目を覚ますとそこは知っている白い天井、何の変哲も無い普段通りの自室。隣ではもうすっかり見慣れた寝顔が、僕の左腕を枕代わりにして、小さく寝息を立てている。その顔に垂れる艶のある黒髪を優しく払い、耳へとかけた。すると、その双眸が小さく開かれ、宝石をはめ込んだような瞳が僕を捉える。
ぎしりとベッドを軋ませ、僕の方へ顔を寄せる君の肩を抱く。口から小さく漏らした白い息が静かな部屋へと霧散していった。ああ、僕は幸せだ。
そして言った。君のその瞳をしっかりと見据えて。
「やっぱり一緒にはいられない」
物の少ない部屋にその声は嫌に響いた。
さよならいずれ色あせる君。
*
二月十四日、聖ウァレンティヌス様とやらが殉教した日であるらしいが、今やチョコレートを押し付けあう日と化している。僕の住む町も例に漏れず甘ったるい空気に包まれていた。僕はといえば大学生としての責務を全うするために電車に三十分ほど揺られ、大学に辿り着いたわけであったが講義部屋には誰も姿を現さなかった。
不思議に思ってポケットから取り出したスマートフォンから今日の時間割を確認したところ休講となっていた。偶然にもその日は毎週参加していたサークルの活動も中止の連絡がきたのでおとなしく帰路に就くことにした。
また電車に揺られて最寄り駅に辿り着き、主婦やスーツを着た中年の男性、腕を組んで歩くカップルなどの間をするりと通り抜ける。 閑散とした住宅街の細道で顔見知りになった猫に挨拶をして一人暮らししているアパートの前に到着した。決して綺麗なわけではないが家賃が安かったことや、一人で住むには十分なスペースが確保されているという理由から二年ほどここに居を構えている。
もう二年も経つのかなどと思い、自身の住む三〇二号室の窓へと視線をやったが、そこで僕は違和感を覚えた。何かがおかしい。
出発する前に確かに消したはずの部屋の電気が点いたままになっている。僕が確認を怠る性格であったために休講の連絡を見逃してしまったわけだが、部屋の電気を消すという習慣まで失ってしまったのだろうか。部屋の鍵を持つ人間は一人だけいるのだが、この昼にもならない時間帯にここにきているはずはない。
漠然とした恐怖心が沸き上がる。鼓動が加速していくのを感じる。しかし、ここが僕の帰る場所なのだ、ほかに行くべき場所なんてないだろうと自分に言い聞かせる。震える指先に手こずりながらも鍵で自動ドアをあけ、階段を小走りに駆け上る。部屋の前に到着し、扉のドアノブへと手を伸ばす。微かに震える指先のことは無視してそっとそれを掴み、音を殺しながら右へと回転させる。
ぎいっと木製の扉が小さな音を立てて開く。
そこには見慣れない靴が一足と、見慣れた靴が一足脱ぎ捨てられていた。
もう指先の震えは止まっていた。廊下を進み、室内ドアを先ほどとは違って無造作に開け放つ。
そこには二匹の動物がいた。普段僕の寝ているベッドの上で息を荒げ、体を重ねながら快楽を貪る二匹の獣が。しかし眼前で行われている蛮行に対して何ら感情を抱かなかった。怒りも悲しみも嫌悪さえも感じない。これこそが人間の姿であり、驚くことなどなに一つだってありはしないとすら思った。そんなことを考えて突っ立っているとこちらの存在に気付いたようで女がどうしてと声を漏らす。女の様子がおかしいことに気付いたのであろう滑稽な動きをしていた男がばっと振り返る。
そして視線が合い、見るからに男の顔から血の気が引いていくのが分かる。あたふたとしながら自分の荷物を引っ掴んで裸のまま僕に向かって猪のごとく突っ込んでくる。止める気もなかった僕は簡単に突き飛ばされた。そのまま男はバタバタと玄関のほうへ走っていき戻ってくることはなかった。
逃げたってどうにもならないのに……。
男は僕の幼馴染とか呼ばれる人間だった。幼少期は毎日のようにともに過ごしていたような男だった。だからといって幼馴染に裏切られたことが特別にショックであったなどとは一切感じなかった。
男の逃亡劇を見送って部屋に一瞬の静寂が訪れた後、今度は女が僕の服を掴み、声を震わせながら言葉を紡いだ。
「ちがうの、あのひとがむりやり。しんじて」
余りにも陳腐な言い訳に笑いそうになるのを堪える。
「そうなんだ。言いたいことはそれだけ?」
「ごめんなさい。でも付き合っているのにこんな特別な日に会いに来てくれない貴方も悪いと思うの」
何を言っているのか分からない。この女はどこまでも人間的だとさっき思ったばかりだ。だとするならばおかしいのは僕の方なんだ。人間の皮をかぶっただけの化け物にはこの人が何を言っているのか理解できない。
いや、一つだけ理解できたことがあった。
「何を言っているんだい君は。別に僕たちは付き合ってなんていなかったじゃないか。僕が付き合ってくださいなんて君に一度でもいったかい?」
その瞬間、視界が白で埋め尽くされる。体の自由が奪われ、なんの抵抗もすることなくその白に落ちていった。
*
駄目だと思った。根本から人を信用できない僕の性分は、固執することを恐れる性格はこれからも変わりはしないのだろう。
信頼は罪なりや?
信頼は罪だ。
いずれ侵されるかもしれない無垢なる信頼ならば初めからないほうがいい。
幸せは摩耗し、いつしか見失ってしまうものなのだろう。必要なのは手放す勇気だけだった。