『蜜婚遊戯~ファーストキスから溺愛されています~』
社内一の地味子、雪花は社内を歩いていたところ、社内一のモテ男である夏原から突然、キスされる。ファーストキスだったのに抗議したところ、夏原は責任を取るから結婚しようなどと言ってきて……。社内一のモテ男×社内一地味子のプレ結婚生活は上手くいくのか!?
A6(文庫)188Pカバー付き
序章 王子様に会った日
──王子様だと思った。
お昼休み、銀行に行こうと外に出た。
「あの、すみません」
「はい?」
声をかけられて振り返ると、困り顔のお婆ちゃんが立っている。
「ビレッジなんちゃら……いうホテルに行きたいんですが、ここはアラヤですよね?」
「ビレッジなんちゃら……」
……とは、まずなんだろうと考えた。ヒントはホテルとアラヤだ。少し考えて、新屋(あらや)にある『Bridge&Hawk(ブリツジアンドホーク)』ホテルだろうと見当がついた。しかしながらここは、新屋ではなく阿良谷(あらや)なのだ。読みが同じなうえにさほど離れていないため、間違える人がたまにいる。
「すみません、ここはアラヤはアラヤでも違うアラヤなんですよ」
「はぁ」
お婆ちゃんはちょっと、わけがわかっていなさそうだ。行きたいところはわかっているし、どうやって行き方を教えたらいいのか考えるが、地下鉄の乗り換えもあるし迷わないか心配だ。
「孫と待ち合わせをしているんですが、迷ってしまって」
「それは大変ですね」
タクシーが一番確実だけれど、どうなんだろう?
「よくできた孫で、自分が就職したホテルに招待してくれたんですよ」
「それはよかったですね」
よっぽど嬉しいのか、お婆ちゃんは話し続ける。これは絶対にそのホテルにお婆ちゃんを送り届けなければいけないが、どうやって?
「あの。タクシー、使いませんか?」
「タクシー、ですか?」
きょとんとした顔で彼女は私を見ているが、やはりここはホテルのある場所と信じているのだろう。
「はい。少し離れた場所にもうひとつのアラヤがあって、そこが行きたいホテルのある場所なんです。地下鉄だと乗り換えがありますし、タクシーが確実だと思うんですが」
「そうなんですか。いやー、助かりました」
「はい」
ようやくお婆ちゃんは納得してくれたので、一緒にタクシーを拾って運転手に目的地を告げる。
「なにからなにまですみません。ありがとう」
「いいえ」
手を振ってお婆ちゃんを見送る。ちゃんとお孫さんと会えるといいな。嬉しそうなお婆ちゃんを見ていたら、私も幸せな気持ちになったし。銀行は……また明日でいいか。会社に戻ろうと、足を踏み出した瞬間。
「危ないっ!」
甲高いブレーキ音と共に自転車が突進してくる。とっさのことで動けないでいたら、自転車が私に衝突した。
「いったー」
減速していたからか、倒れたときについた手以外に痛みはない。
「ちゃんと前を見ろよな」
舌打ちの音が聞こえて見上げるが、自転車はすでに走り去ったあとだった。
「……見えない」
きっと急に自転車の前に出た私が悪いのだろうからいいけれど、さっきから周りがぼんやりとしか見えない。どうも衝撃で、眼鏡を落としたらしい。
「眼鏡……」
探したいが、どこに行ったのかすら見当がつかない。
「大丈夫か?」
途方に暮れていたら、男性の声と共に至近距離に手が現れた。見上げてもはっきりとは見えないのだがそれでも私には、──王子様に見えた。
「立てるか?」
さらに声をかけられ、ぽけっと彼を見ていた自分に気づいた。
「あっ、はい!」
慌てて彼の手を借りて立ち上がる。
「あの、その辺に眼鏡、落ちてないですが」
「あるにはあるんだが……」
困惑声の彼が少し離れたあと、目の前に差し出されたのは見事に壊れた眼鏡だった。
「さっきの自転車が轢いていった」
「ああ……」
壊れてしまったものは仕方ないが、これは困った。とりあえず会社にまで戻れば同僚に助けを求められるけれど、その会社に帰り着ける気がしない。
「酷いよな、自分が止まってる車を避けて急に歩道に入ってきたのに、あんな」
「あ、えと。でも私も悪かったので……」
彼は怒っているが、もっと左右に気をつけてから足を踏み出せばよかったのだ。
「君は悪くないだろ」
「そう、ですか……?」
うーん、やっぱり私も悪かったと思うんだけどな。
「手、血が出てる」
どおりで、さっきから痛いと思っていた。彼が自分のハンカチを、私の手に巻いてくれる。……やっぱり、王子様だ。
「これからどうする? 警察行くなら証言する」
「あの、警察とかいいので。それよりお願いがあるんですが」
図々しい頼みだとは思う。それにいつもの私ならこんなことは言わないだろう。でも少しでいいから長く、この王子様といたかった。
「いいよ、言って」
「その。会社まで連れていってもらえませんか? 『FoS(フォス)』なんですけど……」
「なんだ君は、FoSの社員なのか。……わかった、連れていってやる」
彼が私の手を掴み、ゆっくりと歩きだす。男の人と手を繋ぐなんて大きくなってからは初めてで、ドキドキした。
三分程度で会社に着いた。
「部署まで送ろうか?」
「ここで大丈夫なので……」
彼のせっかくの申し出は断った。これ以上、迷惑をかけられない。それにここなら同僚が来るのも待てる。
「そうか。じゃあな」
「ありがとうございました」
去っていく彼の背中にあたまを下げた。外ではなくエレベーター方面に向かっていったし、同じFoSの社員だったのかな……?
電話をかけて同僚に事情を話したら、課長から眼鏡を作りに行く時間をもらってきてくれた。
「そのハンカチ、どうしたん?」
「あ……」
彼女から指摘され、手に巻かれたハンカチの存在を思い出した。返そうにもどこの誰だかわからない。このビルで働いている人間だけでもかなりの人数がいる。
「……王子様にもらいました」
「王子!? なんだそれ」
彼女は面白がっているが、彼は私の王子様だ。きっともう、二度と会えないだろうけれど。もし、また会えたなら、改めてお礼を言おう。
──後日。自転車で跳ねたお詫びだと、謝罪文と眼鏡代が送られてきたんだけれど……なんでかな?
第一章 結婚はファーストキスの相手と!?
……なんでこんなことになっているんだろう。
鏡に映る私はいつも以上に暗い顔をしていた。もし、私のいまの境遇を同じ会社の女性たちが知れば、我先に代わってくれと申し出てくるだろう。なんていったってあの、社内一のモテ男で有名な彼と食事なんだから。でも私は、ああいう人が苦手なのだ。地味な私は地味に目立たずひっそりと。それが、私の信条だ。なので、代われるものならふたつ返事で代わりたい。
……このまま帰っちゃったらダメかな?
そんなことができるなら終業時間になった時点で、速攻で逃亡している。できないからこそいま、ここにいるのだ。
「……早く戻らないと怪しまれるよね」
はぁーっとどこまでも憂鬱な群青色のため息をつき、化粧室を出る。──いまから、さらにまさかの展開が待っているなんて知らずに。
九月に入り、下半期に入って少したったその日、頼まれた会議室の片付けを終わらせて戻る途中、立ち話をしている男女に遭遇した。
「ねえ。付き合ってとまでは言わないから、食事くらい」
女性の方は秘書課の桐谷(きりたに)主任。モデル並みのスタイルで、社内では美人で有名だ。
「なぜ僕が、君と一緒に食事になど行かねばならん?」
男性の方は営業統括本部の夏原(なつはら)課長。こちらもモデル並みの高身長でイケメン、さらにはかけている細めの銀縁スクエア眼鏡が顔面偏差値を跳ね上がらせていて、社内のほとんどの女性が狙っているという話。
「だ、か、ら。食事くらい、いいじゃない。減るもんじゃあるまいし」
「減るね」
減るんだ、とか素直に納得しながら横を通り過ぎようとしたら、レンズ越しに夏原課長と目があった。手が伸びてきて私を引き寄せる。なにが起こっているのかわからずにぽけっと彼の顔を見ていると、彼と私の眼鏡同士が当たるカツッと乾いた音と共にその唇が私の唇に──触れた。
「僕は彼女と結婚するから、他の女性とふたりで食事になんて行けるはずがない」
「な、なにするんですかー!」
反射的に手を振りあげ、思いっきり彼をビンタする。が、勢いのわりにピタンと間抜けな音がした。だって私と彼の身長差では、かろうじて指先が当たっただけだったからそうなる。
「……この僕を叩くなんていい度胸しているな」
「ひぃっ」
夏原課長からその眼鏡と同じくらい冷たい視線で見下ろされ、思わず悲鳴が漏れた。でも悪いのは私じゃなく、彼のはずだ。
「だ、だって、いきなりキス、とか」
「なにか問題でもあるのか」
あるに決まっている。だって私は──。
「ファ、ファーストキスだったのにー!」
「……ファーストキス?」
途端に、それまで高圧的に私を見下ろしていた彼の態度が一変した。
「へー、そうか」
軽く握った拳を口もとに当て、なにかを考えている夏原課長の唇は右の口端が僅かに持ち上がり、いかにも意地悪そうに見える。
「君は僕を叩いた。この詫びはしなければならない」
「え……」
その高い背を屈め、ぐいっと夏原課長が私に顔を近づけてくる。そもそも私に叩かれたのは彼が一方的にキスをしてきたからで、なのになんで私が詫びを? などとあたまの中ではぐるぐる回っていた。けれど二枚のレンズを挟んで彼に見つめられれば蛇に睨まれた蛙に等しく、口から出てくるわけがない。
「わかるよな?」
ぐいっとさらに、顔が近づいてくる。さっきのキスを思い出し、後ろに一歩下がっていた。
「あの……」
「わかるよな、と訊いている」
さらに夏原課長の顔が近づきまた一歩下がったものの、後ろはもう壁。これ以上は逃げられない。
「……はい」
気持ちとは真反対な返事をした。だってそれしか、私には選べないのだから仕方ない。私の返事で満足げに頷き、ようやく彼は顔を離してくれた。
「よし、仕事が終わったら僕のところまで来い。わかったな」
まだ状況が飲み込めず、ただ彼の顔を見上げる。
「わかったな!?」
「は、はい!」
私がぼーっとしているものだから夏原課長の鋭い声が飛んだ。つい、反射的に返事をする。
「よし、待ってるからな。逃げたらどうなるか……わかるよな」
「は、はい!」
眼鏡の奥で、彼の目が切れそうなほど細くなった。どうなるか想像するだけで、泣きそうだ。
「じゃあ、待ってるからな」
念押しするようにそう言い、夏原課長は去っていった。彼がいなくなって辺りを見れば、いつの間にか桐谷主任もいなくなっている。どうも、私たちが揉めて……というよりも一方的に夏原課長から脅されている間に退散してしまったようだ。
「ど、どうしよう……」
詫びってなにをさせられるのだろう。不安で不安で仕方なくて、このあとの仕事は全く手につかなかった……。
「……はぁーっ」
パソコンに表示されている時計を見ながら、ため息が漏れる。それは私の希望とは裏腹に、一分、一分と終業時間へ近づいていった。せめて残業でもあればと思うが、忙しい月末と違い九月に入ったばかりのいま、あるわけがない。
「やだな……」
「どったの? さっきからため息ばっかりついて」
「えっと……」
声をかけられて振り返れば、佐々木(ささき)さんが立っていた。佐々木さんは私のふたつ上で元教育係だ。
「なんでもない、です」
「そう? ならいいけどさ。はい」
笑って誤魔化したら彼女が手を差し出してくるので、両手でそれを受ける。
「それでも食べて元気出しなよ。じゃ、お疲れさん」
時計は終業時間になっていた。
「いつもありがとうございます」
去っていく彼女の背中へあたまを下げる。ピシッと伸びた背筋にショートカットがよく似合う彼女は男性ものの服を着ていることが多いためもあり、男に間違われる。でも、誰よりも気配り上手で部内では空気的存在の私にだってこうやって声をかけてくれた。私にとって憧れの人でもある。
「さてと」
もらったチョコをぽいっと口に入れる。甘いチョコのおかげで少しだけ元気が出た。夏原課長に多少怒鳴られようと、耐えられそうだ。
階段を使い、二階下の営業統括本部に降りる。探す必要もなく、夏原課長はエレベーター脇の休憩コーナーで壁に寄りかかり缶コーヒーを飲んでいた。紺ベストに深いワインレッドのネクタイ、それにシャツは袖まくり派。左に流された前髪に銀縁スクエア眼鏡がよく映える。それに見とれるなっていう方が無理で実際、遠巻きに女子社員がうっとりとそれを見ていて、いまからあそこに行くのだと思うとますます気が重くなる。
「冬月(ふゆつき)」
躊躇しているうちにあちらが私を見つけてしまった。というか、どうして私の名前を知っているのだろう? 小企業ならまだしも、我が社は正社員だけで五千人ほどいるのに。さらに有名人のあちらとは違い、私は普通どころか影の薄い存在だ。
「は、はい!」
「行くぞ」
私の手を掴み、夏原課長が歩きだす。妬みの視線がねっとりと背中から追ってきていた。
無言で隣に立つ夏原課長を見上げる。帰宅時間で満員のエレベーターの中、彼はずっと前を見たままだった。掴まれた手が汗を掻いてくる。離してくれと言いたいが、そんな度胸は私にはない。
一階では降りずに地下階に連れていかれた。駐車場に出て一台の、黒の外国製スポーツセダンの前でようやく足を止める。
「乗れ」
ロックを解除した夏原課長は、わざわざ助手席のドアを開けた。
「あの、その」
「乗れと言っている」
「……はい」
彼を怒らせるのが怖くて車に乗る。私がシートに座ったら夏原課長はドアを閉め、自分も運転席に乗り込んだ。
「シートベルト」
「……はい?」
「君はシートベルトの仕方も知らないのか?」
助手席へ身を乗り出してきた彼が、私の左脇のシートベルトを掴む。身体が触れてしまいそうな距離。ふわりと、甘いけれどセクシーな匂いがした。こんなに異性と密着したこともないし、彼のその香りはなんだか男の色香を感じさせ、ウブな私には耐えられない。無言で俯いて見えた私の手は、真っ赤になっている。黙って自分のシートベルトも締め、彼は車を出した。
車は夕暮れの街を滑るように走っていく。どこに連れていかれるのか怖くて、じっとバッグを握りしめる自分の手を見ていた。
少しだけ車は走り、高級ホテルの玄関へ入っていく。夏原課長は降りて係の人にキーを預けたりしているけれど……これって!?
「降りろ」
助手席のドアが開けられたけれど、はい、そうですかと降りられるわけがない。
「降りろと言っている」
強引に彼が私の手を引っ張る。
「あっ!」
おかげで無理矢理車から降ろされる形になり、バランスを崩して夏原課長の胸に飛び込んでしまった。
「その、あの」
口をぱくぱくと動かすものの、全く意味をなす言葉は出てこない。
「大丈夫か」
「……はい」
私を身体から離し、立たせてくれれば少しだけ冷静になった。
「なら、行くぞ」
また夏原課長は私の手を掴み、歩きだす。豪華なロビーを抜けてエレベーターに乗った。上昇していくにつれて、どくん、どくん、と心臓の鼓動が大きくなっていく。ホテルになんて連れ込んで、いったいなにを? なにをって考えられるのはひとつなわけで。
「降りるぞ」
手を引かれ、エレベーターを出る。けれどそこは想像していた客室階ではなく、高層階のレストランフロアだった。
予約してあったらしく、すぐに席へ案内された。ウェイターに椅子を引かれ、わけもわからぬまま座る。
「なにか食べられないものはあるか」
「ない、です」
「わかった」
すぐにメニューを閉じ、夏原課長はウェイターを呼んで注文をはじめた。これはいったい、どういう状況なんだろう? 夏原課長は叩いた詫びをしろと言っていたわけで。あ、ここの払いを私にしろということなんだろうか。
「あの、ちょっとATMに行ってきてもいいでしょうか……?」
「……は?」
一瞬、彼の目が大きく見開かれた。けれどすぐに元に戻り、さらにはぁっと小さくため息をつく。
「なぜそんなことが必要なんだ?」
「だって、私に奢れってことですよね……?」
はぁっとまた夏原課長がため息をつき、びしっと姿勢を正していた。
「僕が君と食事をしたいだけだ。支払いは気にしなくていい」
「えっと……。ちょ、ちょっとお手洗いに……」
「ああ」
逃げるようにお手洗いに駆け込んだ。夏原課長が私と食事をしたいって、なんなんだろう? だって私は……。
鏡に映る自分と目があった。とりあえずひとつにまとめられた黒髪。長い前髪とダサい黒縁眼鏡で隠した、冴えない顔。服だってどんなのを着ていいのかわからなくて、いつも白ブラウスに黒のロングスカートで済ませている。こんな私と、食事がしたい? そんな男がいるなんて信じられない。
「いったい、なにが目的なんだろう……」
口から落ちていったため息は、洗面台にごとっと重い音を立てそうだ。
「早く戻らないと怪しまれるよね……」
はぁーっと、どこまでも群青色な憂鬱なため息をつき、夏原課長の元に戻る。
「どうした?」
少し怪訝そうに彼は訊いてくるけれど、そっくりそのままお返ししたいです。
席に戻ると同時に料理が出てきはじめる。高級ホテルの高層階でフレンチ、しかも相手は夏原課長となれば会社の女性たちは大喜びなんだろうが、私はと言えばひたすら気が重くて、せっかくの料理も色褪せて見えた。
「そういえば、今日のあれがファーストキスだと言っていたが本当か」
「……はい」
心の中でため息をつき、ナイフとフォークを置く。きっと、あんな事件でもなければ死ぬまで取っておいたであろうファーストキスだけれど、それでもこんな形で失うのはショックが大きい。
「ふーん、そうか」
それっきりやはり、夏原課長からの謝罪はない。それに女性からの食事の誘いを断りたいがために人のファーストキスを奪ったくせに、その感想はないと思う。社内一のモテ男とか言っても、所詮その程度なんだなんてがっかりしていたんだけれど。
「なら、ケッコンするか」
……以下、続く。