初月の猶予

 夕刻だけだ。納屋と呼びたくなる仄暗く埃だらけのこの場所に、かろうじて陽が差すのは。街の外れに佇む屋敷の一角にある離れには簡易な書庫と洗い場とがある。鶴見少尉に与えられた猶予は一月だ。死んだ気になって勉強しろとあの人は言う。


 月島は座敷牢でたった一冊与えられた辞書を舐めるようにみた。日本語の書き文字すらほぼ理解できやしないのに、キリル文字など当然無意味な暗号の羅列で途方に暮れる。 

 だが真剣に眺めるとごたごた並ぶ記号の海に何か引っかかる箇所が現れる。あ、と慌てて紙を繰れば別の頁に同じ記号を発見し、そうして幾度もページを往復しながら一つずつ照らし合わせた。


 突如現れた男は髪を撫でつけ皮肉な笑みを浮かべ、小屋を一瞥し「まるで独房だぜ」と嘯く。だがほんの先刻までしんじつ牢屋で死刑を待っていた月島にしてみればそれは笑える冗談で、だから思わず「はは」と乾いた声が出た。久方ぶりに笑い声を上げた自分を意外に思ったが、男はさらに驚いた顔をしている。それがますますおかしくて笑いが堪えきれない。鶴見が目を細めているのに気づき、月島は恥じたように「すみません」と呟き俯いた。

 初日はこの猫目の男とふたり、納屋をかろうじて書庫と呼べる状態にするだけで日が暮れた。男は尾形と名乗った。階級は二等兵で、月島に対して時々慇懃な敬語を使って憚らない。

 翌日から毎朝定刻に講師が現れ、昼になると握り飯を置いて帰った。午後は朝から詰め込んだ箇所の復習と次の範囲の予習だ。

 書庫に僅かに光が差し込む頃、集中力が切れたらしい尾形が狭い書庫をうろつく。どうもこいつはやる気がない。講師の前ですらふらふらと落ち着かず、そのくせ妙な言い回しを覚えて突っかかってくるから面倒臭い。

「Что мать в голову вобьет, того и отец не выбьет.子供にとって母親の役割は大きい、だとよ。あんたはどう思う?」

月島は手を止め迷惑そうに目を細めた。

「どうもこうもない」

「まだ読んでないのか?」

「いや。内容はどうでもいい。ただ覚えるだけだ」

「ははあ、あんたはそうか」

 机と呼ぶのも憚られる箱の上に乗せた板の正面に立ち、じっと月島の手元を覗き込む尾形がぽつりと呟く。

「親が邪魔だろ」

「は?」

 突然何だと口に出す前に尾形が身をかがめ月島の親指に触れた。──驚いた、親指と言ったのか。

「……持ち方が」

 ぎゅっと鉛筆を握り込む月島の拳に尾形の手が重なり、びくりと体がこわばる。

「おい」

 尾形の指先が月島の人差し指と親指をするりと撫でて、ゆっくりと解く動作をした。

「そんなに握り込まんでいいんですよ」

 鉛筆の持ち方か。学がないことを馬鹿にされるだろうかと一瞬身構える。

「ほら、親指に力が入りすぎだ」

 だが尾形は月島の指先を捉えたまま、わかりますか、と穏やかに続けた。

「この指は力が強すぎて邪魔なんです。こいつができるだけ仕事をしないように、他の指と手のひらで支える構造を作る。でないと一日中鉛筆を握るのは無理だ」

 確かに鉛筆を握っていると一日の終わりには右腕がぱんぱんに腫れた。無駄な力が入っているのか。だが一日中鉛筆を握るのなんて今だけだろう──そう反論しようとすると尾形は珍しく真剣な顔をしている。いつもの不適な笑みはどうした、調子が狂う。

「……何が狙いだ」

「別に。Рука руку моет. 世の中持ちつ持たれつですよ」

 触れる指先は熱くて不快だ。力を抜くのがどうにも難しく、苦戦しているとふと尾形の手が離れた。結局ガリガリと音がしそうな筆圧で、しかし迷いなく月島は筆を走らせる。力任せに握った手の形をそのまま紙に写したような、不器用だが迫力がある筆跡だ。ふ、と尾形が鼻を鳴らす。今度はいつもの人を小馬鹿にしたような笑い。

「さっきからなんだ」

「いいのかもな、それで」

「はあ?」

「字を見ればあんただとすぐわかる」

なぜか得意げな男を前に、ため息をつく。

「それが何の役に立つ」

「さあ?」

「……助かった」

 下手に貸しを作ると厄介だから、仕方なく礼を口にした。

「晩飯の握り飯一つで手を打ちましょう」

「断る」

 全くかわいげのない男が小走りで台所へ向かうのを、月島は慌てて追いかけた。