久が原出世観音の歴史のおはなし(久が原の昭和史)
久が原出世観音の歴史のおはなし(久が原の昭和史)
明治の初め、築地新喜楽の女将(おかみ)伊藤きん女は、明治花柳界の女傑といわれていた。きん女は久が原を幽邃(ゆうすい)の地と定め、約4000坪の別荘、如意庵を所有していた。きん女はおきん将軍ともよばれ、明治の政財界や文化人に贔屓(ひいき)にされ、特に初代総理大臣である伊藤博文をはじめ、井上馨(政治家)らもたびたび訪れていた。
明治22年、伊藤博文は韓国統監となったが、きん女は訪問団に加わり伊藤公を激励した。感激した伊藤公は、詩を書き与え、その詩碑は如意庵内に建立された。
伊藤公は明治42年、満州視察の折に暗殺された。きん女はその死を悲しみ、如意庵内に奈良吉野金峰寺の観世音菩薩に模した菩薩を、観音堂とともに建立した。これが現在の久が原出世観音である。
きん女は大正4年4月17日、70歳で亡くなった。葬儀には政財界や花柳界から約3000人が参列した。翌年の一周忌には等身大銅像が建てられ、如意庵をはじめその邸宅はご子息のほか多くの人に継承された。戦後、同地は民間企業の所有となったが、久が原の村井硝子店の店主が敬心厚く、観音堂の堂主をしていた。昭和26年、同氏の熱意が実り、民間企業の厚意によって観音堂への参拝が自由に出来るようになった。名称を出世観音と定め、東急バスの停留所名も「松仙」から「出世観音」に変更され、正月には参詣人も訪れている。
【参考文献:久が原の昭和史(久が原地区自治会連合会発行)】