『恋の講義をお願いできますか?』
「確かにあなたは私が嫌いじゃないわ。無関心なのよ」
森宗は別れた彼女のその言葉がコンプレックスとなり、恋愛に苦手意識を抱いていた。しかし新しく助手に付いた真北から恋愛感情を向けられ、戸惑う。しかし彼から真っ直ぐにぶつかれていくうちに少しずつ変わり始め……。
大型わんこ系眼鏡×天然エロ眼鏡のお話。
A6(文庫)94P
第一章 エリート講師の苦悩
別れた彼女の言葉が、いつまで経っても忘れられない。
「確かにあなたは私が嫌いではないわ。無関心なのよ」
それは的確に僕の気持ちを表していて、なにも言えなくなった。彼女のことは嫌いではない。けれど、好きかといえば自信がなかった。僕は彼女が好きなのだから、なんでも彼女の好きにさせてやるのが当たり前だ。そんな考えでいつも曖昧に笑ってイエスマンでいたが、そこが彼女の気に障ったのだろう。実際、僕は彼女がどんな気持ちかなんて、考えすらしなかった。それを無関心だと言われれば、返す言葉もない。
「さようなら」
振り向きもせずに去っていく彼女を、引き留められなかった。告白されたとき、人を好きになる気持ちなどわからなかったが、付き合っていくうちにきっと自分もそんな気持ちになるのだろうと思っていた。でもそれは、ただの希望的観測に過ぎなかったのだ。その証拠に僕はいくら彼女から好きだの愛しているだの囁かれても、少しも理解できなかった。
――僕はもしかして、誰も愛せないんじゃないか。
その思いはコンプレックスとなり、さらに僕を恋愛に臆病にさせた。あれから僕は誰とも付き合わないまま、三十を過ぎて三十二となった。きっとこのまま年を取り、ひとりで淋しく死んでいくのだろうと思っていた。――彼と出会うまで、は。
「森宗(もりむね)くん。新しい助手を紹介するね」
「はい」
上司から声をかけられ、パソコンから顔を上げる。かけている、銀縁スクエアの眼鏡を上げて見た上司の隣には、背も高くがっしりとした体格の、僕よりだいぶ若い男が立っていた。
「真北(まきた)龍司(りゅうじ)くんだ。これからは彼と組んでもらう」
紹介された彼を無言で見上げる。短く切られたスポーツカットの髪、厳つい顔を際立たせるような、太めの黒縁眼鏡。細身で、中性的な顔立ちの僕とは正反対だ。
「真北龍司です! よろしくお願いします!」
大きな声で挨拶し、元気よく真北さんが頭を下げる。顔を上げてにかっと笑った彼の口もとからは、眩しいばかりに真っ白な歯がのぞいた。
「森宗です。こちらこそ、よろしくお願いします……」
困惑気味に挨拶を返す。真北さんは僕の苦手なタイプで、これからが憂鬱になった。
僕は経理専門学校で講師をしている。特に、試験前に行われる、大会議室等を借りての短期集中講座を受け持っていた。その際、講師である僕と、補助を行う助手とふたりで行くのだが、その補助に真北さんが付いたというわけだ。
翌日からの講義の打ち合わせをする。
「えっと。真北さんはこのお仕事は初めてですか?」
その職場職場でやり方は違うだろうが、それでも一応確認した。経験者ならば、省ける説明もある。
「はい。前はジムでインストラクターをしていたので、こういう仕事は初めてです」
「……ジムでインストラクター?」
意外な前職が出てきて驚いた。まったく職種の違う仕事をしていたのに、なぜこんな仕事に? などという質問が口から出かかったが、飲み込んだ。
「そう、なんです、ね」
「はい。だからスーツとか着るのはほぼ初めてで。変じゃないですか? ネクタイの結び方とかあってます?」
若干、心配そうに彼が僕の顔を見る。言われてみれば、まるで新卒社員のようにいまいちスーツが馴染んでいない。
「大丈夫ですよ」
それでも、安心させるように微笑んで答える。
「よかったー」
僕の言葉でほっとしたのか、真北さんは少し笑った。
最低限の確認も済んだので、仕事内容について話す。
「真北さんの仕事は、プリントを配ったりとか、講習者の補助ですね。ペンを落としたとか、退席したいとか。そういう対応をお願いします」
「わかりました」
神妙に真北さんが頷く。
「明日は現地集合になります。なにか、わからないことなどありますか?」
「ええっと……。特にない、というかやってみないとわかんないです」
困ったように彼が笑う。それはそうなのだが、明日からの講義が不安になってきた。
翌日は学校から少し離れた、貸し会議室に向かった。ここの大会議室を借りて三日間、講義は行われる。
「おはようございまーす!」
待ち合わせのロビーで真北さんと落ちあう。朝から彼は元気で、挨拶の声が無駄に大きかった。
「おはようございます」
それに視線が集まり、恥ずかしい思いでそこへと行く。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
簡単にもう一度打ち合わせをし、大会議室へと入る。そこにはすでに大勢の人が集まっていた。
「これ全部、資格試験を受ける人なんですよね」
「まあ、だいたいは受けるでしょうね」
この講義に参加しているからといって、必ず資格試験を受けるとは限らないし、その義務もない。しかし、試験を受ける気もないのに講義を受けるものも稀だろう。
「合格率ってどれくらいなんですか?」
「そうですね……60%くらいですか」
それを、ここにいる人間に限っては100%近くまで上げるのが僕の仕事だ。
「その合格率を森宗さんはこの講義で上げるんですね。凄いです」
ぐいっと、真北さんが顔を近づけてくる。眼鏡の奥の目は尊敬でキラキラと輝いていて、背中が若干、仰け反った。
「あ、ありがとう……」
そういう眼差しを向けられるのは気恥ずかしくて、思わずため息が出る。途端になぜか、真北さんは顔の下半分を手で覆って逸らした。
「どうかしたんですか?」
「なんでもないです!」
慌てて彼は誤魔化してきたが、なんだったんだろうか。
時間になり、講義を始める。
「なので、ここはこうなるわけです」
会場に目を向けると、数人があくびを噛み殺していた。台の上に置いた腕時計をちらりと確認する。そろそろ予定の時間だし、キリもいいから休憩にするべきだろう。
「では、ここで休憩にします。十分後に再開しますので、それまでに戻ってきてください」
一気に場の空気が緩み、ざわざわとしだす。僕も緊張を解き、教壇から降りようとして……躓いた。
「危ない!」
気づいた真北さんが慌てて僕を支えてくれる。
「あ、ああ。ありが、とう」
自分でもこれはないと思う。そろそろとその腕の中から抜け出し、自分の足で立った。僕が姿勢を立て直し終わるか終わらないかのタイミングで、ぱっと真北さんの腕が離れる。支えてくれたのは助かるが、これはちょっと早すぎないだろうか。下手すればまた体勢を崩していたかもしれない。
「お疲れですよね、座っていてください」
真北さんを見上げると、曖昧に笑って誤魔化された気がした。てきぱきと僕を椅子に座らせ、彼はお茶のペットボトルまで差し出してくれる。
「次の準備を……」
「僕がやりますので、休んでいてください」
すでに真北さんはてきぱきと、パソコンの確認をしていた。
「じゃあ、お願いします」
彼の言葉に甘え、お茶を飲んで少しのあいだ眼鏡の下で目を閉じた。彼の補助はここまで、初めてとは思えないほど完璧だ。こんなに仕事のできる彼がなぜ、こんな……というとあれだが、講義補助の仕事などに転職したのか謎だ。
「森宗さん。そろそろ時間です」
「……わかりました」
声をかけられ、ゆっくりと目を開く。受講生たちも揃い始めているようだ。椅子から立ち上がり、講義台の前に立つ。
「では、講義を再開します」
人にはひとつやふたつ、触れられたくない秘密がある。彼にも、……僕にも。それに僕は、あまり他人の事情に関心がある質ではないのだ。もう、真北さんの転職について、考えるのはよそう。
……以下、続く。