部長のことば
2020年
2020年
退屈の反対は多忙?多忙は苦だ。しかし、多忙は必ずしも苦とは言い難い場合もあるのかもしれない。先日受けたオンライン講義で、哲学の准教授が言っていた。
「例えば、論文の提出期限に追われ、徹夜で作業しているとき、もう全て放り出して眠ってしまいたい、と思う。しかし、それと同時に、徹夜で頑張る自分に何故か誇りのようなものを感じ、興奮している自分がいる。……ここで私が説明を放棄すれば、准教授がただのマゾヒストになってしまう。そのほうが面白い気がしてきたが、それではここで伝えたいことが語れないので、泣く泣く説明する。
絶体絶命なのに、なぜか気分が高揚する、といった倒錯的な感覚を覚えたことは無いだろうか?論文でなくとも、定期テスト前夜の悪あがきとか、どこかで覚えがあると思う。
何が言いたいかと言うと、我々人類は少なからずマゾヒストなのだ。私も、あなたも、准教授も。だから追い詰められると興奮する気質を持っている(文脈をもっと詳しく言うと、ニーチェの言から繋がっているのだが、長くなるので割愛する)。
そうなると、多忙が純然たる苦ではない可能性が出てくる。多忙は苦であると同時に、その先に楽を孕んでいるのだ。
では、冒頭に立ち戻ろう。退屈は苦か楽か。対である多忙は苦ベースだが、その先に楽がある。では、意味を反転すれば、退屈は楽ベースだが、その先に苦がある、ということになるだろう。
以上のことから、退屈は純然たる楽ではないことはわかる。苦はできるだけ避けたい。では、退屈に含まれる苦を取り除くにはどうすればいいだろうか?
退屈に多忙をブレンドするのはどうだろう?まず、退屈が極まって苦を感じないギリギリのラインまで堕楽を楽しむ。その後、自分を多忙に追い込むのだ。そうして、多忙の楽を感じたら退屈に戻ってくれば、「楽の永久ループ」の完成だ! そして、その「多忙」を作り出すために最適なのが『創作』…え?それでは多忙の苦を味わうことになるだって? 言われてみればそうだ……。
では、こういうのはどうだろうか?退屈の「苦」と、多忙の「苦」は「性質」が違うのだ。そもそも、「苦」とはなにか。人間の苦、すなわちストレスは「コントロール不能」によって発生する場合がほとんど、という心理学的理論があるらしい。これに基づくと、退屈の「苦」(以下堕落苦)は、何もしないという状況が「いつまで続くかわからない」、という苦だ。つまり、まさに堕落苦は「コントロール不能」からくる苦であることがわかる。
対して、多忙の「苦」(以下忙苦)は「いつまで続くか」がよくわかっている。やるべき課題をやり終えたときだ。つまり、忙苦は発生源において堕落苦と性質を異にするものである(読者はそろそろ「苦」という字がゲシュタルト崩壊してきた頃合いだろうか。ちなみに私は、崩壊を通り越してわさびの象形文字に見えてきた。どことなく似ている気がする)。
よって、忙苦は堕落苦と違って、「コントロール可能」な苦であり、避けるべき苦ではない。むしろ、多忙の「楽」(以下忙楽)を得るために必要な苦は、堕落苦を基準とした場合、苦の亜種=必要亜苦であるといえる。
以上のことから、私はやはり5/4に記したように、堕落苦を避けるために、退屈に多忙をブレンドすることを再度提案する。
しかし、忙苦だって立派な苦であることは私も認めるところだ。だからこればっかりは、トマトを食わず嫌いする子供に母親が言うように、私も言うしか伝える手段が思いつかない。「騙されたと思って」、と。ちなみに子供の頃の私は、騙された結果トマトがより一層嫌いになり、母親のこともしばらく嫌いになった。そうは言っても、母親はもちろん私を貶めようとして「騙されたと思って」と言ったわけではない。その意図を簡潔に言えば、「試してみないとわからないから、一度試してみろ」だろう。聞くところによると、味の好みはその人の大腸細菌によって左右されるという説があるらしい。つまり、「絶対にトマトはうまいから食え」とは誰にも言えない。だから私も、「堕落苦より忙苦の方が絶対に良い」なんて言うつもりはない。勧誘しているだけだ。「忙楽もたまには良いものだから、一度試してみないか」、と。加えて説得するなら、忙楽はそれほど忙苦を継続的に味わわなくとも得られる。さらに、あなたは忙楽に向いている。こんな取り留めのない文章をここまで読めたのだ。多少なりともこういう曖昧模糊とした思索を楽しむ気質を持っているはずだ。「退屈は苦か楽か」という議題を考え、また、私の主張に対して賛同したり、反感を持ったり、仕方はどうあれ「熱中」しているはずだ。実は、冒頭で私は「退屈の反対は多忙」と述べたが、辞書には「退屈」の対義語は「熱中」とある。これも立派な忙楽だ。つまり、ここまで読んだあなたは、少なからず忙楽を得ている。そして、考えることに「熱中」できる人は、忙楽に向いている、と私は思う。
5/4からだいぶ行を隔てたが、私が述べたような忙楽を得る手段として最適なのが『創作』だ。
何も小説を書けと言っているのではない。私が今書いる、この文章のようなものでいい。論文とも呼べないような思考の這いずり回ったあとを文に残すだけで、忙楽は得られる。スマホのメモでも、広告紙の裏でも構わない。とにかく頭の中にあるものをなにかに書きつけるだけで、スイッチが入る。それは『創作』のスイッチだ。『創作』というのは、1度取り掛かるとなかなか頭から離れない。ぼーっとする暇=「退屈」が生じそうになると、脳が「考えろ!なにかアイデアを!」と勝手に走り出す。次の文を紡ごうとしてひとりでに回り続ける。
これこそ多忙だ。准教授の例のように何も締め切りを設けなくてもいい。これだけで、忙楽は得られる。
ちなみに、『創作』は集中力が無い時のほうが捗る。その理由を説明するには『創作』の定義をはっきりさせねばならない。ここで言う『創作』とは、アイデアを出す活動だ。では、「アイデア」とは? アイデアとは、ここでは「普段の自分では思いつかない考え」のことを言う。この「普段の自分ではない」状態が「集中力が無い時」と繋がるのだ。
話が少し逸れるが、二度寝した時などに見る夢を思い浮かべてほしい。ストーリーのある夢だ。そういう時の夢は普段の自分がどう頑張っても想像できないような、突拍子もない展開をする事が無いだろうか。これこそ、創作に必要なものだ。まどろみよって、集中力が低下しているときこそ、「普段の自分では思いつかない考え」が生まれるのだ。しかし、夢はたいてい支離滅裂、かつ覚えていられることは少ない。よって、『創作』は起きてすぐ、集中力のあるときに意気込んでやるより、集中力が低下する昼下がりなどになんとなくメモを開くと、意外とアイデアが生まれるのだ。自分の集中力がいつ低下するか知りたい人は、下記の参考を見てほしい。
最後に、『創作』を続けていると、誰かに読んでもらいたくなったりする時がある。もし、そういう気持ちになったなら、我が部への入部を検討してみてほしい。
2020年5月5日
文芸部部長 大石哲平