『定食、皿洗い、ときにキス』【BL】
『定食、皿洗い、ときにキス』【BL】
「えっと。では、解約したい、と」
お客に呼び出されて家に行けば最悪の要件で、心の中でため息をついた。
「ちょっと! 睨まないでもらえます!? こんな詐欺まがいの商品、勧めてきたオタクが悪いんでしょ! 警察呼びますよ!」
「……申し訳、ございません」
お客である年配の女性がヒステリックに声を上げ、口から出そうになったため息をどうにか飲み込んだ。睨むなって別に俺は睨んでいない。が、三白眼で生まれつき目つきが悪いせいで、よくそういう誤解を受けた。しかも最近は疲労でクマが酷く、さらに人相を悪くしているので仕方ない。
「この度は誠に、申し訳ございませんでした」
出ていく俺をお客は憎々しげに睨んでいた。あの様子だと俺がいなくなった途端、塩でも撒かれているかもしれない。まだ開封すらされていない、回収した空気清浄機を抱えて近くの駐車場まで戻る。積み込んだ車の中には今日のノルマである五台が鎮座していた。
「……減るどころか、増えたし」
口から乾いた笑いが落ちていく。俺の勤める会社では空気清浄機のリースをやっている。空間除菌100%を謳っているがその実、空気がなんとなく綺麗になる程度の性能しかない。そんなものをどうお客に勧めていいかわからない、俺の営業成績は地を這っていた。
「……いっそこのまま、海にでも突っ込むか」
冗談めかして言い、ドアを閉めて車を出す。契約が取れないうえに遅くなると怒鳴られる。うちの会社はブラック企業のくせに残業厳禁で、そういうところでホワイト企業面をしていた。
「伊藤(いとう)! 一台も契約が取れないどころか解約までされて、よく戻ってこれたな!」
報告を聞き、胸ぐらを掴まないのが不思議な勢いで上司が怒鳴る。
「……申し訳、ありません」
頭を下げ、小さくなった。戻れば地獄、戻らなくても地獄。なら、どうすればいいんだ?
「そんな辛気くせぇ顔してるから、一台も契約が取れねぇんだ! 損害分、お前の給料から引いとくからな!」
「……申し訳、ありません」
心を殺し、ただ頭を下げ続けた。そうしないと耐えられない。
「また課長に怒鳴られたのかよ」
慰めるように肩を叩きながら、同僚は俺を見下してにやにやと笑っている。営業成績トップの彼はなにかと俺に絡んできた。
「正直になんでも話さないで、お客に聞かれたことだけ答えてればいいんだよ。こっちは嘘なんて言ってない、お客が聞かなかっただけだ」
彼は豪快に笑っているが、そういう詐欺まがいの行為で営業成績を作っているのだろう。けれど俺にはそれが無理だったし、俺と似たような考えのヤツは入ってきても次々とすぐに辞めていく。俺も辞めればいいのはわかっていたが、あの上司にその意志を伝える術を持たない。
事務処理を済ませ、会社を出る。電車の窓ガラスに映るのは背中を丸め、暗い顔をした自分だった。確かに上司の言うとおり、こんな顔では契約なんて取れないかもしれない。
「……腹、減ったな」
駅を出て、とぼとぼと家に向かいながら腹が鳴る。今日も昼は食べられなかった。もっとも、買う金もない。給料日まであと五日、どうにかやり過ごさなければ。
そのうち、商店街にさしかかった。小さいながらも活気があり、今のアパートに居を決めたときはいいなと思った。が、この状況では凶器となって襲いかかってくる。避けたいけれどアパートまでは商店街を抜けるのが最短ルートで、疲れ切っている俺に遠回りをする気力はなかった。
「……はぁっ」
聞くものまでも憂鬱にさせそうなため息をつき、意を決して商店街へと足を踏み入れる。入り口はたい焼き屋。美味しそうなほかほかのたい焼きが俺を誘っているが、ビジネスリュックの肩紐を堅く掴み、目をあわせないように俯いて足早にその前を通り過ぎる。その次はたこ焼き屋の店頭からソースのにおいが襲ってきたが、無視、無視。息継ぐ暇もなく、今度は肉屋の店頭から暴力的な揚げ物のにおいが漂ってくる。もうこの辺りで俺のライフゲージはゼロに近くなっていた。その後もケーキ屋にうどん屋とやり過ごし、どうにか出口まで来てほっとしたものの。
「うっ」
美味しそうなカレーのにおいがして、足が止まる。その角にはいい感じにレトロな喫茶店が佇んでいた。最悪最強の敵、だ。
「いや、ダメ。ダメだ」
ふらふらと引き寄せられそうになる足を叱咤する。財布の中には数枚の硬貨しか入っていなかった。肉屋でコロッケすら買えないのに、食事などできようはずがない。なのに足は貼り付けられたかのようにそこから一歩も動かなかった。
「……きっとにゃん払い、使えるよな?」
そうやって近い未来の自分に前借りするのは嫌だが、そうでもしなければ家に帰り着けそうにない。
そーっとドアを押すと、からんと古風なドアベルの音がした。ここに越してきて一年が過ぎようとしていたが、店に入るのはこれが初めてだ。
「いらっしゃい」
カウンターの中にいた店主が、にこやかに挨拶をしてくれる。ワイシャツに蝶ネクタイ、黒エプロンはいかにも喫茶店の主っぽい。白髪交じりの長めの髪にべっ甲調の眼鏡をかける彼は柔和な印象を与え、なんとなくほっとした。
「ひとり? カウンター、どうぞ」
彼が視線で指したカウンターの席に腰を下ろす。よく磨き込まれたカウンターは、艶やかな飴色をしていた。
「メニューどうぞ」
「……ありがとう、ございます」
ぼそりと呟き、目をあわせないように受け取る。手作り感満載のメニューを捲ってカレーの金額を確認した。
「うっ」
しかし店主拘りらしく、それには千二百円の値がついている。未来の自分に前借りは決めたが、それでも千円超えは避けたい。泣く泣く、一番安いナポリタンに決める。
「……注文、いいですか」
「ちょっと待ってねー」
軽い調子で言い、店主が手にしたのはカツカレーの皿だった。本当に美味しそうなそれは、俺の目の前を通り過ぎ奥の席にいた客の前に置かれる。
「おまちどお」
「きたきた。やっぱりここに来たら、カツカレーを食べないとね」
ほくほく顔で年配の男がスプーンを握り、大口を開けてカツごとカレーを食べる。それを見て喉がごくりと音を立てた。
「おまたせ。えっと、注文だっけ」
「ああ、はい」
店主が俺の前に立ち、曖昧に笑ってまたメニューに視線を落とす。千円超えは痛い。痛い、が。
「……カツカレー、お願いします」
メニューを閉じ、店主へと差し出す。
「カツカレー、ね。ちょっと待ってねー」
受け取った店主は用意を始めた。
……やってしまった。
カレーよりもさらに高い、カツカレーを頼んでしまった。いや、でも、ナポリタンを食べたところできっと満足できず、明日も寄っていただろうし。だとしたら出費が一回で済んでよかったと思おう。
「おまたせ」
少しして、俺の目の前にもカツカレーが置かれる。ゆで玉子が添えられ、分厚いカツののったそれは美味しそうだ。スプーンでカツを半分に切ってそれごと掬いひとくち、口に入れる。ひさしぶりのまともな食事、しかも肉となれば感動で声が出そうになったが押しとどめた。極度の空腹状態だったのもあるだろうが、とにかくうまい。無心でガツガツと食べ進めた。
満腹状態になり、満足してスプーンを皿に置く。金がなくても無理して食事をして正解だった。これで明日から、少しは頑張れそうだ。
会計でレジの前に立って不安になった。よくある、【○○Pay使えます】のシールや札がない。
「千六百円になります」
「えっと。……にゃん払いは使えますか?」
使えると言ってくれ、そう願いながらおそるおそる尋ねてみる。
「すみません、うちは現金のみなんですよ」
……以下、続く。