YUKO DRUM



HISTORY


一番最初の遊鼓。担いでいるのは遊鼓研究にとって欠かせないチェ・ジェチョルさんです。TASKOという会社にフライパンを付ける作業を手伝っていただき、胴にTASKOの文字が入っている。斜めに太鼓を担いでいる。打面にはプラスチックヘッドを張っている。バチはドラムスティック。

担ぎのヒモ変わる。緑から赤の縄になる。

赤いテープを胴にグルグル巻き。やはりバチはドラムスティック。

打面の左側を、普通のドラムヘッドから、皮っぽいニュアンスのプラスチックヘッドに張り替える。右側で低音、左側で高音を表現しようと試みている。担ぎ方が斜めから正面に。

シンバルをつける。

響き線を付けてみる。

安全ピンで三味線のサワリのような響きを出せないか試みる。

遊鼓、裸になる。

ペンキで真っ赤に塗る。胴に穴をあける。壺の楽器みたいになるかと思ったのだが、失敗。以後この穴はマイクホールとして使用。

フライパンを外す、シンバルにビスを打ち込む。縁の部分に更に、ジングルがついた木製の縁をつける。打面をプラスチックから本物の動物の皮にする。牛と羊。サワリを安全ピンではなく、針金を丸めたのを沢山付けて表現する。

拡声器つける。シンバル部分は、二枚重ねにして、ドラムのハイハットのようなサウンドに変化。写真は再びチェ・ジェチョルさん。バチはドラムスティックから、和太鼓のバチに変化。

遊鼓、初のTV出演。拡声器時代。

拡声器を外す。奥多摩湖から羽田空港まで多摩川に沿って丸々2日間、遊鼓を叩きながら歩く。この時期の叩き方はこの様に小指側から叩くスタイルだった。

今度は前にフライパンが付いていた所にブラジルの楽器「タンボリン」つける。

タンボリンも赤くなる。

片面側の鉄枠を外し、直接皮を胴にくっつける。チューニングはアフリカのジャンベと同じ方法。しかし、ヒモがすぐ切れる。シンバル、タンボリンや、ジングルのついた木製の縁を外す。叩き方が変わる。小指側で叩く方法から、親指側で叩く方法にチェンジ。

チューニングのヒモを丈夫なヒモに変える。馬皮を入手し、高音側に使う。馬皮の方にあるチューニングの部品は完全に外れる。高音は左側の打面で表現していたが、右側の打面にチェンジ。高音は竹バチで表現するようになる。

低音側のバチを木魚のバチに変える。上にカウベルを取り付ける。イスラムのスーフィズムの太鼓の様に、体が動くとそのまま一緒に動いてくる様な飾りをつける。低音にインドのタブラのような重しを取り付ける。担ぐヒモがジャンベを担ぐ用のヒモに変わる。

同じ時期、高音側からの撮影。

同じ時期、斜め後ろ側からの撮影。ジャンベの担ぎ方と同じ方法。

より低音をより出したい為、タブラ風の重りから、ブラジルのパンディーロの方法を取り入れる。

馬喰町バンドでちょっとずつ遊鼓が食い込んできている。まだ色々なパーカッションをつかってる時期。

初めて馬喰町バンドで全曲遊鼓で演奏する。低音に三つ巴、高音に二つ巴のマーク描く。シンバルが縦向きに配置されている。胴の上部に付けていたカウベルを外し、代わりに再びシンバルを付ける。

イスラムのスーフィズムの様な飾りが取り外される。

担ぐ襷が赤いジャンベのヒモから、白のサラシに変わっている。打面の低音側も鉄の枠や、鉄の部品を取り外し、直接胴の縁に皮をつけるようになる。

低音側の打面に描いていた三つ巴マークが無くなっている。ちなみに、遊鼓の右前方に立ててあるシンバルの向きが垂直から水平に変わっている。

襷のかけ方に変化。以前までサラシは一本だけしか使っていなかったが、二本使って担ぐようになっている。胴の上についていたシンバルがなくなっている。

襷のかけ方が変わった為、チューニングのヒモの向きが正反対に変わっている。

高音側の打面に描かれていた二つ巴のマークも消える。

色々くっついていたものが殆ど消えている。

まだ皮製品になる以前の生皮からナメし遊鼓に装着。アフリカのマリの山羊皮。低音が牛皮から山羊皮へ。チューニングテクニックにも変化。ジャンベスタイルから、インドネシアのチブロンや、韓国のチャングや、ペルーのボンボ、ネパールのマダルと 同じ方法に変化。これでチューニングがしやすくなる。

胴がスケスケに!!

毛を剃ってみる。

胴を自らべニア板を丸め、青に塗装する。両面生皮に。有線のマイキングも洗練されてくる。

遊鼓zeroの開発成功。どんな場所でも演奏可能に。

皮とリムとの接触法がジャンベと同じ方法になる。

遊鼓と遊鼓zeroをつなげ合わせた遊鼓∞。

遊鼓の担ぎ方が洗練される。

皮とリムの接続部分をミシンで縫う。チューニング紐を韓国の友達にもらったチューニング具に変える。

お鍋をカウベルがわりに取り付ける。おなべ遊鼓。

南インドでパライに出会った影響で、遊鼓を薄く切ってスリム化する。襷のかけ方はまだ模索中。

スリムな遊鼓用に再びべニア板を丸め、牛皮をナメし張る。

皮を片面だけにする。インディアン太鼓のように皮を張る。東北の猟師から送られてきた生の鹿皮を西日暮里公園で血まみれになりながらナメす。演奏方法は南インドのパライの様に高音を逆手にして演奏している。

低音が逆手に。担ぎ方、叩き方、ほぼ理想の状態に。遊鼓の一つの到達点を迎える。大井川と金星に挟まれながら遊鼓の成人を迎えたクリスマスイブの夜。


MEMO


遊鼓覚書


「遊鼓をなぜ作ったのか?」

記憶を辿ってみると無数の水脈が浮かび上がってくる。

その全ての水脈を辿る事はできないが、幾つかの水脈なら辿る事ができる。

その一つ一つを辿りながら遊鼓誕生の歴史を振り返ってみたいと思う。

一、

僕は他人から見ると好奇心といわれるような心の働きが人一倍強いらしく、自分でもそのように自覚している。好奇心なんて言葉を使うと大げさな感じがするが、好奇心なんてものは言ってしまえばただのスケベ心だ。

好奇心を持ちなさいなんてよく言われるが好奇心が旺盛というのは、ようはスケベ心の塊とも言い換えられるわけで、何事も過ぎたるはなお及ばざるが如しと古の言葉にもあるように、好奇心が旺盛すぎるのも考え物だ。

好奇心も度が過ぎると身を滅ぼすのだ。

僕もなかなかのスケベ心の塊で、なんでもかんでもありとあらゆる物事に手を出してしまう。

僕のスケベ心というのはセックスなどという狭い範囲に限らない。

僕のスケベ心というのは森羅万象の全てに対してスケベなのだ。

その結果、現在に至るまでの間に様々な分野に手を出してしまうことになる。

宇宙研究、ラグビー、映画、パフォーマンス、仏教、音楽、呼吸、武道、美術、、、、、

数え上げればきりがない。本当に節操がないのだ。

音楽一つとってみてもそうだ。

今までありとあらゆる楽器に手を出してきた。

ドラム、ガムラン、ジャンベ、サバール、パンデイロ、コンガ、和太鼓、人間太鼓、その他打楽器全般、三味線やギター、ベースなどの様々な弦楽器、サックスやトランペットなどの管楽器、ピアノなどの鍵盤楽器、もろもろの民族楽器、等々、、、

もはやこのスケベ心には果てが無い。無限に広がる宇宙だ。

しかし、僕はこの自分自身のスケベ心という大海原に溺れる事となる。

その好奇心と呼ばれるスケベ心はいつの間にかインフレーションを起こし、時を重ねるごとにどんどん加速していき、いつしかそのスケベ心は自分自身の輪郭を破壊するほどまでに急成長していった。

気づいた頃には自らが生んだスケベ心によって自らが首を絞められていた。

これは一種の病気のようなもので、知らず知らずのうちにとても苦しい状態になっていた。


僕は自分自身のこの強烈なサガであるスケベ心というものに対して、どうにかして対処しなくてはならなくなった。

しかしながら、このスケベ心を無理矢理に鎮めこむというのはなかなか難しい。そうなってくると人格を改造するしかないからである。

僕はそれよりも、陰極まりて陽に転ず、災い転じて福となす、毒を転じて薬となす、という古の賢者たちが語るように、このスケベ心の逆境を生かすという事が最も良策と思えた。

自分自身のスケベ心に溺れることなくその荒波をサーフィンできるような自分自身の軸と器を見つけてしまえばどんなスケベ心の荒波がきても恐くない。

僕は無限に広がる宇宙の中で自分自身を取り戻し、自分自身の道を見つけ、輪郭を失ってしまった自分自身を治癒する必要があった。

これが遊鼓を生む一つの原動力となった。


僕はいつの間にか、自分自身が辿ってきたスケベの歴史や今まで出会ってきた世界の全てをぶち込めるような器、己の全てをぶつけられるような道を求め始めていた。

がしかし、求めど求めどそのような器や道は見つからなかった。

世の中には器や道が溢れているが、何故か僕自身が求めているものではないのだ。

というよりも、なんだか変な話ではあるが、求めているものと出会わないと求めるものが分からないので、そもそも自分が一体何を求めているのかすらも分かっていないのだ。

そこまでくると恐らくただの努力不足に違いない、ただ自分の根性が足りないだけに違いないなどと思ってしまう。

しかし、そのような認識でストイックに突き詰めていったとしても、最終的にはどうしても泥沼戦に突入してしまう。どうにもこうにもならなくなる。

もうお手上げといった感じだ。

毎度毎度一つの器に己のすべてを賭けようと思っては夢破れ、また挑戦してみては夢破れ、とまるで苦しい恋愛のような年月が続いた。


二、

楽器という器にも何度も体当たりをしてきた。

楽器に関していえば、どの楽器も自分自身をぶつけるには物足りなく感じた。

その物足りなさや違和感を見て見ぬふりをして続けようとするのだが、どうしても心の底で小さな小さな違和感がぬぐえない。いつもうまくいかない。

もちろん全て演奏していて楽しいのだが、何だか生涯を通して深めていきたくなるような楽器というものにどうしても出会えなかった。

楽器屋さんにいってみてもどれもこれもがもう既に洗練されすぎていて、なんだか味気なく感じてしまうのだ。既に洗練された楽器に揺さぶりをかけ自分が入り込めるようなスペースを探り当てようとしてみたりするが、僕の実力がその楽器に追いついてないのか僕の全てをぶち込みたいという思いが強すぎるのかなんなのか、結局僕が入り込めるスペースは見つからなかった。

じゃあもっと土臭い民族楽器がいいかと思うとそうでもない。民族楽器は民族楽器で洗練されているし、なによりもその土地との結びつきが強すぎる。その土地に根付いたものを、その土地から離れたところで、その土地と何も関係のない自分が購入し演奏していても、どこかで違和感を感じてしまう。

どうしても借り物の楽器になってしまう。

借り物は借り物として楽しむ事はできるが、借り物は所詮借り物である。

上手にパッケージング化されてしまった楽器を、土地や人々の歴史から切り離されてしまった楽器を、自分はただただ消費しているだけなんじゃないかと思ってしまったり。

そんなことをいちいち感じないで楽しめれば一番いいのかもしれないが、なかなかそうはなれない。

スケベなだけでは物足りなくなってきたのである。

僕は自分自身をもっともっと深く掘り下げる必要があった。


三、

その思いは世界各地の音楽を学べば学ぶほど増幅していった。

世界には強烈なルーツに根ざした人間や音楽家達が生きている。

そんな人々との出会いを重ねる度、「君は一体何者なの?」と問われているような気がした。

学べば学ぶほど、学んだ音楽や楽器と自分との間に生まれるどうにもならない断絶。溝。

一体自分が発する音のルーツは一体どこなのか?

これは僕に限らず、色んな形はあれど多くの人が一度は考える事なのかもしれない。

おそらく日本では本人が意識しようとしまいと、ルーツの感覚というのは希薄になっていると思う。

それは個人の問題をこえた社会の構造のどうにもならない力学の結果とも言える。

ただ、僕はその度が強すぎた。

僕のスケベ心による自己溶解病は、ある意味分裂病とも言えるし(実際に軽度の分裂病を発症した)それは社会と僕との間に生じたヒズミとも言える。

ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリという哲学者が資本主義と分裂病というテーマで本を書いているが、彼らは分裂症(統合失調症)を家族関係や個人の問題として考える精神分析を否定し、分裂症をいわば資本主義の鏡と考えた。

自分自身や世界の状況を見ているとそれも一理あるなと頷けてくる。

自分は一体何者なのか。

伝統的な社会では自明だった事も、僕にとってはもう一度自らの手で掴みなおさないといけなかった。

それは現代特有の病とも言えるかもしれない。


四、

それに重ね、民族音楽ファンの僕としては、世の中全体のグローバル化に対して嫌気がさしていた。

世界の音楽や文化を学べば学ぶほど、世界の標準から大きくはずれちゃってるような、味の濃い強烈な匂いを発するような、そんな音楽たちが少しずつ消えていってるような気がした。

いつの間にかどれもこれも似たような味気のないような文化になってしまうような気がした。

実際の所どうなのかはよくわからないが、現状を見る限り少しずつそのような方向に進んでいるように見える。

そこでふと我に返ってみると、民族音楽が好きで色んな民族楽器を買ったり色んな楽器を買ったりしているが、その行為そのものが大好きな筈の民族音楽の首を絞めていることになっているのではないか?という問いが生まれる。

風が吹けば桶屋が儲かるという諺もあるが、例えば着ている服一つとってみても同じようなことが言える。

今着ている服の工場はどこか?ではその原材料はどこで生産しているのか?ではその生産している土地や人間はそれを生産することでどのような状況が生まれているのか?

そのように問いかけを続けていくと、今自分が来ている服が大変な環境汚染、生態系破壊、文化破壊、そして人々の生活の苦しみにつながってしまっていることが判明してくることがある。

そこで自分は今楽器をのんきに演奏しているが、よくよく考えてみると、今演奏している楽器たちが一体何処で誰がどのように作っているのかも知らないで演奏していることに気づく。

もしかしたら、僕が好きな音楽や楽器を消費することによって、間接的に僕が好きな音楽や楽器の首を無自覚にしめているかもしれない。

音楽好きにとってみれば最大の矛盾だ。

それは考えすぎなのかもしれないが、どちらにせよ使っている楽器の出自にたいしてあまりに無自覚であることは事実であり、まったく距離感をつかめていないという事実は確かだ。

もう一度楽器との関係をゼロから捉えなおしたい。

そこからでしか始められなかった。

自分の命と世界はどのように関係しているのか?

どんどんと失っていくリアリティーに対して自らの体を使って捉えなおし、自分と世界との距離を自らの身の丈で計り直す。

その作業は僕にとってどうしても必要なことだった。

それは一種の治療行為とも言える。

僕は見失ってしまった生々しいコスモロジーを自ら再生する事で自らを治癒していった。

必要は発明の母とよくいわれるが、それは遊鼓誕生の大きな要因となった。


五、

遊鼓は様々な願いが絡まりあって生まれた太鼓だ。

今まで書いてきたような事もあれば、それらとは全く関係ないようなことも遊鼓誕生の大きな要因の一つになったりしている。

その一つとして、いつの日か冒険をしながら太鼓を叩いてみたいという願望があった。

これは冒険が好きで、なおかつ太鼓も好きという限られた人種にしか伝わらない願望かもしれない。

なんだかひどく幼稚な願いのように感じられるが、どうしてもその合わせ技をやってみたくてしょうがないのだ。自分でも馬鹿だなあと思うのだが...

実際それをやってみたところでたいして面白くなかったという事は大いにありえるが、挑戦しがいはある。

このことについては「遊行遊鼓」の覚書にも また違った視点で書いたが、長い間色んな角度で挑戦してきた。

どうにかして移動しながらいつもと変わらぬ演奏ができないものか。

小さいドラムだとできるかな、とかパンデイロだとできるよなあ、とか様々な妄想を様々な試みで挑戦してみたが、そもそもその楽器自体にしっくりきていないので結局うまくいかない。

さらに言うと、僕は歩く事が兎に角大好きで、東京から大阪まであるいたり色んなとこを歩いてきたが、贅沢をいえば歩きながら叩けるような太鼓が一番ベストだった。


六、

そのようにして、様々な必要性やくだらない願望などが入り乱れ、色んなアイデアや悶々とした思いとが混じり合い、長い年月をかけながら発酵していった。

そしていよいよ発酵で生じたガスで身も心もパンパンになってきた頃、いろんな出会いがタイミングよく重なり、一気に爆発した。

その頃に出会った遊鼓誕生のキッカケの一人でもある韓国太鼓のチェジェチョルさんに「自分の太鼓を作ってみます!」といった次の日にはもう遊鼓が生まれていた。

たまっていた発酵ガスが一気に爆発する感じだ。

それからというもの、色んなものがどんどんと生まれていく感じで、僕自身も癒されていった。

自作楽器というもの自体はあまり好みじゃなかったのだが、どうしようもなく爆発的に自ら楽器を作ってしまった。

その頃に同時多発的に「宇宙飛行研究所」や「宇宙飛行暦」なども生まれ、自分の多重性を殺さぬ道を見つける事が出来た。

とうとうあのスケベ心という荒波をサーフィンできる軸と器をみつけたのだ。

ここまで至るまでに数々の人にお世話になった。

どうにか自作楽器で今までやってきた音楽を否定せず、ドラムやジャンベにも負けないような楽器ができないものか。

そのことに関しては、ドラマーの宮川剛さんには大変お世話になった。

チェジェチョルさんには遊鼓誕生の時から現在に至るまで沢山の刺激をもらっている。

株式会社TASCOには工作の器具を沢山借りた。

サムベネットさんには楽器のもつ多面性を生かし、自らカスタマイズする術を教わった。

その他にもたくさんのミュージシャンやアーティストに協力してもらい現在の遊鼓が誕生した。

遊鼓は出会いの結晶だ。

遊鼓が生まれたからこそ、逆に色んな事に自由になることができた。

感謝しかない。

これからも遊鼓の世界をどんどん深めていきたいと思う。



遊鼓覚書其の二


自分のルーツとはいったい何なんだろう?

そんな事をつきつめていくと最初の問いはどんどんと輪郭を失い、風になって消えさってしまう。

先祖を辿っていけば自ずと人類の誕生まで遡ることになり、さらにその起源を辿れば生命の起源まで遡ることになり、その前はその前はと辿っていくと物質の起源、そして宇宙の起源まで遡ることになってしまう。

宇宙の始まりなどそもそもまずあるのかどうかもわからないし、始まりという概念すら意味をなさないのかもしれない。自分のルーツは何なのか、それはあの子の髪をなびかせるその風はどこからやってきたのか、と問いかける事と等しい。

始まりを巡る問いかけは突き詰めていくと宇宙の始まりは?そもそも始まりはあるのか?というまるで超巨大ブラックホールのような全てがなし崩しになってしまうような、無始の世界へと突入していく。

宇宙に始まりはある、ということを現在の研究では言われるがそれはどこで区切るかというような設定の問題であって、この宇宙の始まりはあるかもしれないがそれすらも包括する大きな宇宙があるのだとしたら、全ての宇宙に始まりはあるとは言いきれない。それは孫悟空が筋斗雲で最果てだと思ったところで如来の手の上だったかの如く、円環に始まりも終わりも無いかの如く、自分が誕生する前には先祖がいたかの如く。

なのではっきりいってルーツなんてわかるもんじゃないし、ファンタジーなんだっていう考えにいたってしまう。

まるで固体から液体、液体から気体へと変化するかのごとく考えは変化していった。

しかし、とはいえ固体の状態が必要な時もある。

固体が物の状態の全てという捉え方が不完全なだけであって、固体は液体や気体という状態を背景に万物流転の一つの側面と捉えられればいい。ルーツというのも人間の状態の一つの側面であって、万物流転のなかでの僕にとっての一つの物語である。

僕は北海道出身で歴史的にはアメリカに近いような感じもあって、先住民のアイヌの人々の歴史もありはっきりとした確固たるルーツのようなものは無かった。

おそらく音楽をやっていて、海外のミュージシャンや伝統芸能と触れ合う機会が多い人は誰しもがその問題を一度は通ったことがあると思う。ましてや現在の打楽器奏者は世界中のありとあらゆる楽器に手を出す性質があるり、僕の場合はますます自分を見失っていった。

僕にとっての固体の状態がわからない。真剣に悩んだ。ルーツを知るために自分の苗字である「土生(ハブ)」についても調べた。土生について知るために色んな土地へ足を運んだり、文献をあさったり、電話調査したりもした。

そのようなルーツをめぐる探究が数年つづいた。

そのルーツをめぐる探究を一つの動機として、遊鼓覚書にも書いたが、遂に長年の模索を経て「遊鼓」という楽器ができた。

それは長年の考え感じていたことがあるタイミングで一つになり、一気にできあがった。

その直後、平行して進めていた「土生」にまつわる調査で、戸籍を調べ、遂に自分のひいじいさん達がどこから北海道に渡って来たのかがわかった。(宇宙規模でみれば本当に短い時間だが。)

そこは宮城県の亘理郡という場所だった。

僕はすかさず亘理郡の役所に電話して色々と尋ねた。どうやらそこには土生さんが沢山住んでるらしく、僕は何だか嬉しくなった。

その中で、何かヒントになるかもしれないと思い「この土地にはどんな芸能が伝わりますか?」と尋ねたところ「昔は獅子の格好をした三人が体の前に太鼓をつけて叩いて踊って、歌や笛が囃すっていうような芸能があったんですけど、もうなくなっちゃいました。」との答えが返ってきた。

僕は体中に電撃が走った。

「え、それって遊鼓じゃん?!」

ルーツを探究して生まれた遊鼓が、なんと偶然にも僕のルーツの土地に伝わる芸能と全く同じだったのだ。

これは土生の先祖が僕にその土地でもう一度芸能を復活しなさいと言っているかのように感じた。

そんなことは恐らく僕の勘違いなんだろうが、いつの日かその地で遊鼓の芸能をやってみたい。

僕の心の原風景は北海道だ。僕の故郷は母の子宮だ。

ルーツや土生をめぐるファンタジーは一つの答えであり固体であり、それは液体となり、万物流転の流れにのって気体となり、無始の世界であの子の髪をなびかせ、痕跡は跡形もなくなる。

そんなようものをやってみたい。

風のような芸能