高知県の田舎町に僕は訪れていた。
家族で祖母に会いにきたためだったが、数日滞在しているとやることも尽きてくる。祖母は畑仕事ばかり、その癖、お前はどんくさいから農具なんか持たせられない、と、手伝いもさせてくれない。両親は近くの知り合いの家に談笑しに行くしで僕は大変に退屈していた。それで仕方なしに散歩に出かけることにした。
昼下がり、祖母から借りた麦わら帽子をかぶって家を出た。近所を出歩くためだけに一リットルの水筒を持って行ったのは後にも先にもこの時だけであった。海が大変に近いので、時折、小指程の大きさの蟹がアスファルトの上を我が物顔で横切っていく。それらを踏まぬように気を付けながらふらふらと歩いた。この町を満たすのは、蝉の声と目眩がするほどの海の匂いだけ。風は少し湿って、人肌のようにぬるかった。
海といえば、蒼く澄んで煌めくのが良いみたいな風潮があり、日本の緑色した深い匂いのは二級品みたいに言われがちだ。でも僕は、日本の海の、ゆるやかな絶望の感じが嫌いじゃなかった。夏に喰われ、消化される日をじっと待つような受け身を感じる、じとじとした空気も、なんだか悪くなかった。
僕は防波堤の影に寄りかかった。陽向はオーブントースターの中のようにジリジリ暑いのに、日陰は目が覚めるほど涼しい。水とそんなに違わない感じがした。夏から身を隠すようにしゃがみこんだ。ちょっとした逃避行のようで、愉快な気分だった。
どうせなら仲間がほしい、そう思って、膝を抱えしゃがんだまま、ぼんやりとあたりを見まわした。
……おや、人がいる。
白いワンピースの少女が一人、防波堤に腰掛けていた。十五ぐらいだろうか。小学生よりは大人びていて、高校生よりはあどけないように見えた。僕は横眼でものを見ることのできぬたちなので、まっすぐに彼女を眺めた。あまりジロジロと眺めるのは失礼かとは思ったが、この少女が本当に素晴らしく美しいのである。肋骨の下から膝の上までヴェールのような布が彼女を守っている。この暑さにとろりと溶けてしまいそうな飴玉の瞳。小さいが形の良い鼻。薄く、夢のような薄紅をした唇が十数年前のヒットソングを口ずさんでいる。親にでも教えてもらったのか、偶々何かで知ったのか。髪は、染めたりパーマをあてたりした様子はなく、昔ながらの三つ編みであるが、なるほどどこか郷愁的で、不思議でもあり、心が惹かれる。
じっと見ていると何やら体が痺れてくる。ふと恐ろしくなって逃げようとしたが、動けない。「女は皆それぞれ魅力があるものだが、殊に危険なのが素晴らしい」随分と前、友人の一人がそう言っていたが、それを聞いた時、こいつもずいぶん馬鹿なことを言うと内心彼のことを嘲っていた。けれども、今ならその言葉の意味がわかる。鳥肌の理由は、恐怖だけではなかった。陽炎が少女の肌を舐めている。白く細長い手足はまさに海月のようだ。
白痴的なものをさえ僕は感じた。少女が防波堤から降り、すらと立ちあがったとき、僕は思わず眼を見張った。息が、つまるような気がした。少女は徐に踊り始めた。踊りといっても、これがまたよくあるダンスとは違い、バレエであった。白くて薄い柔らかなワンピースをふわり広げながら舞う彼女は幻想的だった。ぴちっとした太腿が露になるのを、ちっとも恥じずに両手をぶらぶらさせて、舞う。白い小さい手が風と手をつないでいる。
「凄いね」
思わずそう呟くと、少女はくるりと僕のほうを向き、目を丸くした。どうも僕がいることに気付いていなかったようだ。それから、「退屈なのよ。この町には娯楽施設もろくにないし、ゲームばっかりしてると怒られるし」と言い訳をするように答えた。
「そうだ、あんたも一緒に遊ぼう。どうせ暇でしょう?」
一瞬、やけにフランクな接し方をするな、と思ったが、すぐにわかった。僕は男にしては身長がかなり低く、また声変わりもろくになかったので少女にはきっと同じぐらいの年、あるいは年下に思えたのだろう。少女の提案には面くらったが、けれども、相手が年下だからというだけで遊ぶのを断るのも勿体ないし失礼のように思われたから、僕は頷いた。
「そうこなくちゃ」
それから少女は防波堤に登り、靴と靴を脱いだ。そして、ぽんっと軽く跳ね、海に飛び込んだ。
「ええええええ!」
飛び散る飛沫。炭酸水のように細かな泡がくるくると踊りながら水面に上がってきては、幻のように弾けて消えていく。
「な、なにしてるの! 危ないよ!」
叫ぶ僕をどこか楽しげに見つめながら彼女は笑っていた。
「大丈夫よ。ここの海、浅いし危険な生き物はいないわ」
「そうかもしれないけど、それでも普通、服のまま入んないよ!」
「あたし、いつもこうしてるわ」
まったく、なんて子だ。ここまでのお転婆に出会ったのは生まれてこの方初めてだ。
僕は防波堤の上から波に揺蕩う少女を見下ろした。周りを泳ぐ銀色の光とあいまって、ミステリアスな魅力が僕を呼んでいる。意を決し、肺いっぱいに息を吸い込み、飛び込んだ。
塩水だからか全身がチクチクと微かに痺れて、でもそれが心地いい。水を吸って重たくなった服がなんだか厭世的だ。ただ、ぼんやりと波間に揺れていたくなる。
「やるじゃん。慣れてないなら泳ぎにくいでしょ。手貸して」
伸びてくる手から僕は思わず後ずさった。
「あ、ごめん。さすがに恥ずかしいよね」
「そうじゃないよ。けど、その、君が海月みたいだから」
「海月? なにそれ。変なの」
気を悪くしただろうかと、ちらと顔を見ると少女は笑った。
「変だけど、いいね!」
それで、僕は少女の真似して笑った。意味もわからず水面に顔をつけて、がぶがぶと言葉にならないことを話したりした。
「楽しいでしょ」
少女は、得意そうに言った。
僕は、顔を伏せてくすくす笑った。
不思議な感覚だった。他人と気楽に世間話など、どうしてもできないたちなのに、この少女とはこんな馬鹿なことができてしまった。もし今、この少女の友人が来たりしたら、どうしよう。僕は現実に弾かれてしまうんじゃないのか。
「何を考えているの?」
「わからない」
「難しいことは全部、捨てちゃいましょうよ。私たちは今、海月なんだから。ただ気楽に生きましょう?」
恐ろしく、いよいよこれは、とんでもないことになったと、そう感じた。ちらと少女のほうを見ると、にこりと笑った。飴玉の瞳が、誘惑している。何処かに堕ちていくようだ。それでも、僕は、ちっともそれを問題にしていない。僕は、あきらめた。彼女が言うように自分の行く末をそうなるがままに任せることにした。
「ねえ、明日も会わない?」
波にふわふわと身を任せながら、少女はそう言った。もちろん会いに来るよ、そう言いたかったが、僕は次の日には東京に帰ることになっていた。連絡でもとろうかと思ったが、少女はスマホも携帯も持っていないようだった。
「なるべく早く来てね。あたし、海月だから、波に流されて何処かにいっちゃうかも」
「その前には来るよ」
「約束よ」
やがて日が暮れかかって僕たちは防波堤にあがった。僕は濡れた服の裾を絞りながら、また少女を見た。やっぱり、海月のようだった。なんだか見ているだけで海が回るように胸が痛んだ。たからもののように光って、波に揺蕩う海月のように、風に髪とワンピースをふわふわと揺らしていた。
あれから数年。日本は再び、夏の胃に呑まれた。畳が生きているかのように熱をもっているので、寝ても居られない。またあの日のように散歩にでもいこうかと思ったが、妙に腹が減っていた。それで菓子でも買いに行こうということで、小銭を持って出かけた。
駄菓子屋は民家のすぐ横にあった。本当に小さな店だ。覗いてみたら、小学校低学年程の子どもが数人見えた。僕はなんとなく気恥ずかしくなり、引き返しかけた。そしたら、店主らしいご老人が奥から、首を伸ばし、「お兄さんもどうぞ。見るだけでも暇つぶしになるでしょう。なにもないところですけんねぇ」と僕の意向を、うまく言い当てた。
僕は苦笑して、中へはいった。店主は八十五くらいと見えた。白髪に、しわがれ、雨蛙を思わせる顔をしていた。店内には七、八歳の男子が三人いて、木製のベンチを陣取り、なにか手遊びをしているらしかった。それをぼんやりと見ていると店主が奥からやってきて小さなビニール袋を僕に差し出してきた。
「お兄さん、よければこれをどうぞ」
「ええと、これは」
「サービス。わしにとっちゃぁお客さんは孫みたいなものだからね。それに、こうも田舎だから、こうしてたまに配らないと賞味期限切れになっちまうんじゃよ」
「そういうことなら……ありがとうございます」
口の重い僕には、それだけ言うのも精一杯であった。きっと、今、僕の顔は午時花のような赤に染まっている。お菓子をもらったのが恥ずかしかったからでも、お礼を言うのが照れくさかったからでもない。こんな時まで優雅に大人ぶろうとしてしまう自分の気持ちに気づいて情けなくなったからだ。いらないところばっかり子どもが残っている僕を彼女が見たらなんて言うんだろう、変なこと考えるね、って笑い飛ばしてくれるだろうか。
少年達の隣にあるもう一つのベンチに腰をおろすと、近くの扇風機が風を送ってくる。僕はふぅー、と長い息を一つついた。風鈴がゆらゆら揺れている。
もらった袋の中からタバコみたいなケースに入ったラムネ菓子を見つけ、前歯で軽く挟むようにしてくわえた。こんな中途半端に成長してしまった僕でも、彼女に会う資格はあるんだろうか。
そのままぼんやりしていると、女が一人、店に入ってきた。けれども、僕は、あまり気にしなかった。どうせ僕みたいに家族で来て、することもなく暇しているのだろう、というようなことを、ちらと思っただけで、それ以上、注意して見なかった。
しばらくして、女が駄菓子を見る風にしながら僕の顔をちょいちょい見ていることに気づいた。僕は横眼で彼女を見て、どうも覚えのある顔だと思った。僕が女の顔に注意しはじめたら。女のほうでは、それで満足したようなふうで、一瞬、にっと笑ったきり、こんどは、ちっとも僕のほうを見なくなった。自信たっぷりな様子でチョコレートを二つ、手に取って、会計に向かっていった。
変な女だ、そう思っているうちに、女は会計を済ませた。くるりと振り返って、その拍子に髪がふわりと宙を揺蕩う。
その様子で、やっとわかった。顔よりそういうところを覚えていた。改めて女を見た。あの日と違って髪は結われていなかった。あの日は隠されていた太腿が今では無防備に晒されていた。それでも、唇はあの日のように夢のような色をしていたし、近寄ればなんだか肌がヒリヒリしてくる。
女と目が合った。僕は痺れに襲われた。けれども、もうそれを恐れることはなかった。それが恋慕によるものだと、ずっと昔から知っていたからである。