此レモ又、唯ノ日常

 朝の光を遮るカーテンの恩恵により薄暗い部屋の中で猫のように丸まり眠る男。その傍らからそっと近づくスーツ姿の影。起こさぬようにとの気遣いか繊細な仕草で前髪を払い額にごく軽い口づけを落とした。

「行ってきます」

 殆ど口の中で呟かれた言葉を残し部屋から出て行く月島。小さく閉まる扉の音の後に遠ざかって行く足音。月島の気配が消えた寝室に残された尾形が身動ぎし瞼を開く。とっくに温もりの消えた額に手を当て緩む唇を隠すように布団にくるまる。

「く、くく……」

 くぐもった声を漏らす塊は小刻みに揺れた後ゆっくりと顔を出す。未だ口許を押さえニヤけている尾形は毎日繰り返される月島の可愛らしい一面を反芻していた。会社の上司だった月島の性的嗜好を偶然知った尾形が興味本位で近づいたのを切掛けに始まった関係。唯の遊び、ずっと自分に言い聞かせていた尾形だったが自分以外の人間が月島に触れることを想像するだけで吐き気を催すようになっていった。その為執着心を隠すことも忘れ、貪り、マーキングを施す尾形に業を煮やした月島が行動に移した。

 ――お前はどうしたいんだ?

 深く繋がったまま真っ直ぐ問う月島の顔面に涙の雨を降らせながら好きだと伝える尾形に『俺もだ』と月島が返し二人の関係が漸く動いた。共に色事に消極的な性格故、歩み寄るのには時間が掛かったが尾形の転職を機に同棲生活が始まった。そして微妙にずれた生活時間を摺り合わす努力も自然と身についた頃から始まった月島の朝のルーティン。寝ている尾形にキスをしてから出勤する事に気が付いたのは二ヶ月前。初めは驚きのあまり固まった尾形だがそれが功を奏したのか以後狸寝入りに気づく素振りの無い月島から唇を貰い受けるのを密かな楽しみにしていた。休みが被る日には残念ながらお預けなのだが、下手に乞うて月島の機嫌を損ねる訳にいかない。バレていることがバレてしまったらきっとこの小さな幸せは奪われてしまうだろうと尾形は危惧している。月島の性格上、もう恥ずかしがってやらなくなるのは明確なので週末は尾形から存分にキスを贈っている訳だ。

「本当カワイイ人だよ、アンタは」

 ベッドから下り身支度を始める尾形は少しでも長くこの祝福を受け続けられるよう月島が己の行為に気付くこと無いよう祈った。


 通勤電車に揺られながら月島は笑っていた。所謂思い出し笑いである。顔の半分以上をマスクで覆っている為周りは気付かない。それどころか反射で寄っている眉間の皺のせいで心なしか周囲から視線を逸らされている。

 ――本当可愛い奴だよな、アイツは

 目を細め喉元で笑いを噛み殺す。毎朝の日課、いってきますのキス。続けている理由は一つ。キスをする瞬間綻ぶ尾形の表情。幸せだと純粋に伝えてくる尾形を見るのが好きだ。愛しさから一日を乗り切る気力が生まれる。俺の事を騙し切れていると思っている態度すら愛おしい、何て思うほどに。

 ――絶対教えてやらないけどな

 電車が止まる。又一日、月島の日常が始まる。