『愛してる、だから殺した。』
『愛してる、だから殺した。』
「あなたを好きになってしまいました。殺してもよろしいでしょうか?」
不倫相手からのDVに悩む愛未はある日、知らない男からそう声をかけられる。追い詰められていた愛未は彼、野間に殺してくれと頼む。けれど殺したいと言いながら愛未がひとりで立てるようにしたいと野間は矛盾を口にし、困惑する。さらに野間は不倫相手の殺害を提案してきて……。
A6(文庫)88P
第一章 あなたを殺してもよろしいでしょうか
会社近くにある公園でひとり、愛未(めぐみ)は膝を抱えてベンチで丸くなっていた。あの部屋にはもう、帰りたくない。けれど、行くあてもない。
「あなたを好きになってしまいました。殺してもよろしいでしょうか」
不意に声をかけられて顔を上げると、知らない男が立っていた。しゃがみ込んで愛未と視線をあわせ、銀縁スクエアの眼鏡の奥から真っ直ぐに男は自分を見ている。それはふざけている様子などなく、至極真面目に見えた。しかし、殺していいかと聞かれて、よろしくお願いしますなんて言えるわけがない。危ない人に絡まれたと思い、愛未はそそくさとその場を逃げだした。
住んでいるマンションに帰り、シャワーを浴びながら先程の男を思い出す。
……変な人、だったな。
まさか、聞けば殺させてくれるとでも思ったのだろうか。そういえば〝好きになった〟とか言っていたが、あれは本気なのだろうか。ううん、恋なんてもう二度としたくない。あれが本当に恋だったのかは甚だ疑問だが。
愛未が、付き合っている上司の飯田(いいだ)と喧嘩をしたのは、つい三日前の話だ。もっとも、あれは喧嘩と言えるかどうか。とにかく、言い争いから一方的に、飯田から愛未は蹂躙されたばかりだった。
きっかけは些細なこと……というよりも、愛未がそれに気づけない脳天気な人間だっただけに過ぎない。飯田は、既婚者だったのだ。いや、それ自体は最初から知っていた。知っていて付き合った。それほどまでに愛未は、会社で孤立していた。孤立していた理由はきっと、愛未の性格だろう。といっても愛未が傲慢だとか、反対に卑屈だとかいうわけではない。よく言えば何事にも控えめ、悪く言えば人の顔色をうかがっている。しかし、男性にはよいほうに見え、さらになにかと目をかけられていれば、女性から敵視されるのは道理だろう。しかも女性たちから疎外されるにつれて、男性たちの態度も微妙になっていった。誰だっていらん火の粉には降りかかられたくない。
そんなわけで、愛未は会社で孤立していた。そこに、声をかけてきたのが飯田だ。
『可哀想に。鈴木(すずき)はなにもしてないのにな』
その言葉が愛未には、酷く優しく聞こえた。飯田だけが自分をわかってくれる気がした。だから身体を求められ――拒否、できなかった。それに。
『妻とは上手くいってないんだ』
そんな、不倫男性の常套文句を愛未は本気で信じていた。だからきっと、そのうち飯田は奥さんと別れて自分と結婚してくれる。本気でそんなふうに考えていた。しかし先週末の休日、愛未が見たのはマタニティマークをつけた奥さんと仲睦まじく歩く飯田の姿だった。
ただひと言、嘘をついていたのかと聞けば終わりなのだとわかっていた。けれど縋る相手が飯田しかいない愛未には、たったそれだけが言えない。
奥さんと歩く姿を見た翌々日、飯田はいつものように愛未の部屋へやってきた。
「あー、愛未の部屋は落ち着くな。アイツは全然、気が利かないし」
愛未に作らせたつまみを食べながら、飯田はのんきにビールを飲んでいる。それを見ていたら、だんだんと腹が立ってきた。気が利かないと言いながら、彼が奥さんに向けていた眼差しはとても愛おしそうだった。自分に向けていたあれはいったい、なんだったんだろう。
「愛未」
ベッドに座り、飯田が自分を呼ぶ。彼は優しく微笑んでいたが、愛未にはそれが作り物めいて見えた。
「……嘘、なんですよね」
「は?」
自分としては勇気を振り絞ったが、その声はみっともないくらいに震えていた。予想外の言葉に、笑顔のまま飯田が固まる。
「私、見たんです。一昨日、飯田課長が奥さんと一緒に歩いているの」
顔を上げると、彼と目があった。一気に飯田が、不機嫌になっていく。
「だから?」
面倒くさそうにため息をつき、飯田は指先で耳をほじった。それで急速に、気持ちが冷めていく。心のどこかでまだ、愛しているのは愛未であれは演技だとか言ってくれるのではないかと期待していた。しかし現実は言い訳すらなく、開き直られた。
「それがお前に、なんか関係あるのか」
下からじろりと飯田に睨み上げられ、身が竦む。けれどここで怯んではなにも変わらない。俯いて小さく深呼吸をし、改めて顔を上げて真っ直ぐに飯田を見る。
「別れて、ください」
「妻と別れろというのか?」
はぁんと小馬鹿にしたように彼が笑い、びくんと肩が跳ねた。それでも黙って、激しく首を横に振る。
「私と、別れてください。もう、あなたに抱かれるのは嫌、です」
「はぁ?」
不快そうに飯田の語尾が上がる。それでますます愛未は身体を小さく縮こまらせた。
「お前が俺に逆らうとか、許されると思ってるのか?」
腹に響く声で言われ耳を塞いでその場に座り込みたくなったが、かろうじて耐える。
「お前は俺の言うとおりにしてればいいんだよ」
「……イヤ。ヤメテ」
飯田が愛未の腕を引っ張り、無理矢理ベッドに上がらせる。嫌がる愛未の声はか細く、彼女自身にも届かない。
「お前は一生、俺の奴隷だってこと、この身体にわからせないとな」
醜く顔を歪める彼を、愛未は怯えた目で見ていた。
その日はいつも以上に、飯田のいいようにされた。嫌だ、やめてくれと訴えても、彼は聞く耳を持たない。悲鳴は、うるさいと口に下着を詰められて塞がれた。そのうち抵抗しても無駄だと悟り、ぼろぼろと涙を零しながら、彼のなすがままになる。飯田が満足し、行為をやめる頃には――愛未の心は死んでいた。
「また来る」
死んだようにベッドに横たわったままの愛未を無視して、飯田は帰っていった。……あれが本当の飯田の姿。いや、薄々は気づいていたのだ。優しいのは自分を騙すため。飯田の都合がいいように愛未を扱うために演じているだけ。わかっていたが愛未は、ずっと気づかないフリをしていた。飯田が自分の元から去り、ひとりになってしまったらどうしていいのかわからない。それでも、さすがに今日の飯田の態度で現実を見た。
「……どうしたらいいのか、わかんない」
ベッドの中で肩を抱き、愛未は丸くなった。
翌日、会社に行く愛未の足は鉛のように重い。飯田と顔をあわせたくない。いっそ、休もうかと思ったが、そんなの彼に問いただされるだけだ。
「鈴木。資料、助かった」
「あ、……はい」
爽やかにお礼を言う飯田に、曖昧に笑って返す。昨日のことはなかったかのように、彼は会社ではいい上司を演じていた。
昼は社食に行ったものの、トレイにのったうどんはまったく減っていない。これからのことを考えると、どんどん憂鬱になって胃が痛くなっていった。きっと飯田は、愛未を逃がしてはくれないだろう。いっそ、会社を辞めようかと考えたが、次の就活が上手くいくとは思えない。それに、それで飯田が諦めてくれる保証もどこにもなかった。
「鈴木」
どんよりとした気持ちで目の前の丼を見つめていたら、前の席に飯田が座った。
「どうした? 全然食べてないじゃないか。どこか悪いのか?」
昨日、愛未を暴行しておきながら、親切面して心配してくる彼に吐き気がする。
「……待てよ」
黙って立とうとしたら、不満そうに止められた。仕方なく、浮かしかけた腰を元に戻す。なにも聞きたくない、なにも言われたくない。耳を塞ぎたかったが我慢し、硬く俯いて丼の中のうどんを凝視した。
「怒ってるのか」
反対に、あれで怒らない人間がいるのか聞いてみたい。黙っていたら呆れたように飯田がため息を落とした。おかげで身体が、びくんと反応する。周りの声が、酷く遠い。この世界にはまるで、自分と飯田しかいないかのように感じた。
「昨日は悪かった」
飯田は謝ってみせたが、きっとこれは口先だけだ。わかっているのに喜びそうになっている自分がいる。しかし愛未は自分に、これは彼のいつもの嘘だと言い聞かせた。
「でも、お前も悪いんだぞ。あんなことを言うから」
いかにも愛未が悪いような言い分だが、あれは本当に自分が悪いのだろうか。いや、悪いのは愛未に嘘をついていた飯田のはずだ。それに、妻がいるのに愛未を口説き、不倫していた彼に非はないとは言えないだろう。
「なに、黙ってるんだよ」
飯田の視線が愛未を刺す。それでもそれにはなにも答えなかった。もう彼になにも言いたくない。それが、彼女の正直な気持ちだった。
「まあいい。……俺から逃げたらどうなるか。それだけわかっていればいい」
ニィッと、飯田が醜く唇を歪める。心臓がどっど、どっどと、今にも口から飛び出しそうなほど激しく鼓動し、目の前がくらくらした。嫌な汗を掻き、指先から冷えていく。
「じゃ、お先」
そのあとは無言で残りを食べ、飯田は去っていった。ひとりになってなお、愛未は黙って座っていた。そのうち、食堂でひとりっきりになっているのに気づいて、のろのろと立ち上がる。愛未の世界は崩壊し、抜け殻だけが動いていた。
仕事は終わったものの飯田の気配のある自分の部屋には帰りたくなくて、愛未は会社近くの公園でベンチに座り、膝を抱えて丸くなった。虚ろな目で行き交う人々を眺める。あの、幸せそうな人たちの中に自分の居場所はない。どこで間違ったのか考えるが、あんな男に簡単に騙されるような自分が悪いのだろう。
だんだんと人もまばらになり、そのうち誰もいなくなる。帰らなければと思うが、一歩も動けない。そのまま、長いことそこにいた。空が白み始め、気の早い人々が活動し始める。そうなってようやく愛未は立ち上がり、住んでいるマンションへ帰った。シャワーを浴びて身支度をし、また出勤する。淡々と仕事をこなし、今日もまた公園のベンチに座った。そこで、件の男から殺していいかと声をかけられたわけだ。
……以下、続く。