僕の持つ文山さんの一番古い記憶は、僕がまだ1年生だった2019年の11月に行われた『澪標 2019年・秋』の合評会のものである。
まだ世間には新型コロナウイルスの影も形もなく、数人の部員が部室に集まっていた。あの日に行われた合評が誰の、どんな作品だったのか、僕はもう覚えていない。自分がどんな意見を述べたかすらもすっぽりと抜け落ちてしまっているものだから、作者には随分無責任なことを言ってしまったかもしれないと身が縮こまる思いだが、一つ、その場にいた文山さんの姿だけは妙に鮮明に思い出すことができる。ところどころ綻んだテーブルクロスが掛けられた、いまにも崩れそうな机の対角線上に、文山さんは言葉少なに座していた。
「珍しいね。今日はどうしたの?」
あとから部室に入ってきた先輩が確かこう文山さんに尋ねた。どうしたもこうしたも合評の始まる18時半に部室にいるのだから、合評に参加しにきた他に理由はないのだが、正直なところ、僕も似たような気持ちだった。文山さんは春にも作品を提出していて、合評にも参加しているはずだから僕がそれまで文山さんと会わなかったのは偶然なのだが、白状すると、入学してから半年以上経って初めて見る上級生というのを僕はどこか色眼鏡で見ていた。
「今日は某の作品なので」と文山さんが言って、僕は「きっとこの人はお世辞なんか言わないんだろうな」と勝手なことを思った。
蛍光灯がジーカラカラと部室内を雑に照らし、ふと見ると唯一の窓の向こうで鏡合わせの僕たちが同じようにレコーダーを回している。意見に意見が被さり大論争に……というような展開も起きず、合評は粛々と進められたように思う。ただ、自分の手番が回ってくると簡潔に自分の意見を述べて速やかに次に譲る文山さんの姿は、明確な目的を持って合評に参加しているという背景の前ではどこか淡白に映った。「体温の低い人なのかもしれない」僕はまた身勝手なことを思った。しかし、そのときの印象がとんでもない過誤だったことを僕は後に知ることになる。
ともあれ、そんな第一印象が強く残っていたものだから、去年の四月、『修辞』の第1回目の合評に文山さんに参加していただけたときは本当に嬉しかった。文山さんの目当てが僕の「こぼれ落ちる海の音を聴く」ではなく、石川の「ハレ」だったとしても、確実に忌憚のない意見を聞けるというだけで(他の部員が取り繕った意見ばかり述べるということではないのだが)僕にとっては有意なことだった。加えて、文山さん自身が筆の立つ人であるとなれば、僕の感動も一入だったことが分かっていただけると思う。
文山さんは子供を描くのが上手だと思う。大人になりきれない青年、なんて月並みな表現ではない。本当に子供なのだ。自分の専門領域になると滔々と講釈を垂れる老教授に尊敬の念を抱いたり、星柄のパジャマを着たいと願ったり(「病人は夢を吐く」)、「首から上が大きなビー玉になってしまうような感じがする」と思ったり(「香水」)、存在しないタイムマシンに言及してまで未練たらしく高校時代を回想したりする(「エクリプス」)語り手たちは、明らかに世間一般の「大人」とは目線の高さが異なる。けれど、僕らは彼らを嘲ることはできない。書き手が決してそうはさせない。
彼らはまるで沈んでいくダイバーのようである。酸素ボンベのメーターが下がっているのに気付きながら、息苦しさの理由を水温の低さやその下に広がる海中の暗さに求めてしまう。文山さんは、彼らがそこに至るまでの道程やそこから見える景色を巧みな描写で綴る。はじめ水中眼鏡で彼らを見ていたはずの読者は、いつの間にか彼らと同じ場所に漂っていて、そのときには話がただ海面に向かって浮上すればいいという単純なものではないことが分かってくる。
苦悩は、言語化してみると案外大したことがなかったことが分かるという。ある意味でそれは事実なのだろう。どんな作品もプロットであるうちは名作であるのと同じように、苦しみも頭の中で不定形に渦巻いているうちは世界を呑み込まんとするように思えるものだ。けれど、一方で翻訳することのできない苦しみというのも存在すると思う。言葉は優れた道具だが、どんな感情をもそっくり写し取ることができるほど万能ではないし、またそうであると思うべきでもない。「誰にも理解されない」という絶望が、自己を形成する場合もあるだろう。時として絶望は救いになるのだ。
文山さんは、そんな「緩やかな絶望」を穏やかに、しかし大きな誘引力をもって描き出す。その身体は決して低体温などではない。裡には創作に対する高い熱を秘めているのである。
2022年2月9日
山本哲朗