蓼食う虫も好き好き

 出勤者もまばらな早朝の男性便所。鏡の前で月島基は項垂れていた。

 連日の多忙なデスクワークによる疲れ目と伴う頭痛。我慢できずにドラッグストアで買った目薬は、瞳を潤せずに白い洗面台に転がっている。

 原因は過去のトラウマによる【先端恐怖症】元凶なんてとうにこの世を去っているのに遺品のように残る恐怖が忌々しい。

 不快を紛らわすように目を擦りながら、尻ポケットから切り札を取り出す。かすむ視界を凝らし、履歴からコールボタンを押した。ワンコール、ツーコール、呼び出し音を聞いて、スリーコール目で途切れる。

「月島さん?どうし…「尾形。三階、角の男子便所。緊急事態だ」そう言って一方的に切った。

 

 ものの五分もしないうちにスライド式のドアが勢いよく開かれ、ツーブロックの男が姿を現す。剣呑な目は月島を仕留めると安堵の色に変わった。

「どうしたんですか?」

「おー。早かったな。手、出せ」

 訝しがりながらも素直に出された左手に茶色い容器をポンと乗せる。尾形は大きな黒目をきゅっと細め、目薬と月島を交互に見比べては疑問符を投げかけた。

「…先端恐怖症でこいつに手こずってる」

「…初耳なんですけど……」

「だな。誰にも言ったことない。お前が初めてだ」

「…ははぁ、俺を試そうってことですか?」

 ニヤリと笑う月島に対し、尾形は乱れた髪を後ろに流しながら、少し拗ねた様子で上目遣いに見た。

 半年前『月島さんをまるっと自分のものにしたい男が目の前にいるんですが、要りませんか?』と、まるで雨に濡れた猫のように伏目がちになる様は月島の心を見事射止めたわけで。彼がこの姿を好んでいることを尾形は十分知っている。

「ふふっ、悪い悪い。こんな面倒くさい事でも、おまえなら付き合ってくれると思ったんだがな」

「ははぁ。全くその通りですな。見ての通り。ダサく駆けつけさせるのに成功してらっしゃるわけですから」

 急に抱きすくめられ、香水の匂いが強く鼻を打つ。

「おいっ、誰か来るかもっ…「基さん、誰です?あんたにそんなトラウマ植え付けた奴は。可愛いあんたがより可愛く見えちまう。そいつに『お礼』したい気分です」黒く笑いながら頬を包み、驚きに閉じた瞼をいいことに、指の腹でまつ毛の感触を味わい始めた。

 尾形のひんやりする手は心地よかったが、恥ずかしさに身を捩り胸を押し返すと「真っ赤」満足そうに三日月を描いている。

「すまん。その話は追々」

「…無理強いする気はねぇです…が…」

 尾形の戸惑いに視線を辿ると押し返すつもりが無意識にシャツを掴んでいたらしい。仕方ないだろ。怖いもんは怖い。力一杯引くと尾形がグエッと呻き声を漏らす。

「…そいつの先端あんまり近づけるなよ。反射で体が何するかわからん。これは保険だ」

「ははぁ、おっかねぇ。じゃあ、リラックスしてもらわんと」

 苦し紛れの言い訳に勘付いたのか、ぐっと顔を寄せられる。皮膚から湧き立つ尾形の匂い。あ。来る。と体が喜びで震えた。リップ音と離れた唇の替わりに、ぽたりと清涼感が広がる。

「どんなもんです?」自信たっぷりに笑う尾形に「じゃ、次はもっとすごいやつ」と返せば、唇に喰らいつかれた。


 方や、フロアへと急ぐ宇佐美がいた。不可抗力で朝のルーティーンは台無し。エレベーターの同乗人を怯えさせここまで来ている。と、前方に月島と百之助。付き合ってるであろう二人が朝から並ぶのは珍しい。

「おはよーございまーす」

「チッ」

 はいはい。盛りのついた雄猫は怖いなぁと笑う。

「おー、珍しいな」

「えぇ、電車が遅延してまして。ツイてないなぁって思ったんですけど、課長もいるなら間に合うだろうし、いいかなぁ」

「よかねぇ、早く行けよ」

「あ?いたの?百之助」

「おやおやぁ?宇佐美主任、お先にどうぞ。営業課自慢の早足なら余裕で間に合いますよ」

「ナマ言うじゃん。百之助のクセに」

「はぁ…おまえら…その辺にしとけ」

「あれ?課長、目の周り赤くないですか?擦りすぎはよくないですよ。『小動物の毛繕いみたいでかわいい』って噂になってますから」

「「は??」」

「じゃ、お先でーす」

 後はお二人でどーぞと、鮮やかに脇をすり抜けて行く。

 爆弾投下もキマったところで気分が良い。急げばまだ鶴見部長の写真を眺めてモチベ上げるくらいはあるかな。ザマみろ。僕に舌打ちなんて千年早いよ。ハナタレ百之助。


「おっさん捕まえて『小動物』って…」

「…基さん。今日から目擦らないでください」

「いや無理。それより目薬返せ。後はどうにかする」

「嫌です。あんたのとこ行って攫って行きゃあ良い虫除けになる」

 早いとこ手を打っておくに越したことはない。この座も。この人も。手放す気など毛頭ねぇんだ。

 尾形は月島のため息を聞きながらポケットの目薬を力強く握った。