『清貧秘書はガラスの靴をぶん投げる』
『清貧秘書はガラスの靴をぶん投げる』
「お前。俺の婚約者になれ」
会社ではどこぞのご令嬢などと噂され、憧れの的の清子は実は……大家族のド貧乏!しかもそれが、秘書をしている社長の彪夏に知られ、バラされたくなければ婚約者のフリをしろと脅されて……。清子はいつまで貧乏を隠し通せるのか!?
文庫(A6) 320P
「清子(さやこ)。明日のゴルフ、キャンセルお願いできるか」
「はい、承知いたしました」
二歩前を歩く御子神(みこがみ)社長に返事をし、頭の中に言われたことを書き留める。
「御子神社長と河守(かわもり)さんよ」
「河守さん、今日もお美しい」
社内を私たちふたりが歩けば、視線を集めた。まあそれも、仕方ないと思う。少し前にある御子神社長の顔をちらり。軽くパーマをかけてラフに掻き上げたビジネスショート。細面な顔には切れ長な目がよくあっている。さらに黒メタルの縁なし眼鏡がその顔面偏差値を爆上がりさせていた。しかもスーツが彼のために作られたものかのように似合っている。細身ではあるが、ほどよく筋肉のついたしなやかな身体なのは知っていた。そんな彼が、女子スタッフの憧れの的なのは当たり前だろう。
一方の私はといえば、長い茶髪を僅かに甘さを感じさせるお団子にし、薄いピンクのスーツ姿。メイクは薄く、ナチュラルに見えるように。他人からは。
「河守さん、どこかのご令嬢って噂、本当なのかな?」
「もう、御子神社長と河守さんってお似合いのふたりよね」
……などと見られ、噂されていた。
「それから。……少し、顔色が悪いぞ。調子が悪いんじゃないか」
急に足を止めた社長が、振り返って私の顔をのぞき込む。そのかけている眼鏡の向こうを、ついまじまじと見ていた。
「いたって通常どおりですが」
とか答えつつも、昨晩はとある事情で少々寝不足だった。誰にも悟られていないのに、御子神社長は気づくなんて。
「なら、いいが。清子に倒れられると困るからな。無理をするなよ」
彼が指先で軽く私の額を弾いた瞬間、周囲から小さな悲鳴が上がった。僅かに痛む額を少しだけ押さえ、再び歩きだした彼を追う。
……ああいうのがいいんだ。
悲鳴の意味はわかっていたが、これがそれほどまでのこととは私にはまったく理解できなかった。
私、河守清子はLCC航空会社、『チェリーエアライン』で社長付の秘書をしている。上司であり社長の御子神彪夏(ひゅうが)さんは、親会社である『桜花(おうか)ホールディングス』社長の息子だったりする。ちなみに桜花ホールディングスとは、国内第二位の『桜花航空』を中心とした企業グループだ。
今日は訪問先から直帰だった。
「どこかで食事して帰るか」
普通は秘書か、お抱えの運転手が運転するところなんだろうが、御子神社長は大抵自分で運転する。運転自体が好きなんだそうだ。
「よろしいんですか」
「ああ。清子はちゃんと食事してるのか心配になるほど細いからな。いっぱい食べさせて太らせないといけない」
意味深に私側の目を社長がつぶってみせる。それにドキドキしたかといえば、食費が浮いて助かるなくらいしか考えていなかった。
御子神社長が連れてきてくれたのは、天ぷら屋だった。正直にいえばパンのお持ち帰りができるフレンチがいいが、奢ってもらうんだから文句は言わない。
サクサク揚げたて天ぷらをつまみに、日本酒を飲む。
「うまいか?」
「はい、美味しいです」
眼鏡の向こうでうっとりと目を細め、さらにお猪口へ社長がお酒を注いでくれる。
「そうか。ならよかった」
ふふっと嬉しそうに小さく笑い、御子神社長が天ぷらを口に運ぶ。先程からまるで恋人同士のような感じだが、私たちは断じてそんな関係ではない。あくまでも社長と秘書、なのだ。それ以上の感情なんてまったく、ない。きっと私と同じく御子神社長も、周囲の期待に応えてそういうふうに振る舞うのが楽しいだけなんだと思う。
「おい、大丈夫か?」
「あ、……すみません」
いつもと同じくらいしか飲んでいないはずなのに、店を出る頃には足下がふらついていた。寝不足に日本酒がまずかったのかもしれない。
「送っていく」
「……いえ、ご心配はご無用ですので……。タクシーに乗せてもらえれば……ひとりで帰れます……から……」
とか言いつつも、頭がふわふわして意識が飛びそうになる。
「そんな状態なのにひとりでタクシーとか乗せられるわけないだろ。送るから……って、おい!」
ふらりとよろけた私を御子神社長が支えてくれる。ぽすっと額が彼の胸につき、セクシーだけれどどこか甘い香りに包まれた。そこで記憶が途絶えている。
目が覚めたら知らない部屋だった。しかも私は下着姿で、隣には御子神社長が眠っている。
……これはヤってしまったってヤツですか?
しかし、いくら考えても記憶がまったくない。あれって、……わからないものなんだろうか。けれど、経験のない私がいくら考えようと、わかるわけがないのだ。
悩むだけ無駄なのでそろりとベッドを出て、服を探す。それはきちんとハンガーに通し、近くの扉にかけてあった。そういうのはやはり、育ちなんだろうか。手早く着替え、社長を起こさないように寝室を出た。リビングは何度か来た見覚えのある場所で、やはりここは御子神社長のマンションらしい。ソファーの上に置いてあったバッグを掴み、部屋を出る。あとのことは今考えない。今日明日は休日だし、二日休みを挟めば忘れてくれる……とかはないか。
最寄り駅から十五分歩き、二階建ての古いアパートが見えてくる。その一階の角部屋が私の住んでいる部屋だ。――そう。会社ではご令嬢などと噂されている私だが、実は〝超〟がつく貧乏。会社でのあれは周囲の期待に応えて、そう演じているだけなのだ。
「えっ、あっ、あれ? 鍵が、ない」
部屋の前で鞄の中を探るがいくら探しても鍵が見つからない。どこかで落とした?どうしよう。
「清(さや)ねぇ、朝帰りかよ」
焦っていたら中からドアが開いた。顔を出した一番上の弟、健太(けんた)が呆れ気味にため息を落とす。健太には……というか、実家には合い鍵を渡してある。
「あっ、えっと、ほら、姉ちゃんだって一応、大人だしぃ?」
言い訳をしながら、十も年下の弟相手に語尾が不自然に裏返る。
「まあ、いいけどよ。それにそのほうが返って安心するし」
二十五にもなって、高校生の弟から朝帰りを咎められるどころか安心されるって、私ってどういう姉なんだ?
部屋の中では一番下の妹がすやすやと眠っており、横ではその上の弟が絵を描いていた。
「悪いけど清ねぇ、望(のぞみ)と美妃(みき)、預かっててくれない? 母さん、風邪気味みたいだから休ませたいし」
「了解」
健太がインスタントコーヒーを入れて渡してくれる。本当によくできた弟だ。義母の真由(まゆ)さんは身体があまり強くなく、季節の変わり目などはよく体調を崩していた。ここ二、三日、急に温かくなったし、身体がついていっていないのだろう。そういえば一昨日、少し咳をしていた。
「健太はどうするの?」
流しに寄りかかり、渡されたコーヒーを飲む。
「俺は学校行って作業してくる」
ちらっと健太が視線を向けた先には、大きな袋が置いてあった。
「いつもすまないねぇ」
「それは言わない約束だろ」
ふざけたら、笑いながらバンバン健太が背中を叩いてくる。健太の特技は服作りで、いつも安く古着を仕入れては私たちに服を作ってくれた。ちなみにこのスーツも健太が古着を改造してくれたものだ。
「巧(たくみ)と真(まこと)は?」
巧は健太の下の弟。真はさらにその下の弟だ。
「巧は図書館で勉強するって。真は学童のあと、友達とサッカーするって張り切ってたな」
「なら、いいけど。……これでお昼、なんか食べな」
財布から千円札を引き抜き、健太へ渡す。けれどそれは、押し返された。
「清ねぇ、いつも言ってるだろ? 毎月入れてくれるお金だけで十分だって。清ねぇだってカツカツなの、わかってるんだからさ」
この春に高校生になったばかりの弟に気を遣わせてしまい、返す言葉がない。給料は最低限の生活費を残し、あとは実家の生活費と健太たちの将来への貯蓄へと回していた。
「……いいから、もらって。健太だってたまには、友達とハンバーガー食べたりしたいでしょ?」
それでも無理矢理、健太にお金を握らせる。実家が貧乏なのは父のせいだ。父の特技は行方不明になることで、ほとんど家に帰ってこない。当然、お金だって滅多に入れてくれなかった。それは私の母の生前からそうで、なのに真由さんとの結婚を阻止できなかった自分を、ずっと責めていた。
「清ねぇ……。わかった、もらっとく」
お金を受け取り、健太が笑ってくれてほっとした。
健太が出ていき、美妃の様子を見てから手早くシャワーを浴びた。私には母違いの五人の弟妹がいる。一番上がさっきの健太、高校生になったばかり。その下が巧で同じく高校一年生。同じ学年といっても双子ではなく、健太が四月生まれで巧が三月生まれだから。その下で真ん中が小学五年の真。さらにその下の望は五歳で、唯一の妹である美妃はまだ生後五ヶ月だ。
美妃の泣き声が聞こえてきて、慌てて浴室から出る。
「はいはい、ちょっと待ってねー」
適当に拭いて髪は濡れたまま、下着姿で傍に膝をつく。
「おむつかなー」
どうもそうみたいで、手早くおむつを替える。もう五人目となれば手慣れたものだ。
「ミルクもそろそろだよねー」
雑に髪を拭き、ようやく服を着る。健太がポットにお湯を入れておいてくれてよかった。本当によくできた弟だ。手早くミルクを作り、美妃に飲ませる。
「さやねぇちゃん」
「ん? どうしたの?」
ちょいちょいと服を引っ張られ、見たら望が立っていた。
「おなか、すいた」
「あー、そうだよねー」
言った途端に私のお腹が鳴る。朝食を食べないままもうお昼になろうとしていれば、そうなるだろう。
「ちょっと待ってねー。美妃にミルクあげたらなんか作るから」
「うん!」
元気いっぱい頷き、望は持ってきた車のおもちゃで遊びはじめた。あれも健太の代からのだから、そろそろ新しいのを買ってあげたいな。
最近は起きている美妃をひとりにしておくとなにかと危ないので、おんぶ紐で背負って昼食を作る。
「オムライスでいいー?」
「うん! さやねぇちゃんのオムライス、だーいすき!」
これくらいで喜んでくれるなんて、本当にお手軽で助かる。アンケートサイトの報酬入ったら、新しいおもちゃを買ってやろう。
冷蔵庫で材料を集め、切っていたらドアがノックされた。今、忙しいのに……と心の中で文句を言いつつ、玄関へと向かう。
「はい」
ドアを開けたところで固まった。相手も当然ながら固まっている。
……どうして、御子神社長がここに?
互いに状況が掴めないまま硬直した時間が過ぎていく。それを壊したのは、御子神社長だった。
「……子持ち、だったのか?」
いつも言われる、私にとっては地雷の台詞につい、プチッとキレた。
「誰が子持ちよー!」
私の右手が社長の頬にクリーンヒットし、バッチーン!と痛そうな音が辺りに響き渡る。
「……いてぇな」
社長がズレた眼鏡を直したのを見て、我に返った。赤子を背負っていれば、子持ちに間違われてもおかしくない。しかもそれくらいで社長に平手打ちを喰らわせてしまうなんて。
「あっ、す、すみません……!」
とりあえず、頭を下げて謝った。しかしこの状況、どう回収していいのかわからない。必死で頭を回していたら、頭上からため息が降ってきた。
「とりあえず部屋、入れてもらえるか? 視線が痛い」
「あっ、そう……ですね」
曖昧に笑い、社長を部屋へ上げる。私の叫び声で、他の部屋の人が出てきていた。
「ひとりじゃなかったのか」
望の顔を見て、御子神社長が驚いた声を上げる。
「だから。私の子供じゃないですって。弟と妹です」
「ふーん、こんな年の離れた弟妹がいたのか」
興味なさげに言い、テーブルを挟んで望の前に社長が座る。望は知らない人の登場で、怯えたように私の後ろに隠れた。
「さやねぇちゃん、このひと、だあれ?」
「んー、お姉ちゃんの会社の人」
望は人見知りが激しいのだ。なのに、社長を部屋に入れたのは失敗だったかも。
「はじめまして、ええっと……」
「望です」
「望くん」
にぱっと社長が笑いかけたが、望はますます私の後ろに隠れた。
「それで、どのようなご用件ですか」
袋に入れた氷とタオルを社長に渡し、早く用事を済ませてお引き取りいただきたいので、お茶も出さずに本題を切り出す。
「ああ。これ、忘れていっただろ?」
御子神社長がテーブルに置いたのは、うさぎのあみぐるみがついた鍵だった。それは健太が私のために作ってくれたもので、間違いなくこの部屋の鍵だ。
「ありがとう……ございます……」
そろりとそれを手もとに引き寄せる。御子神社長のマンションに忘れていっていたのか。大失態だ。
「さやねぇちゃん……」
そっと望に服を引っ張られて振り返る。そうだ、昼食を作っている途中だったのだ。お腹が空いているはず。
「ごめんね、望。すぐにごはん作るから待っててね」
「……うん」
頭を撫でてやったら、望は少しだけ笑ってくれた。のはいいが、さっきからおかまいなしに私の髪を引っ張って遊んでいる美妃は、どうにかならないかな?
「すみません、これから昼食なので用も済んだのなら……」
「まだ話は済んでないぞ?」
意地悪く、右の口端をつり上げて社長がニヤリと笑う。これ以上は突っ込ませずに帰ってもらおうと思ったのに、そうはいかないらしい。
「なんなら、弟妹も一緒に昼食を食べに行ってもいいが」
「あ、いえ。それはけっこうです」
いつもなら食費が浮くと大喜びで飛びつくところだが、この状況では遠慮したい。それに、五歳児と0歳児連れでワンオペ外食は大変だしね。
「先に弟にごはんを食べさせていいですか? 話はそれから」
「ああ、かまわない。俺のせいでこんな小さな子が腹ぺこで待たされるとか可哀想だからな」
両腕を組み、社長はうんうんと頷いている。そのあたりの常識のある方でよかった。
「ありがとうございます。望、これ観て待っててね」
テレビを操作し、録画してあった飛行場の裏側番組を再生した。
「うん」
頷いた望はすでに、食い入るように画面を見ている。望は飛行機、特に整備の番組が好きなのだ。集中しすぎてちょっとテレビに近いが……まあ、今はいいや。
……以下、続く。