『秘するは華。暗く、緋く。』R18
『秘するは華。暗く、緋く。』R18
「僕が、君のかい主だ」
明華(めいか)が久しぶりに会った彼は、酷く冷たい人間に変わっていた。もっとも自分も、純粋だった昔のままではないが。
「それはもう、高い買い物だったぞ? その分は愉しませてもらうからな」
銀縁の眼鏡の奥で目を細め、くっくっくっ、と喉の奥で彼が愉しそうに笑う。
「まずはその、着物を脱いでもらおうか」
「えっ……?」
なにかの、聞き間違いだと思った。人前で、着物を脱げだとか。
「……なにをぼさっとしてる。さっさと、脱げ」
戸惑っていると、彼の顔から表情が消えた。氷のように冷たい視線で、彼が明華を見ている。
「脱げ。これは罰だ」
「は、はい!」
鋭い声に恐怖を感じた。震え、上手く動かない手で帯を解きながら、ここに連れてこられた経緯を明華は思い出していた。
明華が開けた米櫃の中には、一粒も米は入っていなかった。
「お嬢様、どういたしましょう」
多紀(たき)が、心配そうに明華の顔を窺う。彼女は唯一、ここ久我(こが)家に残ってくれた使用人だ。
「仕方ないわ」
部屋へ行き、勢いよくタンスを開ける。
「……」
けれど中身が空の引き出しを見て黙って閉めた。さらに引き出しを開けるがそこも、空。数度それを繰り返し、ようやく残っていた着物を見つけた。
「これでどうにかしてきてちょうだい」
「かしこまりました」
着物を持って多紀が出ていき、はぁーっと大きなため息が口から漏れる。少し前まではタンスに入りきれないほどのドレスに着物があったのだ。けれどいまは、探さなければ見つからない。
「どうしたらいいのかしら……?」
昔は栄えていた久我家だが、華族とは名ばかりでその日の食事にも事欠くほど没落していた。それもこれも。
「帰ったぞ」
玄関から父である亮丞(りようすけ)の声が聞こえ、慌てて出迎える。
「おかえりなさいませ」
「美音(みね)はどうした。使用人は誰も出迎えないのか」
こんな状況になっても傲る亮丞にはもう、ため息しか出てこない。
「お母様はお部屋で、その、……伏せっております。使用人は多紀以外、全員出ていったのをお忘れですか」
母のことはわかっているはずなのだ。なのに、亮丞は知らないフリをして明華に任せっきり。使用人のこともそうだ。自分の都合の悪いことは全部、無視された。
「そうだったかな。……そうだ、明華。見てみろ、英国公使のプランケット様から譲り受けたんだ」
先ほどから悪い予感はしていた。亮丞の後ろに風呂敷包みを抱えた男が立っていたから。
「お父様。我が家にはもう、食べるものすらなにも残っていないのです。なのに絵などにうつつを抜かしている場合ですか」
静かに、けれど怒りを込めて告げたけれど、亮丞は全く堪えていない。それどころか。
「クレッカーさんから結納代わりに、もらった金があっただろ」
はぁーっ、と大きなため息を落とし、明華はあたまが痛んでこめかみを押さえた。結納代わり、亮丞はそう云うが、事実としては英国商人のクレッカーに姉の文海(ふみ)を売って得た金だ。
「先日、お父様がヴィリヨン様から買った時計を最後に、無くなりました」
「無いなら借りればいいだろ。文句を云うな!」
顔を赤く染め、怒りを露わにして亮丞は、足音も荒く男を連れて屋敷の奥へと入っていった。
「……はぁーっ」
再び、明華の口からため息が落ちる。亮丞は借りればいいと云うが、もう質にするものはほとんど残っていない。家計を無視して亮丞が絵だ、彫刻だと買い漁ってきた西洋美術品をこっそりと売り払っているのが現状だ。しかも欧米文化へ盲目的に憧れる亮丞は、外国商人からガラクタを高額で売りつけられても疑いもせずに買ってしまう。おかげで、ほとんど金にならないものが多かった。さらには美音の〝病気〟が家計を圧迫する。
「この着物、気に入っていたんだけどな……」
きっと明日には、いま着ている着物も売らなければ、食べるものもない。
「もう、売るものがない……」
タンスの引き出しを開けては、はぁーっ、と明華の口から深いため息が落ちる。着物もドレスも、宝石もすべて売り払った。売るものがなくなった亮丞は娘すら売る始末。文海の次はきっと、自分が売られるに違いない。明華はそう、確信していた。
「明華お嬢様」
「ああ、はい」
多紀に声をかけられ、俯いていた顔を上げる。
「その、……奥様が」
「……わかったわ、すぐに行く」
おどおどと窺う多紀になにが起きたのかすべてを悟り、立ち上がる。階下の美音の部屋からは、大きな物音が聞こえていた。
「お母様。ほら、お薬ですよ」
持ってきたそれを煙管に入れ暴れる美音に咥えさせれば、次第におとなしくなっていった。
「お願いだから、おとなしくなさっていてくださいね」
とろとろと夢うつつになった美音をソファーへ寝かせ、そっと部屋を出る。美音は重度の阿片中毒だった。薬が切れると、痛みで暴れだす。
「お母様……」
自分がもっと早く気づいていればなにかできたんだろうか。けれど、後悔したところでもう、なにもできない。
明華が幼い頃は久我家も裕福だった。幕府が倒れる前は摂関家に次ぐ家柄の公家で、新政府になってからは侯爵に叙せられた。はじまった新時代は西欧文化を模したきらびやかなもので、久我家の当主である亮丞は熱に浮かされたように夢中になっていく。毎晩のように夜会が催され、誰もがうらやむ華やかな生活。生まれたときからそんな世界にいた明華は、この日々がいつまでも続くものだと思っていた。けれど、不幸は知らないうちに、いや、見て見ぬフリをしているうちに取り返しのつかないことになっていく。
最初の異変は、母の美音だった。廊下を歩く母の様子に違和感を抱き、声をかける。
「お母様?」
「んー? めぃかぁ」
美音の目は虚ろで、舌もどことなく回っていない。そのままふらふらとまるで夢の中にでもいるかのような足取りで、自分の部屋に入っていった。
その日から美音は虚ろな目で、うふっ、うふふ、とおかしそうに常に笑っている。
……母が壊れた。
明華はすぐにそう悟った。亮丞は西欧文化にばかり目を向け、家のことは顧みない。姉の文海も、あちこちのパーティに参加するのに忙しく、ほとんど家にいなかった。淋しさのあまり、美音は精神を病んでしまったのだと明華は思っていた。それに明華も、そんな亮丞と姉に淋しさを感じていたから。けれど、現実はもっと深刻だった。
「お母様、お食事はしないと身体に……」
──ガシャン。
食事を運んできた、母の部屋。お盆が手の中から滑り落ちていく。部屋の中には独特の甘いにおいが充満してた。その中で美音がソファーに寝そべり、煙管でなにかを吸っている。
「めぃかあぁ?」
調子外れな美音の声が、あたまの中でこだました。
「お母様……!」
崩れ落ちた明華を、美音がうふっ、うふふっとおかしそうに笑う。美音は──阿片に溺れていた。
秘密裏に美音を医者に診せたものの、重度の中毒症状でもう手遅れだと云われた。阿片が切れると美音が暴れるので、抑えるために継続して入手する。しかし、政府から禁止されている阿片を手に入れるのはそれなりの金がかかった。あれほどあった金は、亮丞の放蕩と美音の阿片代であっというまに消えてしまう。仕方なく家財を担保に借り、ときには切り売りしたが、亮丞は全くかまう様子がない。とうとう、文海まで外国商人に売られてしまった。
「これからどうなっちゃうんだろう……」
明華の未来には、暗雲が立ちこめていた。
今日は珍しく、またどこぞの外国商人から怪しげな壺を押しつけられ──手に入れてきた亮丞に苦言を云っても、怒られなかった。それどころかご機嫌に、壺の置き場をここでもない、あそこでもないと探している。もう、悪い予感しかしない。昨日の晩は多紀がどうにか手に入れてきてくれた芋だけだった。今朝は食べるものもなく、腹はぐーぐーと鳴っている。
「明華、お前の嫁ぎ先が決まったぞ」
「は?」
悪い予感は的中するものだ。文海を売ったときも亮丞は、「嫁ぎ先が決まった」と全く同じ台詞を吐いた。
「とうとう、私も売られるのですか。そうですね、もう他に売るものなどないですものね」
家財道具はおろか、屋敷すらも抵当に入っている状態。残るものは人間しかない。
「で、どこに売られるのですか? 文海お姉様と同じで外国商人ですか、それとも遊郭ですか」
呆れてしまって涙も出ない。そんな明華を見つめながら亮丞は、不思議そうに大きく一回、まばたきをした。
「なにを云っているんだ? 嫁ぎ先が決まったと云っているだろう?」
「……はいはい」
あくまで嫁ぎ先だと繰り返す亮丞にはもう、言葉もない。文海のときにそう云ったクレッカーには、本国に妻がいた。事実上、文海は彼の妾として〝買われた〟のだ。それも、よく云えば、だが。いま、文海は奴隷同然の生活をしていると聞かされたとしても、驚きもしない。それくらいのことだったのだから。なのに亮丞は嫁ぎ先だと云い張るが、今回だって身売り先で間違いないはず。
「昔、お前の婚約者だった九鬼(くき)の公規(ひろのり)君。彼が、お前を欲しいそうだ」
「えっ……? 公規様が……?」
亮丞の口から出た思いがけない言葉に、つい聞き返してしまう。
「ああ、九鬼の公規君だ。明日、迎えを寄越すということだから、よろしくな」
「えっ、ちょっ、……お父様!」
明華の制止を無視し、亮丞は部屋を出ていった。
……どういうこと、なのかしら?
明華の四つ年上で、九鬼家の次期党首である公規はまだ久我家が裕福だった頃、明華の婚約者だった。現在は事業が成功し、華族の中でも一、二位を争うほど裕福な九鬼家だが、元は地方の大名。家格が上な久我家と婚姻関係を結び、地位向上の目的があったのかもしれない。しかし久我家が没落してしまった現在、明華にはなんの価値もない。なのに明華が欲しいとは、どういうことなのだろうか。
翌日、公規の使いだという男が迎えに来た。馬車に揺られながら、そんなことはないとわかっていても、もしかしたらいまの境遇を同情して救ってくれたのではないかと、期待が抑えきれない。しかし、あれほど亮丞が嫁ぎ先だと強調していたのに、入ったのは正面玄関ではなく裏口から、しかも隠れるようにだった。
改築され、昔とはすっかり変わってしまった屋敷の中を進み、部屋に通される。
「よく来たな」
そこは書斎らしく、立派な机の向こうに公規が座っていた。今年、学習院を卒業したばかりの彼はすでに、若き実業家の顔をしている。レンズの奥の瞳と視線はあったものの、彼は眉ひとつ動かさない。
「お、お久しぶり、……です」
久しぶりに会う公規は、いつのまにか銀縁の眼鏡をかけていた。そのせいか、酷く冷たい印象を与える。昔はもっと、優しく笑う人だったと思うのだが。
「今日から僕が、君のかい主だ」
淡々と告げられても、なんの感情もなかった。ああ、やはりそうなのだと納得しただけで。
立たされた机の向こう、公規はにこりともせずに両肘をついて組んだ手の上に顎をのせ、じっと明華をレンズの奥から見ている。
「今日から君には僕の身の回りの世話をしてもらう。いいな」
……身の回りの世話とはなにをするのだろう。そんな使用人のようなこと、私にできるのだろうか。
不安ばかりが明華のあたまをよぎっていく。
「返事は!」
「は、はいっ!」
物思いにふけるあまり返事を忘れていた明華へ、公規の鋭い声が飛んで飛び上がった。
「君は僕に買われたんだ。それはもう、高い買い物だったぞ? その分は愉しませてもらうからな」
くっくっくっ、と喉の奥で公規が愉しそうに笑う。その声に背筋がぞっと冷えた。
「まずはその、着物を脱いでもらおうか」
「えっ……」
なにかの聞き間違いじゃないかと明華は自分の耳を疑った。公規の目の前で着物を脱げ、だとか。
「なにをぼさっとしている。さっさと脱がないか」
「あの、でも……」
明華が戸惑っていると、公規の顔から表情が消えた。椅子の背もたれに背を預け、組んだ膝の上に両手を重ねて置き、氷のように冷たい視線で明華を見つめる。
「脱げ。これは罰だ」
「は、はい!」
腹の底から凍りつきそうな声に恐怖を感じた。夏の盛りだというのに身体はがたがたと震え、手はかじかんだようにうまく動かない。しかも、公規がレンズの向こうからじっと見つめていた。帯締めと帯揚げをほどいた途端、一気に帯は崩れ落ちる。腰紐をほどき、肩から後ろへ着物を滑り落とせば、恥ずかしさから頬が熱くなった。襦袢姿でもじもじとしていたら、さらに冷たい声が飛ぶ。
「なにをしている。全部に決まっているだろう?」
「……はい」
屈辱感でいっぱいで、目にはじわじわと涙が滲んでくる。
……どうして。なんで、久我のお嬢様の私が。
けれど自分は公規に買われたのだ。云う通りにするしかない。襦袢を脱ぐあいだも、公規はじっと明華を見つめていた。視線が突き刺さる場所から、まるで火がついたかのように熱が広がっていく。一糸纏わぬ姿になった明華を、身を乗り出すように姿勢を変え、さらに公規は凝視した。
「君がなにかやるたび、罰を与える。これは、先ほど返事をしなかった罰だ」
「……はい」
昼間の明るい部屋の中、きっと公規にはすべてが見えているのだろう。そう思い、いますぐ死にたくなった。
「せいぜい、頑張ることだな」
公規の右頬が上がり、にやりと笑う。もうさがっていいと云われ、慌てて散らばった着物で身を隠した。
……返事をしなかっただけで、あれだけの罰だなんて。これから、どうなるんだろう。
明華はとんでもない地獄に落とされたことを悟った。
……以下、続く。