『北向きの部屋』【ホラー】
『北向きの部屋』【ホラー】
「一千花ちゃん、おはよう」
「おはよーございまーす」
ゴミ出しに行って、ちょうどいた奥園(おくぞの)の奥さんに挨拶をする。
「聞いた? 昨日、この辺りで痴漢が出たらしいのよ」
「へー、そうなんですねー」
私より少し年上の彼女の話を、若干深刻そうな顔を作って聞いた。
「一千花ちゃんも若いんだし、気をつけなさいよ」
「はーい、気をつけまーす」
忠告におざなりな返事をし、会釈をして家に帰る。それでも痴漢注意の情報はしっかり頭に叩き込んでおいた。
あれからひと月ほどが過ぎたが、まだあの家――通称〝崖の上の一本桜の家〟に住んでいる。新しい引っ越し先なども探してはいない。
「いい天気だし、シーツも洗濯しよーかなー」
大きく伸びをしながら家に入る。ここでの生活はほどよく快適だ。越してきた当初、あんなに旦那に早く引っ越そうと訴えていたのが嘘みたいに。
洗濯物を干し終わり、自分の部屋で電子メモに向かう。自分の部屋があるというのは非常にいい。引っ越す前の家は2DKだったので、狭いダイニングで執筆していた。しかも旦那がトイレやなんやで通るから、集中できない。でも今は、一人部屋! 誰にも邪魔されないのだ。
一度、お昼ごはん休憩を入れ、さらにキーを叩く。ある程度のところでキリをつけ、庭に出て洗濯物を入れた。
「一千花ちゃーん!」
庭先から声をかけられ、手を止める。
「回覧ばーん!」
「ああ、すみません!」
掃き出し窓から洗濯物を家の中に放り込み、回覧板を持って手を振るお婆ちゃんに駆け寄った。
「暑くなってきたから洗濯物がよう乾いて助かるね」
「そうですねー」
笑いながら回覧板を受け取る。
「もう田植えも始まるし、そしたらすぐ梅雨がきてじめじめだけんどな!」
かっかっかと豪快にお婆ちゃんが笑う。
「でも、その頃になったら少し登ったところで蛍が見られるから、見にいきんさい」
「そうなんですね! 楽しみです!」
ひととおり話して気が済んだのか、お婆ちゃんは手を振りながら帰っていった。
「蛍かー。ちょっと楽しみかも」
私も回覧板を家の中に置き、残りの洗濯物を入れてしまう。ここの人たちはとにかく、世間話が好きなのだ。いきなりの名前呼びは不快感もあったが、旦那も私も木瀬(きせ)さんだからといわれたら納得するしかない。それに〝木瀬の奥さん〟と旦那の付属品のように呼ばれるよりもいい気がした。引っ越し初日、私を見てひそひそ話をする近所の人に嫌な気分になっていたが、旦那の言うとおり神経が過敏になっていただけらしい。みんなちょっとお喋りが過ぎるだけで、別に私たちをよそ者扱いしていない。それどころかこうやって、ここで暮らしていくミニ知識みたいなものを教えてくれるのでありがたかった。それにコンビニ店員の忠告が、あっさりと判明したのもある。
その日、旦那は休みだったので起こさないようにキッチンで自分の朝ごはんの用意をしていた。こちらの会社……というよりも現場に入ってから、旦那は忙しく過ごしていた。前任者がかなりアレな人だったらしい。帰ってくるのも遅く、過労が心配されるレベルだ。そんな具合だったので、引っ越しなんてもはや言い出せなかったのもある。
「……ねむ」
寝ぼけ眼でガスにミルクパンをかける。私だってまだ寝ていたいが、今日はお宮の掃除なのだ。行かないとペナルティが課せられるとなれば行くしかない。こういう田舎の付き合いはちょっと、面倒くさかった。
「んー」
鍋の中で紅茶葉が入った牛乳が沸騰しないように見ていたら足の甲がもそもそとした。無意識に掻こうと手を伸ばす。なんとなく視線を落とし、オオムカデがスリッパからむき出しになっている部分を通過しているのが見えた。
「ギャーッ!」
瞬間、この世のものとは思えないほどの悲鳴が出た。反射的に足を後ろに引く。当のムカデは何事もなかったかのように去っていった。
「ヤバッ!」
鍋が噴きこぼれる寸前になっているのに気づき、慌てて火を止める。同時に二階からなにかが落ちるような大きな音がした。そのままどたばたと続けて激しい音が聞こえてくる。
「どうした!?」
尋常ではない私の悲鳴で目が覚めたのか、旦那が階段から転げ落ちるようにしてキッチンに飛び込んできた。
「起こして、ごめん」
詫びつつもまだ、心臓は早鐘のように鼓動していた。
「どうした、なにがあった?」
旦那もすっかり気が動転しているみたいで、矢継ぎ早に聞いてくる。
「でっかいムカデが足の上を通過してて。それで、びっくりした」
いまさらながら手で払わなくてよかったと思う。それに、いきなり足を動かしたのに喰われなかったのもめっけもんだ。
「大丈夫か?」
私の足下に座り、心配そうに旦那が足を確認してくる。
「平気みたいだな」
私が無事なのがわかり、旦那もようやく落ち着いたようだ。
「ほんとごめん。昨日も帰ってきたの、遅かったのに」
「いや、いい。俺も大声出すと思うし」
気が抜けたように旦那はダイニングの椅子に座り込んだ。
「この家、いいんだけどムカデだけは勘弁してほしい……」
「そうだな……」
はぁーっとふたり同時に憂鬱なため息が落ちていく。コンビニでの店員の忠告。あれはきっと、ムカデに気をつけろということだったのだ。
裏が山になっているからか、とにかくこの家はよくムカデが出る。今日のようなことは一度や二度ではない。つい先日はお風呂に入っているところに出て、旦那が血相変えて殺虫剤を握り、飛び込んできた。もう、〝一本桜の家〟とか風流な呼び名ではなく実は、〝ムカデの家〟と名が通っている気がするくらいだ。
「とりあえず私は、お宮の掃除にいってくるよ。利也(としや)はまだ寝てていいから」
「おー、そーするー」
軽い調子で言い、旦那はまた二階へと上がっていった。私も準備を住ませて家を出る。ほんと、ムカデだけは勘弁してほしい。
お宮では近所の人に笑われた。
「今朝も一千花ちゃんの悲鳴が響き渡ってたね。また出たの?」
「そーなんですよ」
はぁーっと憂鬱なため息が私の口から落ちていく。周囲から少し離れているとはいえ、窓を開けていてあの悲鳴では、一帯に響き渡るだろう。
「でも、ムカデはあんま、殺さんほうがいいよ」
私が草を刈る横から、別の奥さんが話に加わってくる。
「え、でも、喰われたら大変じゃないですか」
今のところそういう被害には遭っていないが、知らずに布団に入って……などという話も聞く。私としては駆除してしまいたい。
「ムカデは昔、この辺り一帯を治めていた殿様の家紋だからね」
ほら、と、彼女が指したお宮の灯籠には確かに、ムカデを模した家紋らしきものが刻まれていた。
「ここらでは無念のうちに亡くなった一族の化身だと言われてるし、特に一千花ちゃんのうちは……」
「……ちょっと」
声を潜めたもうひとりの奥さんにつつかれ、彼女が話をやめる。
「なんでもない」
曖昧に笑い彼女は誤魔化してきたが、なにを言いかけたのか非常に気になった。特にあの家に関係あるとなると。
「あの……」
「とにかく。ムカデは殿様一族の化身だから、ここらの人はよう殺さんのよ。そういうわけ。あ、宮下(みやした)さーん!」
これ以上は聞かれたくないとばかりにふたりは話を切り上げ、別の場所へ行ってしまった。
「なん、だったんだろ?」
釈然としないまま、引き続きその場の草刈りを続ける。特にうちにムカデが湧く理由でもあるんだろうか。殿様の怨念とか? いやそれこそ。
「そんなの、あるわけないじゃん」
浮かんできた考えを笑って否定する。そんなバカらしいこと、あるわけない。
……以下、続く。