小学二年生くらいの時だろうか。友達に連れられ、ウルトラマンの映画を一緒に観に行った事があった。アクションが迫力満点で面白かったのを覚えている。他の事は特に覚えていない。エンドロールが流れ、一緒にシアターの席を立とうとした時ふと思ったことがある。「ヒーローとは何か」と。勿論回答は無限大だ。僕はそれを今でも考えている……
第一部
京都駅到着を告げる、音の割れた車内アナウンスで僕は目を覚ました。先ほどまで疾走していた新幹線は今ではしばし休憩を取っている。腕時計の針が指す時間と膝の上に広がる本の惨状を見るに、少し眠っていたらしい。久しぶりに乗った新幹線はあまりいいものではなかった。教室の椅子より少しマシな青いリクライニングチェアー、後ろから漂う酒の匂い、マシンガン並みに喋るカップル。だが、新横浜を出発して約二時間半、後部座席にいたオヤジは姿を消し、カップルは寝息を立てていた。固い椅子でも慣れれば寝る事も出来る(腰が痛いのはおいておこう)。通路側の席に座っていた母は化粧直しの為か席を立っていた。もう一度本を手に取ったが、どうも読む気になれない。テーブルに置き、当てもなく窓辺に首を回した。神奈川とそう変わらない住宅街、それを覆うとする暗灰色の乱層雲。僕はありもしない地理の知識を働かせ、京都らしさを探しだそうとした。
「あと少しで新大阪よ、準備済んだ?」
席に腰をそっと下ろした母が尋ねる。ベージュのニットワンピに薄手の水色ロングコートの着こなし。昨夜の急用をこなした母の顔は、化粧の上からでも疲れが見てとれた。今日から三日間、大阪で待つ祖母、夏芽さんの家に帰省する。夏芽さんからきっての要望で夏ではなく、シルバーウィーク期間に予定が大きく変更され、今に至る。
「まだ、そろそろ始めるよ」
一度は生返事をしようと思ったが、怒らせるのも悪いので、窓の景色とはお別れをし、下車の準備を始めた。テーブルに広げたケータイや本をバッグにしまう。ゆったりとした車内の空気を置き去りにし、僕らを乗せたこだま七〇三号は目的地へ向け、冷たい外気を切り裂き、再び速度を上げた。
こだまは予定通り新大阪に到着した。大阪メトロに乗り換え、夏芽さんの待つ家に向かう。混んだ地下鉄での移動中、母は移動疲れで始終うとうとし、吊革に身を預けていた。僕はその姿が気が気でなく、友達に勧められた、海外のミステリ小説の再開を諦めた。
最後には落ちる寸前だった母をたたき起こし、何とか最寄り駅に着いた。以前来た時は接ぎ木部分にクモの巣や虫が張り付いたプラットホームだったが、今では内装から綺麗に様変わりしていた。つい最近リニューアルしたのだろう。改札を通り過ぎてからは母の案内のもと足を運んだ。母が家庭の縺れから幼馴染だった夫と離婚し、新たな働き口をつかみ横浜に出るまでの約十年間はこの地で過ごした。瓶コーラの自販機を抱えた駄菓子屋さん、手入れされた寺と境内から覗くご神木、都心ではない砂利を踏む感覚。自分も一度は立ち寄っていたのだろう。ノスタルジーに浸っているうちに、西日は顔色だけでなく、和紙に落ちた墨のように辺りを濃厚な色で染め上げていった。いよいよ街路灯に明かりが付こうかという頃には夏芽さんの家に着こうとしていた。サザエさんのような青屋根の平素な平屋造り、ポーチにお座りする狛犬の石像。古ぼけた呼び鈴を鳴らし、待つこと十数秒。ガラガラと音を立てて玄関扉が開いた。
「お帰り、二人とも疲れたやろ?」
ほっとした顔で夏芽さんがそこに立っていた。ラベンダーの模様があしらわれた上下セットのパジャマ姿で、首元には紐付き老眼鏡がぶら下っていた。お風呂上りなのか、顔は火照り、白髪交じりの髪からは湯気が出ていた。
「ただいま。問題あらへんよ、気にせんといて」
母は素っ気なく返事した(大阪に帰ってくると、母は大阪弁に戻るのだ)。
「ただいま、新幹線で寝ていたから元気だよ」
と母の言葉を待ってから僕は言った。新幹線で寝たのはせいぜい十分程度だが、それほど疲れてなかったのは事実だった。
「そうか、もう外も案外寒いやろ、中入り。お湯ももう張ってるからはよ行きや」
冬まではまだ遠いが、八月の陽だまりがすり足のように遠のいているのを家に入る間際、改めて肌で感じた。リビングで荷物を降ろしては促されるまま交代で風呂に入る。そして用意された鰆の塩焼きをメインにした一汁三菜、要するに和食を喋りながら食べた。学業の成績は良いのか、困ったことはないかそして足りてない野菜はあるか云々。横浜での暮らしについてが話題の中心だった。母と祖母の間では仕事上の愚痴が長々と展開され、僕の恋愛事情に至っては「男は女をたぶらかすようになってからが一人前」と訳の分からないアドバイスを貰った。家で誰かと一緒に御飯を食べたのは前の帰省以来かもしれない。一時間位かけて食事が終わると、母は溜まったストレスは発散できたのか、少しにこやかな表情で「お休み」と言ってから洗面台へ、そして自分がかつていた部屋で床についた。携帯のロック画面を見ると、短針が本日二度目の九時を迎えるちょうど五分前だった。
母がいなくなってからというもの僕は一人卓に肘を預け、くつろいでいた。食器を片付けようとしたが、
「恵美と同じで疲れたやろ、テレビでも見とき」
と夏芽さんに言われて、一切手伝わせてくれなかった。液晶には今流行りのドラマが映っていた。短いOPが流れており、和服姿のヒロインが笑顔で登場人物と仲良く歌を披露していた。後ろから響くシンクを叩く水の音が止まると、いつもの湯飲みを持ってすり足でこちらに近づいてきた。可愛らしい熊がプリントされている、ベージュのひざ掛けがおかれた、僕と向かい合う席に腰を下ろした。
「このドラマ人気らしいけど、おもろいん?」
「ドラマはあまり観ない質だから分からないや」
夏芽さんは右手で掴んだ湯飲みを一度置き、テレビのボリュームを一回り落とす。そして上着に入れていた紙パックの飲み物を、机上を滑らせてこっちによこした。
「懐かしいね、よく飲んだなぁ」
それは太陽のロゴが入ったコーヒー牛乳だった。僕の本好きは夏芽さんから伝染したものだった。書庫に溢れる本棚から引っ張り出した本を、「読んで、読んで」と活字嫌いな母親に断られる度、よく夏芽さんにせがんでいた。ある時はこの食卓で、ある時は夏芽さんの部屋でそして渡り廊下で、これ片手に読み聞かせをしてもらったものだ。実家を離れた今でも夏芽さんに合わせて手紙で読んだ本については文通していた。内輪でする遠距離ビブリオバトルみたいなものかもしれない。暫くは芋づる式に出てくる思い出と話題の新作について止めどなく語り合った。刺したストローを食む事さえ忘れていた。ちびちび飲む湯飲みの緑茶が冷めた頃だろうか、主導権を握っていた夏芽さんが口を突然つぐんだ。十秒程沈黙が下りた。舞台の照明が下りたとも言えるのかもしれない。
「ねぇ、ちゃんとあの本持ってきた?」
一息おいてから夏芽さんが尋ねる。
「勿論、あれだけ念押しされるとね。ちょっと待って」
僕は隣座席に据えたボストンバックに探り手を入れた。一つの透明の圧縮袋を慎重に取り出す。ファスナーの中に入れていたのは一冊のハードカバー。檜皮色の固い板紙、イラストはなし。頁数は四百頁に上るが、サイズ感は他に比べ小さい。年季とどこか奇妙さを醸す小ぶりのそれは卓上の端でも大きな存在感を放っていた。
「この本何回読んだの?」
「三回目から数えるのはやめた」
「読み過ぎよ」
彼女は小さく微笑んでから、遅れて一言付け足した。
「でも、……それだけ大切な本なのよね」
「うん」
返事にコンマ、いやペンを握る事さえ不要だった。多読者にとって(どっから多読かは知らんが)、人生に、考えに影響を与える少なからず一冊は確かに存在する。祖母の場合では『ローマの休日』で、僕、河上冬真の場合はまさにこの一冊だった。母の誕生月のある日、十歳の僕は読破した本を所定地に戻し、次なる一冊を探していた。下校時間ということもあり、夏芽さんは寄合に行ってて自宅には僕一人だったと思う。手の届く範囲は読み尽くし、ふと目を挙げた時、帯が少しはみ出た奇妙な一冊を見つけた。タイトルがないのだ。台所から踏み台を持ち出し、抜き取ったその一冊は何処を探してもタイトル、しかも著者名さえ存在しなかった。見たこともない装丁に魅入られた僕は訳を知りたくて、その場に座り込んで読みふけった。ストーリーは植民地であり、母国グラッツェルの田舎、ある酪農一家に生まれた一人娘プラムは十四歳の時に、目の前で愛すべき母親を理不尽な理由で支配国ヒットニアの兵士に惨殺される。それを機に立ち上がったプラムは仲間を連れ、奪い去られた自由を平和的に取り戻そうとするファンタジー&冒険物語だ。圧巻だった。小学生でも読めるように紡がれた文章、その場に落とされたような臨場感と迫力、物語に終わらないスケール。何よりも人の心を満たす魔法しか持たなくても、先頭に立って戦おうとする、弱くて強いプラムの姿には胸を打たれた。
寄合から帰ってきた夏芽さんの驚嘆の声で、僕は現実に引き戻されることになる。彼女にとって見られたらまずいものだったのか、畳に広がるそれを強引に奪い、決して僕には届かない位置にしまった。咄嗟の出来事にあんまり僕が泣きじゃくるので、
「この本はある人から預かった大切なものや。冬真がもう少し大きなったら渡そうと思っとったんよ。」
となだめるように彼女は言った。僕は落ち着いてから、何故タイトルがないのか、誰のものか質問攻めしたのだが、
「いつか答えるから、今は何も聞かないで」
と神妙な表情で告げ、口を結んでしまった。それから一か月経たない内に実家を出ることになり、その際大事にすることを条件に夏芽さんから譲り受けたのだ。それ以来だろうか。古書店や本屋を見つけてはこの本が、そしてこれ以上に魅入る作品があるか目を光らせ、読む趣向さえ自然とミステリ、ファンタジーへと傾倒していった。
「同じ本は一冊でも見つかった?」
夏芽さんは少し意地悪そうに首を傾げ言った。
「いや、何処を探してもてんでだよ」
僕はわざとらしく、曲げた両腕を上に向け、かぶりを振った。タイトルも名前もないのにどうすれば探すことができると言うのか。そういえば何度か、真剣に書店で聞いたこともあったが、「あたまがおかしい奴が来た」と書かれた顔を向けられるのが関の山だった。
「でも、なんで今更になってこの話題を?」
あの頃の忠告を僕は今でも忠実に守っている。文通上でも聞いたことはない。あれ程真剣な顔で夏芽さんに忠告されたのは今に至るまでないのだから。すると突然眼鏡をクイッとしてから人差し指を立て、
「ここで質問。プラムの決めゼリフって言ったら分かるかな」
と夏芽さんは言った。
「『私たちの手で大空を変えよう』だろ。話をはぐらかさないで」
僕は真剣な顔をして返す。
彼女からニヤッとした笑みは消え、一呼吸おいて、
「持ち主に口止めされとってん」
湯飲みをズズッと飲み干しつつ、でもハッキリとそう言った。勿論持ち主とは夏芽さんではなく、元の所有者の事だ。
「あなたが、十四歳になるまで待って欲しいと。それがこの本を私に預ける条件やったんよ」
「僕はその人と会った事あるの?」
「ないやろな」
「じゃあ……」
僕の喉から出かかった声を手で制した。
「冬真はこの本を書いた人に会いたい?」
指でトンとその本に触れる。
「当り前じゃないか。てか、論点が少しずれてない?」
「ずれとらんよ、今からどんなことを言うても信じてくれる?」
「も、勿論」
「分かった。実はな……」
夏芽さんは三度、一呼吸を置いた。彼女自身演出するつもりもなかったのだろう。でも自然に作られたその数秒は彼女の真剣さと真実の重さを如実に表していた。僕も知らないうちに手に汗を感じていた。
「これを作ったのは主人公プラム自身。全て彼女の自伝、回想録なんよ」
聞いて数秒、ただ唖然としていた。理解が出来ない、物語の主人公が著者? グラッツェルが実在するということ? 意味が分からなかった。他の人が見たら多分今自分は凄く取り乱しているのだろう。震える喉から絞り出す。
「どういうこと?」
「ほな、もう少しかみ砕くで。あの物語の世界は実在する。そしてこの本はその世界に住むプラム本人から頂いてきたもんちゅうこっちゃ」
本を鷲づかみし、必死に訴えようとする夏芽さんの姿がそこにあった。まるで災害地域で起きた悲劇を伝えるリポーターのようだった。
「どうやってその世界に行ったの? 本のタイトルがないのは? それから……」
思考がまとまらないまま吐き出す。
「時間は決まっとんねん。明日の朝六時四十九分。行き先はまた明日説明する。本については本人に聞いて」
これ以上もの言わせぬ表情で彼女はそう言った。
「まあ、移動疲れだけやなくて、びっくりして疲れたやろ。今日はもう寝んさい。明日は朝早いねんからな」
いつものゆっくりした声で促され、荷物と名もなき本を抱え、明かりの残るリビングを後にした。時間は十時十分を指していた。寝処として向かったのは夏芽さんの隣室、亡き祖父、敦彦の部屋だった。既に敷布団はひかれ、部屋には既に暖房が効いていた。親切に枕元にはスタンド式ライトが取り付けられている。一度は電車で読もうとした本を開けたが、ここでも読む気になれない。頭では「六時四十九分、プラム」と壊れたロボットのように単語を反芻させていた。疲れているイコール眠れるとは必ずしもならないのだ。この興奮を抑えようと落ち着く言葉を自ら闇に投げかける。僕はいつまどろんだかさえ気づかず、意識は深く底に落ちていった。
翌朝は自らの名前を呼ぶ声と体をゆすられる振動で目を覚ました。おまけにふとした拍子に容赦ないスタンド独特の昼光色の光は僕の二度寝を拒んだ。むくりと上半身を立たせ、伸びをすると腰が痛い。慣れない敷布団が障ったのだろう。ただでさえ朝は弱いので、寝覚めとしては最悪だった。三十秒くらい胡坐をかきながら、昨日の出来事を整理した。
「六時四十九分」
一言呟き、右掌をついてから立ち上がり、扉を開けたまま音が聞こえる方へ足を向けた。
まだ九月と言えど、朝方の廊下を素足で歩くのはきつい。出所はリビングのようで、半開きの室内ドアに体を滑りこませた。夏芽さんは背を向け、包丁片手にみそ汁づくりに勤しんでいた。
「冬真おはようさん。朝食作っているから、先に顔を洗って着替えといで」
と顔も向けず、僕に伝える。僕は言われるがまま、十分と立たないうちに支度を済ませ、昨日いた席に腰を下ろす。間もなくして、料理が運ばれてきた。具沢山の味噌汁に、白米、柴漬けが添えられていた。「頂きます」と手を合わせてから、味噌汁を搔き込んだ。
「慌てんでええよ、六時三十分に出られれば問題あらへんから」
エプロンを外し、外に出る格好へと準備をしながら、彼女はそう言った。テレビより約五十センチ高く掲げられたシックな掛け時計は六時七分を指していた。
「お母さんは?」
「さっき見に行ったんやけど、爆睡よ。お腹丸出し、まあ無理ないね。この時間や…冬真も朝食は黙って食べ、行儀悪いで」
一言付けた。そこからは終始無言で朝食を味わった。いや正直味は覚えていない。振り返ると、はやる気持ちを抑えるので精一杯だったのだ。朝食を終え、外に出る準備に取り掛かる。「冬真~、あの本持って来て~」
と夏芽さんに言われ、バックのチャック口直近にあったそれを渡す。僕が歯を磨く頃には、編み込みのカーディガンを羽織り、手にはブラウンの手袋がはめられていた。歳もあるだろうが、今日は一段と冷え込むのかもしれない。夏芽さんから玄関先にあった祖父の厚手黒いコートを借りてきた後、大事に「あの本」を、腕と胴の間で抱え込み外へ出た。確かに普段より気温は低く感じる。普段この時間に起きていないから比べようもないが……。携帯の電源を入れると、六時二十五分が画面に浮き上がる。東の空、はるか遠くには青白い月がいた。今にも千切れ雲で消えかかっている。
「で、何処に行くの?」
夏芽さんの免許返納以来うちには車さえない。自転車が脇に一台放置されているくらいだ。徒歩で行ける場所なのだろうか?
「堂川中学校」
端的に返された。堂川中学校は本来であれば僕の行く予定だった、丘の中腹にある中学校だ。ここから一旦大通りに出た後、二つ信号を渡ってからそこに面する急な坂を上る、シンプルな道だ。距離として十分もかからない。通っていた小学校も近くにあったのでよく覚えている。時間を気にしながら二人で並んで歩き始める。なるべく早く急ぎたかったが、夏芽さんの歩く速度が暗にそれを阻害した。
「なんでそれを持って来ているの?」
夏芽さんの遠い方の手には、僕らがお土産として渡した白い紙袋が握られていた。中身は鳩サブレ、神奈川の定番お菓子だ。
「なんでって、プラムが好きやからよ。クッキーとかお菓子類が」
それは知らなかった。作中ではそのことに触れられてはいなかったのだ。「プラム」そのワンフレーズを皮切りに僕は一方的に質問した。何故出会ったのか、どんな人なのか、本当に彼女自身の伝記なのか。
彼女が言うに、丁度七年前、日課とする散歩からの帰り、帰宅路だった堂川中学校を通ると、裏門に設けられた学生用駐輪場の傍に一冊の本が落ちていていたという。本の虫と同時に、本を大事にする性格の祖母は開かれた頁を閉じ、職員室に届けようとした際、本の中に吸いこまれたそうだ。そこでプラム本人と出会い、気が付いたら元の場所にいたとのこと。にわかに疑わしかったが、彼女に渡されたメモと口に残る柑橘系の紅茶の味が夏芽さんの思考を確信に変えた。あれは現実だったんだと。メモに書かれたのは今日の日時と場所。もう一度会うにはその時だけだとプラムに渡されたのだそうだ。出会いについては分かったが、その他プラムに関することは、
「本人に聞き、ぷらいばしーに関わるもんや」
その一点張りだった。じれったかったが、祖母が一度口をつぐんだ以上、それを割る事はできない。歩みに逆らう、一度通り過ぎた冷気を帯びた風は二度と帰ってこなかった。
予想していたより少し遅く中学校の裏門に着いた。時刻は六時四十三分。約六分前だった。僕が知る当時でもひとけのなかったこの駐輪場。鉄パイプは錆び、全体的に一段と劣化していた。ガムテープで貼られたラミネート用紙には「冬休み中に撤去予定」と朱書きされている。することもなく二人で待つ。来る時間がこんなに長く感じるのは初めてだった。テスト開始を示すチャイムを持つより三倍時間が重く流れる。行き場を求めるように、黙った夏芽さんに尋ねる。
「プラムに言いたいこととかあるの?」
「私は今日行けないけど、孫をよろしくと伝えておいて」
「え、おばあちゃんは行けないの?」
思わず前の言い方で聞いてしまった。
「言ってなかったかい? 先着一名だと」
聞いてない、僕は頭を抱えた。再度、沈黙が下りる。人との沈黙は嫌いだが、もう只ただ眼を閉じ、じっと待つのが正解に思えた。
チャイムが鳴った、そんな気がした。時計を確認しようと右ポケットに目を向けようとした瞬間、
「冬真、見て!」
袖を夏芽さんに握られ指をさす方に顔を向ける。五メートル程先には人工的に作られたものでない暖かさと、どこかスピリチュアルさを秘めた光を放つ、渦があった。その様は銀河系を彷彿とさせる。超常現象を起こすそれに意識を持っていかれた僕に対し、祖母は黙って紙袋を空いた左手に明け渡す。そして「はよ行け」と言わんばかりに尻を叩いた。
「いて」
僕は我に返り、次第に大きく、そして反響する光の渦に近づく。光に触れる直前、呼ばれた気がしたが、遅かった。振り返る頃には得体の知れない穴に落ちた感覚が身体を覆っていた。神秘的な光はブラフでこれが真実なのかもしれない。感覚と意識が落下する中、最後に働いたのは耳で、捉えたのは一つの声だった。
「プラムを助けてあげて」と。
第二部
不思議な穴に引き込まれた。それは実際昼休みの昼寝くらい。だが感覚では一晩、いやそれ以上の感覚的落差と時間的乖離を僕に与えた。これを一種の錯覚と言うのかもしれない。どこかザラついた、生暖かいものが意識を覚醒させるスイッチになった。目を開けると、目の前には牛がいた。どうも長時間牛に舐められていたらしい。正直臭い。右掌をつき、起き上がると一瞬息をのんだ。目の前には見渡す限りの草原が広がっていた。遠くに映す霧がかった山々、ちっぽけな家屋と広大な土地は異国情緒を、風になびく草木と、それを食べる牛の姿は人と自然の調和を一人の異邦人に与えた。
「おーい、いつまでそこに座ってるのー」
八時の方角から聞こえてきた快活で響く声に応じるよう、身体をねじる。二十メートル先にはテーブルに両肘をついてこちらを眺める人間が独りいた。僕は散乱した紙袋と本を掴み、一目散に、声のする方へ駆け出す。直接見たことも無ければ、声を聴いたことも無い。ましてや名乗られた覚えもない。その時何も分かるはずはない。だが、分かるのだ。本能が、五感が、自らに訴えては離さない。縺れそうになる足を必死で起こし、彼女の下に向かった。テーブルの前に着くと息が上がり、肩で息をする。呼吸を整えてから失礼にならないよう、一礼をしながら地面に向かって声を挙げる。彼女にハッキリと聞こえるように。
「お初にお目にかかります、プラムさん」
顔を上げる前に、彼女は言った。
「そんなに肩肘はらないで、私は貴方が右手に持つ本の著者です。プラムって呼んで」
綺麗で、玲瓏な声だった。はっきりとした口調で、ガラス細工のような透明度があった。顔をあげて彼女の姿を眼に映す。不思議の国のアリスを思わせる水色のワンピースに縞模様のタイツ。駆動性の高い黒シューズ。カールのかかった琥珀色の髪に首元にはゴム付きの麦藁帽が不釣り合いに掛けられていた。本に書かれていた通り、可愛らしい少女だった。
「そんなにジロジロ見られると嫌、さあ席について」
「すみません」
コートを椅子に掛けてから、席に着く。彼女が微笑むと薄く伸びる猫目と表情には木陰から覗く太陽の光のような温もりが、したためるその声には花をめでるような優しさがあり、この土地によく似合っているように感じた。
「こちらから挨拶は未だだったわ。よろしくね、冬真くん」
白い手を差し出しながら彼女は言った。
「何故僕の名前を?」
「夏芽……だったかしら、彼女から聞いたの。もし私が来なければ、自分の孫の冬真って子が来るだろうってね」
なるほど、頷きながら上された手を握る。
「でも、よく覚えていましたね。四年も前の話を」
「四年?」
彼女はほっそりとした眉を八の字に曲げた。
「あー、こっちの世界とそっちの世界で時間の流れが違うの。こっちの一年半位は大体そっちでは四年位なんだと思う」
「じゃあ、プラムは現在十五歳?」
「そう。でも、女性に年齢を聞くのは失礼じゃない?」
言葉に詰まり、おでこをテーブルすれすれまで近づける。
「分かればよろしい」
満足げに腕を組んで、そう言った。右ポケット入れたケータイが使い物にならないのを確認してから、念の為に聞いてみる。
「今何時ですか?」
「朝の五時過ぎぐらいかな、早く飲まないと紅茶冷めちゃうわよ」
「頂きます」
ティーカップに入った紅茶を少しすする。祖母の言っていたのとは違いミルクティーに近い味がした。野放しにされた懐中時計、バスケットに入った果物、飼い慣らされた牛。時間や歴史、環境に違いはあっても、世の中に溢れるものはそれ程違わないのかもしれない。
「だいぶ、早くから起きてたんですね。いつから待ってたんですか?」
「牛飼いの仕事で朝は慣れているの、普段はもう少し地味な恰好をしてるのよ。そうだね、大体貴方がメルに顔を舐められ始める頃には既にあれこれ準備して待ってたかなぁ」
「いや、静観せず止めて下さいよ」
飼い主なら止めて欲しい。
「ごめんごめん、面白かったものだからつい」
年季の入った安楽椅子をゆらゆらさせながら謝られても、謝られた気がしない。
「どういう仕組みでこっちにこちらに来られるんですか?」
さっきまであったはずの光の渦は綺麗サッパリ消えていた。プラムの住む国、グラッツェルはこの世界唯一簡単な魔法によって栄えていたが、戦いには向かないものばかりだったと本に書かれていた。じゃあ誰かによって作られたものなのだろうか。
「私も仕組みについては分からない。なんかね、あの光の渦、いつも朝の五時ぐらいに生まれては消えるの。で、また一時間後位経ったら生まれては消えるみたい。そして次現れるのはまた翌朝だね」
ということは約一時間がタイムリミットか。
「でもなんで、今日に来なければいけなかったんですか?」
毎日開くのなら、日を限定する必要はないはずだ。
「えーっと、実は今日八月四日はね、記念すべき日で住宅街から町にかけて、夜祭りに向け人が珍しく出払っているの。だから今日呼んだの、他の人をびっくりさせちゃ悪いでしょ」
腰をひねり彼女が見つめる方角には確かに町の明かりが一層灯っている。耳をすますと、僅かながら器楽の音が聞こえてきた。
「さっきから質問されてばかりだから、こっちからも質問していい?」
お茶を飲み干し、身を乗り出して彼女は尋ねる。動いた振動で琥珀色の髪は揺れ、カップは静かに音を立てる。
「だ、答えられる範囲なら」
彼女にとっては聞き出しにくいないようなのか、口ごもる。
「……えっと、私の小説読んだのよね?」
「はい……」
「……面白かった?」
「はい、とっても面白かったです」
少しでも安心できるよう、信じて貰えるようハッキリと適切な間を取って返事をする。彼女はピタッと制止してから、
「良かったぁ~」
と大きく息と共に吐き出す。一度浮かした腰をもとに戻し、姿勢を整えてから今度は前のめりになる。会って以降見てて楽しい人だなと思っていたが、今暫く黙っておいた。
「ねぇどんなところが面白かったの? 気になったとこは? 教えて」
懇願されずとも忘れずに、右手に握られた本への感謝や思いは伝えるつもりだった。少しでも余し、残さないよう、彼女の本の素晴らしさを彼女の思う以上に語った。多くの時間が流れた。僕が話している間、降り続ける言葉の雨が止まないよう、彼女は丁寧に相槌を続けた。微笑を浮かべるその表情はどこまでも嬉しそうだった。
「ありがとう、こんなに褒められるなんて……お母様に教わっておいてよかったわ」
「お母さんに教えて貰ったの?」
「うん、幼い頃にね。母はこの国一番の物書きだったのよ。それはもう上手だったわ」
何処か懐かしげだった。本の中によれば、彼女の母は既に殺されている。
「この本に書かれているのはすべて事実?」
二人に少しの間が生まれる。
「うん……ホント。当時私が歩んできた道のりを描いたの。ちなみにここは故郷グラッツェル」
昨夜夏芽さんから聞いた通りだった。一度辺りを見渡す。メルを含め沢山の牛が座り込んでは眠り込み、草木は流されるまま規則的に凪いでいた。小説で出てくるグラッツェルは秋と冬がメインだった。だが、紅葉は地に帰り、雪は解けてもその名残は残っている。
「旅の仲間たちはどうしているの? 弓矢使いのカストロとか優しき守護者マルクとか」
支配国ヒットニアからの隷属国脱却。それを夢見て旅立ったプラムには七人の良き戦友がパーティーにいた。冒険後のそれぞれ戦友の消息については聞きたかったことの一つだった。プラムに続けて好きなマルクやライトはどうしているのだろう。
「それよりさ、さっきから気になっていたんだけど、足元にある紙袋って何?」
「あ、忘れてた」
紙袋から黄色い箱を取り出し、渡す。受け取るやいなやプラムは「開けるね」と目で合図を送ってから一つ個包装を取り出す。箱に描かれたイラストと同じ形をしたビスケットを彼女は頭からかじりついた。
「やっぱり久しぶりに食べるビスケットはおいしいなぁ」
サクサク言わせながらなるべく上品に食べていた。でもよっぽど好きなのだろう、逆の手には二つの茶色い鳩が握られていた。
「今でも、魔法はよく使うの?」
彼女は魔法を持っている。魔法のかけたものを他者に食べさせる事で自分の思いや理想だけでなく、時には夢や心を与え、共有できる。その為、魔法を付与する為のお菓子をポーチに入れていた。なんともユニークな能力だ。ビスケット好きの彼女が何故「久しぶりに」なのか、正直疑問だ。
「もう、私自分の魔法が嫌いなの」
──プラムを助けてあげて。祖母の言葉が脳裏に浮かぶ。
物憂げに言った彼女の表情にはさっきまでの笑顔はなく、二人の声は風に運ばれる。プラムの何かに足を入れた気がした。人間にはテリトリーがある。環境、心理、情報それら全てに。他者として踏み込んでいいのか、よくないのか僕には黙って只待つことしか出来なかった。
「ちょっと私のお話を聞いてくれる?」
僕は黙って頷く。彼女は口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返す。何かに踏ん切りがついたのか、はたまた只話題に対する聞き手が欲しかったのか、小さな声でとうとうと語り始めた。
「貴方はこの本、最後まで内容を覚えている?」
プラムは本の表紙を指で伝う。表情と声色はさっきより硬い。
「それはもちろん」
故郷を出た彼女たちは長い旅路を経て、ヒットニアの首都ケンクにたどり着く。そこで両国の主従関係に不安感と疑念を抱く政党、いわゆるハト派を交渉と魔法により取り込み、見事選挙でハト派が圧勝し、総意のもと国民の前で両国のトップが和平を行う。最後に反乱を起こす者たちを抑え、両国の懸け橋になったプラムが演説をする形で物語は終わる。
「あの後で私たち、少なくとも我が国民の誰もが信じていた。これで自由が手に入る、夢は現実になったと……。でも現実は甘くなかった、仕組まれていたの」
相槌を一つ打ってから次の言葉を待つ。
「ハト派の一部が第三者の国ガスパースに秘密裏に交渉を行った。『物資と情報を支援するから、資源の一部をよこせ』と。この国の魔法に興味を持つガスパールと利害が一致し、突如侵略が初まった。計算外の奇襲、圧倒的武力と和平以降筒抜けになっていた情報。そこに勝ち目はなかった。戦いを望まないこの国は一日と立たないうちに降伏したの。ホントなすすべもなくね」
「……えっと、この国の人々とヒットニアの正統勢力はどうなったの?他の仲間たちは?」
「この国の有用とみなされた魔法を使う人たちは連れていかれたわ。今ここは比較的穏やかに見えるけど、厳しい徴税と資源の強奪に苦しんでいる。決して死なない程度に、じわじわと……ヒットニアのハト派は拘束され、解散。ほとんど私たちと同じ扱いを受けている状態。得をしているのは裏切り者たちとガスパース帝国。逆らう者は皆殺されたと聞くわ。パーティーメンバーは……」
ただでさえ小さかった声が一度止まる。消えそうなろうそくの火に見えた。
「一部私を守り、逆らう者は殺され、私の命令に従って抵抗をやめた者は私と同じように村の離れに独り隔離されるか、拘束されているわ」
沈黙が続いた。恐らくプラム本人が未だ殺されず、切り開かれた土地のもと隔離されているのは、国民の反感、そして反乱に及ぶと厄介と考えた為だろう。そして同時に、彼女を隔離する事で敵国は自らの支配力の大きさを示そうとしているのかもしれない。早朝にしても辺りに人っ子一人いない理由はこれなのだろう。プラムの親友達がそのような悲惨な状況になっている事は非常に悲しく思えた。会ったことさえなかったとしても。
「永遠なんてない、世の中がどう変わっていくかなんて誰も分からないし、ましてや一頭の牛の運命さえ予測できない。……でもあんまりじゃない、やっと手に入れた平穏がたった数か月で消えて、更にひどい状況になるなんて。あんまりじゃない……」
歯を食いしばって下を向く。彼女は時の残酷さと自分の未熟さに苛まれているのだろう。両手で強く握られた二羽の鳩はボロボロだった。
「ごめんね、少し取り乱しちゃった」
健気に頭を下げる。
「大丈夫、鳩はあと十羽以上いるから」
「そういう事じゃないって」
クスッと彼女は笑う。どこか疲れているように見えた。
「ねぇ、少し歩かない?」
「勿論、プラムの仰せのままに」
二人は立ち上がって、歩き始める。僕の目元の位置にプラムのおでこがあり、意外と彼女は身長が高いことに気づく。歩幅を合わせ、木製の柵を沿うように歩いた。来た時よりも明るくなった気がする。もうそれ程時間がないのかもしれない。左手であの本を抱えながら、水玉のワンピースのポケットに入れた三つの新しい鳩サブレのうち、二つ食べ終えて、小さくて艶やかな唇を開いた。
「私貴方に謝らないといけない事と伝えたい一言があるの」
「一人だけ、鳩サブレを食べて歩いている事と、愛していますの一言?」
「私を馬鹿にしてるの? えい」
軽蔑した目で見られた後、右足で尻を蹴られた。声のわりに割と痛い。暫くふざけるのはやめておこう。大きく息をすってから、本題に戻す。
「まずお詫びから。私ね、色々貴方に嘘をついてきたわ。今日八月四日は私たちにとって特別な日ではなく、ガスパース帝国にとっての年に一回の祭日。ここにいないのは同じ国民ではなく衛兵。この地は敵国に押し付けられた辺境地の一つ、この格好にしても普段はつなぎ姿にこの麦藁帽を被って牛の世話をしているの。貴方に渡した本についてもそう。物語に描かれたような強さは私にはない。初めにヒットニアの兵士から襲われた時なんて、腰を抜かして動けなかった。最後のスピーチにしても何度もミスをしないように待機室で練習したの。それでも手の震えが収まらなかったのを今でも覚えている。本で見られたオーラや勇ましさの欠けるただパーティーの皆に支えられた一人の小娘……」
彼女は続ける。
「でもね、これだけは信じて欲しいの。例え誇張して書かれていたとしてもあそこに描かれた旅は確かにあって、素晴らしき人々と、それに支えられながら一度は夢を成功させた私がある世界にはいたということを。どこまでも続いて欲しかった夢をこの本には詰め込んでいるの」
左手に抱いた本を大事そうにさすりつつ、彼女は全てで訴えてきた。目で、声で、身振りで。
「最後に一言。これは著者として」
わざとらしくゴホンと咳をした。
「私が書いた本を、描いた物語を、読んでくれてありがとう。そしてその思いを私に伝えに来てくれてありがとう」
碧色の目はブルーサファイアのように輝き、表情には先ほどの曇りが少しだけ晴れたように見えた。彼女が一読者である僕としたかったのは、お喋りでもなく、愚痴でもなくこれだったのだろう。物語の真相を、一著者の感謝を、何よりも自分の飾らない姿を。
「色々悩んだ結果言えて良かったわ。でも本当にごめんね、物語としてもキャラクターとしても貴方に私の勝手な自己満足で幻滅させてしまって」
「幻滅なんて、何一つ。こちらこそ本を書いてくれてありがとう」
首をゆっくり横に振ったあと深々と礼をした。本心から出た言葉だった。言葉で言い尽くしようがなかった。
「じゃあ、改めて一つ聞いてもいい? どうして魔法を使うことが嫌いになったのか」
さっき避けられた話だった。たとえ彼女にとってテリトリーに当たる事でも聞くべきだと感じたのだ。もう時間もそれほど残されていないだろう。
「私の夢と魔法の能力を答えなさい」
質問を質問で返される。
「夢は『私たちの手で大空を変えよう』ってことで、魔法はお菓子に魔法をかけて、自らの感情や夢を共有することが出来るんだよね?」
「まぁ合格点かなぁ。魔法については完答だけど、夢については三角だな」
合格点が厳しい気がするのは僕だけだろうか。
「厳密に言うと私の夢は『私を含めこの国の人がみんな自由に、そして夢を持てること』です。口に出すと結構恥ずかしいね」
「君が持ち出した話だろ。でもその二つに何の関係が?」
「まぁ、聞いて。私はね、交渉や闘う時以外にも魔法のかかったビスケットを配っていたの、勿論良かれと思って。例えば、一緒に旅をするメンバーには全員に配った。物語として書いたところまではそれで良かったんだ、『プラムが持つ理想を共有しよう』『絶対みんなの自由を手に入れよう』って」
歩みをやめ、柵に体を預ける形で三角座りをする。僕も無言で隣に腰を下ろす。
「でも束の間の平穏が終わり、ガスパースと裏切り者たちによる進軍が始まった時、彼らはグラッツェルに呼びかけをしてきたの。『プラムを呼べ、平和的に行こうじゃないか』と。勿論すぐに仲間たちと駆け付けた。でも向こうが言う平和的なんてのは肩書だけで交渉の余地はなかった。ただ一方的なまでの脅しと命令に近い間接的支配。まるで一度開いた扉が一瞬で閉じるようだった。そこで事件は起こったの。正義感の強いカストロがガスパースの外交を担う軍人を殴り飛ばした。『酷すぎる』と叫びながら。……直にその場で彼はリンチにされたわ。私ね、彼に駆け寄って最後の言葉を聞いたの。『プラムの夢を守れなくてごめん』と」
彼女は少し泣いていたのかもしれない。腕と膝に顔を埋めながら話す声はゆらつき、呼吸は乱れていた。
「ガスパースによる新たな従属体制が決まり、隔離されてから一切私たちは会う事ができなくなった。悲しかった、急に戦場に駆り出されて恋人を奪われたようで。ある日一通の手紙が届いたの。仲間の一人、戦乙女のアステナからだった。付き合っていた百姓の男、ライオスが土地略奪の抵抗の末に死んだと。理由を聞くと、『やっと自分の手で自由に田んぼを耕せたのに、プラムの言う未来がやってきたのに。それを知らないやつに奪われて我慢できなかった』と。続けてこう書かれていたの。『貴方が夢さえ与えなければ、こんな事にならなかった』って。翌日もう一通手紙が来たわ、『昨日の手紙はなかったことにして、ごめん』って旨の謝罪が。でも突き付けられたの、私が夢を与えなければ、ある人は生きていて……ある人はそれなりに幸せを感じれていだんじゃないが。前みたいにヒットニアの支配が続げば、今ほどぐるじい生活を送らなくてずんだんじゃだいかって……」
泣いているのは明らかだった。玲瓏な声は鼻声に代わり、過呼吸気味に息をしていた。そこにはただの一人の少女が座っていた。やっと分かった、魔法をやめた理由を。彼女は感じたのだ。自ら望んだ夢が時には他人の自由以上の命を奪った近い過去を。各々が持っていたはずの夢を自らの夢で塗り替えてしまった可能性を。何より命を預けた友の運命を左右したその現実を。そしてその元凶が自分の魔法にあることを。少女は一年間誰にも告げぬままじっとこらえていたのだろう、あまりに不憫だった。横にいる僕ができることと言えば、泣き止むまで肩を貸してやるくらいだけだった。
ここに来てから時間の流れを知らない。だから正確ではないけど、三分位だと思う、ダンゴムシのように殻に閉じこもっていた彼女はむくっと起き上がり、ニコッと作り笑いをしながらこっちを見下ろす。
「ありがとう、もう大丈夫だから。こんな事があったなんて夏芽さんには内緒だよ」
と気丈に振舞う。赤らんだ頬には涙の跡がうっすら残っていた。
「ねえ、もう一個だけ甘えていい?」
「ものによるなぁ」
足元に置かれた本を拾い上げ、僕の目の前に突き出す。
「これ、返して貰ってもいい?」
予想外の行動に少し狼狽え、僕は拒否しようとした。だが、彼女にも考えと強い思いがある。そして、僕が所持者である前に彼女は著者という大前提が転がっている。断りようがなく、黙って頷く。
「本当にありがとう」
感謝を言う彼女の表情はおもちゃをせがむ子供に対して、買ってあげることはできないと謝る母のように、申し訳なさそうで、同時に穏やかなものだった。
「じゃあ、その件について僕も一つ」
「何?」
これは肩を預けながら考えていたこと二つのうちの一つだ。プラムに先を越された今では後出しにも聞こえるかもしれない。
「その本は捨てずに持ち続けてください。」
「え?」
「きっと捨てたりしたら後悔すると思ったから」
彼女はきっと捨てるつもりだったのだろう。今はきっとそのつらい過去を振り返りたくないだろう。気持ちは尊重するし、理解できる。でも若し彼女自身がそれを受け入れられるような未来が来るなら何よりも手放しで賞賛すべきことに思えるのだ。
「あと、君自身の手で捨てたら、なにより小説家だった君の母が一番悲しむと思ったから」
少し迷ってから彼女は首を縦に振った。この時、自分は卑怯者だと痛感した。
ゆっくりと歩き元のテーブルに戻ってからは短いティータイムを続けた。そこに言葉は要らなかった。
「あ、見て!」
プラムの驚きの声にびっくりしながら、指をさす方角に見入る。同じ場所にそれはあった。あの渦がそこにあった。机に置かれた懐中時計を見ると既に一時間が過ぎていた。タイムアップらしい。椅子に掛けたぶかぶかのコートを着直し、来た道を辿る。手ぶらなのが少し寂しかった。残り数歩という処でプラムは、
「今日は愚痴から何までありがとう、また会おうね」
会った時と変わらない声と顔でそう言った。涙はもう乾いていた。
「その前に、僕からも一つおねだりさせてくれないかな?」
「こんなギリギリになってどうしたの?」
頬を膨らませ、怒った顔の真似をする。可愛らしくて、思わず吹きだす。取り直してから聞き間違えのないように二つ目を僕は伝える。
「えっとね、君のポケットに入った一つの鳩サブレに君の魔法をかけて食べさせてくれないか?」
「自分の魔法が嫌いって貴方に言わなかった?」
次は本当に不機嫌になった、一度は見開いた猫目が今は酷く鋭い。
「聞いてたよ、一言一句逃さず。だからこそ僕に君の魔法をかけて欲しいんだ、例え君が僕を嫌いになっても……これが僕から君への最後のお願い」
懇願する僕を見据えてから、彼女は大きなため息をつき、ポケットに入った鳩サブレを取り出す。形は少し崩れていた。封を開け、鳩を両手のお皿に乗せた。顔には「今回だけ、こんな我儘を聞くのは」と書かれていた。暫くすると、彼女は発光を始め、転がっていた鳩は宙を浮き、同じ光を放つ。魔法をかけているのだろう。その彼女の仕草は他の何よりも美しかった。魔法はかけ終わったのか、親指と人差し指でつまんだ鳩を彼女は僕の口に運んだ。
「味わって食べなさい」
「ありがほう、いただきまふ」
実際味わって食べたが、味に変化は感じなかった。飲み込んでから僕は、
「こちらこそ、プラムに出会えて本当に良かった。きっといつかまた」
握手を求め、腕を指し伸ばしながら言った。
「うん」
少し照れながら、握手を交わした。彼女の掌は身長のわりに小さくて柔らかかった。それでいて暖かかった。
「もしまた会えるならこの日の六時四十九分、今日こうやってこれた場所で毎年待ってるから。それじゃあ」
彼女から返事はなかった。肯定も否定も。最後は振り返らずに渦の中に飛び込んだ。約一時間前に味わったのと同じ。感覚と意識が落下する中、やはり最後に働いたのは耳で、捉えたのは一つの泣き声だった。
「もっと一緒に居たかったなぁ」
彼女に泣かれる事は想像だけでも嫌いだ。ただ胸が痛いから。でも、聞き間違いだと思いたくなかった。この時だけ彼女の泣き顔を見たくなった。
第三部
名古屋駅到着を告げる、音の割れた車内アナウンスで僕は目を覚ました。固いリクライニングチェアーで腰は痛いし、寝覚めは最悪だ。いつになったらグリーン車に乗れる日は来るのだろう。今回の目的地は新大阪。祖母である夏芽さんに会いに行くのだ。隣座席には頭の禿げたおじさん。出張帰りで疲れているのか、寝息と時折解読不能な寝言を立てていた。
のぞみ十五号は予定通り新大阪に着き、後は大阪メトロで最寄り駅へ向かう。読書をしている途中、落下防止の自動改札が敷かれ始めているのに気が付いた。神奈川より大阪の方が時代は進んでいるらしい。
最寄り駅に着いてからは、自分の一年前の記憶を頼りに夏芽さんの家に向かう、今年も先導してくれる母はいないのだ。家に着くなり、機械的に手を洗ってからお風呂に入る。そして、夏芽さんが準備した夕食を食べながら、話題の本や学校生活について話をする。ご飯を終えるまでに毎年一時間半以上かかった。食器を洗った後、歯を磨く。それから既に亡き祖父の部屋に用意されている布団にくるまって眠る。勿論目覚まし時計をつけるのは忘れずに。ここで帰省一日目が終わる。
翌朝、五時四十五分にセットした目覚ましで目を覚ます。隙間から差し込む光はいつも僕の二度寝を妨げるのだ。リビングに行くと、頼まずとも朝食がラップされて丸テーブルの上に置かれている。メニューは決まって白ご飯と柴漬けに具沢山みそ汁。これが冷めたままでもおいしいのだ。食事を済ませた後は、テキパキと服を着替え、すぐに出る準備を済ませる。最近付け始めたワックスは未だうまく出来なくて、自らの及第点を超えるのに十分も要した。今日はケータイの天気予報では寒くないそうだが、念のために祖父の黒いコートを借り、紙袋を左手に下げて外に出た。案外寒くって、早速コートのお世話になる。時間を確認すると六時二十五分。大股で、元々行く予定だった中学校へ向かう。駅からこの家までの道のりは駄菓子屋だの寺社仏閣に頼ってようやくたどり着くが、この中学校までの道は迷うことなく、歩みを進める。
割と早く堂川中学校の裏門の前に着く。ケータイのロック画面には六時三十三分の文字が躍っていた。かつてあった駐輪場は今では無くなり、新たな工事が進められていた。建造物の一つにはラミネート用紙が貼られており、そこにはマジックで「鶏小屋、ペンキ塗装中。触れるな」と朱書きされていた。予定していた時間が来るまで、目を瞑って少し待つことにした。この場所でこうしていると、当時の記憶がより鮮明に思い起こされる。三年前の事だ。
中学二年生での帰省二日目、祖母に連れられて僕はプラムという少女に別世界で出会った。彼女は僕にとっての「特別な一冊」に出てくる主人公であり、著者だ。彼女と一時間位話をした後、再びこの世界に戻ってきた僕は、祖母の話によると数分間気を失っていたらしい。
目を覚ました僕は初め少し動揺していたけど、口元に残る柑橘系の味と、肩についた透き通るほど綺麗な琥珀色の髪のおかげですぐに落ち着いたのを些細なことだけど覚えている。あれは現実だったんだと。家に帰ると母が寝ぐせビンビンで「二人とも何処に行ってたの?」とあくび半分に聞いてきたから、「ビスケットをあげると喜ぶ女の子に会いに行っていたの」と返した。そこでの「これが中二病ってやつなの?」みたいな母の顔は今でも忘れならない(もとより極度の現実主義者の母にはこういった話は期待できなかったのだ)。
その他にも色々な思い出が頭を過ぎていったが、どれもプラムが中心の内容だった。この場所には僕をそうさせる力があるのかもしれない。
チャイムが鳴った、そんな気がした。視線を落とし、右ポケットに入ったケータイの電源ボタンを押す。時間は六時四十九分、ぴったりだった。三年前祖母が指をさしたあたりへ視線を移す。だが、そこには光の渦は見えなかった。あの銀河系を彷彿とさせるスピルチュアルな光は。声にもならないため息をつく。あの日以来、毎年同じ日、同じ時間にこの場所にきて早や三回。一度も彼女と出会うことはなかった。彼女にも何か事情があるのだろうか。確かめる術はない。そうこうしている内に時計は六時五十分へと針を進めた。それから十分、近くにあった落ち葉のかかった岩に腰掛け、同じ場所をじっと見ていた。だが、やっぱり何も起こらなかった。後は三年前から毎年やっている準備に僕は入った。光の渦があった場所に「鳩サブレ」と書いたクリーム色の箱と一通の手紙を置く。手紙の内容は三年前からほとんど変わっていない。今年は特別に元花屋だった母から渡されたアイリスを手紙の上に添える。線が細くても、瑞々しく咲く紫の花はプラムにピッタリだった。ケータイを見ると七時二分を指していた。そして最後に大きく息を吸う。不器用で不便な、声という形で伝えたいのだ。心臓が高鳴り呼吸が早まる。ポケットに入れた両手を出し、近くにいるかもしれないし、遠くにいるかもしれない彼女に届くように、最大限の思いを、本心を一言に乗せる。
「今でもプラムの本、大好きですよ~!!」
僕は落ち着いてから一つ満足し、ゆっくりと踵を返す。後ろで何かが聞こえたような気がして、振り返る。誰もいなかった。ただ、確かに置いた手紙が無くなっているような気がした。いやそう思いたかっただけかもしれない。僕は再び実家へ向け歩みを始めた。風に吹かれた手紙は大きく宙を舞っていたとも知らずに。
『拝啓 プラム様
お元気ですか、私はそこそこ元気にしてます。あの日の事はもう許してくれていますか、また会いたいです。この手紙では少し僕の雑談にお付き合いください。
小学二年生くらいの時だと思います。僕は友達に連れられ、ウルトラマンという映画を一緒に観に行きました。人間の味方、ウルトラマンが侵略者である怪獣をやっつける内容です。当時はアクションが迫力満点で面白かったけど、他の事は覚えていません。お話が終わり、エンドロールが流れ、友達と一緒に席を立とうとした時ふと思ったことがあったのです。
「ヒーローって何だろう」と。
勿論回答は無限大です。ゲームでは鉄板になった魔王を倒し、お姫様を助けるような勇者。スポーツでここ一番の大勝負を制すエース。愛と勇気を胸にばい菌をやっつける、パンでできた地球外生命体。どれも正解だと思います。でも、当時の僕にはどれもしっくりきませんでした。おそらく大多数とは方向性が異なっていたんだと思います。
でも最近ようやく分かったんです。僕にとって何がヒーローで、どう方向性が違ったのか。僕が夢見たヒーローは武器さえ持ってません、あるのは戦力にならない魔法のみ。僕が夢見たヒーローは弱いです、敵に腰を抜かすし、一日の間に三回泣きます。僕が夢見たヒーローは特別でない、十四歳の途中までは一平民として牛を相手にしていました。僕が夢見たヒーローは嘘つき、僕に対して本の中、会話の中でも多くの嘘をつきました。
それでも僕にとっては何にも代えがたい唯一のヒーローでした。僕が夢見たヒーローは武器ではなくビスケットを手に取りました。戦わない事が最大の正義だと悟ったのです。僕が夢見たヒーローは弱さの代わりに国民に対する深い愛情と夢に力を注ぎました。戦いの後の人々に心の豊かさと笑顔を与えたのです。僕が夢見たヒーローは自らの平凡さを確かな希望へと変えました。壮大な夢を叶える姿は、聞く者、見る者に分け隔てなく勇気を与えたのです。僕が夢見たヒーローは自らの嘘を反省し、頭を下げました。過ちを犯す人間の弱さと正直であることの大切さを僕に示してくれたのです。
これを聞いたら多くの人は笑うかもしれません、多くの人との価値観というものさしのずれに。それでも僕にとっては闘うことを諦めて、力の強さだけで勝負をするのじゃなくて、変身ベルトや血筋に頼らなくて、張りぼての理想像を他人に見せて自己満足するんじゃなくて、必死に無謀にも思える理想を追い求め現実に挑み続ける姿が何よりもヒーローなんです。僕にとっては貴方こそがヒーローの定義における必要十分条件でした、その思いは変わりません。
もし、一度折れた心をもう一度起こせそうなら、また貴方のカッコいい姿を見せてください。そして貴方の生きざまを、本という最高の媒体で僕に教えてください。
ここまでは僕の価値観に関するお話です。最後に一言書かせてください。
今でもプラムの本、大好きですよ。
あの本の愛読者より』