「この前、この近くで警察官が死んだでしょ。あの事件のこと、僕、知っているんですよ」
男はそう言ってから、おれの淹れたコーヒーに右手を伸ばした。それから、陶器の白いマグに触れてやけどをする、そのすんでのところで手を引いて、カーキ色をした上着のポケットに突っ込んだ。
一呼吸おいてから、ゆっくりと話し始めた。それを逐一メモに書き込んでいく。
「まず、申し訳ないんですが、事件のきっかけは分からないんです。一説には、気が触れたとか、或いは、何かクスリの影響だとか言われてますが、まぁ、動機はなんだっていいんです。そういうのは後々分かることですからね。ただ、部屋には注射器が置いてあったらしいですから、恐らくは『それ』が原因でしょう。十一月の十三日、金曜日の夜。ホシは。あ、星っていうのは、犯人のことですよ。当たり前ですが、空の景色じゃないです。いや、事件当時も綺麗ではありましたが。ライターさんなら分かっていると思いますが、一応、ね」
「続けてください」という意思表示のつもりで一瞥した。それを理解したようで話を続けた。
発言や風貌から考えると、男は警察関係か、或いはそこに強いコネクションがあるのだろう。そして、事件の犯人がいまだに逃走中の、この時期に自由に動けているというのだから、それほど重要な役職ではない。今のところ掴んだ情報は注射器のことくらいで、これは他の週刊誌にも上がっていたネタだ。おれはこのようなどうでもよい戯言に、時間を割いていることに少し苛立ちを覚えはじめていた。クリスマスも近いのにどうしてこんなことをしているのだろうと思う。先日のインタビューがすべて悪い。あいつがまともであれば、もしかすればそれで事足りたのだ。ともかく、今はなんとかしてこの、無能な警官から新ネタを手に入れなければならないのだ。
「あぁ、はい。すみません。犯人は、錯乱したような様子で家から出ました。服の下には、犯行にも使われたナイフを隠していたのですが、こんな寒い季節ですから、まぁ、厚着しているな、くらいだった。それで、ばれないように尾行していったんですね。家から左の方向に進みました。それから、真っ直ぐ進んで、駅前のパチンコ店くらいでまた左に曲がった。それから、また真っ直ぐ進んで、商店街の入り口の前でまた左に曲がった。どういうことか分かりますか?」
見当もつかないというように、首を横に振る。
しかし何も言わない。沈黙が続いた。エアコンの動作音が聞こえる。
間が持てなくなって、テレビをつけた。ちょうど十八時頃らしく、ニュースを放送していた。
今日は十二月十三日、金曜日です。さて、最初のニュースです……云々。
「つまりですよ」
と、どれくらい経ったか、漸く話し始めた。おれは少しばかりテレビの音量ボタンを押した。
「左に曲がって、左に曲がって、左に曲がった。そうしたときに向かっているのは、最初とは真逆の方向です。つまり、犯人は尾行に気付いている。そう考えるのが妥当でしたね。けれど、気付かなかった。寒かったですし、何より早く帰りたかったんだと思います。ちょうど、今と同じ時間。午後六時頃のことです。だから、とにかく、何も考えないでついていったんですね。そのまま、ふらふらと歩き続けて、更に暗くなってきた。時間は覚えていませんが、恐らくは七時とか。犯人はそうやって古い屋敷へと入っていきました」
屋敷のことは知っていた。といっても、近辺に住む人なら誰でも知っているような大きい屋敷で、既に人はいないと聞いていた。学校では長期休暇の前の会では必ず、入ってはいけないと言われるような、そういう屋敷だった。義務教育を卒業してからは、暫く聞いていなかったが、最近また聞くことがあった。
それが先月のニュースである。件の殺人事件はそこで起きた。
男の顔を見た。無表情でこちらを見ている。どうにも寒気がした。ついさっきまでの無能な警官などそこにいないようだ。いや、実際にはちゃんと男は男であり、風貌も何一つとして変わっていないのに、その隙だらけの感じは消え失せ、いつの間にかおれを見定めようとしているようにすら思えた。
思えば、どうしてそこまで詳しく知っているのか。現場で見つかった警察はたしか死んでいた筈だ。仮に生き残っていたとして、警察がそれを隠ぺいする必要はない。或いは単なる目撃者だとして、やはり警察に報告する筈だ。
部屋の電気がぱちぱちと点滅した。そのあとパトカーの音が聞こえた。徐々に大きくなって、事務所に面した道路を通り過ぎて、また静かになった。
また無言になった。メモをとるのをやめ、一言尋ねた。
「すみません、もっと早くに聞くべきだったんですが、どうしてこんな小さな雑誌の編集部に来てくれたんですか。事件についてもやけに詳しいですし、もっと大きな週刊誌に持って行った方が良かったんじゃないですか。勿論、私どもは歓迎しますが」
男はどこか作り物めいた表情でおれの問いに答えた。
「まぁ、正直に話すと、ちゃんとした理由はないです。どこでもよかったという表現でも、間違いではありません。けれど、訳あってあんまり遠くにはいけませんから、それで、失礼ですが、ここを選びました。それに、大きな事件のことですから、ちゃんと伝われば、どこに持っていったとしても、充分には広まるでしょう」
「いや、それは正しいですが、それでも、謝礼とか」
「あ、あぁ、お金ですか。要りませんよ。そんなもの、今更、必要ありませんよ。それにこんな時間に、押しかけたのはこっちですから。……すみません。そうだ。なんだか、暑くないですか。良ければ、エアコン、切ってくれませんか」
「あ、あぁ、エアコンですか。分かりました。すみません」
立ち上がってリモコンを手にした。そうして、暖房を切ってから、声をかけた。
「そうだ。新しい飲み物でもどうですか。」
「では、アイスコーヒーをお願いします」
こんな季節なのに、アイスコーヒーか。
思えば、来たときから怪しかったのだ。
——雨の中、十七時半、突然にインターホンが鳴った。普段ここには誰もいないが、記事に空白がある以上おれは帰ることができない。そういうわけで、おれは仕方なく対応することになった。知り合いではない。普段なら全員帰宅している時間である。こんな時間に訪ねるわけがないのだ。だとすれば、出前の誤配送だろうか。
二度目のインターホンが鳴った。このペースなら三度目も鳴るだろう。そう思っておれは仕方なくドアをあけた。
そこには濡れて濃く変色したカーキ色の上着をした人——つまりこの男が、立っていた。
「終業後にすみません。どうしてもお話したいことがありまして」
そう言ってこちらを見た。しかし、焦点は合わず、どこか遠くを見ているようだった。
「緊急のご用件でしょうか。まぁ、ともかくお入りください」
アイスコーヒーを淹れるためのコップを出しながら、男を眺める。
アウターはまだ少し濡れている。暖房に当たったことで幾分か乾いたようである。今思えば、事務所に入るときからいままで、それを脱ごうとはしなかった。濡れていて気持ち悪い筈なのに。依然として、ポケットには両手を突っ込んだままだ。何かが入っているような膨らみはないが、時々、もぞもぞと左手だけを動かしている。
その仕草にふと違和感を覚えた。
ポケットの中を執拗に確認しているようだ。
そもそも何故、これほど詳細に事件の顛末を知っているのか?
少し考えた。そして一つの結論に行き着いた。
そうだ。今、目の前で事件について語っているこいつこそが犯人なのだ。
その時だった。
「あの、コーヒーはまだですか」
「あぁ、すみません。テレビを見てて」
浮かんだ考えを打ち消そうと、その一瞬テレビを見ていた。
ちょうど、件の事件についてのニュースが流れていた。アナウンサーによれば、町の周辺では検問が敷かれており、人の往来はそれなりに制限されているのだという。師走の時期であることも少なからず影響していると思う。毎年この時期は、実家に帰る車で溢れている。専門家は、これでは犯人は遠くにいけませんからね。近所の方は充分にお気をつけください。と言っている。
既に市外にいる可能性もありますから、周辺の人もあまり外を出歩きませんよう。と、アナウンサーが補足した。
「危ないですね」とアイスコーヒーを机に載せながら、極めて他人事であるようにおれは言った。
「そうですね。まぁ、今日くらいが限界じゃないですかね」と、男は言った。
それからアイスコーヒーには口をつけることなく、話し始めた。
「やつは屋敷の中で何をする気なのか。そう考えました。つまり、いまだに誘導されていることには気がついていない。今考えると本当に愚かです。そして、屋敷はほとんどの窓が蔦に覆われてますし、そうでなくても鉄格子がハマっている。そうなれば、出口は入ってきた扉の一つしかない。隙を見て玄関のドアにカギをかけてしまえば、もう他に出口はないんですね。真っ暗ですし、混乱していますから、開錠することもできませんでした。まんまと嵌められたわけです。それからはもう、出口を塞がれて、ドンと殴られて」
「殺したんですか」
口を衝いた。と表現するのが正しいか。気付いたときには確かにそう言っていた。
ハッとして男を見た。目が合う。呆気にとられている。或いは、計画しているのかもしれない。即座に脳みそと、全身の神経をフルに稼働させた。ズボンの尻ポケットにはスマホが入っている。それから、キッチンの包丁、取りに行くには少し距離がある。身体は今のところは問題なく動きそうだ。ならば戦えるか。いや流石に難しい。ポケットの中身も分からない。ならば、逃げるとしてどうする。トイレか? 玄関か? 窓から飛び出すか?いや、どれも現実的ではない。
苦肉の策ではあるが、おれは誤魔化すことにした。立ち上がって軽く頭を下げる。
「あ、あぁ、すみません。冗談でも不謹慎でしたね」
「いえ、驚いただけです。真面目な方だと思ってましたから」
「こんな日ですから。少しくらい雰囲気をやわらげようかと」
険しくなっていた男の顔が少しマシになった気がする。いつの間にかあの別人のような雰囲気も消え失せている。
「なるほど……それで、答えですが、私は殺してはいません」
「良かった。警察を呼ばなければいけないところでした」
「その必要はありませんね」
男はおもむろに立ち上がった。身体が自然に強張るのを感じる。まだこいつが容疑者でないと決まったわけではない。隙を見てここから逃げ出したい。だが、今立つのはあまりにも不自然だ。
「いくら警察とはいえ、殴られれば気絶します。流石に死にはしませんが。やつは昏倒している警察官を引きずり、それから左手を手錠で柱と繋ぎました。そして家をあとにした」
恐らく殺すつもりはなかったんでしょう。家に火をつけることはせず、その場から去った。これが事件の全貌です。
男がそのように語り終えた、その時だった。
テレビの音量が急に大きくなった。そして、周囲が「静かになった」のだと気がついた。他の音が何一つ聞こえない。先ほどまで聞こえていた外の喧騒が一切聞こえない。ただ、テレビの音だけが聞こえる。そんな状況である。
『速報です。○○市警察官殺人事件の犯人が逮捕されました。繰り返します。○○市警察官殺人事件の犯人が逮捕されました。詳しくは判明次第追って……』
「やはり今日が限界でしたね。ともかく、本日はありがとうございました。今日お話ししたことは好きにしてください。私としては記事にして欲しいですが、まぁ、必要なければ、没にしてもかまいません。誰かに聞いて欲しかっただけですから」
男はそういってポケットから右手を取り出した。そこには何も握られていない。男は殺人犯ではなかったのだ。単なる目撃者か、或いは頭のおかしなやつか。おれにとっては、そんなことはもうどちらでもかまわなかった。
ともかくこいつには早く帰ってほしかったし、おれも早く帰りたかった。さっさと今日のことは忘れてしまいたかった。
こいつは握手を求めているのだろう。言い換えれば、帰ろうとしている。ならば、従った方が賢明である。おれは立ち上がって差し出された手を握り返した。
思わず声が出る。それ程に冷たい。それも表面的な冷たさではなく、芯が冷たいのである。腐らないよう、ドライアイスとともに置いておいた、死んだ犬の身体のように。
咄嗟に手を引っ張るが、強く握られている。急いで男の顔を見やる。無表情でこちらを見ている。どうにか引き抜こうとおれは左手を使う。その動きを見て男は左手をにわかに動かした。どうやら両手で握手しようとしていると解釈したらしい。
ポケットからゆっくりと左手が抜かれようとしているのを、おれはどういうわけか目が離せないでいた。
だが、抜かれた左手は、いや、違う、そこにはあるべき左手がなかった。
おれは驚いて男の顔を見た。その顔は血でべっとりと汚れている。そして、床にぽたぽたと垂れている。頭から血が流れているのだ。表情は、分からない。それほどまでに血に塗れている。
おれが記憶しているのはそれが終いだ。いつの間にか気絶していたようで、ソファーで目が覚めた。無理な体勢だったのか、身体が動きにくい気がする。
入念に確認してみたが、床に血はついていない。テレビも消えていた。
朝のニュースによれば、警官を殺した犯人は昨夜捕まったようである。おれがどうしてそのことを知っていたのか。それだけが説明できない。