底のない闇の中を落ちていく。
『またひとつ世界が消えた』
どこからともなく響く声を聞きながら。
「なあ、聞いたか」
「ああ、あの話だろ? 知らないわけないさ、町中がその話で持ちきりだ」
自分の露店に客足が遠のいた途端に店主同士でかわされる会話。何十年と使われ、しわがれてしまった声を聞きながら僕はその前を通り過ぎた。
町中には今、もうすぐ世界の終わりが来るという噂が蔓延っている。
根拠の無い妄想のような噂だ。
しかし住民の退屈さを持て余したような生活には良い刺激になっているようで、日頃街を歩けばその話が飛び交っているのが分かる。
毎日毎日同じようなことを繰り返し、何かを為すことも無く、ただ無意味に過ごす。はじまるものなど何も無く、終わるものも見当たらない。娯楽もなければ学びもないこの町にいる限りは、生きていようが死んでいようが変わらないのだ。
現に僕は、世界の終わりが訪れると聞いた時などは飛び跳ねてしまいそうな程嬉しく思ったものだった。ようやく退屈な日々から解放される、そう感じたのである。周りの皆も同じだ。表面上恐れてはいても結局の所娯楽ができて嬉しい様子だった。でなければこのチンケな町が活気づくことなどなかっただろう。皆終焉を楽しみにしている。
これ以前にはホイーラーの終焉だとか、終におけるガジェットの言葉とか、眉唾物の噂が飛び交ったことがある。突如空の彼方に途方もないほど大きな人間が現れ、星々だけでは飽き足らず大地諸共飲み込んでしまうといったもの。または僕達を丸呑みしてしまいそうな程大きな鳥が卵を産み落とし、その卵が光り輝いた瞬間町は光に飲み込まれて消えてしまうなどといったものだった。当たり前ともいえようか、どれも現実に起こることはなく終わった。
だがしかし今回は少し毛色が違ったのだ。扉が閉まれば世界が終わる、ただそれだけだった。この言葉少ない予言は町の人々の想像を掻き立て、そして噂は広がって行った。
それに拍車をかけるようなことがあった。以前の予言は曲がりなりにも占いに明るい者であったり、または未来のことをピタリと言い当てる者によって生み出されていた。しかしこの予言を表したのは、しがない古物商をやっているただの男だったのだ。何の変哲もない、ただの男。みな本気にしなかった。
その男は人と積極的に関わろうとする人間ではなく、いつもひっそりと店の奥で本を読んでいるような男だった。ただ陰気であるからと言って体も弱かったということはなく、いたって普通に生活する日々を続けていた。そんな男がある日の朝、目覚めた瞬間に先の予言を吐き出して周囲に大真面目な顔で言いふらし、そしてみるみるうちに弱って死んでいったのだ。最後の最後まで予言の言葉は口にしながら。面白半分で広がっていった噂は一気に恐怖の大予言となった。今や情報交換が盛んに行われるようなそこいらの酒場でも、お高い人々が集まるような場でまでも、ひっきりなしに終わりがどんなものかの妄想大会が繰り広げられている。
僕はこの時を境に、ただの娯楽だった世界の終わりが少しだけ怖くなった。
道端には不要になったゴミが散らばっている。烏がそれを啄むようにして荒らしているのが横目に見えた。そんな薄汚い市場を少し通り過ぎ、家々を抜けた先に僕の目当ての場所がある。町外れにある畑の、さらに向こう側にある湖へと向かうことが僕の日課と言ってもいいものだった。
この町は、中心地に円状になって服屋やら野菜屋やらの露店が並ぶ市場が形成されていて、住宅はその周辺を取り囲むようにして建てられている。どれも質素な石や煉瓦で作られた冷たいものだ。さらにその周りに各々の家の畑が配置されているが、大きさも向きもてんでばらばらである。皆好きに自分の畑を作ってしまったからだと聞いた。僕の家にも小さな畑があったが、父が死んだ次の日にはいつの間にか別の人間のものになっていた。自分の畑を持たない者は裕福な者のおこぼれをもらうか、畑の外に広がる湖へ足を運ぶことしか残されていない。湖は住宅街を更に抜けた先、畑地帯より少し離れたところに、僕たちの周りを取り囲むようにして点在しているという。その位置や数は伝聞でしか聞いたことがないから、実際のところは僕にもよくわからない。
だがこの湖には大抵の人間が近づきたがらなかった。気味の悪い噂が流れているからだ。ほとんどの湖はそれほど大きくないが、一つだけ向こう岸が見えないほど巨大な湖があるらしい。そこが噂の源なのだが、その湖は畑の外側のどこかにあるということしか皆は知らない。もしかしたらそこに行き着いてしまうかもしれない、といった恐怖心から大抵はそこに近づくのを嫌がっている。その為おこぼれをもらう人間が大半だが、僕は後者だった。父の影響だ。
住宅街を抜け、太陽が高くなりつつある中を歩く。空を見上げれば、薄い布のような雲が空を漂っていた。名前も知らない鳥が悠々と宙を舞っているのを見る度に、言い様のない羨望が僕の胸を押す。地面に貼り付けられている僕達にとって、鳥とは憧れの象徴そのものなのだ。
父から受け継いだ竿を手に人気のない場所へ足を運んでいく。父は生前釣りが好きで、よく湖の方へ行っていた。もちろん生活のためということもあったのだろうが、出かける際の父の顔は今にも輝きそうなほど生き生きとしていた。太陽が昇りきれば店をやめ、毎日竿を手に町外れまで足を運んでいたのをよく覚えている。だが今僕が持っている竿は、父がある日突然手にしていたものだ。まだ僕が小さくて一緒に連れて行ってもらえなかった頃、家に戻った父を見ればいつものおんぼろとは違う見たことも無い竿を持っていた。父にそれはどうしたのと聞くと、借りたんだ、と言って会話は終わった。普段優しい父がこの時ばかりは、追求するな、と聞こえない言葉を投げ放っていたようだった。
僕の膝ぐらいの高さのものや身長を超すもの。様々な植物を超えてただの草原が続くさらにその先に、決して緩やかではないが、かと言って急でもない坂道がある。この坂道の底から、体が全身毛に覆われていて四つ足で歩く何かが稀に現れるという。頭の部分から長い棒が二本生えていたり、耳が異様に長かったりするらしい。そんなことがあるから気味悪がって皆近づかない。しかし今の僕にはそれが心地よかった。人の気配がないなら存分にのびのびと出来る。それに見たことがないものに興味があるのだ。話だけではなかなか想像できない。今まで一度も見たことがないが、もしかしたら今日は体験するかもしれない未知との遭遇に心を高鳴らせ、名前も知らない草を踏みしめて歩きだした。
しばらく坂道を下っていると、空の光が先程から全く動いていないことに気づいた。影が長くならないのだ。見上げてみれば、雲も形を変えずにその場に留まっている。風も吹いていない。異様な雰囲気が辺りに漂い始めていることを肌で感じた。よくよく考えてみれば、坂の終わりが見えてこないこともおかしいのだ。このくらいの角度であれば、最初に坂道を下る時点で先が見えていてもおかしくはない。だが全く違和感を覚えることなく進んできてしまった。
途端に怖くなって足がすくみ、歩みが止まった。帰ろうかとも考えたが、もう既にかなり進んでしまった感覚がある。それに、僕がいなくなっても悲しむ人はもう誰もいないのだ。そう思えば不思議と足が動き出した。恐れるものなど何も無いのだ。今の僕にとっては。
下るにつれて温度を感じなくなり、空の丸い黄金色もどこかへと姿を消してしまっていた。だけどまだ周囲は明るいままだし、暖かいとも寒いとも感じない空気は心地よい。辺りにはいつの間にか僕の十倍ほどはある樹木が周囲を囲っていた。いつもの様に緑を生やしているのではなく、初めて見るような水色の葉をつけてどっしりと構えている木々の間を通り過ぎて行く。幹も輝くほど白い。辺りは薄い黄金色の霧によって煌めいているように見えた。徐々に水独特の匂いが漂ってくる。近くに湖があるのだ。おそらくかなり広い。これがあの巨大な湖なのだ。足が早まる。この先にどんな景色が待っているのか。期待に胸が膨らんだ。初めて見る景色に違いない、そんな確信に僕の胸は満たされていた。
足早に進んでいくうち、気づけば見えるのは僕とその不思議な木だけになっていた。足元を見れば、所々に土の茶色が見えた地面もいつの間にか真っ白に染まっている。土でもない、今まで見たことの無い質感の地面だ。平らで凹凸が一切ない。つやつやと輝く光沢はないが、光が反射していない訳では無い。太陽を反射しているのかと考えたが、光源がどこかへ消えていたことを思い出して結局首を捻るだけで終わった。はたと道に意識を戻せば坂道でもなくなっていたことに気づく。その時、空気が開けた感触が肌を襲う。前を向くと、木々の海が途切れているのが見えた。だがその途切れた先の景色も白く染まっていて何も見えない。前方の景色だけではない、気づけば周囲の景色も、果ては先程まで蒼に染まっていた空でさえも何も無い白に塗り変わっていた。いよいよ後戻りはできない。そう感じた。もうすぐ視界が開ける。気づけば走り出していた。早く見たい表れなのか、ただの恐怖心なのか、僕にもわからない。
空気が変わるのを肌で感じた。
ふと気がつけば辺り一面の水に囲まれていた。どこまでも碧く透き通り、太陽に反射して目が痛くなるほど細やかにきらめく水が僕の下に広がっている。先程まで踏み締めていたはずの地面はどこにも見当たらない。つと足元を見れば見たこともない美しい虹色の魚が悠々と泳いでいるのが見えた。胴は白いが、ひれが動くたびに様々な色に姿を変えている。体の大きさに反して尾ひれや胸びれが異様と言ってもいいほど長い。そして、まるで大木のように大きな体から放たれる圧倒的な存在感。これはきっとこの場所の主だ。この美しい世界を治める虹色の魚はたゆたう女神の衣のような尾ひれをなびかせ、僕の真下を通り過ぎた。足には硬い水の感触。靴はいつの間にか無くなっている。少し足をあげて軽く踏みなおしてみると、ゆるやかに水が波打つ。僕の足元を飛び跳ねた水の子供たちも次々に自分たちの小さな波を作り、そして母のもとへと消えていった。確かに水だ、足裏にも涼やかな温度が伝わってくる。では何故僕は立っていられるのだ?
「キミは器官系の互換性については聞いたことがあるかね?」
唐突に声が前から降ってきた。足元から顔をあげてみれば、やや痩せ気味で、禿頭の上に髪の毛がほんの少しだけ生えているような男がじっとこちらを見つめていた。白髪まじりで、顔にはシワが少しだけ刻まれている。さっきまではいなかった。
「キミたちは以前細胞の設計図については解明していただろう。しかしあれには実は応用がきいてね。その先を進めば器官系に互換性を持たせることが出来る。キミたちにわかりやすいように言うと例えば足の骨を脳として置き換えることが出来るのだ。聞いたことは?」
さっきまで僕を見つめていた男は、気が付けば今度はこちらに見向きもせずに喋り続けていた。ずいぶんと早口だ。男の疑問に対して、僕は頷くことも首を振ることも出来なかった。本当に知らないかどうかも分からなかったからだ。
だが白髪混じりの男はそんなことはお構いなしに、ただ僕が呆けた顔で突っ立っている間も次々と話を進めていた。まるで僕の反応など気にしていない。声が右から左へと流れていく。頭が理解することを拒否しているかのようだ。聞いてはならない、理解してはならないと本能から告げられている気分になる。でもこの話は、以前も説明された気がする。きっとその続きだ。あの時も理解できなかったが。いや、僕はこんな話を聞くのはこれが初めて、きっとそのはず。だが聞き覚えがある。何故だ?
ふと男がこちらを向いた。しばし目が合う。
「ああキミではなかったのか」
声が頭に入ると同時に目の前が黒くなった。
気がつくと、僕はベッドの上で立ち尽くしていた。
ベッドの上で寝そべることは頻繁にあるが、立ったことはあまりない。違和感しかない目覚め方だった。なんとも不思議な夢を見たものだと妙に冷静に頭が働く。いや、夢と言うには奇妙過ぎるのだろう。あまりにも現実的な感覚が僕を襲っていた。それに僕の頭の中にはこれ程まで難しい話は入っていないはずだ。サイボウも、キカンケイも、聞いてもまるで意味がわからなかった。ゴカンセイなんて言葉も初めて聞いた。僕には全くわからない言葉で話されたみたいだ。十年は過ぎても二十年には遠い、なんとも微妙な年数を生きてきた僕には知らないことがまだまだ多い。学校には行っていないから当たり前なのかもしれない。ともかく、もう二度と余計な好奇心は起こすまいと心に決めた。
ベッドから降りた後に窓を見てみると、北の空に鮮やかな赤色が広がっているのが見えた。雲は黄金に光り輝き、その光源である円がその隙間から顔を覗かせている。良かった、ちゃんと太陽がある。見覚えのある景色にひとまず胸をなでおろした。でもきっと、これ程まで明るいけれど、まだ夜の香りを残す青色がこの町を見下ろしているのだろう。澄んだ風の匂いが染み渡る、この空気でわかった。これは朝だ。先の美しい魚のような、見事な朝焼けだった。
まだ起きる時間には少し早いが、寝覚めの奇妙さも相まってもう寝る気にはなれなかった。朝食を食べようとして三日ほど前に買ったパンの存在を思い出し、日陰に置いてあったそれを取りに行く。カビていないのなら十分に食べられるはずだ。椅子に座って一口かじる。自分の咀嚼音しか響かないこの家の食事はなかなか慣れない。そんな僕を慰めるかのように小麦の匂いが鼻に広がった。
朝食を食べ終わった後、いつもの日課である湖へ向かう準備を進め始めた。そして、いつも立て掛けてあるはずの竿を手に取ろうとしてはたと気づく。竿が無いのだ。父からもらったあの竿が!
僕に唯一遺されたものが無くなったことに心が酷くざわついた。目頭が熱くなり、鼻の奥につんと嫌な刺激が走る。だが動揺していたところで何も始まらない。いつから無くなったのかと考えてみれば、あの奇妙な木々の間を走り抜けていたところに行きついた。あの場所に入る前までは間違いなく竿を手にしていたはずだ。
父の竿は取り戻したいが、あの肌に突き刺さる神聖な空気が僕にはとても居心地が悪いものだった。いつまでも留まりたいと思う程清らかで美しい世界だったが、だからこそ異物がより強調されてしまう。だが取り返したくば、あの湖へ行くことしか道は残されていないのだ。
いつもより体が重く感じる。父とよく行っていた湖は好きだが、今から行く場所は好きになれそうもない。だがどうしてもあの竿は取り返したいのだ。持っていたって何の役にも立たない、何の為にあるのかも分からないものだけど、僕にはどうしても必要だった。
空高くから照りつける太陽が眩しくて、思わず空を見上げる。雲ひとつ見当たらない晴れ渡った蒼色はまるで僕なんか気にしていない。僕もあの中に飛び込めたのなら、この暗鬱とした世界から抜け出せるのだろうか。
地面に張り付けにされている僕たちは、あの空へ舞い上がることをいつも夢見ている。
おかしい。いくら歩いても坂道が見えてこないのだ。代わりに僕の目の前には父との思い出を含んだ湖が広がっている。それほど大きい訳では無いが、泳ぐには全く問題のないくらいの広さだ。向こう岸には少し小さく見える木々が広がっている。精一杯腕を伸ばすその姿は必死に生きようとしているように見えた。
ともかくあの坂道に着かなければ僕の目当ては取り戻せない。とりあえずもう一度探索してみようかとも思ったが、ここから離れることはなんとなく嫌だった。僕にもわからないが、この湖が跡形もなく消えてしまいそうな、そんな予感がしたのだ。父がいた頃から続いている惰性も相まって、なかなか湖が脳の片隅から消えてくれない。いつも何をしていたという訳では無いが、竿を片手にただ湖を二人で眺めていた気がする。
そういえば、何故父は皆が不気味がる湖の方へ進んで行っていたのだろう。何もありはしないというのに。父と一緒に湖に来てからというもの、毎回ついて行っていたがよく考えてみれば妙だ。一体何を見に来ていたんだったか――そこまで思い至った瞬間ぶわりと鳥肌が立った。
あまりにも自然だった。まるで本当に、ここには何も存在していなかったと心の底から思い込んでいたのだ。
言い様のない恐怖が僕の体を襲う。もしかしたら他にも忘れているかもしれない。当たり前に存在していて、なくなるはずの無い何かの存在を。だが必死に記憶を手繰り寄せようとしてもついぞ思い出せることは無かった。忘れたことも忘れてしまっているのかもしれない。そのことがひどく悲しかった。
どうすればいいのかわからなくて、風でわずかに波打つ命の源をただぼんやりと見つめる。太陽の光を受けて静かに輝く水面は、まるで僕の動揺なんか意に介していない。そこでまた怖くなった。僕が存在を忘れていただけなら良いが、本当にいなくなってしまっていたらどうしよう。
居てもたってもいられなくなり、靴を脱いで抵抗もしない碧にゆっくりと切り込んでいく。以前は浅瀬にも小さなものがいたはずなのだ。僕が静かに近づけば、幾つかがゆるやかな塊になって存在しているのがよく見えた。とにかく僕は体の内側から冷え切っていくこの感覚を早く消し去りたくてたまらない。
こんな時に限って予感は的中する。いくら探しても水中を生きていたもの達の姿は見当たらなかったのだ。今まで静かに沸き起こっていた生きる音ですらも聞こえない。ここは命の抜け殻だ。
この世界において、自らの意思で動き呼吸する生命は僕達だけになってしまった。でも、もしかしたら、最初からそうだったのかもしれない。
扉が閉まれば世界が終わる。父が最後に残した言葉が、いまもずっと耳にこびりついて離れない。
「ほら、見てご覧」
白い髭をよく蓄えた男の言う通りに下を見ると、のっぺりとして凹凸のない白い地の上に真っ黒な人影が見えた。距離は離れていないはずなのに、何故か僕の小指の爪ほどの大きさしかない。でもこれは彼らが小さいのではなくて、恐らく僕たちが大きいのだ。
辺りは物音ひとつ聞こえない静寂に包まれていた。
「滑稽とは思わんかね」
白の上を夕日のような橙色が照らす中、黒い影が散り散りに逃げ回っている様子は可哀想だとは思えども、僕には到底滑稽などと思えなかった。悲鳴も聞こえない静かな狂乱が僕の下で巻き起こっている。
これは一体何から逃げているのだろう。
「おや、あれは君の友人ではないか?」
確かに、僕はこの人を知っている。しかし会ったことなどない。でも人となりも、過去も、全て知っている。
この人は誰だ。
「やはり要らぬか」
何がだろう。僕にはよくわからない。
「なぜ喋らない」
だって声が出せない。
男が静かに、じっとこちらを見つめているのがわかった。見定められている。
そういえば、僕は何故ここにいるのだろうか。今まで何処にいたんだっけ。
「君は違うんだな」
声が耳に届いた瞬間ふと目が覚めた。気づくと人が行き交う町の中にいた。
二度目だ。最初からここで寝ていたのか、それともあれは夢などではなく僕が本当に体験したことだったのだろうか。でも僕には立って寝る芸当などできない。ならば答えはひとつなのだろう。
しかし突然現れたにしては周りがみな落ち着きすぎている。まるで何も気づいていないようだ。
いや、気づいていないと言うよりも何も見えていないみたいだった。誰も僕に視線を向けない。いつもなら聞えてくるくだらない噂話も、今ばかりはどこにも転がっていない。町が異様なほど静かだ。だがそれに関しても、誰も関心を示していない。全てがどうでもいいことかのような無気力な目をして皆歩いている。店の主人も何をする訳ではなく、ただ品物を取ってまた置いてという作業を繰り返している。そこにきっと意味はない。
皆の表情が削ぎ落とされていた。この静かな町が不気味で仕方ない。いつも望んでいたことだったのに、いざ実現するとここまで怖気付くものだったのだと気づいた。
まるで感情が取られてしまったみたいだ、そう思った瞬間、何故か心臓が嫌という程高鳴った。体中の熱が冷める感覚がして、足の震えが止まらなくなる。寒いのか暑いのかよくわからないのに、額からはとどまることを忘れたかのような汗が流れ出ていた。何故ここまで恐ろしいのか僕は分からなくても、僕が忘れてしまった何かはきっとその正体を見抜いている。
でも、これはきっと、気づいてしまったところでどうしようもないことなんだ。
ふと顔を上げると、町が巨大な壁で囲われているのが見えた。
いや、見えた、と言うよりも気づいた、ということの方が正しいのだろう。意識してはいなかったが、そこに巨大な壁があることに違和感はない。きっと遥か昔から存在はしていたのだ。天に届くほど高く、厳しく聳え立つ壁が。違う、よくよく見てみれば実際に届いている。ここには空など無く、あるのは天井のみだったのだ。太陽は見当たらず、雲も動いていない。僕らは天井に描かれた絵を天空だと信じ込んでいただけに過ぎなかったのだ。
あたりに漂ってきた圧倒的な存在感が脳を刺激した。目を横に滑らせると、壁が途切れている所がある。向こう側の景色が見えそうなそれは、両開きの扉が携えられているようだった。あともうほんの少しで天井にまで届くほど大きな扉だ。
そして、女神がいた。
逸らすことなどできない。それ程までに美しく、畏ろしいと思わせる雰囲気を纏っている。地面から天井まで僕の何百倍はありそうなのに、なぜか扉の向こうの女神は腰から上の姿しか見えない。服も髪も顔もすべてが純白で、空高く漂う雲のようにほのかに輝いている。白く美しい女神は微笑みを絶やさず、その髪はまるで緩やかな風に吹かれているかのように蕩っていた。扉の向こう側にだけ時が流れているみたいだ。
ただ見つめるしかできない僕たちをよそに、女神が扉に手をかけた。それはまるでいつか見た虹色の何かのように有無を言わせず、そして落ち着いたものだった。次の時には、扉に添えられたその白く細い腕が緩やかに動き始めていた。
扉からはいる光がゆっくりと、少しずつ細くなっていく。もうこの世界には、永遠に、太陽は訪れないのだ。果てしなく永い夜が続く。そう直感した。皆動かず、ただじっと破滅の女神を見つめている。ここは一夜にして見捨てられた世界へと変わり果てるのだ。
不思議と焦りは湧いてこない。怒りも恐怖も湧いてこない。今あるのは諦めと、寂寥と、少しの絶望。それは皆も同じなようだ。穏やかな老人から、年端のいかぬ子供まで、何も言うことなく静かに扉を見つめている。周りを見渡さずともわかった。
異様な空気だ。辺りに音は無く、風の吹く声すらも聞こえない。いや、閉じられているこの世界ならそれが当たり前のことなのか。だんだんと暗くなる町の中、動くものは何一つとして存在しなかった。皆まるで呼吸までも忘れたかのように身動き一つせず、徐々に光を失っていくこの世界で終わりを感じ、そして受け入れている。きっと僕たちは、何かに対して抗うということすらも忘れてしまったのだろう。
辺りが一段と暗くなった。
ああ、もう光が一筋しか見当たらない。そらはもう夜だ。星も見えない。違う、元から星など存在していなかった。
女神の顔が見えなくなっていく。扉が閉じていく。ああ、もうこの世界は、二度と明るさを取り戻さない。動きがとまる。時がとまる。生命が終わる。
ああ、ああ、とうさん、とうさん――。
最後に見えた女神は、この世のものとは思えないほど美しい微笑みをたたえていた。最初からまるで変わらないように。
光は途切れ、そして、夜が訪れる。
暗闇の中を落ちていく。暴れもせず、叫びもしない静かな人々が共にいる。僕もその中の一人だ。
終わりはいつもあっけない。
またひとつ、世界が消えたのだ。