『担当の営業社員は傲慢でした』

「あんたの補佐なんて辞めてやるー!」

営業成績トップの鶴沢は、超多忙。当然、その補佐についている悠華も。残業、休日出勤当たり前。デートする時間すらとれず、とうとう彼氏に振られる始末。怒りを爆発させて補佐を外して欲しいと詰め寄った悠華に鶴沢は。

「別れたんならデートする暇もないほど忙しくさせとく必要もないだろ。これからはガンガンいかせてもらうからな、覚悟しとけよ?」

それってどういうことですかー!? 強引迫られ溺愛オフィスラブ!? 

A5 2段組 128P

プロローグ カメは遅いと決まっている


「おい、亀ヶ谷(かめがや)。頼んどいた資料、まだできないのか?」

 頭上から怒気を孕んだ声が降ってきて、びくんと身体が震えた。

「……はい。あとちょっと、です……」

 おそるおそる、声をかけてきた少し年上の男性社員を見上げる。彼はあきらかにイラついていて、さらに身体が小さく縮こまった。

「いつまでかかるんだよ。お前みたいなのろまが補佐だなんて、俺は全くついてないよな」

 はっ、と吐き捨てるように男性社員が笑う。じわじわと浮いてくる涙を見せたくなくて、俯いたままきつく唇を噛み締めた。

「とにかく、さっさとしてくれ。あと、お前が残業ばかりしてるとこっちの人事考課にも響いてくるんだ。名前のとおり亀みたいに遅いの、どうにかしてくれ」

「……はい」

 彼がわざとらしく忙しそうに足音を立てて去っていき、姿が見えなくなってはぁーっと大きなため息をついた。

 私は仕事が遅い。課長にもさりげなく、何度か注意された。――でも。

「あ、このデータの数字、古くない? もっと新しいのがあるはず……」

 パソコンを操作して、該当のデータを探す。そう、これが私の仕事が遅い理由。もらったデータで言われたとおりに資料を作ればいいだけだってわかっているのだけれど、ついつい完璧さを求めてしまう。

「うっ、また無駄な時間を使ってしまった……」

 どうしても手が抜けない自分が憎い。昔から時間をかけてでも何事も最高に仕上げようとして、まわりから笑われた。いつもいつも真剣にやる必要なんてない、普段は適当でいいんだって。でもそれができないのが自分だっていうのもわかっている。

 ――キーンコーン……。

 気づけば、終業の鐘が鳴っていた。次第に、ひとり、ふたりと帰っていく。

「さっさと帰れって何度言ったらわかるんだよ」

 嫌味のように言って、私の担当男性社員も帰っていった。

 ――チロリロリン。

 不意に通知音が鳴り、携帯を手に取る。

【悠華(ゆうか)、今日も残業?】

 彼氏から心配しているキモかわうさぎのスタンプとともにNYAIN(ニャイン)でメッセージが入ってきていた。

【うん。でも、あと三十分くらい帰る】

 画面に指を走らせメッセージを送ると、すぐにポン、と頑張れと応援するうさぎのスタンプが送られてきた。

【じゃあ、悠華の家、行って待ってる。気をつけて帰ってこいよ】

【うん、ありがと】

 愛していると可愛いくまさんのスタンプを送れば会話は終了。気持ちを入れ直して猛然とキーを叩きはじめた。


「なあ亀ヶ谷、いつになったら資料はできるんだ?」

 今日も頭上から、怒気を孕んだ声が降ってくる。毎回毎回、私が少しかかると訊いてくるけれど、締め切りはいつかなんて一度も答えてくれたことはない。

「……あと少し、です……」

 びくびくと男性社員に答える。彼ははぁーっと信じられないとでもいうふうに息を吐き出した――途端。

「それ、いまから行く商談で使うんだよ! なのにできてないってどういうことだ!?」

 今度は滴も一緒になって降ってきた。完璧主義の私でも、仕事の締め切りは守らなければならないものだってわかっている。ちゃんと言ってくれたらそれに間に合わせた。でもきっと、彼に言ったって聞いてくれないだろうし、そもそも仕事が遅くて彼の想定外の時間をかけて資料を作っている私が悪いのだろう。

「す、すみませ……」

「人のせいにして怒鳴り散らしてりゃいいなんて、いい身分だな、おっさん?」

 突然、響いてきた声で課内の空気が凍りついた。

「な、なっ」

「亀ヶ谷に締め切り教えなかったのはおっさんだろうがよ」

 背が高く、嫌味なくらいイケメンの彼は、男性社員の前に立ってそのかけている眼鏡を大きな手で覆うようにくいっと上げた。

「じょ、常識的な時間ならもうできあがっているはずだから、言わなかっただけだ!」

「へー」

 彼は私が見ていた資料と、実際にできあがりつつある画面の資料を見比べている。

「ああ、こりゃ時間かかっても仕方ないな」

「なんだと!?」

 いかにも掴みかからんばかりに詰め寄った男性社員を、彼はしれっと避けた。

「だってこのデータ、去年と一昨年が混ざってるし? 亀ヶ谷はこれ全部、修正しながら資料作ってたんだろ?」

「……はい」

 いや、一目見ただけでそれがわかるって、こいつ……いや、営業部のエースの彼ならありうるけれど。

「なっ、そんなっ」

 男性社員は彼の手から資料をひったくって確認している。

「こ、今回はそうだったかもしれないが、こいつはいつも仕事が遅くて、俺に迷惑かけてばかりなんだ!」

 男性社員が逆ギレしても、彼は全く気にしていない。それどころか面白そうにニヤニヤ笑っている。

「じゃあおっさん、亀ヶ谷いらないんだ?」

「ああ、さっさと担当替えしてもらいたいね!」

「へー、じゃあ亀ヶ谷、俺にちょうだい?」

「へっ!?」

 急に彼から肩を叩かれ、思わぬ展開に変な声が出た。

「おっさんがいらないんなら俺がもらっていいだろ」

「の、熨斗つけてやるわ!」

「えっ、えっ?」

 私を挟んでこのふたりが、いったいなんの会話をしているのか理解できない。

「あとで返してくれって言っても知らないからな。……課長、そういうわけで俺の補佐に亀ヶ谷もらいまーす!」

 いいともなんとも言っていないのに、座っている椅子の背を掴んで彼から引き摺っていかれた。

「あの、その」

「お前は今日から俺のもんだからな。……とりあえず、仕事上だけだけど」

 振り返った彼の、右の口端がニヤリと上がる。

 ――これが、社内一多忙男の鶴沢翔一郎(つるざわしょういちろう)の補佐に、私がなった瞬間でした。



第一章 ブラック勤務


 壁に掛かる時計をちらり。定時の六時まであと五分。そわそわと周りを少しずつ片付けはじめる。いつもはあっという間に過ぎてしまうのに、今日はたった五分がなかなか進まない。けれど私は鼻歌でも出そうなくらい上機嫌だ。なんといっても今日は、あいつがいない。命じられた仕事も終わらせた。今日こそは定時で帰れるはず。さらにそれを見越して、彼氏の武(たけし)とデートの約束をしている。あと三分、二分、一分……。

 ――ポン。

 六時になったと同時にシャットダウンをクリックしようとしたら、まるで見ていたかのようなタイミングでメールの到着と告げるポップアップが上がった。思わず、マウスを持つ手がぎくりと止まる。

 ……これは、気づかなかったことにしてもいいですかね……?

 マウスを握る手が、じっとりと汗を掻いてくる。そろりそろりと矢印を再びシャットダウンに持っていこうとした途端。

 ――チロリロリン。

 机の上に置いてある、携帯が通知音を立てた。

「……はぁーっ」

 がっくりとあたまが落ちる。携帯を確認したら、あいつからNYAINが入っていた。

【急ぎの発注書送ったから、今日中に発注かけて。朝一で発送してもらうように打ち合わせ済み】

【データの方はそれで、早急に資料作って。明日朝一の商談に使う】

「……はぁぁぁぁぁぁーっ」

 地の底にまで響きそうなため息が落ちる。これは、既読無視にしてもいいですか。いいですよね。……って、できたらいいのに。

 仕方なく、武とのトーク画面を開く。

【残業、入った。ごめん】

 ちょうど武も見ていたのか、すぐに既読になった。一拍おいてポン、とメッセージが上がる。

【残業? はいはい、わかった】

【ごめん、この埋め合わせは必ずするから】

 今度は既読になったものの、いくら待っても新しいメッセージは送られてこない。はぁーっとまた陰気なため息をつき、お気に入りの三毛猫スタンドに携帯を戻す。

「泊まりで出張の今日くらい、早く帰らせてよ。しかも、終業間際に送ってこなくったって……」

 メールを開き、送られてきたデータを確認する。軽く、二、三時間はかかりそうだ。

「武だってさ……」

 前は残業でデートがキャンセルになったときは怒っていた。そりゃ仕事なんだからそんなに怒んなくたって、なんて思っていたのも事実。でもそれだけ怒るってことは武も楽しみにしていてくれたってことだよね? それが怒らなくなったってことは……私に、関心がなくなったから?

 あたまを振って考えを追い出す。そんなことはあるはずがない。きっと、考えすぎ、だ。

 うだうだやっていたって仕事が終わるわけでもない。パン、と思いっきり頬を叩き、私は猛然とキーを打ちはじめた。


 あいつ、鶴沢翔一郎はその名の通り目出度い奴だ。なんていったって、鶴が飛翔するんだから。名前効果なのか、奴が取りに行った契約は百発百中で結ばれたし、奴が同行してそこにいるだけで契約が取れるとかいう噂もある。……まあさすがにそれは、都市伝説だろうけど。

 そんな彼の補佐に付いたのが私、亀ヶ谷悠華だ。奴の補佐に付いたとき、鶴亀とめでたいコンビだって社内報にまで載せられた。全くもって意味がわからない。けれどそれから奴がさらに躍進したとなれば……名前効果だって噂されるのも仕方ないかもしれない。

 そんな具合なので、あいつの仕事は殺人的に忙しい。ということは補佐に付いている私の仕事も忙しいわけで。当初は私の他にもうひとり、補佐を付けるって話だったが、いつの間にか立ち消えになっていた。残業休日出勤当たり前、何度終電逃して会社に泊まったことだろう。おかげで、部内の会議室の一角には、私の巣ができあがっている。会社自体はブラックではないが、私の勤務体勢は完全にブラック。もうそろそろ、限界が近い。


「おわっ、たー」

 背伸びをすると、身体がバキバキと鳴った。それほどまでに集中してやっていたから。時計はすでに九時を回っている。残っている人など誰もいない部内、私の上だけ心細げに蛍光灯が点いていた。

 データを添付したメールを送信し、携帯を手に取る。

【『四つ葉』さん依頼分、間違いなく発注書を送りました。資料も作成終わりました。私はもう帰りますので、訂正がありましたらご自分でお願いします】

 既読がつくかなんて確認しないで画面を閉じる。またなにか言われる前に速攻でパソコンを落とした。

「お疲れ様でした、と」

 ぱちんと電気を切れば真っ暗になる。非常灯の明かりを頼りにエレベーターに乗った。

「お疲れ様でしたー」

 すっかり顔馴染みになってしまった警備員のおじさんに声をかける。

「今日は早いね」

「ええ、まあ」

 この時間で早いってなんだ、とは思うけど、いつもを思えば確かに早い。

「気をつけて帰んなよ」

「はーい」

 暗い気持ちを振り切るように、勢いよく歩く。今日の晩ごはんはなんにしよう? もう面倒だからコンビニ弁当でいいか。そうだ、デザートも買っちゃおう。

 どうにか座れた電車の中で携帯を確認する。

【発注、サンキュ。資料も助かった】

「はぁっ」

 届いていたメッセージは待っていたものではなかった。既読無視して画面を閉じる。

 ……やっぱり、もうどうでもいいのかな。

 前はこんなとき、武から気遣うものが入っていた。でもいまはなにもない。それでなくても楽しみにしていたデートはドタキャン、そのうえこんな時間まで残業で気が重いのに、さらにずっしりと重くなっていく。

 駅を出て鉛のように重い足を引きずって帰る。コンビニには寄ったがどうでもよくなって、カップ麺だけ買った。見上げたアパートの、自分の部屋には当然、電気など点いていなくて暗い。

「ただいま……」

 ぱちっと電気の点いた部屋の中は、妙に白々しかった。

「疲れた……」

 荷物をそこらに放り出し、ベッドにごろんと寝転ぶ。以前は武が来て、待っていてくれたりした。武にぎゅーっと抱きしめられるだけで、疲れも吹っ飛んだものだ。けれどいまは、そんなことはない。そこかしこに置かれていた彼の荷物も、いつの間にかほとんどなくなっていた。

「お風呂、入ろう……」

 ふらふらと浴室に行き、お湯を張る。今日は、というか今日もお気に入りの、カモミールのミルクバスにしよう。

 浴槽の中で膝を抱え、丸くなる。

「……もう、辞めよっかな……」

 ぽつりと呟いた声が、浴室の中に響く。

 最初の頃こそやりがいを感じていたが、それは次第に苦痛になっていった。片付けても片付けても、次々にやってくる仕事。冷たい、彼氏。横暴な、あいつ。だいたい今日だって、ひと月ぶりぐらいのデートだったのだ。なのに中止になったうえに、武の反応はあれ。

「……なんで、こんなことになってんだろう……」

 水面にぽつぽつと滴が落ちてくる。……涙? ううん、これは濡れた髪から落ちる滴だ。


 翌朝、出社と同時に課長に詰め寄った。

「鶴沢さんの補佐、外してください!」

 もうすぐ四十代、最近の悩みはメタボの入りはじめたお腹と中学生の娘に近頃できた彼氏、という田辺(たなべ)課長は、私の剣幕に目を白黒させている。

「え、えーっと……」

「だから。鶴沢さんの補佐、いますぐ外してください!」

「え、えーっと、ね……?」

 どうどうとまるで私を宥めるかのように田辺課長は両手を出し、視線を泳がせた。

「その、鶴沢君のいないところでこんな話をするのもどうかと思うし……」

「もう! 限界! なん! です!」

 私の大きな声に視線が集中する。けれど私と田辺課長が言い争っている……というか、一方的に私が捲したてていると知ると、「ああ、またか」という顔ですぐに各自、仕事の準備に戻っていった。それほどまでにもう、これはいつもの光景になっているのだ。

「あー、あれだよね? 亀ヶ谷さん、疲れているんだよね? 先週も休日出勤していたし、前に休み取れたのっていつだっけ? よし、今日は僕の権限でお休みあげるよ。ほら、今日休んで、明日明後日土日で三連休。ね、欲しいでしょ、三連休」

「そういう話じゃなくて……!」

「そうと決まれば善は急げ。はい、さっさと帰ろーねー」

 いいともなんとも言っていないのに、席を立った田辺課長は私の肩を掴み、強引に回れ右をさせた。そのままぐいぐいと肩を押して部屋の外にまで連れ出し、エレベーターのボタンまで押してしまった。

「鶴沢君には僕からよーく言っておくから、気にしないでゆっくり三日間、休んで。ね?」

 まもなくエレベーターが到着し、中に押し込まれる。

「じゃあ、ゆっくり休んでねー」

 満面の笑顔で手を振る田辺課長を最後に、ドアが閉まった。

 ……はぁーっ。またやられた。

 毎回毎回、そうなのだ。この話題になると田辺課長はあの手この手でのらりくらりとかわし、誤魔化してしまう。本当に食えない狸で、私はちょっと苦手だったりする、田辺課長が。

 それにしても。そんなに私があいつの補佐を外れることに支障があるんだろうか。いや、社内には私より優秀な人間はたくさんいる。鶴亀と縁起のいいコンビに固執しているなら、異常としかいいようがない。

「これから、どーしよーかなー」

 ぎりぎりに起きて朝食を取っていなかったから、近くのカフェに入る。こんな時間にカフェオレにサンドイッチ、ヨーグルトの朝食は優雅だ。

「……そだ」

 いそいそとバッグから携帯を出し、画面に指を走らせる。

【今日、休み取れた。仕事終わってから会えないかな。昨日のデートのやり直し】

 スモークサーモンのサンドイッチを頬張りながら、返事を待つ。少ししてチロリロリンと通知音が鳴り、慌てて携帯を手に取った。

【三連休なんていいご身分だな。それとも土日休日出勤決定の、前倒し休みか? まあいい、昨日の時間に昨日のところ】

「ひさしぶりの三連休だっていうの」

 ちょっとだけ唇を尖らせて、携帯にツッコむ。普段なら腹が立つところだが、会えるってだけで上機嫌になっている自分がいる。

「んで、いまからどうしよう?」

 ふと目に入ってきたのはネイルもぼろぼろの指先。前にサロンに行ったのなんてかなり前だ。

「いまから予約取れるかなー? できたらエステと美容院も行きたいよねー。って、無理して今日行かなくても明日も明後日も休みだし!」

 ネイルサロンに予約を入れたら、平日の朝だからか意外とあっさり取れた。ダメ元でかけてみた、エステも。

「今日はついてる、かも!」

 これが私をあいつから外さないための休みだってことは、いつの間にか忘れていた。



……以下、続く。