「久が原」の地名の由来について
「久が原」の地名の由来について
久が原の地名は、その昔から、「久我原」、「久河原」、「久川原」、「久原」、「久が原」などと書かれてきた。現在公式には久が原であるが、久原小学校は、昔どおり久原(昔は「きゅうげん」と読んだ)と書いて「くがはら」小学校と読ませている。
さて、この久が原にいつから人が住み始めたかというと、昔も昔、縄文時代からこの台地には大きな集落があったようである。久原小学校の校舎の改築工事をしたとき、校庭から遺跡が発見され、縄文式土器が発掘された。
しかし、縄文人の末裔(まつえい)がそのまま久が原に住み続けたのではない。今の久が原土着民はいつからこの地に居を定め、村として発展してきたのか?
江戸時代に編集された「新編武蔵風土記」によれば、正保元年(1644年)、村名を久河原とし、幕府の天領であり、六郷領、馬込領に分かれてそれぞれ代官が支配していたとしている。六郷領はおおむね現在の久が原西自治会の区域であり、土地は台地で乾燥し畑作が多く、馬込領は東自治会の区域であり、土地は低湿地で水田が多かった。
🔷明治時代以降
明治維新によって江戸は東京と改称されたが、久が原ははじめ品川県に属し、徳川時代同様に名主・年寄が村政を行っていた。さらに東京府が設置されると大小区制を敷いた。明治22年に町村制が施行され、池上、雪谷、久が原、道々橋、下池上、堤方、徳持、市野倉、桐ケ谷、石川の10村を合併して池上村となり、さらに大正15年11月、池上町と改称された。
昭和7年10月1日、東京市の市域が拡張され、それまでの15区から35区となった。荏原郡の各町村は東京市となり、大森区と蒲田区が誕生し。池上町大字久が原は大森区久が原町となった。戦後昭和22年、大森区と蒲田区は合併し、現在の大田区となった。昭和初期の久が原の戸数・人口は、池上町史によれば5年間で2倍強と急激に増加している。これは大正12年の関東大震災後、安全を考え市内からの移住が進んだためと思われる。
【参考文献:久が原の昭和史(久が原地区自治会連合会発行)より】