『花の色は~恋愛短編集~』
『花の色は~恋愛短編集~』
『勿忘草~私を忘れないで~』より
『もう、君を愛していない』
あの言葉の真実を知ったのは、ついさっき。ただ単に、私を嫌いになっただけだと思っていた。なのに、本当は。
彼とは三年ほど夫婦をしていた。幸せに出会い、幸せに結婚し、幸せな結婚生活。子供ができないことへの若干の焦りはあったが、それでも絵に描いたような幸せな生活だったと思う。――しかし突然。
「離婚しよう」
仕事が終わって帰った途端に離婚届が突きつけられ、なんの冗談かと思った。
「ちょっと、エイプリルフールは終わったばっかり」
「冗談じゃない、本気だ」
眼鏡の奥から私を見る彼の目には、一分の揺るぎもない。その固い決心に喉がごくりと音を立てた。
「……理由を、訊いてもいい?」
「もう、君を愛していない」
後頭部を鈍器で殴られたかのようにあたまがくらくらする。今朝までの彼を思い起こしてみるが、なにか変化があったわけでもない。なんで、どうして。そんな言葉はあたまの中でぐるぐる回るばかりで、口からは出てこなかった。
「僕の理由で離婚するんだ、この家は君にやる。じゃあ」
すでにまとめてあった荷物を手に、彼が出ていく。ひとり取り残され、目の前に置かれた離婚届を見つめ続けた。そこはすでに彼の名前が記載され、判もついてある。
「なん、で……?」
誰もいない空間に話しかけても返事があるわけじゃない。ようやくそこでただならぬ事態になっているのだとあたまが把握し、慌てて携帯を取った。
「……繋がらない」
かけた携帯は着拒にでもなっているのか、繋がらない旨がアナウンスされる。送ったLINEも既読にすらならない。
「どういうこと!?」
鞄を掴んで彼を追おうとして、行き先がわからないことに気がついた。彼の両親はすでに他界しており、もう帰るべき家はない。結婚式のときに誰か親族がきていなかった思い起こすが、ひとりもいなかった。友人も見当がつかない。仕事だってフリーランスで、勤め先があるわけじゃない。
「どうしたらいいの……?」
ぺたん、とその場に座り込んだ。付き合っていた期間も入れて四年も一緒にいたのに、こんなに彼のことがわからない。
「帰ってきてよ……。悪いところは直すから……」
いくら泣き叫んだところで、彼は戻ってきてくれなかった。
ぽっかりと心に開いた穴を抱えたまま日々を過ごす。周りには一見、普通に見えただろう。自分でも驚くほどにいつもどおりに過ごせていたから。けど、身体の中に虚しい風が吹いていく。彼のいない家に帰っては、淋しさを抱いて泣いた。離婚届は出せずにそのまま置いてある。
そんなふうに三ヶ月ほどを過ごしたある日。一通の手紙が届いた。彼のことで話がある、来てくれないか。速攻で私は、書かれている住所へと向かった。
たどり着いたのはのどかな田舎町だった。
「ようこそ」
私を迎えてくれた老夫婦は、彼の両親の叔父夫婦だと名乗った。
「あの子は先週、亡くなりました」
途端に目の前が真っ暗になる。死んだ、彼が? なんで?
彼らの話によるとスキルス性の胃がんが見つかったときには手遅れで、こちらのホスピスに入って先週、亡くなったのだという。
「私には一言も、そんなこと」
具合が悪そうだとかなかった。病院に行ったとすら聞いていない。
「健康診断受けたら癌が見つかったんだ。ガーン! とか言って異常なしの結果を見せてあなたをからかうつもりだったそうです。でも、本当に癌が見つかって」
健康診断、行ってくれたんだ。いくら口酸っぱくしても健康だから大丈夫って笑っていたのに。
「格好つけだからあなたに弱った姿を見せたくなかった、と。それにあなたに泣かれるのは困るから、とも。最後まで、あなたの写真を見ていました……」
とうとう、老婦人の目から涙が落ちた。けれど不思議と、私は泣けずにいた。
「そう、ですか……」
彼らしいとは思う。でも私は、最後まであなたを見送らせてほしかった。
……以下、続く。