梅雨の合間の晴れた日だった。改札を出て階段を上ったところで、Yは車止めのポールに軽く腰かけて文庫本を読んでいた。関西大学ではオンライン授業を実施していて、駅の人通りは少なかった。課外活動や図書館に訪れる学生が数分に一人、Yの前を通るくらいだった。
待ち合わせ時刻を半時間過ぎようとしたとき、今しがた到着したアタ岡が悪びれずにYに話しかけた。へたっているサテンのシャツを着ていた。橙色のペイズリー柄もあいまって、ミナミを闊歩するチンピラのようだ。インテリな風に本を読んでいるYとは対照にみえる。
「わりぃな、遅れたわ」
アタ岡の泉州訛りの関西弁は不快なほどに低俗だった。遅刻してきた人物なら、頭くらいは下げてほしい。
「時間にルーズで謝罪が軽いのは、相変わらずだな」
革のカバーを掛けてページに折り目がつかないよう文庫本を鞄にいれたYは、アタ岡に目を向けた。アタ岡はニヤニヤとしている。
「人の根本はすぐに変わらんよ。バイトではちゃんとしとるから心配せんといて」
「俺に対してもちゃんとしてくれよ」
久しぶりに会った二人、約束を少し破った破られたくらいでは再会の喜びは消えなかった。軽口を言い合って歩き始めた。日照りは肌をチリチリと焼く。後から来たはずのアタ岡が先導してラーメン屋に入った。
縁が剥げた赤いカウンターは、体育会系の団体で埋まっていた。背中と脇に同じ形の汗染みができた紺色のユニフォームを着ている。アタ岡が食券を買っている間、Yはその集団を眺めていた。
「Yは並盛りでええか?」
昼食代は出すつもりのアタ岡だった。昨日スロットで大勝ちがあってこその気前の良さだった。店内に一つしかないテーブル席に腰を下ろして、店員を待った。二人分の水を汲んできたYに、アタ岡は「ありがとさん」とつげた。コップの水に、よりどころのない油がふらふらと浮いていた。
大学に学生が戻ってこないうちは、どうも店主一人でこの店を切り盛りしているようだった。食券を取りに来た店主に、アタ岡は食券二枚を渡し、呪文「リョーホーカタメフツーフツーアトゴハンモ」を唱えた。店主が向こうに行くのをまたずして、アタ岡はマスクを外した。
「実際にがっつり会うのって一年ぶりくらいやでな」
「ほんとだよ。この春学期も一週間で対面計画が頓死したから。俺も久しぶりに大学前に来るよ。今日はもうそろそろ再開する通学の肩慣らしと言うことで」
アタ岡もYも文学部だが、専修が異なった。二回生はじめの頃から授業が被らず、会う頻度も減っていった。二人とも近況を探り合った。アタ岡は国文学専修で近現代を専門に勉強していること、Yは文化共生学専修でなぜか教授陣に気に入られていて休めないこと、そして単位取得は両者ともに順調だということ。
「安心したよ。アタ岡だから、卒業六カ年計画を立ててるかなって思ってたから」
「成績はほとんど可やから、お前みたいに自慢はできひんけど。同期と一緒に卒業はできそうやで」
お待ちどう、と白飯とラーメンが運ばれる。黄色い小麦の色をした中太麺にほうれん草とのりが載ったシンプルなラーメン。スープは濃厚豚骨醤油で学生の胃袋にドスコイと溜まる味だ。お手本のようなジャンクフードで、大学に来る日はここのラーメンと決めている関大生もいるとかいないとかいう話もある。事実、そのうちの一人がアタ岡だった。
アタ岡は割り箸でスープから麺を引き上げる。熱い湯気が顔に当たって頭上へと逃げた。はぐりと口に入れて、大きな音を立ててすすった。唇の端に付いた汁を親指で拭う。
「で、文芸部のことで呼ばれてるんやけど、なんかすんの?」
Yの眼鏡はくもっていた。
「アタ岡は全然部会とかも来ないから、知らないかもしれないけど、課外活動って制限されているだろ。特に文化系の部。元々、執筆なんて個人競技だからさ、文芸部も瀕死の状態なの。だからさ、夏休みに有志で織田作之助青春賞に応募しようっていう企画を考えたんだ」
「ほうY部長、俺に参加しろ……と」
「話がはやい、さすがアタ岡」
「でも俺ら、三回生やで。Yだって就活始めとるんちゃうんけ?」
「次の世代のモチベーションを上げるために、なんでもいいから人が欲しいんだよ」
アタ岡が考えているよりも文芸部の現状は危うかった。一個下は三人だけ、二個下はすでに入部者の半数の行方が知れない。いつの間にやら虫に食われて穴だらけになった本のように、長く続く文芸部は半壊していた。Yも隠居できずに焦っていて、早々に手伝ってくれなくなった同期をなんとか引き戻そうとしている。
「分かった、コロナ収まったら飲みに行こう。それでその日一日の飲み代は奢る。どう?」
アタ岡は難色を隠そうともしなかった。話は終わったと、スープがしゅんで形が崩れたのりを白飯にのせてかき込む。
「その後のスケベ、半額までやったら出してあげる。どうだ?」
「よし乗った。どんな作品でも文句言ったらあかんで」
関東出身のYも大阪人相手の交渉に慣れたようで、身銭を切ってアタ岡の協力を取りつけた。枯れ木も山の賑わいだが、無いよりは有ったほうがいい。
カウンターにいた集団はとっくに店を後にしていた。時計から午後一時の時報が鳴りだした。カウンター内の厨房にいる店主は、淡々と食料の在庫を数えていた。製麺が入っている番重は繁忙期の半分ほどで、冷蔵庫も隙間が目立っていた。
この日は夕方にアタ岡のバイトのシフトが入っているので、昼食を食べて解散した。しかし、Yと一緒に図書館を訪れる約束をさせられた。過去の受賞作を確認して、下級生に還元したいという。部長の鑑である。
ごちそうさん、と店を出てYと別れたアタ岡は新しいタバコの封を切った。ハイライトのメンソールだった。油が交じった粘り気のある煙を通りに向かって吐きだす。顔をしかめる通行人はいない。吸い殻を灰皿に落として、駅に向かった。バイト先はアパート最寄りのセブンイレブンだ。
関大前駅から動物園駅までの三十分間、アタ岡は溜まっているメールを見ないふりして、ゲームのログインボーナス回収に力をそそいだ。大学生を急かす五百件近いメールは、登録だけして一切触っていない就活サイトからだった。
*
──ジャンジャンバリバリ、ジャンジャンバリバリ、イラッシャイマセ~、イラッシャイマセ~。
連続大当たりでしか出ないジャンバリ音頭に、アタ岡の左右でスロットを叩いていた客は手を止めてのぞき込んでいる。アタ岡は素知らぬ風にスロットから流れている音楽に身を浸していた。三百枚のメダルが吐き出されて一息ついた。筐体に立てかけているスマホに大当たりをカウントする。一枚二十円、だいたい六千円。すでに五万円の純利益を得ていた。
Yとの昼食から約一ヶ月が経った。梅雨の終盤にさしかかるも、七夕は昼から雨が降っている。このままでは、織姫と彦星の逢瀬も叶わない。七夕の雨は二人の悲しみの涙だとかをよく聞くが、アタ岡には関係ない。女は買う方が後腐れなく遊べる、と語るアタ岡は、泣きはらした夫婦から充血した目差しを向けられるだろう。
大当たりを消化したアタ岡に、電話がかかってきた。スマホとタバコを持って立ちあがった。壁際の誰もいない喫煙室のスライドドアを開ける。ドアが閉まるとホールの喧噪はガラスを通して薄まり、その代わりに苦みの伴った臭いに包まれた。アタ岡は黄色い耳栓を右耳から抜き出してスマホを耳に当てた。Yからだった。
「一ヶ月ぶり、アタ岡。あれからも部会には顔を出さないから電話した。どうだ作品のプロットくらいはできあがったか?」
アタ岡はタバコを咥えて着火した。深い一吸いのあと、鋭く煙を吐いた。何と答えようか。一瞬の間はあったが、あたかも順調ですと声作りして返事した。
「おう、でけたでけた。書き入れ時やねん。もう切ってええか?」
「待て待て、どうせ忙しいって言ったって、パチンコかなんかだろ、音が聞こえてるよ。大学はもう対面授業開始しているだろ。この前の約束の日にち決めようと思って」
「勝手にそっちで決めてぇな、ラインで送っといてくれたら返事するわ」
「絶対返信しろよ、お前はしないことの方が多いからな」
まだ話したげなYを無視してぶち切った。次にタバコを口につけたときには、顔が弛んでいた。顔面の筋肉は弛みきって、目が垂れ下がっている。喫煙室のドアに手を掛けていたおっさんが一度手を離すほどだった。
ギャンブルの後に飛田新地に行くのだ。アタ岡はまだ吸えるタバコの火を押しつけて消した。顔を隠すように顎のマスクを上げて、耳栓を突っ込んだ。一万円を切り刻むサンドの音がそこかしこで鳴っている喧噪のホールへと身を投じた。
女を買うのはいったん頭の端に置いて、Yの件も考えなければならない。アタ岡の打っている台は上々の設定であると確定している。考えなしに打っても時給一万円弱になる。その時間を文芸部のためにつかってやろう。
アタ岡はスマホで二年前のワードを開いた。文芸部を離れる前に書こうとしていたプロットの中で、一番完成に近いものだと思われた。ただし、今考えるとあまりに童貞くさい甘さがある。アタ岡は股間が痒くなった。まわりを見回して、パンツに手を突っ込んで掻いた。
一回生で初めて小説を書いたアタ岡は、当時のイケメン先輩にも酷評されていた。文芸部の割に身ぎれいで、切れ長の目をしていた容姿は、評価の説得力に貢献していた。
小説なんて、死のシーンを描けば重く感じる。それは当たり前でそれだけ重いテーマだからだ。筆者はテーマに背負われてはいけない。死とか愛とか。その辺の人類共通のテーマがそれに当てはまる。そんで、お前の文章は読みにくい。文豪かなんかに憧れているのか、理屈っぽい単語を使いすぎていて読みにくい。ひけらかしたいのは分かるけれど、読み手を考えろ。それからお前の書く女は皆がみな童貞の好きそうな女だからな。長い黒髪で、眼鏡を掛けていて、本好きで、優しくて、おっぱいでかくて、白いセーターを着ている。そんな女はいない。そういう奴は男を喰いまくってるし、玄人向けだな。
要約するとこんな話だった。アタ岡はあれからすぐに童貞を失って、幻想から覚めた。ただ、鼻先に吊された快感に飛びつく方が楽だという新たな幻想に囚われてしまった。プロットからの起稿をためらう一因にもなっている。二年前のアタ岡があけすけに反映されている甘いものだとしても縋りたかった。
アタ岡が現実逃避をしているうちに、左右の客は居なくなっていた。小説にセックスを入れこむか迷っていたら、今の飛田新地が時短営業していることを思い出した。まだ急ぐ時間でもないので、すでに投入しているクレジットを消費してから帰り支度を始めた。はやくも後ろには、ひげすら整えていないおっさんが手ぐすね引いて空席になるのを待っていた。
アタ岡が外に出ると、開いた自動ドアから冷やされた空気と憂鬱が混ざり合って漏れた。出入り口にたむろって喫煙するギャンブラーたちの顔には暗い影が落ちていた。当たりが絞られていると知りつつ、なお来ているのだから救いようはない。景品を交換する者はひしひしと怨めしい視線を背中に受ける。
羽虫が群がる外灯の下、アタ岡は久しぶりの大勝ちに何度もお札を勘定している。福沢諭吉八人と野口英世三人、計十一人が財布に収まった。雨は小康状態になっていた。傘を差さないで歩き出したアタ岡は強気だった。飛田に行くのに、十一人の心強い仲間ができたのだ。
商店街のアーケードを進んでいくうちに、アタ岡は食欲が湧いてきた。酸っぱい唾が内頬から滲みでる。煌々とした商店街はコロナなんかなんのその、ホルモンを焼いた油っぽい香りと煤のにおい、酒の入った騒ぎ声に満ちていた。唐辛子とにんにくの効いたタレ、ホルモン、アルコールへの欲求がアタ岡を支配し始めていた。仮にも男女の交接を楽しみにしているのだから、口臭には気をつかえよ。アルコールはインポのもとだぞ。よしよし、アタ岡は溜まった唾を飲み込んだ。
新地が近づくにつれて、だんだん人通りは少なくなってゆく。スナックが店のほとんどを占める。夜のにおいが濃厚になってきた。アタ岡の下半身にも血が集まり、浮ついた足取りに変わった。営業しているスナックから往年の歌謡曲が漏れ聞こえていた。酒とタバコで焼かれただみ声が歌っている。
無垢の木で造られた門が、突如アタ岡の目の前に現れた。モダンな商店街に似つかわしくない和を感じる。飛田の北門だった。両脇に掲げられている提灯は風に揺られ、通行人を手招いている。その気がある人にだけ見える提灯だ。
アタ岡は緩やかな暖色に誘引されて門をくぐった。門の内は暗黙の了解で取り仕切られているだけあって、令和とは一線を画している。商店街の蛍光灯が届かなくなった通りは暗かった。
中心地にさしかかっても、通りに盛況さは見られない。物色する客は疎らだった。やり手婆の声かけも小雨に消えゆき、雰囲気作りに一役買っていたはずのピンクの照明も閑散としている通りに下品にうつる。行きつけの店があるアタ岡は迷いなく、数人の客を抜き去った。屋号・善哉の前で足を止める。
のれんの奥でぎこちなく科をつくって、気を引こうとするお運びさんは、アタ岡と同年代とうかがえる。涼やかに大きな蝶一匹がひらめく木綿地の浴衣を着ていた。顔は強すぎるライトに照らされて細かい造形までは分からなかった。やり手婆は顔見知りのアタ岡に気安く話しかけた。
「兄さん、兄さん。新しく入った子やでな。若くて愛想ようておすすめやで。めったにおらんで」
「俺が気に入ってた子はどこいったん?」
「あの子なぁ、兄さんもよう入ってくれたけど、やめてしもうてん」
やり手婆は細目をしばたいた。上がり框に腰かけて微動だにしていない。もしかするとほんの少しだけ手を握ったかもしれないが、アタ岡は掘り下げなかった。
「この子も劣らず良いサービスしよるからな、上がったってぇな。嘘はつかんから」
「お姐さんのこと信用しとるから、じゃこの子でお願いしよかな」
お運びさんは二人のやり取りを静かに聞いている。アタ岡が上がると決めてお運びさんに目をやると、横座りの腿の上で小さく手を振った。
アタ岡は靴を脱いで、早々に二階に上がった。二階は外観よりも広く、廊下伝いに幾部屋かに区切られていた。一番手前のちょんの間に案内される。しばらくしてから、お運びさんも入ってきた。お運びさんは分厚い湯呑みを布団の脇で座っているアタ岡の前に置いた。夏日にやってきた客は、氷の入った緑茶で理性を取り戻して事を楽しむ。
「何分になさいますか?」
アタ岡は適度な明るさのもとで彼女を見た。大学で無くしたと思っていたピアスをベッドの下で見つけた感覚で、あっと声を漏らした。無意識の声をアタ岡自身が聞いて、彼女に反応されるまいと一気にお茶をあおった。続けざまに「三十分で」と答え、財布から二万と千円を差し出す。受け取ったお運びさんはやり手婆に金を渡すため、いったんちょんの間から出ていった。五粒の真珠があしらわれたバレッタで、髪をまとめていた。後れ毛がうなじにぼんやりとかかって興奮を助長した。
となりの部屋では人が身じろぎする気配がしていた。お茶を汲んでいるのか、表に出る準備をしているのか。アタ岡はお相手を待つあいだ、脇に指をこすりつけて臭いを嗅いだ。隅のほうにウェットティッシュを見つけ、脇を拭った。
お運びさんがするりとちょんの間に入りこんだ。経験の浅いお運びさんは目も合わせず、布団の横で脱ぎはじめた。浴衣は高級そうな生地で仕立てられていたが、よく見ると温泉や旅館にあるような帯だけ用いた着付けだった。短い時間で入れ替わり立ち替わり客を呼び込むための工夫だろう。
浴衣を着ていた彼女は、帯にすらりと触れた。アタ岡を挑発する手つきだった。腰のくびれに沿った薄紅色の帯紐は解けていき、下に描かれていた浴衣の柄が透けてきた。合わせていた共衿が緩み、徐々に胸部と腹部が露わになる。肌は経年変化していないヌメ革のように滑らかで、男を夢中にさせる若々しさがあった。
浴衣を留めておく帯が無くなると、重力に従って完全に前が開いた。アタ岡はすっと見えた紺のブラジャーに目が覚めた。目差しはお運びさんに向かったまま、シャツに手を掛ける。
蝶が淡く染められた浴衣を肩からすとっと落とした。その何気ない所作に、アタ岡は自分の中心がまた一段とたぎったのを感じた。膝をついた彼女は浴衣を整えると、そのまま背中のホックを外し、ショーツを脱いだ。最後に真珠のバレッタを髪から抜き取った。髪の毛が流れを作って背中まで落ちる。帯、ブラ、ショーツをバレッタとともに浴衣の上に重ねた。
一糸まとわぬ姿は、視界を切り取る曲線だった。ここへ向かう道中と比にならないほど、アタ岡の下半身には血が集まっている。お運びさんはスキンを手にとって、アタ岡の怒張にあてがった。
「お時間、なくなりますよ」
アタ岡はお運びさんの肌に触れた。新鮮な水が詰まった弾力に手が離れなくなってしまう。そのまま掬い上げて布団に寝かせた。思っていたよりも軽かった。お運びさんの関節もアタ岡の意を汲んで、すんなりと動く。粘膜が接触して熱さがスキンを透過した。それから貫いた。軟体の壁はうねってアタ岡に寄り添った。
混じり合った往還運動に、アタ岡もお運びさんも押し殺したうめき声を上げていた。お運びさんの体は浮沈子のように軽い力で上下した。往還は螺旋状で、天漢まで突き抜けるような浮遊感が一気に訪れた。胎内に遺伝子を残そうとするも、スキンに阻まれる。ただ先端に無為な精液が溜まってゆく。
アタ岡は鼻息荒く口づけようとした。口の中がひりついていて、唇の皮もめくれていた。目をつむっていたお運びさんはほんの少し首を傾けた。アタ岡は止めた。となりの部屋にまた気配を感じた。
アタ岡とお運びさんは事が終わると、時間が迫っていたのもあって急いで服をまとった。すっくと立ちあがったお運びさんの浴衣はたるんでいて、描かれている蝶が縮んで見えた。
「お仕事疲れたら、また来て下さいな。お兄さん、私も頑張りますさかいに」
アタ岡はお運びさんからのミルキーを受け取った。甘い物を食べないから、捨てるだけだから、といつも受け取らないでいたアタ岡にしては珍しかった。目が開いたやり手婆に会釈をして店を後にする。ついぞお運びさんと目が合うことはなかった。薄い包装紙に印刷されているペコちゃんを見つめて、食べずにポケットに入れた。
店が途切れたところでタバコを取りだした。最後の一本だった。タバコを咥えて火を付けた。それまでの淫靡な分泌液を煙に溶かし込んで吐きだした。ちゃらんぽらんな生活の果ての今をありのままに書いてみようか。
アタ岡は帰りにコンビニに寄ってUSBを探した。いくつか種類があったが、容量が一番小さいものを選んだ。値札には「東芝 フラッシュメモリー」と書かれていて、アタ岡はその時はじめてUSBをフラッシュメモリーというのだと知った。
*
アタ岡とYは『三田文學』を地下書庫からグループワークルームへ運んできた。合本製本されていてかなり分厚い。テーブルの上のプラ板を倒さないように積み上げた。紺色の装丁に金色の背文字がかすれずに印字されていた。図書館に所蔵されている本特有の熟成された香りはしない。今のアタ岡にはその新鮮さがほどよかった。
現選考委員メンバーになった二〇一五年度から昨年度までの織田作之助青春賞の大賞とその選評を抜粋していった。犬浦香魚子「はきだめ」、中野美月「海をわたる」、馬場広大「みかんの木」、川勝浩人「ママの犬」、丸井常春「檻の中の城」、三浦育真「夜明珠」。読書の時間が続く。ただ沈黙していた。
アタ岡は古い順に読んでいった。近頃の小説を好んで手をつけないアタ岡はしばしば首を回していた。向かいに座っているYは、文字を追う目とページをめくる指だけを動かしている。アタ岡・Y以外のグループでは、笑いが起こっていた。授業で発表するためのスライドを作っているようだった。
読み終えた二人は、お茶を飲んだり眼鏡を拭いたりした。
「アタ岡の感想を教えてくれよ」
アタ岡の第一声は悩み声だった。何人もの作者に踏みつけられたからだ。立ち向かって受けた痛みを感想へと昇華しなければならなかった。
「最初に思ったんは、青春賞と銘打つわりに暗い話ばっかやなってとこかな。それは選評でも結構言われてるし」
「確かに暗い、学生はみな悩んでいるのかね。俺らも小説を書くと暗くなるんだから。ユーモアの才能が欲しい」
受賞作に続く形で掲載される選評では、大賞であっても研磨された宝玉に残る瑕疵を浮き彫りにしていた。大学生になると変に暗くなる。イケメン先輩は的を射ていたか。
そういえば、去年応募したというYの作品でも恋人が死んでいたはずだった。死や愛そのものを描くと、選考でははじかれる気がしてきた。あんまり書くとYに怒られる。
「さすがにヤクはなかったけど、普通に濡れ場は多いのな。これで俺も安心して挿入できるわ。飛田新地を入れたかったから」
「何だ、アタ岡。できあがりそうな小説が?」
「一回生の時に考えとった作品は捨てた。でな、構想はできあがってるのが一つある。とりあえず、今のこの状況を書いてみよ思うねん」
Yは合本された『三田文學』の紺の表紙を人差し指で叩いた。
「『檻の中の城』とか『夜明珠』みたいに時事ネタを織り交ぜるってこと? 焼き直しみたいな小説はだめだろ。コロナもありきたりなネタだし」
「ちゃうちゃう、クズみたいな俺をありのままに書くねん。三人称私小説的にまとまれば、万々歳やって意気込みで」
「ほう、なるほど、ほんとに書く気はあるのか。聞いてる限りでは、やってみる価値ありかな」
「ほんで、お願いなんやけど。作品の提出は免除してくれへんかな? 文芸部で手伝わなあかんことあれば、手伝うからさ」
盛り上がりすぎたグループが職員に注意された。ワークルームが一気に静かになった。静けさに乗じて、アタ岡は頭を下げて沈黙を貫いた。Yは呆れてため息をついた。
「お前のやる気は変なときに燃焼するからな。線香花火みたいな奴だよ。分かったよ、作品はお前の好きにしろ。それから奢るのは飲み代だけ」
「ありがてぇ、真人間に生まれ変わった俺はしっかり仕事したるから、まかせとき」
頭を上げろと言われ、アタ岡はふたたびYを見た。アクリル板に映ったアタ岡の顔は、叩いたら壊れそうな硬さを伴っていた。実際には伝えていた構想にはまだ続きがあった。続きを聞けばYでもさすがに止める内容だった。
アタ岡は完成した作品を書きこんだUSBを文学部食堂の机の端に無造作に置いておくつもりだった。あまり食堂を使わないアタ岡でも、食堂に人がごった返すと知っている。それは、この時世でも変わらない。人が多いということは、いろんな確率が高くなるということだ。
例えばUSBを拾った人がいたら、個人情報を見たがる変態だったら、律儀にアタ岡の頼みを聞いたなら、この作品が織田作之助青春賞に応募されるという算段を頭に描いていた。応募されたかされていないか、判明するのは最終選考に残った場合のみ。二〇二一年十二月の毎日新聞の紙面、もしくはウェブサイトになる。
アタ岡は夏休みに入るまで、あと二週間ほどで「フラッシュメモリー(仮)」を擱筆する予定だった。そして飲む打つ買うを自粛し、就職活動に専念すると心に決めていた。ちゃらんぽらんな生活の最後には、博打こそがふさわしい。
アタ岡とYは図書館の前で別れた。図書館の壁は斜陽を受けていた。辺りはオレンジ色だった。蝉の声が響いている。明日は一段と暑くなる予報だ。アタ岡のジーンズに入っているミルキーは、どこまで溶けないでいるだろう。