『私の愛する悪い男』R18
『私の愛する悪い男』R18
「とき、とうっ……」
たまらなくなって目の前に立つ、白タキシードの男に朝香(あさか)は抱きついた。片足を抱き抱えられて腰を揺さぶられ続け、ぐちゅぐちゅと卑猥な音が薄暗い非常階段に響く。
「はっ。人の花婿と式の直前に、こんなことをしてるなんていやらしい女だな」
見上げた先で、黒縁ハーフリムの眼鏡の奥と目があった。ニヤリ、と男――時任(ときとう)の右の口端が僅かに持ち上がる。
「と、時任だって花嫁放ってこんなこと」
「誘ったのはおまえの方だろ」
いつもは感情を見せないくせに、少しだけ切羽詰まった時任の声で朝香の身体の奥がぎゅっとしまった。
「そう、締め付ける、なっ」
「む、り……っ」
責め続けられる身体は悲鳴を上げている。
……なんでこんなことになってんだっけ。
考えようとするが、快楽に溺れるあたまはうまく回らない。
……時任と、こんな関係はもうやめようって。
「まだ無駄なこと考えてるのか」
「ああっ」
最奥まで穿たれたそれに、思考は一瞬で消し飛んでいく。
「とき、とう」
「ん?」
「愛してる……んっ」
さらに責め立てられ出そうになった大きな声は、時任の唇に抑えられた。立っていられなくなって、時任にきつく抱きつく。激しくなる責めに朝香は――。
――三ヶ月ほど前。
壁に貼られる棒グラフを朝香は睨んでいた。グラフは二本の柱が群を抜いて競り合っている。僅かに高い方の柱の下には朝香の名前が記されていた。もうひとつの柱の下には時任の文字。
「戻りました」
外回りから帰ってきた男が、グラフの隣に設置してあるホワイトボードの前に立つ。朝香はさりげなく三歩、男性社員に負けないように履いている七センチヒールをカツカツと音をさせ、彼の隣へスライド移動した。
「お疲れ」
「お疲れ」
朝香に視線を向けることもなくイレイザーを握り、男は時任と書かれた欄の外出予定を消していく。
「今月は私の勝ちだよね。もう明後日で今月終わるし」
嬉しくてつい、顔がにやけそうになる。朝香は声を弾ませていたが、男――時任はちらりと、グラフの先を眼鏡の奥から見ただけだった。
「明日、大口の契約予定」
「うそっ!?」
淡々とした声の割に驚きの事実を告げられ、思わず自分より少し高い位置にある時任の顔を見上げる。七三分けにされた短い黒髪は丁寧にセットされ、さらに黒縁ハーフリムの眼鏡がいかにも誠実な男という顔を作りだしていた。その割に時任は少しも朝香の方に視線を向けないが。
「信じられない! 月末に大口契約とか!」
朝香が非難の声を上げ、席に向かおうとしていた時任はくるりと振り返った。
「信じられないもなにも、スケジュール的にそうなっただけ。なんか文句ある?」
「……ない」
やっとあった視線は切れてしまいそうなほど冷ややかで、ピシッと背筋が凍りつく。しゅんとうなだれてしまった朝香を無視して、時任は今度こそ自分の席に着いてパソコンを立ち上げた。
……今月こそ、勝てると思ったのに。
期待が大きかっただけに、朝香の落胆は深い。がっくりと大きく肩を落としたまま、島を回って自分の席に着く。パソコンのスリープを解除しながら、まだどうにか売り上げを伸ばせないか考えた。
「ねえ」
「なに?」
向かい合う机の時任はパソコンの画面に視線を向けたまま、ほぼ惰性で返事をしてくる。
「明日の契約予定って、どこ?」
「『クローバー洋菓子店』」
「嘘でしょ!?」
つい、キーを叩いていた朝香の手が止まる。クローバー洋菓子店はつい先日まで町の小さな老舗ケーキ屋だった。しかし経営が息子に移り、近隣の市町村に支店を展開しはじめる。ついに今度は百貨店進出が決まり、契約が取れれば大きなものになるだろうという話だった。
「でも、あの話って、社長が直々に行ってもダメだったって」
「ああ、ダメだったな」
朝香との話は続けるものの、時任の視線がパソコンの画面から外れることも、キーを打つ手が止まることもない。
「それを時任が?」
「ああ」
いったい、どんなマジックを使ったのだろう。気になるところだが、訊いたところで時任が話してくれるとは思えない。
「信じられない」
「信じられないもなにも、事実だからな。まあ、明日にならないとどっちに転ぶかはわからないが。せいぜい、失敗するように祈ればいいんじゃないか」
社長でもダメだった契約が取れそうだというのに、時任はまるで明日の天気の話でもするかのように話している。そういう神経が入社以来の長い付き合いだというのに、朝香にはいまだに理解できないでいた。
「まあ、祈っておくよ……」
はぁーっ、と朝香の口から落ちる重いため息の理由に時任が気づく様子はない。
……今頃、時任は契約中なのかなー。
渋滞にはまって動かない車の中、ふと見た時計は時任のクローバー洋菓子店訪問予定時間を過ぎている。
……それに比べて私はさー。
朝一で受けた電話はクレームだった。しかも、その社員食堂に昨日納入されたタマネギが切ってみたら腐っていたから、すぐに交換してほしいというもの。夕方の納品にその分を乗せると提案してみたが、とにかくすぐに交換しろの一点張り。お客の要望に応えないわけにはいかないので、タマネギ一個のために一時間もかけて交換に行くはめになった。
……外から見りゃわかるだろって、スーパーで買ったのだって切ってみたら腐っていたって、よくあることじゃん。
ねちねちと嫌みを言い続ける社食責任者の男を思い出してぶるりと身震いする。小太りで脂ぎった男はねっとりと朝香の身体に視線を絡ませてきたし、ソファーに座る朝香の膝上にあるタイトスカートの奥を凝視していた。それに見送るとわざわざエレベーターに一緒に乗ってきて後ろに立ち、あまつさえアップにしてあるうなじに鼻息を……。
「……あそこの契約、切りたい」
セクハラまがいの行為を受けたのは一度や二度ではない。今日だってわざわざ朝香が足を運ぶ必要なんてなかったのだ。それをあの男はいちいち呼びつける。
「ほんと今日、最悪」
やっと渋滞を抜けたかと思ったらぽつぽつと雨が降りだし、朝香は気分を振り払うようにワイパーを動かした。
戻った会社では遠くからでもすぐにわかる、社長の声が響いていた。
「いやー、ほんとによくやったな! さすが我が息子!」
「……」
ばんばんと背中を力強く叩く社長に対し、叩かれている時任は表情を全く変えずにくいっと眼鏡のブリッジを中指で押し上げただけだった。
「おっと、息子はまだ早かったかな? 婿殿?」
「いえ」
相変わらず時任の顔からは感情が読めない。ただ社長がわざわざ営業部のフロアに来てあれだけ喜んでいるということは、今日の契約はうまくいったのだろう。
「やはり俺の目に狂いはなかった。これで安心して会社を任せられる。おっと、まだまだ俺は引退しないがな!」
「……」
がはははと豪快に笑う社長に時任は返事をせずにまた、眼鏡をくいっと上げた。
「これからもよろしく頼むよ、婿殿」
「はい」
社長の前だというのにどこまでもポーカーフェイスな時任もどうかと思うし、それを全く気にしていない社長もある意味おかしい。
「じゃあ、皆も頑張ってくれたまえ」
社長を乗せたエレベーターのドアが閉まり、一気にフロアが静かになった。なんだか急に気が抜けて、ホワイトボードの前に立って外出予定を消す。
「お疲れ。俺のもついでに消しといて」
「はいはい」
後ろから匂ってきた甘い香りと降ってきた声に振り返ることなく、ひとつ上の欄にある時任の予定も消した。
「うまくいったみたいじゃん。よかったね」
「おまえの祈りが足りなかったおかげだな」
「なにそれ」
なぜかくすくすと笑い声が漏れる。おかげでセクハラオヤジのせいでどんよりと重かった心が少し、晴れた。
席に着いて無言でパソコンを立ち上げ、報告書を書く準備をする。キーボードに指をのせようとしたところで、すっと視界の隅になにかが滑ってきた。
「契約のお礼で大量に菓子を買ったんだ。皆に配ってるからおまえも」
椅子を回して振り返ったら時任が立っていた。朝香と目があってくいっと眼鏡を押し上げる。
「どうせ今日、午前の埋め合わせで残業だろ。腹の足しにでもしてくれ」
「なんかひどっ。でも、もらっとく。ありがと」
時任としては全く朝香を慰めてはいないのだろうが、いつも通り時任は言いたい放題で、機嫌は完全に直っていた。――しかし、結局、時任に今月の売り上げも勝てなかったという事実にはムカつくが。
……以下、続く。