『子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが』
『子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが』
鏡を見て、今日の自分をチェックする。
「よしっ!」
長い髪は緩いお団子にして当たり障りのないトップスにタイトスカート、なんて私は一人前にOLの顔をしていた。昨日の入社式はリクルートスーツだったけれど、本格的に仕事がはじまる今日からは私服でいいらしい。
「頑張るぞー」
――とか、意気揚々と出社したのが六時間ほど前。すでに、挫けそうになっています……。
そもそもが、出だしからなんとなくイヤな気はしていた。
「本日よりお世話になります、星谷桐子(ほしやとうこ)です。なにかとご迷惑をおかけするかと思いますが、よろしくお願いします!」
朝礼で課長に紹介されて勢いよくあたまを下げる。拍手が起きて顔を上げたら、若めの、眼鏡の男の人と目があった。しかも彼はなぜか、私を睨んでいる。
……え。私、なんかした……?
考えたけれどなにも思いつかなかった。
朝礼が終わり、下野(しもの)課長が私の直属の上司になる人を紹介してくれたが、固まった。だってさっきの、私を睨んでいた男だったから。
「彼が星谷くんの上司で仕事を教えてくれる、京塚(きようづか)主任だよ」
「……ども」
課長から紹介され、男が小さく頷く。……私に会社員生活、終わったな。瞬時に、そう悟った。だって相手はツンツンあたまで目付き悪いし。しかもその人相の悪さを強調するみたいな太めの黒縁眼鏡をかけているし。さらになんか、ちかよんなオーラが出ているんだよ? そんな人が私の、教育係? いやいや、人選間違っているって。こちらの、温和なおじさんっぽい下野課長とチェンジできませんか? ……なーんて入社したての私が言えるはずもなく。
「ほ、星谷です。よろしくお願いします……」
結局、引きつった笑顔を彼に向けた。
「じゃあ、さっそくはじめるけど……」
「あ、はい!」
慌てて、メモ帳を開く。京塚主任は私のパソコンを操作して、画面を開いた。
この春に大学を卒業し私が入社したのは、システム開発の会社だった。営業部に配属された私の仕事は、営業事務。小規模企業なのもあって、同じ仕事の人間は京塚主任ひとり。こういう言い方をすると性差別みたいであまり好きではないけど、それでも男性で事務って珍しい気がする。しかも、事務って顔じゃないだけに。
「わかったか?」
「あ、はい!」
返事はしたものの、理解できているかなんて自信はない。そもそも、顔も雰囲気も怖い京塚主任じゃなくても私は……男性が苦手なのだ。
「じゃあここまで、やってみて」
「はい」
返事だけはちゃんとして、パソコンに向かう。えっと、この画面の空欄埋めて実行……。
――ピンコン!
【入力値が有効ではありません】
「え……」
実行ボタンを押した途端に鳴った警告音と、上がってきたポップアップに固まった。
「えっと……」
これは、どこか入力を間違った? 手元のデータと照らし合わせみたものの、間違いはない。
「なんで?」
念のためにもう一度、実行ボタンを押す。
――ピンコン!
【入力値が有効ではありません】
再び鳴る警告音と、画面にはポップアップ。
「……はい?」
でも、入力は間違っていないわけで。システムがおかしい……なんてことはないか。斜め前に座る京塚主任をちらり。
「あ゛? どうかしたのか?」
視線に気づいたのか彼が顔を上げる。眉間に縦皺を刻み、彼の発した言葉は私には、「殺すぞ、ごらぁ」に聞こえた。
「な、なんでもない、です」
「なら、さっさとやれ」
再び彼がパソコンに向かう。
「……はぁーっ」
聞こえないように小さくため息をつき、私もまたパソコンの画面を見た。けれどそこには【入力値が有効ではありません】の文字が自己主張をしている。
「せめてどこが間違っているのか教えてほしい……」
申し込みとかするときは、赤字の場所を確認……とか出るのに。相手が消費者じゃないとそこまで優しくないか。
「うー……」
ここか、あそこか、とか見当をつけて微妙に変えてみる。――がしかし。
――ピンコン。
【入力値が有効ではありません】
――ピンコン。
【入力値が有効ではありません】
――ピンコン。
【入力値が……】
「だーかーらー」
なにが悪いの、本当に!
「さっきからなにを騒いでるんだ?」
頭上から声が振ってきて、びくんと肩が大きく跳ねた。
「あー、これか」
私の右横から入ってきた手が、マウスを握る。さささーっと動いてカチカチと何度かクリックし、今度はテンキーに手が伸びた。その大きな手が目にも止まらぬ速さでダダダーッ、とキーを打つ。最後にまたマウスを握り、実行キーを押した。
「これでいい。さっさと次をやれ」
「……はい」
操作を終えた男――京塚主任は、自分の机へ戻っていった。いまのはなにが悪かったんでしょうか、なんて訊く隙はない。それに仮にあったとしても訊けなかった。だって私は、――熱い顔で俯いているしかできなかったんだから。
「つ、続き……」
速い心臓の鼓動を落ち着けようと、何度か深呼吸を繰り返す。――けれど。
――ピンコン!
【不正な値が入力されています】
「えっ、あっ」
慌てて見直す。今度は入力間違いが見つかった。直して実行ボタンを押したものの。
――ピンコン!
【不正な値が入力されています】
「えっ、あれ?」
見直したら、さらに間違いが見つかった。落ち着け、私。ちょっと男性から密着されたくらいで。密着……。またさっきのことを思いだし、みるみる顔が熱を持っていく。
「……はぁーっ」
自分のついたため息の音に、さらに他の誰かのため息が重なった。
「もうそれはいい。これをファイルごとにホチキスで留めてくれ」
「……はい」
京塚主任からファイルの山と大型ホチキスを渡された。ううっ、情けない。こんな簡単な入力もまともにできないなんて。
おとなしくガツン、ガツン、と書類をホチキス留めしていく。私は――男性が苦手なのだ。中学から大学まで女子校育ち。話すことはまあできるが、あのように過剰に反応してしまう。さらに京塚主任のような極悪顔の人……うん、もうはっきり言っちゃう。とにかく、ああいう怖い顔の人は無理、って感じなのだ。なのに上司で教育係だとか、どういうことですか!? という心境だった。
「おい、昼」
無心でホチキス留めしていたら、京塚主任から声をかけられて手を止める。
「あ、はい……」
「残りは昼からでいい」
「わかりました……」
それだけ言って、京塚主任は部署を出ていった。――妙にファンシーなバッグと一緒に。
「私もお昼行こう……」
お弁当バッグを持って休憩室へ向かう。ここの会社には社食はないが、社員が自由に使えるレンジやポット完備の休憩室がある。
「えっと……」
休憩室で空いている席を探す。見渡したら、京塚主任が見えた。目の前には手作りとおぼしきお弁当がある。さっきのファンシーバッグに入っていたのだとすると、作ったのは高確率で女性のはずだ。あの極悪顔で彼女がいるなんて意外だ。
「……いただきます」
私も隅っこでひとり、お弁当を食べた。それにしても午前中は最悪だった。午後からはもう少し、ましにやりたい。
お昼休みが終わり、残りのホチキス留めを終わらせてしまう。
「終わりました」
「ん、じゃあ、ついてこい」
書類を詰めた箱は京塚主任が持ってくれた。前を歩く彼についていく。背がかなり高い。私なんてようやく、あたまが彼の肩に届くかどうか。それは私へさらに恐怖を与えた。
「これは整理して、ここにしまう」
書庫のかなり高い場所に、楽々と京塚主任がそれを置く。そのとき、その左手薬指に指環が光っているのに気づいた。
……結婚、しているんだ。
こんな怖い人を旦那さんにしている人がいるなんて、ちょっと見てみたい。
用は済んだとばかりに書庫を出ていく彼を追う。職場に戻ってきて、今日はあと、電話を取れと命じられた。
「はい、『アルバカンパニー』営業部、星谷でございます」
電話の対応はビジネスマナー研修でしっかり勉強してきたとはいえ、緊張する。
『『YMコーポレート』の岸田(きしだ)です。三島(みしま)さんはいらっしゃいますか』
「三島でございますか?」
……って、三島さんって誰?
もらった席次表を見て急いで三島さんを探す。ようやく見つけたその席には誰もいなかった。
「申し訳ございません、三島はただいま席を外しておりまして」
『すぐお戻りでしょうか』
「あ、えっと」
すぐお戻りって、私こそ三島さんがいつ戻ってくるのか知りたい。トイレに行っているだけとか? でも当てずっぽうでそんなこと答えて、違っていたら困るわけで。
『もしもし?』
いつまでも私が答えないから、相手の声は怪訝そうだ。
「あの、その、えっと」
返答に詰まっていたら、コンコン、とペンが机を叩く音がした。そちらへ顔を向けると、京塚主任が私を睨んでいる。
「代われ」
頷いたものの、テンパっている私は保留ボタンすらどれだかわからない。わたわたひとりでパニクっていたら、後ろから伸びてきた手が私から受話器を奪った。
「お待たせいたしました。三島はただいま、外出しておりまして、戻りは十六時予定になっております。……はい、かしこまりました。戻りましたら折り返し、お電話するようにお伝えいたします。では、失礼いたします」
私の手からペンを奪い、メモを取る京塚主任をぽけっと見ていた。だって私には、それしかできなかったから。
「その、ありがとう……」
「行動予定見ればわかんだろうが、ったく」
お礼を言おうとしたけれど、悪態をつかれてびくっと身体が反応する。
「……はい。すみませんでした」
うっすらと目に涙が溜まってきたが、こんなことで泣いちゃダメよ、桐子。
一度、深呼吸して気持ちを落ち着ける。改めて部屋の中を見渡し、ドアの付近に名前と予定の書かれたホワイトボードを見つけた。
……いないときは、あれを確認すればいいんだ。
さらに、ビジネスマナーの本を開いて電話の取り方を復習する。
……今度こそ、上手くやる。
なんて思ったものの。
――プルルルッ。
「はい、アルバカンパニー営業部でございます」
「あ……」
私が取るよりも早く、京塚主任が電話に出た。
……そんなに私にはさせられない? そりゃ、いまの私じゃなにもできないけど……。
悔しくて、俯いた。京塚主任からの指示はない。でもこんな時間はもったいないので、画面を開いて午前中に取ったメモを見ながら、再確認をした。
居心地の悪い時間を過ごし、終業時間の五時半になった――途端。
「おつかれっしたー」
立ち上がった京塚主任は私なんかには目もくれず、さっさと帰っていった。
「え……」
そこはなにか、言うことがあるのでは? なんて考えてもおかしくないよね?
「あー……。星谷くんも一日目で疲れたよね? 今日はもう帰って、ゆっくり休んで」
呆然としている私へ、見かねた下野課長が声をかけてくれた。
「ありがとうございます。では、お先に失礼します……」
彼の言葉に甘え、片付けを済ませて会社を出る。ぼーっと電車に揺られて帰り、惰性で夕ごはんを食べた。
「ごちそうさまでした、と」
ほっ、と息をついた瞬間、急に今日の怒りがふつふつと沸いてくる。
「なにあれ!? こっちは入ったばかりでなにもわかんないんだって! それを、厄介者扱いみたいにさ! 教えてくれなきゃ、なにもできないに決まってるじゃん!!」
一気に吐き出したら、幾分すっきりした。
「もう会社行きたくない……」
お気に入りのペンギンのぬいぐるみを抱いて丸くなる。でもいまここで、辞めるわけにはいかないのだ。両親が勧めてくれた地元企業でのコネ入社を蹴って、都会に出てきた身としては。
前日とは真反対の、どんよりと重い気持ちで出社した。
「おはようございます……」
私の、斜め前の席の持ち主はまだ、出勤してきていなかった。もそもそと準備をし、まだある時間で昨日の復習なんてやってみる。
「っはよっす」
始業時間ギリギリになって京塚主任が出勤してきた。なんか椅子に座るとき、じろっと冷たい視線で見下ろされた気がしたけど、……気のせいだと思いたい。
朝礼が終わり、業務がはじまる。
「昨日教えた入力、やっとけ」
私にデータを渡し、京塚主任は別の仕事をはじめた。
……今日は、上手くやる。
深呼吸をして、入力をはじめた。
――ピンコン。
【入力値が有効ではありません】
「うっ」
しばらくは順調にできていたものの、昨日と同じメッセージが上がってくる。
「どれ、だろ?」
昨日、京塚主任が私に教えることなく処理してしまったところだから、わからない。助けを求めるように彼を見たら、目があった。教えてほしいと口を開きかけたものの、速攻で逸らしてしまう。だって――手間かけさせんなっ! って眼鏡の奥の目が語っていたから。
「……詰んだ」
はぁーっ、とため息をついたら同時に他からも聞こえてきた。席を立った京塚主任が私の後ろに立ち、昨日と同じで操作をして実行ボタンを押す。
「おい、西山(にしやま)!」
「ハ、ハイッ!」
向こうの島で、私と同じ年くらいに見える男性が弾かれるように立ち上がる。そのまま彼はマッハで京塚主任の前に立った。
「オマエ、いい加減にしろよ? いつになったら正確にオーダー票書けるんだ? っ?」
「す、すみません!」
長身の京塚主任から高圧的に見下ろされ、西山さんは完全に怯えている。
「入社何年目だよ、オマエ?」
「に、二年です……」
「もう後輩も入ってきたのに、まだ新入社員気分か、あ゛?」
じろっ、と眼光鋭く眼鏡の奥から京塚主任に睨みつけられ、西山さんはびくっと身体を大きく揺らした。
「オーダー票くらい、まともに書けや。こっちが迷惑するんだし」
「す、すみませんでした!」
勢いよく下げられた西山さんのあたまの上に、京塚主任がため息を落とす。
「次はないと思えよ」
「ハ、ハイッ! 肝に銘じておきます!」
西山さんがさらに深く、あたまを下げた。京塚主任が席に戻り、彼もすっかり肩を落としてとぼとぼと自分の席へ戻っていく。……えーっ!? そんなに怒鳴んなくてもいいよね? 確かに、彼のせいで手間は取らされたけど。
すでに京塚主任はなんでもない顔で作業を再開している。絶対に彼を怒らせるようなことだけはしないようにしようと、固く誓った。
「終わったか」
「はい」
京塚主任から声をかけられ、顔を上げる。
「じゃあ、次を教えるぞ」
仏頂面で今日も彼は私に仕事を教えてくれた。それを一言一句漏らさぬよう集中して聞き、メモに取る。
「じゃあ、これ、入力しておけ」
「はい」
また、もらったデータを元に入力していく。今度はなんの問題もなく進められた。
……以下、続く。