もう一品が、できるまで

 ことん、と優しい音をさせて、月島さんは飲んでいた缶ビールをダイニングテーブルに置いた。その目の先にある皿には唐揚げが載っていたのだが、もう空になっている。

 ああ、「もう少し、なんかあるといいのにな」と思っているのだと、俺にはわかった。

 ビールを飲みつつ食べているときは、コンッと元気よく缶を置いて、その手に箸を持ち替える。満足して食事を終えるときは、カラになった缶をゆっくりと、ほとんど音をさせずに置く。

 缶の中にはまだビールが残っているが、それを置いて空いた手を伸ばせる食べ物がない。だが「足りない」と言って、一緒にいる俺に気を遣わせたくない。そんな戸惑いと思いやりが、ビール缶を置く音から聞こえるような、月島さんの優しさにあふれた仕草だ。

 冷蔵庫の中身を思い出す。そこにあるもので、すぐに作れて、酒にも合う一品は――

 俺はテーブルを離れ、キッチンに立つ。ボウルに白だしと砂糖を合わせ、卵を割り入れて滑らかにほぐす。

 ここで焼き麩を軽くひと掴み取り出し、手で握って細かく砕いて混ぜる。祖母愛用の料理本に載っていた作り方で、だし汁が多い卵焼きでもきれいに巻けるのだ。


 尾形が黙って立ち上がり、キッチンに行った。空になった皿を見ていた俺は、物足りなさそうな顔をしていたのだろうか。少し気恥ずかしいような気持ちのところに、料理をする音が聞こえてくる。

 冷蔵庫を開ける音。卵を割って混ぜる音。それに続く、カシュッと乾いた音。

 焼き麩を砕いて入れる音だと、わかった。

 卵焼きだ。だし汁がじゅわっとして、少し甘めの、俺が大好きな卵焼きを作っているんだ。

 いそいそと席を立って、キッチンに行く。火にかけた卵焼き器を見る尾形は、無表情だ。食べてくれる人のことを思って一心に料理を作るとき、人は無表情になるのだと、尾形と暮らして、俺に料理を作ってくれる姿を見て、初めて知った。うまくできたときには、満足げに小さく頷くことも。そしてそんな表情や仕草が、俺の心をとてもあたたかくすることも。


 熱した卵焼き器に溶き卵を流し入れると、ジャッという音がキッチンに広がる。

「おおー」

 いつの間にか俺のそばに月島さんが立っていた。

 俺が料理をしていると、たいがい見に来てくれる。そして毎回、「おおー」とか「すごい」とか、小さく歓声を上げる。何度も見ている料理でも、新鮮に喜んでくれる。そんな月島さんのことが、そんな月島さんのために料理を作ることが、とても好きだ。

 火の通り具合を見極めつつ、卵を巻いていく。早すぎても遅すぎても形が崩れてしまうから、ここは気を抜けない。


 少し傾けた卵焼き器の上でフライ返しに手招きされるように、きれいな黄色の卵焼きが行儀よく厚みを重ねていく。ごく自然で簡単そうに見える手際の良さは、何度見ても惚れ惚れしてしまう。尾形はどんな料理も器用に作るが、卵焼きを巻くところを見るのが、俺はいちばん好きだ。

「うまいもんだな」

「どんなもんだい」

 尾形は、わざとらしく得意げな表情を作る。こういう姿が見られるのは俺だけの特権だと、うれしくなる。


***


 尾形は出来上がった卵焼きをまな板の上で切り分け、薄く切り落とした両端の一切れをつまんで、月島の顔の前に差し出した。月島は口を開けてそれに食いつく。その様子に尾形は微笑みながら、もう一つの切れ端を自分の口に放り込んだ。

 二人はモグモグと口を動かしながら、出来立ての卵焼きと新しいビールをダイニングテーブルに運んだ。