『ご乗車ありがとうございました。終点に到着です。尚、この電車はこの後回送車になります。皆様お降り願います』
車掌の無感情なアナウンスが空っぽの車内に響いた。
僕はそれに一層心が重くなるのを感じながら、腰をあげた。結局終点まで来てしまった。
帰りの電車に乗ったつもりが、なんとなく自宅の最寄駅で降りる気にならずそのまま流れに任せてここまで乗ってしまった。
ここはA県の中心街となる場所で多くの路線が乗り入れているので、平日は勤め人、休日は遊びに行く人たちで混み合う。とはいえ、今は平日の夜十一時半。さすがに人の流れはかなり落ち着いていて逆に違和感を感じるほどの静けさが広がっている。
僕は駅を出て、あてもなくただ歩いた。どうしようもなく押し寄せる虚無感と喪失感を抱えながら。
ふと前の方から歩いてくるカップルが目についた。仲睦まじくおしゃべりをしながら、時にはお互いに体を近づけて歩いてくる。
そういえば、僕にもあんな時期があったか。あそこまではいかないが、少なくともこんな夜に一人さみしく都会を徘徊するような人間ではなかったはずだ。一週間前に、彼女が息を引き取るまでは……。
あの日彼女は最期に、『ありがとう』とだけ言って去っていった。とても満足気な、安心しきった表情が今でも目に焼き付いている。その時から、僕の中で何かが抜け落ちた。そして今ではこの有様だ。
駅を出て、さらに歩いた。やはりターミナル駅周辺なだけあって、居酒屋やバーが多い。今頃、世間の勤め人たちは日頃の疲れを酒で飲み下しているのだろう。自分も大して差はないはずなのだが、この疎外感のような感覚は一体何なのだろうか。
ふと、向こうの川沿いに並ぶ光が見えた。そういえばこの辺りは川が多かったか。気になって近づいてみると、光の正体は屋台だった。それがずらりと並んでいる。前にテレビか何かで見た九州のどこかにある屋台街が頭に浮かんだ。
僕は特に行く当てがあるわけではなかったので、立ち寄ってみることにした。やはりここも客は皆グラスを片手に日頃の傷を癒していた。仲間と笑いあったり、一人ゆっくり晩酌を楽しんだり、と。僕はその横を歩いていく。やはり、ここでもどこか疎外された感覚に襲われる。何が違うというのだ。僕と、彼らとは。
さらに進んでいくと、一つの屋台の前で足が止まった。その屋台はどこか懐かしい『おでん』の提灯が下がっていた。たまたまなのか客が一人もいないようだった。僕はなぜか最初から決めていたようにその屋台へと入った。
「いらっしゃい」
店主は静かな声でいった。彼はもうとっくに七十を過ぎた、この世を知り尽くしたような雰囲気があった。
「ご注文は?」
「え、えっと……」
しまった。入ったはいいが、僕はこういうところで一度も食事をしたことはなかったのだ。ここに来てかっこつけた自分を呪った。
「と、とりあえず生ビールと、大根とはんぺんをお願いします」
店主は慣れた手つきで用意にかかる。この道は長いのだろうか。
まず生ビールが出てきた。二十歳のころは苦くてあまり飲む気がしなかったが、最近になってようやく味が分かるようになってきた。これも大人の階段を一つ登ったということなのか。
まずは一口飲む。ビールが喉を通る度にどこか満たされた気持ちになる。皆がこれを欲しがるのもなんとなく分かる気がする。
「はい、おまちどうさま」
次に大根とはんぺんが出てきた。立ち上る湯気と香りが食欲を掻き立てる。まずは大根から手をつける。口の中で噛んだ途端にだしの効いた出汁が広がる。丁度いい具合に柔らかくなっているのもまたいい。
そういえば、彼女が前にこういうところで食事したことを話してくれたっけ……。珍しく顔を赤くしながら必死に語る姿が目に浮かぶ。
その時、急に目のあたりが熱くなるのを感じた。視界もどんどんぼやけていく。何か、抑えきれない何かが、心の中から流れ出てくるのを感じる。同時に、涙が頬を伝う……。
そこからはもうただひたすらに泣いていた。もはや人前だということなど完全に忘れて。
それから何分たったか、ようやく僕が落ち着いた頃に店主が口を開いた。
「どうだい、久しぶりに正直になった気分は」
「……え?」
僕は彼が何を言っているのか理解できなかった。
「どうして、そんなことを」
「あんたが入ってきた時から顔に書いてあったよ。訳ありだってな」
店主は軽く微笑んで言った。僕はなぜだか、返す言葉が見つからなかった。
「どこかで自分を無視してここまで来たんだろうが、人間そんなに強くはできてねぇからな。だからここに来てこらえてたもんが全部出てきたって訳だ」
たしかに言われてみればその通りだった。この一週間自分を見ようなどとは思わなかった。いや、思わないようにしていたという方が正しいだろう。
僕はジョッキの残りを一気に飲み干してから言った。
「付き合ってた人を亡くしましてね。その日からというもの……自分をみるのが、怖いくなって。多分、彼女になにもしてやれなかった自分の弱さをみるのが、いやなんでしょうね」
僕は自嘲的に笑った。恥ずかしいなどとは思わなかった。
「あんたが弱いかどうかなんて俺は知らん。けど、俺に言わせればあんたは度が付くほどの真面目さんだ」
店主はまるで親が子に諭すようにそういった。
「一方であんたには迷いもある。今の自分に対してな」
そうだ、僕は迷ってばかりいる。そしていつも何も決められないまま事がうやむやになっていく。
「何が正しいのか、いつもそればかりにこだわって、結局なにもわからないまま全部終わって……」
「正しいかどうか考えたところで意味なんかねぇよ。大事なのは、自分のやりたいようにやったかどうかだ。そうすれば自ずと道は見えてくるもんだ」
自分のやりたいように……。
「それで自分の首を絞めたら元もこもないのでは」
「でも、自分で選んだ道だ。必ずどこかで納得できる時は来るもんだ」
店主は終始落ち着いた様子だが、どこかに絶対的な自身を持っているようだった。
そんな彼の言葉を聞いて、僕の中で何かが取り除かれた気がした。なんとなく風通しがよくなったような、落ち着きを感じた。
僕は財布から出した五千円を置いて、立ち上がった。
それを見て店主は初めて目を丸くした。
「お客さん、そんなに食ってないでしょ」
「いや、カウンセリング料ですよ。それに、ここにはしばらく来れないだろうから」
店主は笑って「毎度あり」とだけ言った。
そろそろ日付が変わろうとしていた。僕は歩きながら店主の言った言葉を思い出していた。
自分のやりたいようにやる。
ならば、たとえどんな結果になっても後悔はしないだろう。
多分彼女は望まないだろう。だが、これは僕にとって避けては通れない道だ。
──彼女を殺した、僕にとって──。
僕は彼女が抱える闇に気づいていながら何もしてやることができなかった。そして彼女が死へと向かっていくのを止められなかった。
彼女に死なせてくれと言われた時、僕はなにもためらうことなく頷いた。それが僕にできる唯一のことだと思ったからだ。
だけど今になって僕は悩んだ。これが最良の選択だったのかと。
でもそんなことはもうどうでもいい。彼女の死に僕が加担したこと、これは動かしようのない事実だ。ならば。
僕はポケットから携帯電話を取り出し、110番にダイヤルを回した。
これでいいのだ。これで、僕は──。