止め、その家の様相に目を見開く。がらんとした部屋には火もなく、着ざらしの単に三味線を抱いた男がひとり土間に座して鶯を拝むようにしている。

「一体どうしたことか。お前、そこで何をしている」

突如と踏み込まれた男は振り返るも、目は始を捉えていない。白んだ眼はひどく傷ついて、ああ、盲いの三味線弾きかと始も瞬時に理解した。一度は荒げた声を落とし、改めて問おうと姿勢を正せば目の前で男もしかと始を向いて正座し、その膝に三味線をのせた。

「これはどちら様か存じませんが、どなたさまであろうとも私の答えは変わりませぬ、この鶯は我がお師匠様の一の宝、どなたさまの手にも渡しませぬ、いくら積まれてもお師匠様でない人がこの鳴き声に耳を喜ばせることはございませぬ、お師匠様のお帰りあそばす日までこの不肖の弟子がお師匠様の代わりにお答えします、まこと失礼ながらどうぞ謹んでお引き取り願う次第であります」

音吐朗々澱みなく、男は言い切り一礼のち再び鶯の方を向く。あっけにとられた始、その変に正された男の様子に何と訊ねたものかいいあぐね、勝手に立ち入った門戸を振り向けば先の声を聞きつけたのか男が一人、こちらを見ていて、目が合ったと思えば手招かれる。

「ここの家主やった検校はんが先だって亡うならはりまして、あの鶯はまあ、形見か。そんであれは、検校はんに一番尽くしてはったお弟子さんですわ」

次第を見物していたらしい人の好さそうな顔をした男は煙草を片手で、見知らぬ若人が挨拶もなく無愛想な思案顔をしているのに些か不快を滲ませるもその身なりがよいのに肩をすくめて、手招かれるまま来た始にことを解く。師匠を亡くしてから少しおかしいのだとも付け加える。始も得られた答えに臍を曲げたような顔をして次いで問う。

「検校なら他にも弟子がいたことだろう。なぜ捨て置かれている」

「誰もみんな自分のことで精一杯でっせ。かまってられんのもしゃあないさかい」

呆れ果てたとの色を滲ませた溜息にしょうのない幼子を諭すような物言いをしてさてどうでるかと見れば、貧富のまことを突きつけられ自身の浅慮を歯噛みしつつ、見るからにしょげた顔つきで鶯のほうを振り返ったのに毒気をぬかれたか、男は吸い尽くした煙草を捨てて仕切り直しと草を燻す。

「まあ、最後まで残っとった奉公人も気をもんではいましたが、これはどっちもお師さんのもんやから連れて行かれへん、仕方ないて。それから少しは、ほれ、そこが裁縫屋、そこの娘っこが何人か様子見てましたけど師匠に一喝されてからは誰も」

思い出したようにこれで仕舞いやと止めまで話し切った男はなおも動かぬ始にはてこれはひとつ儲け話ができそうな気配と唇を湿らせてひと息。

「この家の持ち主は誰になる」

やおら始が切った口火に勢いを殺し損ねて舌を噛んだ。

男が痛みに呻いて苦々しく見やる始の眼差しは射落とさんばかりに真摯、二三ほど押し問答をして折れた男は家から使いを出してやった。

「ここ借り受けようと思う。取りあえず鶯と、あの男ごと面倒を任せてもらえるか」

何を言い出すかこの坊ちゃんは、と目を白黒させた貸主の婆さんも、家賃を払わぬまま居座る男に手を焼いていたところであるからと、多少の横暴は目を瞑り一先ずの支度をしてやり、始は腰を落ち着ける権利を得た。父母の住まう家屋敷へ帰るのがどうにも苦痛でしかない口からでた方便でもあり、今にも潰えんとしている鶯の身や不憫な弟子を生かし伸ばしてやれぬかと案じたが半分の申し出でもあった。表口にはあの男が居座っているからと婆さんは裏から始を中に通した。

かくして頭を冷やすための宿を手に入れた始があらためてみると家屋は小さいながらなかなか手の込んだ作りをして、敷地の奥に家を建てて通りに向けた庭の隅に木を植えて影を生ませ、庭へ出る縁側から大人が手足を伸ばして寝転がれるくらいの三和土をこしらえて、そのいっぱいに庇をのばし三和土のところをぐるり囲むように建具がはめられるようになっている。勿論縁側にもしっかり建具がはめてある。始が覗いたときはこの三和土の建具はしっかり閉じられていて入ってから二重になった仕組みに気が付いたのである。弟子の男が座していた土間はこの家の表玄関、とはいっても通りは向かず垂直になっている、格子戸の外で、男は格子戸を開け放して上がり框に鶯の籠を置き自分は敷居もまたがず土間に座りこみまるで神棚でも拝むようにしていた、と仔細を把握した始は思案する。

「そこの、名は」

問う声に応えることもなく、身動ぎもない。始はその様子を見ても凪いだまま、鶯を男と挟んだ立ち位置から続ける。

「今よりこの家の主は己と相成った。お前とこの鶯ごと家を引き受けると約束した。されどお前の主は師匠の検校ただ一人であろう、それは曲げずによい。おれはお前を飼う気など毛頭ない。だが、家の主として、決まりごとは設ける。いのちを生かさないことは許さん」

語気の強さに清まして頑なを貫いていた男はぴしりと眉を寄せる。

「生きようとしないこと、死なせること、この家に暮らすものには断じて許可しない。これはおれ自身が違えることすら許さぬ定めとする」

「なにを勝手な、」

「ああ勝手だ。なにせ一家の主だからな。お前がいま絶やそうしているいのちにおれは手を出す。お前自身に、この鶯だ」

始は膝を折り鶯の籠に手をかける。供物か、はたまたご神体か、拠り所としていた鶯が取り上げられた気配に男は腰を浮かせて猛然と敷居をまたぐ。伸ばされた腕を始はいともたやすく捉え、語り掛ける。

「それほど師の鶯が惜しいか、ならば選べ、おれは鶯の餌も扱いも何一つ知らん。だがお前は違うだろう。この鶯がおれの手で扱われることが我慢ならないのなら今宵は鶯の世話を手ほどきしろ」

男は苦虫を食い潰したような声でそれを諾するほかなく、始に鶯の世話を説いてやるさまも、そのひどく手間のかかる世話を大変名誉で尊いものであるのだからと叱りつけるようであり、それはただ始への敵愾心以上に男自身が主人の検校に虐めぬかれて身に着けたものと察せられる。なるほどこの家のかつての主たる検校は美を愛した趣味の良い者であったに違いないが、ゆえに美しくないものには容赦がなかったのだろう。鶯は弟子より目をかけられ、弟子は鶯にも劣るとなじられ。

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ここまで書いて「無理だな」という気色が強まり、断念。

2019/12/08

ドクターツキノ、産婦人科の皐月先生と麻酔科の卯月先生。

皐月先生は卯月先生をどう思っているのか、少し昔の話をしましょう。

お二人が3歳からの幼馴染であるところは多くの人が知っています。それだけ共にいるのですから、お互い癖や嗜好はよく見知ったものです。特に皐月先生の卯月先生をよく分かっているエピソードには知れやすいものがあります。コミュニケーションに特性を抱える卯月先生の、言わんとするところを皐月先生は汲み上げることができるのです。

卯月先生は自分がコミュニケーションに長けていないと自覚していましたが、それが致命的であることに気が付いたのは初期研修中でした。病歴要約が驚くほど不得手だったのです。受験時代に国語の試験対策は気が遠くなるほどしましたが、現場での病歴要約は国語の試験とは違います。卯月先生はこれはだめだとすぐ直感しました。卯月先生は後に、病歴要約を書く必要のない麻酔科に進みました。これもまた、自分をよく分かった進路選択です。

卯月先生のコミュニケーション特性は平たく言えば「自分では繋がっているが人に分かるように表せない」で、駆使しているコミュニケーションにがあまりにハイコンテクストなのです。圧縮され過ぎたことばの行間を読める人はいません。言っていることは分かるが理解に及ばないケースもありますが、だいたいは言葉足らず、必要なことが書かれていない問題があります。何が足りないのか、自分では即座に判別がつかず、どうしたら分かるのかの見当も曖昧。努力するより諦めたほうがよい案件でした。

卯月先生はずっとこのハイコンテクストで生きてきました。幼馴染の皐月先生はそんな卯月先生とコミュニケーションをとってきました。でも実は、皐月先生も卯月先生の行間を理解できているわけではありません。皐月先生は卯月先生の性格を知っています、好みを知っています、癖を知っています。だから行きずりの人よりはずっと読むことができる。しかし皐月先生でも卯月先生の思考を理解できず、共感できないことは多々あります。それでも皐月先生は卯月先生に湛えられた感情を感じ取って会話をする。どれだけ分からないことがあっても、皐月先生にとって卯月先生は快い人となりの持ち主に違いないのです。

何故快いのか、説明できないとしても。

皐月先生は卯月先生を自分の人生から欠くことが寂しくてたまらないほど愛着を感じている。傍から見れば全て知り尽くしていそうな二人はその実、通じ合わないこともわりとあって。皐月先生は時々、それが別離に繋がらないか、寂しくなる。卯月先生を信じているけれど、運命のいたずらで何が起こるのか。そんな恐れを少しまとって皐月先生は毎日を続けているのです。

それは今日にいたるまで。

2019/12/07

前回、勢いで未完成原稿を公開したはいいがひとつの説明もなかったので、この際HPのていをとってみることにした。

ウン年ぶりのチャレンジ、細々更新していけたらいいよね。

サイト名の「鯨幕行進曲」は先日ツキフレ。8に委託参加させてもらったときの個人サークル名です。ツキフレ。が無印だったときは合同サークルで「法華経ロック」でした。

いま新刊の奥付を確認したらサークル名は「鯨幕マーチ」表記でした。マーチとは行進曲なので同じことです。

菊の花は仏前によく供えられるので縁起の悪いイメージがありますが、死者の冥福を祈って手向けられる花は生者の祈りであるなら、そんな悪い花ではないのではと思っています。それに菊は四君子にも数えられる植物ですし、むしろ縁起のよいというかご利益がありそうな気すらします。

鯨幕も最近はもっぱら葬儀に出番があってすっかり弔事のイメージですが、元は慶事弔事どちらにも使うことができ場所によって慶事にはむしろ鯨幕を張るというところもあるそうで、不吉な印象は結局その人次第なのだなと思った次第です。

相反する意味のどちらもを含んだ物事はたくさんあるのでしょう。ハッピーと思うかバッドと思うかは見る人次第。ひとつの側面からは量れない、といった気分で名付けられました。あと鯨羊羹を一度食べてみたいんですよね。

法華経ロックのロックはロックに生きたい気持ちが少なからず籠められていましたが、マーチは完全に語感で選びました。なんとなく、前に進んでいく感じもするしいいかな、くらいの陽気なイメージでした。葬送行進曲とかもあるしね。

成功した心中はハッピーエンドだろ派ですが、人の一生を第三者がハッピーかバッドか判じるのって結局生きている側の問題で、物語へのタグとしてメリーバッドエンドなんて言葉があるのは致し方なしかなみたいな気弱さがあるので、物語の多面性を語ろうとしています。

そろそろ寝ます。

オールアバウト・夢見草(桜)

寝起ほど苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、 誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか。――正岡子規『病牀六尺』

「それでも、生きていてくれて、よかった」というエゴイズムが似合うグラビ。

まず懺悔させてください、死ぬのが怖くて月の章は観ていません。

年中ファンとしてやっぱり見過ごせない夢見草。物語世界線としては「舞台時空」ということになり、「舞台の彼等は私の知るCDや書籍の彼等とイコールで結べるのだろうか」問題があるので、最初にその辺りについての私見を述べます。

CDシリーズでも「新選組の新解釈舞台」が存在しており、それは葵と新のみの出演作品であるので、これはやはり「夢見草」とは別物です。「夢見草」と銘打たれた話はアニメシリーズが初出になり、舞台「夢見草」も朏さんの存在があるなど一応「劇中劇」の体裁でありますが舞台夢見草は「すってんころりん」した先の話なので、完全にリンクした劇中劇ではないのですよね。

もちろん、「CDシリーズの新選組舞台」に朏さんが存在する可能性自体はゼロでもないし、舞台夢見草がアニメ夢見草の続編作品みたいな設定で世界線を統一していくことも出来ますが、CDシリーズ・アニメ・舞台をイコールで繋ぐことはしないです。私は。あれはあれそれはそれ。とある魂の分岐世界。CDシリーズの彼等と舞台の彼等は世界線としては「違う」けれど大元となる魂は「同じ」そんな理屈でいきます。

そんなこんなで夢見草(桜の章)ですが。個人的には観たあと大満足で「積年の望みが叶った……もう悔いはない……」と大の字で倒れたくらいでした。それでいったい何の話がしたいのかといえば、本編とは別エンドたる『黎明』をきっかけにした、黎明の世界線で起こりえたかもしれないエトセトラについてです。DVD/BDについてきた特典物語を前提とした話なので、黎明を知らない人には何のことやらでしょうが、本編に満足した人間の与太語りなので読み飛ばしてください。

・アラタの命運を新が肩代わりするということ

推しを病に臥せらせる業を抱えているので夢見草は設定の段階から夢が一挙に実現した顔をしました。アラタの病気は沖田総司を範にとってやはり結核であろうなと仮定して、の冒頭引用正岡子規です。結核という病気に骨の髄まで侵されて死んでいった俳人の、正直な病床録を読みながら、アラタは身体的な苦しみとどう付き合っていたのだろうかということに思いを馳せまして。身悶え、絶叫し、号泣しても足りないような痛みと苦しみをアラタはどう過ごしたのか。小康の日和もあれど耐えがたい苦痛が少しもなかったわけないわと想像を巡らせていると、そうしてアラタの背負うはずだった命運を新が一部肩代わりした黎明は、大和國の彼等に希望を与えた代わりに、日本の彼等はなかなか阿鼻叫喚に陥ってもおかしくないなとの結論に至るのです。仲間が痛みを背負った姿を前にして、ただ「死にはしないから大丈夫」だと言えるひとたちではないがゆえに、歪みが生じて傷となる。

アラタから新へ移されることになる結核という病気が、どこまでどう移るのかという疑問については、アラタの病状と隼の発言から予測するしかありませんが、余命半年という病体のアラタから完全に健康体の新に対して「病だけ」が移されるので、発病だけで済まされるのかなという結論を下しておきます。隼の「投薬で治る。恐らく入院も必要ないくらい」という発言に則って照合すると「発病はしていて症状はあるが排菌はしていない」くらいの病態ということになるので……「病」だけが世界の壁を越えるならばそういうこともあり得るのかなと納得しておきます。ちなみに発病した場合における症状の代表格は「長く続く咳、喀痰、微熱」ですね。二週間以上これらの症状が続いている人は結核を疑って病院へ行けと言われます。咳や熱が続けば人間、食欲も気力も失せるのでさらに身体が弱るスパイラル、との話はこの辺りにして。入院なし、投薬で治療する場合は半年ほど数種類の薬剤を呑み続けるとのこと。結核予防の公益財団法人ホームページに全部書いてあることですが、この「若しもの話」の前提として一応含んでいてほしいので記述しています。「嫌いなもの」設定に「病院」のある新が半年病院に通うことを考えて、はたしてきちんと通えるのだろうかこの子は、と疑念が過らないわけがない。そろそろ話を戻します。

死にはしないと言いましたが、治療法が確立しているので死病ではなくなっただけで結核は今でも命に関わる病気で死ぬときは死ぬので、極端に言えば、黎明はアラタを生かすために新に死という極大リスクを背負わせることになるのですよね。勿論、隼が病魔の移し替えを提案した時点でそのリスクは回避されていますが、黎明で新が病苦と死のリスクを負うことの実態を、選択を突きつけられたときはすぐ思い至らなくても、日本に戻ってきたあと、病院通いが始まったときには思い知ることになる。夢から覚めて冷静になったとき、この選択は「正しかった」のかと苛まれる。新の苦痛と煩悶を前にして、「アラタの病気を新が引き受ける」とはどういうことなのか理解したとき、選択に加わった始や葵はその選択の是非に対してどう腹を括るのか。

これは『夢見草』というシナリオ全体に言えることで「命と絆の物語」がメインとしても「正しさとはなにか」を背後に抱えた物語が「正しさ」について考えさせられるもう一つの切り口でもあります。

・後に残るのは正しさではなく事実のみ。

そもそも『黎明』は「生きていなければハッピーエンドと思えない」人へご用意されたアナザーストーリーです。本編の途中から路線変更した、もしもの話。ですので「やろうと思えばこういうことも出来たのだなあ」くらいの心境でも鑑賞できますが、これが正エンドであると想像してみると「いいのかそれ」との疑念が持ちあがります。その「いいのかそれ」とは「アラタが助かるために新を危険にさらしていいのか」です。死ぬはずの人間を生かすことで因果律が云々ではなく、いわば倫理的な問題になりますかね。個々人の倫理観が問われる、「黎明が正エンドだった場合の世界」をまずは始にフォーカスを当てて掘り下げます。

・睦月始の選択について。

実は「他人を助けるために身内を危険にさらすこと」の決断を下したのは黎明空間において始だけなのですよね。葵は微妙なところですが、「あらた」は「あおい」にとって破格の存在であると(私が)思い込んでいるので、これについては「皐月葵の煩悶」として後述します。

それで、始の決断です。後から考えれば、隼が出来ないことを言ったりしないと信じていたことと、新のポテンシャルを信じていたからこそゴーサインが出せたのだという見方が出来ますが、初見では、一度でも逸る新を止めないのかお前は……とのどっきりにも襲われようというものです。始、「当事者の意思を尊重する」という最も思い切りが良く、ともすれば第三者として責任感に欠けると糾弾されそうな基準で身内の危険を受領しています。

唐突な選択肢を前に、始が取った対応とは、ただ隼の提案に対して冷静に「アラタの病魔を斬り飛ばしたら新が病気になるのでは」と自分の推測を尋ねることです。始はたったこれだけで、隼が「アラタを救う」ことの対価を承知しながら新の安全性は極めて高いことを確信していることを確かめ、新と葵に、自分たちがしようとしていることを正しく認識する機会を作り出しています。隼から確証を得て、それを新と葵に認識させ、覚悟を確認する。そのために「新が代わりになる」ことを口にする。ここに睦月始の「心境」はありません。徹底した事実確認です。彼は一切の私情を見せていない。

睦月始のこのときのスタンスは「彼らが望んだことに手を貸す」に尽きるのです。そこに「お前よくそんなことが出来るな……」との驚嘆があります。アラタを斬るという実行役まで任されているのに。感情を持ち込まないことは難しいよ。

始が選んだこととは「彼らの望みに手を貸す」が全てです。それを選択する条件として定めたのは当事者の命の保証。その極限設定で始は彼らと自分たちの願いの元に、最善策を選んでいる。最高でも最幸でもない、最善とは交渉の末の落とし所みたいな所謂「大人」の振る舞いです。最善の是非を問うのはまた違う話ですし、基本的に問題のない観念なので、ここで問われるのは「命の保証」という条件そのものが非常にぎりぎりを攻めていることです。

命の危険が隣り合わせという非情の世界では死ぬこと以外かすり傷、死なないならば全て良しがまかり通るとは想像に難くありませんが、始は大和國に魂を持たない、安全な日本の存在であるはずなので、「命に別状がないならいいか」と病の移行を許諾できた精神は現代に生きる侍がすぎると言えます。賭けのテーブルに乗せているものが自分ではなく仲間の命なのだから尚更です。何が始にそこまでのことさせるのか。

隼がアラタの命を救う提案をしたのは、アオイや大和國に生きる彼らの「生きてこそ」という切なる願いを無下にできなかったからであり隼はそれを指して「僕は君たちに甘い」と自身を評していますが、始がこの提案を許諾できたのは年下に甘いとかは関係なく、始も「生きてこそ」という思考の持ち主であり「死」を忌避したから。更に、大和國に魂を持たない始にとって、というより睦月始という人は「世界」の違いで人を区別しないからだと考えます。始にとって、大和國の春も、自分の春も、どちらも春なのだと黒年長の茶飲みシーンで私は確信しています。「違うけれど同じ」という思考です。新は「同じだけれど違う」ですね、「こっちの世界の俺と一緒にいてやってくれ」が物語っています。つまり、始は徹頭徹尾日本の存在でありながら、大和國の「彼ら」にも自分の仲間として寄り添っていたということです。日本の自分たちに起こることには自分が関与できるが、大和國に自分は、この世界の仲間たちを助ける「はじめ」はいない。そのことが口惜しくてたまらない。アラタが死ぬとき、そうして仲間たちが死に別れる痛みを覚えるときに共にいる自分がいないこと。自分にできることが何もないこと。それが黎明の始に「新のリスクを理解しながらアラタを救う」決断させる拍車をかけたのです。仲間が死ぬという事実を誰より厭うたのは実のところ睦月始である、と。

生きることに貪欲とは夢見草に限らず「始」を構成する一部なので考え出すまで気が付きませんでしたが、睦月始こそがハッピーエンド過激派だったのです。

ここまで思い至ってからの「もしも黎明が正エンドだったら」が本題になります 。