「国旗の損壊等の処罰に関する法律」の成立に抗議する憲法研究者声明
2026年7月17日、「国旗の損壊等の処罰に関する法律」案が、参議院本会議で可決され、成立しました。私たち憲法研究者有志は、このいわゆる国旗損壊罪を規定する当該法律(以下、「本法」という)が、憲法上、極めて大きな問題を含み、違憲であると考えるものであり、その成立に強く抗議し、速やかな廃止を求めます。
1 表現行為に対する刑罰を用いた規制であること
本法は、憲法21条1項で保護された表現行為に対する刑罰を用いた規制となりうるものです。本法は、「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損した者」に刑罰を科すものです(2条1項)。また、そのような「方法」に該当するかどうかの判断は、「行為の外形、周囲の状況その他の客観的な事情を総合的に勘案して行うものとする」と規定されています(2条2項)。法案提出者による具体例としては、人通りの多い場所で、国旗を焼き払ったり、切り刻んだりする行為や国旗を踏みつけて泥だらけにする行為などが挙げられています。
そもそも、国旗は、国家それ自体を象徴するだけでなく、しばしばその時々の政権・政策や当該国家の歴史と深く結びつくものです。それゆえ、世界各国では、時々の政権や政策に対する最も強い抗議の意思を示すために、国旗を燃やすなどの行為が行われてきたという歴史があります。しかも、日本では、「日の丸」は日本の戦前・戦中の軍国主義や植民地支配を象徴するものと考える人々もおり、必ずしも肯定的にばかり評価されてきたものではありません。
したがって、日本においても、国旗を焼き払ったり、切り刻んだりするなどの行為は、言語を用いたものではないとしても、現政権やその政策に対して強く抗議の意思を表し、あるいは日本の戦前・戦中の軍国主義・植民地支配に対する強烈な否定的評価を伝達したいという場合には極めて有効な表現行為としての意味を有することになります。こうした行為は、憲法学においては、象徴的表現と呼ばれ、憲法21条1項の保護が及ぶものとされています。すなわち、憲法21条1項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」を保障するものであり、この「一切の表現」には象徴的表現も含まれると解されるということです。しかも、これらの行為が、上記のような政治的表現行為としてなされる場合には、その規制は極めて慎重でなければならないと考えられています。
民主主義社会においては、表現の自由の手厚い保障が不可欠です。それにもかかわらず、表現の自由は傷つきやすいものであり、特に刑罰による威嚇が効きやすいと言われます。というのも、一つひとつの政治的な表現行為が政治に与える影響は極めて小さいのに比べて、刑罰を科される不利益はもちろん、逮捕され、あるいは犯罪捜査の対象にされるだけでもその不利益は極めて大きなものだからです。そんな不利益を被るかもしれないのに、あえて政治的表現を行おうとする人はそう多くありません。しかし、政治的表現行為が過度に萎縮させられてしまっては、民主主義社会は成り立ちません。それゆえ、表現行為に対する刑罰を用いた規制の合憲性は慎重に見極められるべきです。
確かに、本法3条において、本法の適用に当たっては、「表現の自由その他の日本国憲法の保障する国民の自由と権利を不当に侵害しないように留意しなければならない」と定められています。しかし、上記の通り、法案提案者が規制される例として挙げる具体的な行為は、これまで歴史上、政治的表現行為としても行われてきたものであり、また、後述の通り、本法はその存在自体が表現行為を萎縮させるものです。本法が表現の自由との関係で問題を生じないと考えることはできず、こうした規定の存在も大した安心材料にはなりません。
2 表現内容規制であること
憲法学においては、表現内容に着目した規制(表現内容規制)と表現内容に対しては中立的な時間帯や場所、方法のみの規制(表現内容中立規制)とを区別し、前者のタイプの規制についてはより厳密にその合憲性を審査しなければならないと言われています。民主主義社会において、表現の自由を手厚く保障しなければならないのは、個々人が政治的な意思決定の主体として何が価値あるものなのかを自分で判断できなければならないからです。表現内容規制は、表現内容中立規制と比べても、国家がそうした個々人の判断を先取りして、あらかじめ特定の考えを価値のないものと決めつけて、公共の議論から排除しようとすることを狙ったものである可能性が高いと考えるべきでしょう。そもそも「言っていいこと」と「言ってはいけないこと」を政府が決めて、「言ってはいけないこと」を処罰すること自体が自由で民主的な国家のあり方に反しています。こうした可能性は、表現内容規制の中でもある事柄に対する一方の見解のみを規制する場合にはより高まってきます。憲法学では、これを見解規制と呼びますが、こうした規制はより一層厳しく合憲性が問われるべきだと言われています。
本法は、「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法」によって、公然と国旗を損壊するなどの行為を処罰するものです。これは、国旗損壊等の行為をすべて規制の対象にするものではなく、「不快又は嫌悪の情を催させる」という効果を伴うもののみを規制の対象にするものであり、それは特定の国旗損壊等の行為がもつメッセージがその受け手に与える効果(伝達効果)に着目した表現内容規制です。また、「不快又は嫌悪の情」は、国旗やそれが象徴する国家などへの否定的な評価を含む国旗損壊等の行為から生ずるものであることを考えると、本法は、国旗や国家に対する否定的な意見や見方を伝達する表現行為を処罰するものであって、単なる表現内容規制にとどまらない見解規制です。したがって、本法の合憲性は、極めて厳しく審査されなければなりません。
なお、本法は、「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により」と規定するところから、あくまで「方法」の規制であり、内容中立規制であるとの論は成り立たちません。上記の通り、「不快又は嫌悪の情を催させる」という特定のメッセージの伝達効果に着目した規制である以上、内容に対して中立的な規制であるとは言えないからです。
3 「国旗を大切に思う国民感情の保護」という法益の評価
以上の通り、本法は、表現行為に対する刑罰を用いた規制であり、しかも表現内容に着目した規制のなかでも見解規制に該当するものであり、その合憲性は極めて厳しく審査されねばなりません。次に問題になるのは、本法には、こうした厳しい審査をクリアできるほど「公共の福祉」に奉仕する重大な正当化事由があるのかです。
法案提出者によれば、本法は、「国旗を大切に思う国民感情の保護」(附則2項参照)という法益を保護することを目的にするものであるとされています。しかし、これは、表現行為に対する見解規制を正当化できないでしょう。というのも、人の感情を害して不快感や嫌悪感を及ぼすことだけを理由に、表現行為を規制できてしまうのであれば、その規制範囲は無限に拡大することになりかねないからです。政治的表現行為は、その考えに賛成できない人にとっては不快なものです。それをすべて規制できるとしてしまうのであれば、表現の自由はそもそも成り立ちません。
確かに、表現内容に着目する規制として、諸外国ではヘイト・スピーチが規制されることがあります。ヘイト・スピーチは、ある個人や集団が特定の人種や民族などの集団的属性を有しているというだけで、その個人や集団を誹謗する言論です。それは、標的にされた人々がその社会で暮らしていくことを著しく困難にし、その人々を対等な話し相手としては認めないと宣言するものであり、民主主義社会の土台を掘り崩すものです。それゆえに、表現の自由の重要性に鑑みても、ヘイト・スピーチは規制されねばならないと言われることがあります。これに対して、国旗損壊等の行為は、こうした重大な害悪を及ぼすものではありません。
また、これもしばしば指摘されることですが、現状では、「日の丸」を公然と燃やしたり、踏みつけたりするようなことがたくさん起きているという状況でもありません。この点で、現に、国旗損壊罪を定める法律を作る必要性を支えるような社会的事実(立法事実)が欠けており、現在の日本社会には必要性の乏しい法律です。これに対して、国民感情を害する国旗の損壊等を予防する措置として必要であると言われることもありますが、表現の自由の重要性に鑑みれば、こうした抽象的な理由で規制を認めることはできません。
それにもかかわらず、国旗損壊等の行為をあえて処罰する法律を作るのは、なぜでしょうか。法案提出者の中からは、本法が制定されることで、愛国心の醸成につながるのではないかとの発言もなされています。しかし、都合の悪い表現行為を法律によって封じ込めることを通じて、時の政府が望む特定の国民感情を醸成しようとすることは、日本国憲法が想定する自由で民主的な社会と相容れないものです。それゆえ、このような理由で表現の自由を規制することは認められません。
以上のことを勘案すると、本法は、政治的表現行為に対する規制を正当化しうるような合理性や必要性を有するものではなく、違憲であると言わねばなりません。
4 規制範囲の漠然性・不明確性
加えて、本法は、その規制範囲の漠然性・不明確性という点でも問題を抱えています。そもそも憲法31条から要請される罪刑法定主義によれば、刑罰法規は、処罰対象行為を明確に定めるものでなければなりません。さらに、上記のように、表現の自由は傷つきやすいものであり、刑罰を用いたその規制は萎縮効果を生じさせやすいものです。それゆえ、刑罰を用いて表現行為を規制する場合には、その規制範囲をできるだけ明確にすることが求められます。憲法学においては、表現行為に対する規制範囲が漠然とし、不明確な場合には、そもそも規制の合理性や必要性を判断するまでもなく、それだけで違憲と判断するべきだと言われます。
こうした観点から見てみると、本法に言う「国旗」とは、「国旗及び国歌に関する法律……に定める国旗として用いられていると社会通念上認められる有体物」(1条)とされており、どのようなものの損壊等が問題にされうるのかが曖昧です。また、本法は、先述のように、「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損した者」を処罰の対象にするものですが(2条1項)、そうした「方法」に該当するのかの判断は、「行為の外形、周囲の状況その他の客観的な事情を総合的に勘案して行うものとする」とされています(2条2項)。これは結局、個別の事案ごとに、「著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法」であったのか、いろいろなことを考えて決めると言っているに過ぎません。いろいろなことを考えて決めると言われてしまっては、具体的に、自分が行おうする国旗の取り扱いが規制範囲に入るのかどうか予測がつきません。そもそも、ある特定の表現行為から受け取る「不快」や「嫌悪の情」とは人によってまちまちであり、どのようなものがその中でも著しいものと言いうるのかは、規制当局である捜査機関や裁判所次第ということにもなりかねません。こうした捜査機関や裁判所による恣意的な運用を許すような規定の仕方は、刑罰法規としては極めて杜撰なものであり、日本国憲法の基本原理たる法の支配を瓦解させかねません。
さらに、こうした漠然不明確な法規によって「刑法犯にあたる可能性がある」となれば、国旗を使った芸術表現を公的な場で展示することが困難になり、芸術表現にも深刻な萎縮効果が及びます。
以上のように考えると、本法は、表現行為に対する規制としては漠然とし、不明確であり、それだけでも違憲と判断されるべきものです。
5 結び
以上の通り、本法は、政治的表現行為を規制するものであるにもかかわらず、その規制の合理性も必要性もなく、かつ、規制の範囲も漠然とし、不明確です。それゆえ、本法に基づいて、捜査機関が国旗損壊等の行為を立件するようなことは許されませんし、また、本法の合憲性を問う訴訟が起こされた場合には、本法は、裁判所により当然に違憲と判断されなければならないものと考えられます。
民主主義は、異なる考え方をもつ人々が、互いの存在を承認しあうことによってはじめて成り立つものです。しかし、本法は、特定の見解をもつ人々の表現行為を、刑罰によって抑止しようとするものであり、自由民主主義の規範に照らして、極めて問題があると言わざるを得ません。
私たちは、憲法研究者として、自由民主主義の原理を深刻に傷つけるこの法律を傍観することはできません。私たちは、本法の速やかな廃止を求めます。
2026年8月4日