『彼が眼鏡をかける理由』R18
『彼が眼鏡をかける理由』R18
イケメンエリートの星海航路と陰キャの僕、朝日陽介は同棲している。きっかけなんてわからないが彼から熱烈に押され、恋愛経験ゼロの僕はつい、承知してしまった。そんな関係だが、僕は航路が嫌いではない。むしろ……僕だけのものにしておきたいんだ。
眼鏡のさきっぽ名義、BL R18
A6(文庫)88P
トイレに入った途端、足が止まる。だってそこにはそんな場所にもかかわらず、床に這いつくばっている男がいたから。
「……星海(ほしみ)さん。なに、やってるんですか?」
「ストップ!」
怪訝に思いつつ近づこうとしたら、彼が手で僕を止める。瞬間、びくりと身体を震わせてその場に立ち尽くした。
「コンタクト、落としたんだ。それで、探してる」
「あー……」
それは、ご愁傷様、としか言いようがない。そしてこの男でもそんなことがあるのだと意外だった。
星海といえば同期入社の中でもずば抜けてイケメンで、さらに入社試験も好成績、新入社員代表で挨拶をするほどの男だ。新人研修でも常に褒められっぱなしのこの男が、綺麗に掃除はしてあるとはいえトイレの床に貼り付いている姿なんて誰が想像するだろう?
「予備とか持ってないんですか」
そう言いつつ、彼と同じように膝をつき、床を見る。彼がどのくらいの視力かは知らないが、眼鏡の僕からしてもこれがどれだけ非常事態なのかはわかる。
「このあいだ使ったあと、入れるのを忘れていた」
「眼鏡は?」
「持ち歩いていない」
いくら目を凝らしたところで、クリーム色のリノリウムの上にコンタクトは見つからない。
「だいたい、なんで落としたり」
「ゴミが入って外したところで人がぶつかって、弾みで落ちた。洗面台を探したけどないし、もしかしたら床かと思ったんだが」
探している間も入ってきた人間は僕たちを見て驚き、気持ち悪がって出ていった。
「もういい、ありがとう。俺の不注意だ、仕方ない」
しばらくして立ち上がった彼は、僕へ手を出しかけて引っ込めた。さすがに、トイレの床についていた手はマズいと思ったらしい。
「でも、困るんじゃないですか」
ふたり並んで手を洗う。
「まあ、なんとかするさ」
なんとかって、なんとかなるんだろうか。僕は眼鏡がないとなにも見えないから、きっと同じ状況だったらピンチだけど。
「悪かったな、朝日(あさひ)まで。……おっと」
トイレから出ようとして、彼が壁にぶつかった。
「ヤバい、片方しかコンタクト入れてないと、距離感が全くわかんないわ」
おかしそうに彼はくすくす笑っているが、そんなの目にも身体にもよくない。もしかして、片目コンタクトであと今日を乗り切ろうと? まだ、半日以上あるのに。実はバカのか、こいつは?
「笑ってる場合か。眼鏡、買いに行け」
「おい、待てって」
呆れて先を歩く僕を彼が追ってくる。研修室に戻って彼は素直に僕の忠告に従い、上司へ眼鏡を買いに行く許可をもらっていた。それを見ながら席に着いたものの。
「朝日」
すぐに彼がやってきて、僕の隣に立つ。
「着いてきてくれ」
「は?」
思わず、彼の顔を見上げていた。けれど彼は急かすように、僕の腕を取る。
「さっきみたいに壁にぶつかったら危ないだろ。それにひとりじゃまともに見えないから選べない。許可は取ったし」
ちらっ、と上司を見ると頷かれた。
「……はぁーっ。わかったから、離してくれますか」
ため息をつきつつ、立ち上がる。
「じゃあ、よろしく頼む」
見えていないはずの彼に引きずられるように部屋を出た。近所にある、ファストの眼鏡店で眼鏡を選ぶ。
「これはどうだ?」
最初に彼が選んだのは、僕と似たような黒縁ウェリントンだった。
「いいんじゃないですか」
「なんか適当」
……当たり。正直、彼がどんな眼鏡をかけようと興味はない。それにどうせ、これはその場しのぎの眼鏡なんだし。
「じゃあこれは?」
次に彼が、べっ甲調のボストンをかける。
「それとも、こっち?」
ギャグのつもりなのか、今度は文豪調の丸眼鏡をかけたりしているが、はっきり言ってどれも嫌みなくらい似合っているので、もうどれでもいいのでは?
「なあなあ。どれがいいと思う?」
鬱陶しく彼は絡んでくるが、そもそもなんで僕が、こいつの眼鏡選びになって付き合わなくてはならない?
「これでいいんじゃないですか」
面倒くさくなった僕は適当に、目の前にあった眼鏡を掴んで彼に渡した。
「うん、わかった。それにする」
「えっ、ほんとにいいんですか?」
フィッティングもせずに彼はカウンターへと向かっていく。
「いい。朝日が選んでくれたのだから」
てきぱきと手続きし、検眼に入る。こんなことになるなら少しは真面目に選ぶべきだったと後悔した。
眼鏡ができるまでの時間、昼が近いのもあって食事をして待つ。彼はその許可も取ってきていたみたいで、侮れない。
「えっと……。今日のパスタ、で」
「両方ともデザートセットにしてください」
にっこりと彼が微笑み、女性スタッフはぽっと頬を赤らめて下がっていった。
「……デザートセットって」
「お礼だよ、お礼。朝日、甘いもの苦手じゃないだろ?」
なんでもないように彼がグラスを口に運ぶ。連れてこられたのがお洒落なカフェってだけで緊張するのに、彼のおかげで視線が集中する。ほんと、勘弁してほしい。
少しして料理が運ばれてきた。エビのトマトクリームパスタなんてお洒落なもの、きっとこんなことでもなければ食べないだろう。
「……! 美味しい!」
「よかったな」
ふっ、と唇を緩め、彼が柔らかく笑う。その顔に──胸が、きゅんとした。……ん? きゅん? ないない、あるわけない。ただのイケメンマジックという奴だろう。
それでも、真っ直ぐに彼の顔を見られなくなった。そうか、イケメンはこうやって彼女をゲットするのか。べ、別に羨ましくなんてない、とも。……嘘です。地味で、根暗で、せいぜい、いい人止まりの僕ですが、恋に少しは関心があります。
「……そういえ、ば。よく考えたら家にコンタクト取りに戻ってもあまり時間的には変わらなかった気が……」
それにどのレンズかわかってるなら、加工の時間がない分、コンタクトの方が早かった気がしないでもない。
「んー、そうだな。でも、朝日が眼鏡を作れって言ったから」
「……は?」
いやいや、なにを言ってるのかわかんないですよ。
「眼鏡ってあんまり好きじゃないんだよな。高校生のとき、眼鏡とかありえない、なんて言われて」
ははっ、とか軽く笑いながら彼はフォークを口に運んだ。
「でも朝日が、眼鏡を作れと言ったから」
「……は?」
いや、やっぱり彼がなにを言っているのかわからない。わかったのは、こいつはバカだということだ。
会計は今日の礼だと彼がしてくれた。
「いいですよ、そんなの」
「いいから」
財布の中からお札を引き抜こうとしたけれど、止められる。
「今日は助かったし、嬉しかったんだ。だから、お礼くらいさせろ」
「……じゃ、じゃあ」
熱くなった頬に気づかれたくなくて、財布をしまったまま顔を上げられない。……だから。そうやって、恋愛偏差値0の僕を惑わさないでほしい。目尻を下げてまるで眩しいものを見るかのような顔なんて、好きな女の子の前でやれよ。
眼鏡店に戻って眼鏡を受け取った。
「どうだ、似合ってるか」
「似合ってると思いますよ」
僕の選んだ眼鏡をかけて、実に嬉しそうに彼が笑う。適当に選んだ眼鏡だったから似合ってなかったらどうしよう、なんて心配は杞憂に終わった。銀縁スクエアの眼鏡は、彼の顔にしっくりと馴染んでいる。
「じゃあ、戻って午後からの研修も頑張るか!」
なんだか、スキップでもしそうな勢いの彼と会社へ戻る。──これが、彼、星海航路との最初の思い出だ。そしてこの日から、眼鏡が好きじゃない彼はコンタクトをやめ、眼鏡をかけるようになった。
……以下、続く。