十四の夜

 尾形は月島をよく見ていた。

 年月をかけて、細かな表情なども注意深く観察していた。彼の全てを知っておく事は責務であると、肉親にすら持たない不可解な感情を月島に向けていた。その執着たるや、夜中に無断で月島の部屋に入り浸り、寝顔を只管眺めるまでに至っている。一晩であれば言い訳もついたが、日を何日跨いでも尚、尾形は月島の部屋を訪れていた。

 月島の部屋はいつも開いている。どうせ隠すようなものなど無いとばかりに、薄い布団を畳の上に引き、バイト帰りの疲れた体のまま着替えもせずに腹を庇うようにして丸まって寝るのが常だった。どうせ同じ屋根の下、隠すつもりがないなら遠慮なく見てやろうと、尾形は隙あらばひっそり部屋を訪ねていた。

 この訪問も、後数日で叶わなくなる。尾形は昏い瞳を月島の背中に向けた。

 晒される月島の首筋の薄い皮膚の上。後頭部の首筋から襟への隙間、その肌の白さを穴が開くほど眺める。自分の中の『何か』が外れそうになるのは、こうして彼の他愛もない寝姿を見ているような時。

 投げた視線は離さない。炭のような瞳でそこにあるものを確かめるよう、刈り上げられた生え際を何時間も見つめる。

 何故そうしたいのか。月島はオメガではないし、そんな所を眺められる謂れはない。それどころか尾形はその場所を見られる疎ましさを嫌というほど知っているというのに。止められないのは、毒だと知りながらも砂糖を喰む子供の様である。胎児姿勢で寝る月島の幼い仕草を見るために、何度も足を折り座りながら彼を見下ろしてきた自らのいかに滑稽な事か。

 突如、もそりと塊が動いた。

「……百之助」

 反対を向いていた月島の舌が回った。

「何見てんだ、お前」

 月島が姿勢を変える。暗い部屋の中で二人の視線が交わる。

 尾形は返事ができない。今まで月島からの反応は一度も無かった。じっと拳を膝につき、目覚めとの境界線にいる男の顔を見つめる。

 無防備な姿を見ていたつもりで、油断していたのは尾形の方だった。白い頬に走る傷痕でさえはっきりと見える位置にいるのに、何もかも見えなくなる程に目の前が真っ暗になった。固まったまま自分を見下ろす後輩はどう見えるのだろうか。

 尾形は口角を上げると、揶揄うような口調で素早く囁いた。

「……部屋の鍵かけてないあんたが悪いんです」

 月島は薄目を開けて尾形を軽く睨み、口を開く。

「かけたら、お前、入ってこれないだろ」

 尾形の顔から笑みが消えた。

 月島は気だるげな表情のまま続ける。

「お前が来るのって大抵、俺が寝てる時間だ。ノックされても分からない」

 欠伸混じりのふわふわした言葉だった。

 尾形は思わず問い返す。

「俺のために、開けてんですか」

 尾形の問いかけに、月島は眠そうな眼を擦る。

「……さあな」

 気付かれていた。いつからだ。尾形は穴が開くほどまじまじと、横たわる月島を見下ろした。急激に、鳩尾の辺りがじんじんと熱くなるような、形容しがたい感覚が湧き上がる。

 と同時に、月島の手が暗がりからにゅっと伸びてきた。

 無骨な手が、細い髪に触れてはまさぐるようにして撫でてくる。突然の行動に、尾形は目を丸くした。眠そうにうっとりした顔を丸々とした瞳にうつして、尾形は月島の様子をじっと見守った。

「安心しろ。お前はうまくやっていけるよ。眠れなかったらいつだって帰ってきたら良い。布団の中だって、いつだって入れてやる」

 月島はふわりと笑い、尾形の髪をくしゃりと掻き回した。

 瞬間「外れる」と思う暇もなく、今まで感じたことのない強い衝動に押し流された。耐えられないような気持ちに胸が張り裂けそうになり、すがるように月島の手首を掴む。驚いた月島の顔を見た瞬間、頭が真っ白になった。


 気が付くと、尾形は月島の体の上に馬乗りになっていた。

 瞬いた目の先には混乱と恐怖で目を見開く男の姿。シャツをはだけさせ、喉にはいくつもの赤い傷跡がある。ついさっきまであんなものは無かった。たった今つけられたのだ。

 尾形は月島の手首を強く握りしめながら唖然と見下ろす。俺は何をしている。唇が震え、歯列に付着した鉄の味が舌に広がった。この俺がこんな形で人を見下ろす事なんて、ましてやこの人を傷付けるなんて、ある筈が無いのに。

 自分の服や髪も乱れていることに気がつき、それでも尚、信じがたいような気持ちで組み敷いた人の名前を呼んだ。

「……月島さん」

 発した声はひどく掠れ、上擦っている。自分のものではないようだ。

 布団に縫われるよう仰向けにされた月島は言葉を無くしていた。凛々しかった瞳は宙を彷徨い、裏切られたような表情で尾形を見上げて固まっている。

 その引き攣った顔を見た瞬間、腑に落ちる。初めて、明日の出立を心から安堵する。

 目の前の人を手酷く痛めつけてやりたいという残忍な気持ちで胸が埋まっていくのを感じながら、尾形は今まで月島といると外れそうになっていたものが何だったかという事を水が染み込むように理解した。そしてそれはもう完全に外れてしまったのだという事も。