現の夢

 刃が何かを削る鈍い音が鼓膜に触れた。身の奥深く、疲弊しきった意識に絡みついていた睡気の糸が、ふつりと途切れる。その瞬間、脳が覚醒するのに先んじて体が動いた。


「…何をしている、尾形上等兵」


 いつもと明らかに異なる掠れた自分の声に、内心動揺が走った。遅れて焦点を取り戻した視界の中、馬乗りに押さえつけた尾形の手から平たい刃物がこぼれ落ちる。カシャンと響いた軽い音を合図に、見開かれた瞳が驚きから嘲りへと瞬く間に塗り変わった。


「不敬ながら、それはこちらの台詞ですな。月島軍曹殿」


 堪えられないとばかりに震えた尾形の頬は、泡立った粘液に濡れていた。床へ転がった剃刀と、その傍らにひっくり返った椅子。脇机の上に置かれた石油ランプの灯りが燻んだ置き鏡に反射して、手拭いを浸した洗面器の水面を揺らしている。それらをひとつずつ視線でなぞった月島は、しばらくの沈黙の後、ついぞないほど鈍い動きで尾形への制圧を解いた。


「こんな夜更けに、人が寝ている傍らで、刃物を使うな」


 絞り出した声が、ささくれた気道を擦る。咳払いのわずかな反動で片膝が崩れた。無様に床へ落ちた尻から腹の奥まで、真っ直ぐに鈍い痛みが貫く。その屈辱を顔に出すような不覚を取ったつもりはないが、尾形はニヤニヤと口元を歪め、拾い上げた剃刀を手に月島の前へしゃがみ込んだ。


「ははぁ、確かにそれは俺が悪い。てっきり喇叭までお休みになられるのではと侮ってしまいました。しかし流石は我が隊の優秀な軍曹殿だ。例え部下に尻を掘られて気をやった後とて、おちおち寝首を掻かれるはずはありませんな」


 ひたりと当たった冷たい刃先が、顎下を押し上げる。嫌味と揶揄をたっぷり含ませた物言いは尾形の癖みたいなもので、まともに取り合うだけ労力の無駄だ。そう理解しているのとは別のところで、軍隊式上下関係の染み付いた血がにわかに沸き立つ。黒い瞳を見据えつつ、バキ、バキと指の関節をひとつずつ鳴らしてみせると、尾形は漸くうすら笑いを引っ込めて、素早く一歩後ろへ下がって両足を揃えた。


「失礼しました。…どうも浮かれとるようで」

「…次はない」


 平時なら即座に拳が飛ぶ所だが、今宵は違う。余計な一言は聞こえなかったことにしてやって、ベッドへ這い上がった。そんな月島の態度を是と受け取ったのか、尾形は床に倒れた椅子をそそくさとベッドの脇まで引き寄せ、鏡を座面へ立てかけた。

 うつ伏せに枕へ顎を乗せ、すぐ傍らで髭剃りを再開した尾形の様子を横目に眺める。泡立ちのよくない支給品の石鹸で器用に泡をつくる仕草は、確かに手慣れて見えた。


「貴様、普段から自分で剃っているのか」

「ええ。他人に顔を刃で当たられるなんて、どうにも」


 尾形は出来上がった泡を素早く顔へ塗りたくると、躊躇いなく剃刀を滑らせた。ざり、と鈍い音がして、軍人らしからぬ白い肌が泡の下から現れる。指先で剃り跡を確かめてはちゃっちゃと手を動かす仕草はさながら毛繕いをする猫のそれで、これに「寝首を掻かれる」と飛び起きた自分は、やはりさぞかし…と、寝入る前の記憶を無防備になぞった腹の奥が、じわりと疼く。

 ふいに視線を感じて、意識を鏡の向こうへ戻す。こちらを見つめる目は、いつのまにかじっとりと濡れていた。


「…なんだ」

「そんな風に見られたら、手元が狂いそうです」

「…なんでも器用にこなす手だなと思って」

「は…、この状況でそんなことを言われては、床の方も器用だったというお褒めの言葉と勘違いしてしまいますな」


 僅か上擦った軽口を目を逸らさずに受け止めて、応える代わりにうなじへ触れる。真っ直ぐに揃えられた襟足をなぞると、柔らかな産毛が猫のように逆立った。


「っ…」


 振り返った尾形の唇に、衝動のまま噛み付く。的の外れた口付けは石鹸の味がした。それがどうにも堪らなくて滑る頬まで舌を這わせると、並びのいい歯が嗜めるようにその先端へ食い込んだ。混ざり合った唾液は苦くて、尾形の滑らかな眉間が歪む。


「ちょ、軍曹殿、何を…」


 行き場を失って宙に浮いていた尾形の手首を引き寄せ、生温い刃先へ頬擦りする。掴んだ薄い肌の下、太い血管が戦慄くのが分かった。

 ドッと背中がシーツを叩く。振動でわずかに揺れたランプの光に、尾形が構えた剃刀の刃が鈍く反射した。


「…次はない、のでは?」

「ああ。…だから、心してかかれよ」


【終】