海の暗さと相まって、夜空の月は青白く見えた。今宵は特に月が大きい。けれど、海はその光を呑み込むばかりで底が知れない。私は防波堤に腰掛けてぼんやりとそれが出てくるのを待っていた。
やけにフリフリの多い衣裳を指先で弄ぶ。成長に合わせてサイズは変われどデザインの変更は認められなかった。流石にこれを着て喜ぶ年ではないというのに。「魔法少女」という肩書は結構重たいものなのだと、歳を重ねるにつれて実感した。
「私も受験でやめちゃえばよかったかなー」
誰に聞かせるでもなく呟いたそれに、ぽちゃんと水を叩く音がした。あの子はなかなか意地が悪い。それはここ数日で既に分かっていた。とっくの前に私を見つけて観察していたんだろう。それも分かっていた。真っ黒な水面に似合わぬ明るい笑顔がゆっくりと顔を出す。
「やめちゃえやめちゃえ。そんで私とお喋りしよう」
きっと友達の前でもこんな風に笑っていたんだろう。進藤美里はよく笑う子だとみんなが口を揃えて言っていた。私はそれに愛想笑いさえ返さない。
「君は無愛想だね~。そんな怖い顔で魔法少女なんてできるの?」
「できるよ。これでもベテランだから。私のスマイル高くつくから」
「希少価値ってやつ?」
やつやつ、と投げやりな返事を返す。何がおかしかったのか、彼女は尾びれで水面をばちゃばちゃ叩いた。微妙に横にスライドしていく。そのことにまた笑って上機嫌になる。女子中学生は忙しいのだ。人魚になってもそれは変わらなかった。
「それで、いい加減人間に戻ってくれませんかね」
「やだよ。せっかく人魚になったんだからさ、戻りたくないって。人魚になるなんて一生に一度あるかないかだよ⁉」
「いや一度もないからふつー」
「魔法少女がふつーを語る?」
それもそうだ、と納得しかけた。声には出さない。もうじき冬になろうとしている冷たい風がフリルを揺らした。衣裳のマジカル的な力で寒くないが、心が寒くなるような気がした。早く帰りたいと思った。
そういえば、と私は浮かんだ疑問を口にする。
「水の中って寒くないの?」
「ん~、正直よく分かんない。でも居心地がいいことは確かだよ」
私は頷きながら「まあ水の中だしね」と適当に口走る。よくよく考えると会話になっていない気がする。頭の中では暗記させられた魔法生物化の進行度合いを確かめていた。
「まっさか水の中の方が呼吸しやすいなんて、夢にも思わなかった」
彼女はしみじみ独り言のように呟く。環境の適応、人との乖離。結構やばいなと心の中で舌打ちする。力技は使いたくない。まぁ、身辺調査の結果が出るまでは考えててもしょうがない。私は立ち上がって彼女に背を向ける。
「えっ、もう帰るの? 昨日はもっとお喋りしてくれたじゃん」
「期末前なんだよ。勉強しなきゃ」
「ひどい! 私と期末どっちが大事なの!?」
両手で水面を叩いて抗議する。面倒くさいが答えるべきは決まっていた。
「期末~。あんたも期末までには戻りなよ」
ヒールでバランスをとりながら防波堤を立ち去る。後ろから怒ったような声が聞こえるが立ち止まらない。我ながらひどいなぁと思う。
「また明日!」
彼女の叫びが聞こえてきた。叫びにしか聞こえなかった。振り返ると笑顔で手を振っている。きっと何回も繰り返してきたであろう笑顔で。
「また明日」
私も手を振り返す。彼女はそれで納得したのか、暗い海に潜ってそのまま出てこなかった。
人魚は気楽だな。私はまだ終わっていないワークに思いを馳せた。変身を解除して急いで家に帰る。
女子中学生は忙しいのだ。
その夜も変わらず海は暗かった。夜の海はもっと神秘的なものだと思っていたけれど、底知れない。私は真下を見る。どこからが海面なのかさえ分からなかった。空中は防波堤よりも安定していた。
「君、浮けたんだね。箒とかじゃないんだ」
「私が憧れたのはそういうタイプじゃないから」
彼女が姿を現す。耳の辺りにひれが付いていた。昨日よりも進んでいる。やっぱり今夜中に決着をつけた方がよさそうだ。私はスマホ型変身デバイスの調査結果を眺める。
「進藤さん、人に戻ろう」
「またその話? 戻らないって言ったでしょ」
「それが仕事だしね。ないなら無理矢理戻さなきゃいけないんだけど」
「あのさ、私が学校行ってない間、何にもしてなかったと思ってる?」
彼女を中心にして波が立つ。海面が盛り上がり、いくつもの水柱が立った。上がっては落ち、上がっては落ち、私を打ち落とそうと唸っている。
「まぁまぁ落ち着きなって。私としては自分の意思で戻ってほしいし、戦いとかもうしたくないの」
「じゃあどうするつもり?」
「いつも通りお喋りするだけだよ。前に話した人魚のデメリットは覚えてる?」
彼女は頷いた。水は変わらず滝のような音を立てているがひとまずは話を聞いてくれそうだ。
「不老不死の肉として狙われるってのと、失恋したら泡になって消えるってやつでしょ」
「そうそう。昔お姫さまがやらかしたからね」
人魚にも人魚なりの不自由があった。昔は悪さをしていたようだが今ではひっそりと暮らしているらしい。
「でも自由に泳げる。水の中はいいよ。音も光もぼやけるから、余計なこと考えなくてすむし」
「弟と妹は余計なことだった?」
私の言葉に進藤さんは眉をピクリと動かした。彼女を中心にして小さな波が立つ。
「うるさいな。関係ないでしょ」
「まさか。関係ないって割り切れたらそうはなってない」
「黙れ!」
水柱が意思を持ったように私を呑み込んだ。水中だというのに水の流れがゴウゴウと音を立たてているのが分かる。彼女の意思が、叫びが、形となって私を排除しようとしている。私がこれを拒絶するわけにはいかない。圧倒的な質量はいとも簡単に私を海の中へと引きずり込んだ。
そこは完全な暗闇だった。自分がどれほど深いところにいるのかが分からない。ただ分かるのは、冷たさだった。私は指先で呪文を書く。微かな明かりが灯った。
「聞こえるかな」
暗闇の中にいる進藤さんの心に呼びかける。音ではだめだろう。すぐにぼやけて分からなくなってしまう。
「テレパシーまで使えるの? 頭に響いて気持ち悪いんだけど」
彼女は姿を見せない。
「悪いね。でもこのまま聞いてよ」
攻撃が来る気配はない。まだ水中で水を操れないのかもしれない。あるいは私が溺れるのを待っているのかもしれない。いずれにせよ好都合だった。
「そういえばあなたがなんで人魚になったのか、話してなかったなって」
暗闇は黙ったままだった。
「これはある意味夢なの。現実逃避の夢」
クラスの子達はみんな黙って家出するような子じゃないと言っていた。当たり前だ。それが出来るなら、助けを求められるなら夢なんか見ない。
「人には夢を叶える力があるの。でも絶対に叶わない夢だってある。そういう夢が、人を変えてしまう」
語りながら、私は初めて魔法少女になったときのことを思い出していた。いつまでも捨てられないでいた夢が形になってしまった。
「それがあなたの場合人魚だった。ずっと泳いでいられて嫌なことは忘れていられる人魚」
彼女は水泳部だったらしい。夏に引退して、受験を考えて、そこで親とぶつかった。強い私立に行きたかったけれど、お金を理由に許可されなかった。「弟と妹のために公立で我慢してくれないか」と。
「あんたに何が分かるの!」
水が面になって私を押しつぶそうとする。徐々に力が増しているのが分かった。ここが分水嶺になる。
人の事情を盗み見る、卑しいやり方だとは分かっていた。でも、これが自分で選んだやり方だった。力を振りかざすあの頃にはもう戻らない。
「ごめんね」
私の言葉に、水の力がぴたりと止まった。しかし水の壁は維持されている。
「私もさ、夢の力で魔法少女になったんだ。現実逃避の魔法少女」
「最初の内はただただ楽しかった。念願の魔法少女だからさ。でも、私の他にも魔法少女がいて、それを管理する組織があって、魔法の仕組みを知ってしまった」
小さな泡が水面に向けて吐き出される。それ以外何も聞こえない。静かだった。あの子は今どんな気持ちで私を見ているだろう。
「ねぇ、あなたが叶ったその先にはただの現実が待ってるだけなの。でも人魚は人魚でしかいられない」
「どの口が言うの? あなただって魔法少女のままのくせに」
その言葉はわずかに震えていた。
「私は自分が力任せに踏みつぶした怪物は誰かの夢だと気付いてしまった。だから潰した分だけ誰かの夢を救いたい」
「救う? 馬鹿言わないで。それなら私を人間に戻そうとするはずない」
「違う。あなたが自分の意思で戻ってくれれば、あなたを変えた夢の力は、また別の夢を叶える力になる。でも私が倒せばその力は消えてなくなるの」
水が揺らいだ。暗闇の中から進藤さんが姿を現す。今にも泣きそうな顔をしていた。
「今更戻れないよ。みんなに心配かけたし、お父さんにもひどいこと言っちゃった。どんな顔して家族に会えばいいのか分かんないよ……」
瞳から涙があふれだす。それは海水に混ざらず、光を反射してきらめいていた。
「大丈夫。なんとかなる。あなたの夢が応援してくれる」
「いいのかなぁ。私、現実に戻ってもいいのかなぁ」
彼女の身体を覆うウロコがはがれていく。魚としてひとつになっていた足が戻りつつあった。
「大丈夫。目を閉じて」
言われたとおりに目を閉じた。彼女の身体が淡い光に包まれる。ほのかに熱を帯びていた。
「目が覚めたら、新しい朝だ」
光が収まると、制服姿の進藤さんがいた。気を失っている。人魚だった時よりひと回り小さく見えた。この小さな身体が夢を抱えていた。
私は彼女を抱えて急いで浮上する。岸に上がって本部に仕事の終わりを告げた。最後のもうひと頑張り、進藤さんを家まで送らねば。
高く飛びあがると、水平線が見えた。月の光が私たちを照らす。海は変わらず暗く見えたが、波は穏やかだった。
翌日、クラスがざわついていた。隣のクラスの進藤さんが帰ってきたからだ。質問攻めにあって苦労していることだろう。彼女はもう人間だから、人魚だったころの記憶はない。私のことも覚えていない。
「次の英語、小テスト!」
「やばい! 勉強してないんだけど!」
進藤さんのグループがにぎやかに笑いながら廊下を走っていく。その顔は晴れやかだった。よしよしとひとり満足げに頷きたかった。
「夕夢~、国語漢字テストやるらしいよ」
クラスメイトの言葉に私は固まった。チャイム五分前。私は急いで漢字表を取り出す。
女子中学生は忙しいのだ。